b.H.ヒストリア外伝 『Hello World』 第2章 せいぎのありか 【前回のあらすじ】  お兄様、変な店員と出会う。  第10話 意地と霊薬 「……まいったな。今日もいる」  ゼロは小さくひとりごちる。  時刻は夕方。  店内が汗臭い男たちで賑わう前に、その男は毎日のようにブラウン亭へと顔を出す。  ――リヒト・レイシア。  キサラの兄であり、クラウディア騎士隊の一員と思われる青年従士。数日前に見かけてからというもの、どういうわけか彼は足繁くブラウン亭へと通っている。最初は怪しまれているのかと警戒していたゼロだったが、様子を探るに特に不審点はない。メニューに頭を悩ませる様子はただの観光客そのものだ。 (……食事をとりに来ているだけか?)  ブラウン亭の料理は安くて上手い。常連客も多く、リヒトがそのひとりになってもおかしくはないだろう。  だが、それはつまり―― (彼等はこの村に滞在しているわけか)  それは大きな問題だった。  出会いたくない奴らが村に居続けている。その理由はなんなのか。こちらが足止めされていることを知っているのか。知っているとしてどうやって知ったのか。何かしらの諜報手段があるのか、あるいは動きを読まれているのか。それとも――すべてはただの偶然か。  相手の動向がわからない以上、警戒しすぎて損はない。 (――こうして通ってくれているのは、逆にありがたいのかもな)  リヒトの一挙手一投足から、その感情を読み取り背後にあるものを推測する。かなり厳しいことだが、ゼロがやらなくてはならないことであった。  と――  ――ガシャン!  大きな音にゼロはハッとし顔を向ける。  店内の一角で――いつの間にか、大柄な男ふたりが取っ組み合いの大喧嘩をはじめていた。木製のテーブルは豪快にひっくり返され、手付かずの料理ごと割れた食器やビール瓶が床に散乱している。男たちの顔は真っ赤に染まっており、怒り以上にこれでもかと酒が回っていることは明らかだった。 (あいつらは――昼間からずっと飲んだくれていた……)  ドラゴンがどうのこうのと、物騒なくだを巻きあっていた禿頭の筋肉男たちだ。 「ふおおおおおお!!」  禿頭の筋肉が、禿頭の筋肉へと殴りかかる。  禿頭の筋肉はそれを避けきれず、直撃。盛大に吹っ飛ばされ近くのテーブルを巻き込みながら転倒した。幸いにして他の客はあぶねぇとばかりにそそくさと避難していたため無事であったが、料理や酒がこれまた盛大に散らばっていく。一瞬にして店内はひどい有り様になっていた。 「ふおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」  禿頭の筋肉が吠える。  しかし、勝利に酔いしれる彼へ、更に大きな声が水を差した。 「おう、暴れるんなら外でやれや!!」  厨房から出てきたのは禿頭の筋肉だ。じゃなかった、テカテカ禿頭とモリモリ筋肉と赤銅のような日焼けした肌が特徴的なマウンテン・ブラウン店主だ。こんな見かけだが手先は器用かつ繊細で、豪快な男の料理に優しい女の味付けを巧みに融合させたブラウン料理は町の汗臭い男たちのハートを射止めてやまないという。性格も大らかで義理堅く、だからこそブラウン亭には数多くの常連客が存在するのだ。  だが、そんなブラウンにも絶対に許せないことがあった。  それは―― 「てめぇら、俺の料理を滅茶苦茶にしやがって……! とっとと出ていきやがれ!!」 「んだとオッサン! やろうってのか、ああん!?」  気分を害された禿頭の筋肉はブラウンへと掴みかかっていく。もちろん素直にやられるようなブラウンではないので、今度はふたりの間で取っ組み合いがはじまろうとした、その時だった。 「やめてください!」  凛とした声がふたりの間に割り込んでいく。 「あ?」  ポカンとするブラウンと禿頭の筋肉を見上げるのは、金髪碧眼の青年――リヒト・レイシアだ。特別背が高いわけでもないリヒトが、厳つくもない顔をキリッとさせて大男たちを止めに入っている光景は、なんとも場違いなものであった。 「みんなの迷惑になっています。まずは落ち着いて――話し合いましょう」  大真面目な顔でそんな事を言いはじめるリヒト。  正論、だろう。暴力を否定し話し合う。馬鹿みたいに正論だ。だが――今、この状況でそんな正論を素直に受け入れられるはずもない。 「ああん?」  額に血管を浮かび上がらせ凄む禿頭の筋肉。  負けじと視線を逸らさないリヒト。  そうして―― 「――ぅ、つつ……このやろう」  最初にぶっ飛ばされた禿頭の筋肉はムクリと起き上がると、椅子を武器代わりに背後からブラウンへと殴りかかった。リヒトに気を取られていた分、気づくのが遅れたブラウンは避けることが出来ず――……鈍い音が、店内に響き渡った。  砕け散った椅子の破片が、舞う。  ブラウンは血を流しながら気絶した。 「おぉ、いちち……」  頭と腕に包帯を巻いたブラウンが小さく呻く。  夜――静まり返ったブラウン亭。閉店後の店内に残っているのは店主のブラウンとバイトのゼロ、そして――金髪碧眼の青年、リヒトの三人であった。 「すみません、僕のせいで……」 「いや、俺も血がのぼりすぎてたわ。すまんな」  責任を感じしょげかえるリヒトにブラウンはニヤリと笑みを見せる。白い歯がキラリと輝いた。包帯姿は痛々しいが、見た目ほど重傷ではないのかもしれない。 「……私からも礼を言う。ああいうトラブルは私が対処すべきなのに……」  ゼロはリヒトへと頭を下げた。  店内の諸問題を解決するのもゼロの仕事だったのだが……今回はゼロよりも先にブラウンが怒鳴りこんでしまったために止めに入るきっかけを見失ってしまったのだ。魔族とはいえ穏やかな村で長い時間を過ごしてきたゼロは、酒場に集まった男たちの熱気と暴発に正しく対処するすべを心得ていなかったのだ。  あの後――  ブラウンが気を失ったあと、騒動は他の客まで巻き込んだ大乱闘へと発展した。もう何がきっかけではじまったのかわからない殴り合いは、結局、意識を取り戻したブラウンが力づくで収めたのだが――そのドサクサで彼はさらなる怪我を負ってしまっていた。 「どうすっかねぇ……」  苦い顔でブラウンは包帯の巻かれた右手を――痛めた腕を見る。  これではとてもではないが料理はできない。ブラウン亭の魅力は料理にもあるのだから、今の状態では店をやり続ける意味がなくなってしまうのだ。 「さすがにこれじゃやってらんねぇなぁ。……しばらく閉めるしかないか。悪いが、それでいいか?」 「それは――」  問われたゼロは、言いよどむ。  資金に余裕のないゼロたちはとにかくお金が必要なのだ。かと言って、他にいい稼ぎ先があるわけでもない。できればここで働かせてもらいたかった。 (ならば――)  考えた末、ゼロはひとつの提案をする。 「……私がやります」 「やる?」 「はい。私が料理を作ります。だから――バイトを続けさせてはもらえませんか?」 「あん?」  ブラウンの表情が険しくなる。料理に一家言あるブラウンからすれば、ゼロの発言は血迷ったようにしか思えなかったのだ。苛立ちを隠さないその眼光を、だがゼロは真っ向から見つめ返す。 「……いいだろう。俺も納得させられる飯が出せるなら、店を続けてやる」 「本当ですか!? では、さっそく、厨房をお借りします」 「――ケッ」  ホッとしたようなゼロの表情が、ブラウンは気に入らない。  ゼロはウエイターとしてはそこそこ使える奴ではあるが、だからといって料理が上手いとは限らない。どこぞで軽く料理くらいはしたことがあるのかもしれないが、そんな趣味料理を認めるつもりなどブラウンにはなかった。  だが。 「……」  厨房でのゼロの動きを見ながら、ブラウンは眉を顰める。……その、動き。流れるような動作は決して素人のそれではない。ブラウンもプロだからこそわかる――自分よりもよっぽど料理に長じた、ずっと研鑽を積み重ね続けてきた一流料理人の動きだった。 「こいつぁ……」  息を呑むブラウン。  そうして―― 「お待たせしました」  出された料理は串焼きの盛り合わせ、ラミア鳥の唐揚げ、そして特製ブラウン炒飯。ブラウン亭の人気メニューだった。 「てめぇ、盗みやがったな」 「なんのことでしょう?」  ニヤリと、ふたりは笑い合う。  ブラウンは串焼きへと手を伸ばし、一息ついてかぶりついた。よく噛んで飲み込むと、次の料理へと手を伸ばす。味わうように――否、味を確かめるように、何度となく咀嚼する。元から強面の顔はさらに凄みを増しており、ブラウン亭は緊張感に満ちていく。  やがてブラウンは味見を終えると、ゼロをじっと見つめる。  静かに、結論を述べた。 「……上品すぎるな。これじゃ駄目だ」 「駄目、ですか」 「ああ。うちは酒場だぜ。こんな気取った味じゃあ、いけねぇよ」 「そう……ですか」  軽く俯くと、悔しそうにゼロは唇を噛んだ。 「だから、まぁ。明日一日かけて鍛えてやる」 「え――」 「明後日から営業再開だ。――できるな、ゼロ」 「は、はい!」  ゼロは顔を輝かせる。 「ありがとうございます、ブラウンさん。助かります」 「それはこっちの台詞だ。しばらく世話になるぜ」  ニカッと、ブラウンは笑顔を見せる。  ゼロはほっと胸を撫で下ろした。料理は若い頃に凝っていたこともあり自信はあったのだが、ここ数百年は趣味でたまに厨房に立つ程度だったのでブラウンを納得させられるかは際どいところだったのだ。  でも、とりあえずは、もうしばらくは働かせてもらえることになりそうだった。 「あのぉ……」  ――と、遠慮がちに、リヒトが手を上げてくる。 「そのお話なんですが……良かったら、僕にも手伝わせてもらえませんか?」 「え――」  きょとん、とするゼロとブラウン。 「あ、お金はいりません。料理もうまくないから、ウエイターくらいしかできませんけど――このままじゃ、僕の気がすまないんです!」 「……とは言ってもなぁ」  ブラウンは包帯の巻かれた禿頭に左手を添え、考えこむ。 「うーん。……どうするよ、ゼロ」 「私は――……」  どうやらリヒトはブラウンの怪我に責任のようなものを感じているらしい。だが、それはお門違いというものだ。ブラウンの怪我は成り行きによるものであり、リヒトが介入したせいでは断じてない。  しかし。 (――この目つきは……見覚えがあるな)  強い決意を宿す碧い眼差しは、妹であるキサラとそっくりだ。真面目だからこそ融通が効かず、正しい行いだと信じているからこそ迷いがない。今のリヒトは迷惑をかけてしまったブラウンの力になりたくて仕方がないのだろう。そんな青年を説得するのは難しいことだと思えた。  それに…… 「……そう、ですね。手伝いがいてくれたほうが、助かると思います」  クラウディア騎士隊の様子を探るためにも、リヒトを側で観察できるのはありがたい。長時間の接触となるため危険ではあるが、情報を探りだすためのこれほどの好機もないだろう。ゼロは極めて打算的な理由でリヒトを共に働かせたいと考えていた。 「そうか。それじゃあ――ひとつ頼むわ」 「は、はい!」  そんなゼロの後ろ暗い考えなどつゆ知らず、リヒトはホッとしたように笑みを見せる。 「僕はリヒト・レイシアです。よろしくお願いします」 「……。……ゼロだ。こちらこそよろしく頼むよ、リヒト君」 「はい、ゼロさん」  ふたりはしっかりと握手を交わした。      §  ここ数日のオーラント・ヴェルガの日常はひどく退屈なものであった。  やる事といえば、女将の手伝いとして掃除に洗濯、買い出しと、肝心のキサラの看病だけ。その看病も特にこれといってやることがあるわけではない。キサラは体調が悪いなりに元気であり、たいていはいつぞやのデパートで購入した少女小説を読んで過ごしている。その間、ヴェルガは天井をぼけらっと眺めるくらいしかやることがないのだ。  もちろん、何も暇つぶしを考えなかったわけではない。  看病当初はノートに絵を描いて過ごしていた。動物、植物、自然現象。思いつくままに絵を描いていく。脳内のイメージをカタチにするのも魔術師や精霊術師にとっては修行の一環となるため、実益を兼ねた暇つぶしとしては最適なのだ。  幼少時から魔術師を目指していたヴェルガもまた、絵心については自信があった。例えば、ドラゴン。強くてカッコイイという理由でこの架空の生き物が大好きだったヴェルガは何度となく絵の題材に選んできた。今回も雄々しく逞しいドラゴンが描けたと満足していた。……していたの、だが。 「……」  看病も三日目。描いた絵の枚数が三桁に突入する頃になると、ぶっちゃけ飽きてしまった。手も痛くなってきたし、どうにも気分が停滞してしまう。 (何か、気分転換は――)  ふとヴェルガの目に止まったのは、キサラの読み終わった一冊の少女小説だった。ヴェルガは小説を読まない。字が多くて苦手だからだ。だから読むなら漫画一択なのだが――有り余る時間が、少年に新たな選択肢を選ばせた。 「……なぁ」 「ふぁっ、はい!?」  急に声をかけられたせいか、素っ頓狂な声を上げるキサラ。 「ソレ、面白いのか?」 「…………これ、ですか。面白いですよ。大臣の裏切りで国を追われた王子様が、ヒロインと出会って、国を取り戻すための戦いに身を投じていくという大河ファンタジーです」 「へぇ」  架空戦記物だろうか。予想に反して普通に面白そうだった。 「ソレ、借りてもいいか?」 「え――」  目を丸くして驚くキサラ。そのまま数秒悩んで、だけどこくりと頷いた。本を手に取ると恐る恐るヴェルガへと手渡してくる。まるで猛獣に餌をやる飼育員のようだった。 「ありがとよ」 「あ、はい」  戸惑いながらも、キサラは頷いた。 (さて)  腰を据えて読みはじめる。こちらの反応が気になるのか、キサラのどことなく期待がこもった眼差しを鬱陶しく感じながらもヴェルガは徐々に没入し、淡々とページを読み進めて――半分いったところで匙を投げた。 (なに、これ)  甘い。甘ったるすぎる。まるで角砂糖のように甘いソレは決して戦記物などではなく、ベッタベタのクソ甘い恋愛小説だった。戦いのパートはおざなりに済まされ、あとはひたすらヒロインの少女と王子が好いた惚れたでどうたら的なネタを繰り返す、典型的でしょうもない話であった。 「……」 「ど、どうですか?」 「……つまんねぇ」  ヴェルガは鼻で笑う。 「なんなのこの王子。なんで毎回悩みまくってるの。振り切ったんじゃないのかよ。ふらふらしやがってアホじゃねぇか。弱っちいしよ。苛々する。この女もうぜぇ。なんで一々突っかかってくんの。口にしないで分かってもらおうとかどんだけ甘えてんだ。そのくせ悲劇ぶりやがって、すっげぇ滑稽だわ。苛々する」  そこまで言ったところで、本はキサラに奪い返される。ヴェルガもこれ以上読む気はなかったので素直にキサラに返してやった。 「なんてことを言うんですか、貴方は!」  しかしキサラの怒りは収まらないらしく、ヴェルガへ指を突きつけ思いっきり声を張り上げる。あまりの怒りに病気の辛さはどこかへ吹っ飛んでしまったようだった。 「貴方には王子の心の傷も女の子の辛さもまったく理解できないんですか!?」 「心の傷? 辛さ? そんなんどこにあったんだっての!」 「に、人間として終わってます!」 「なんでそこまで言われなきゃいけねぇんだ!?」  ムカッとしたヴェルガも勢いよく立ち上がる。その際にサイドテーブルに足が当たり荷物が一部崩れ落ちた。崩れた荷物の一番上はヴェルガのノートであり、開かれたページには雄々しいドラゴンが描かれている。  それを見て、ポツリとキサラは言う。 「カバ?」 「か、か、かば、だと……」 「……結構、うまいじゃないですか。見直しました」  悔しそうなキサラ。しかし、ヴェルガは暗い表情でキサラの認識を訂正した。 「ドラゴンだ」 「はい?」 「それは、ドラゴン、だ!」 「え……?」  言われたことが理解できないのか、キサラは不思議そうに首を傾げる。そんな少女にヴェルガはノートを突きつけると、大きな翼を指さした。 「お前にはこの翼が見えないのか!」 「……つばさ? 耳でしょう、それ」 「はああぁぁぁぁぁ!? お前、目ん玉腐ってんじゃねぇの!?」 「ほ、褒めてるのになんですか、その言い草は!」 「褒めてねぇよ!!」 「褒めてます!」 「褒めてない!」  ――そうして、その日は声が枯れるまで罵り合いが続いた。  それからは、何をするでもなく日々を過ごしている。  ヴェルガとキサラが織りなす沈黙の時間。意見も合わない。趣味も合わない。たまに目が合うとお互い不快そうな顔をしてそっぽを向く。それだけを繰り返す毎日だ。  結果として、相手の存在を意識しながら無視し続けるという、拷問のような日々が続いていた。  だから、その日も――  つまらない一日が繰り返されるのだろうと、なんの根拠もなく思っていた。  それに気がついたのは、ヴェルガが遅めの朝食から戻ってきてからのことだ。  ――キサラ・レイシアの様子がおかしい。  その日のヴェルガは、早朝から仕事に出るというゼロの見送りをしたために早起きであった。あくびを噛み殺しながらキサラの部屋に戻ると、椅子に座り、朝日に照らしだされていく町並みをボケっと眺める。キサラは眠ったまま起きてこない。静かな朝の時間を過ごすうちに、いつの間にか、ヴェルガは眠りへと落ちていた。  次に目が覚めたのは日が昇りきってからだ。慌てて時計を確認するとまだ午前中ではあったが、朝というにはずい分と時間が経ってしまっている。驚いたのはキサラがまだ眠っていたことだ。この時間ならとっくに起きて、つっまんねぇ小説でも読んでいる頃なのだが、今日に限っては随分と寝坊助さんであった。  とにもかくにも、遅めの朝食をとるためにヴェルガは食堂へと足を運び―― 「……」  今更ながらに、その事実に気がついた。  いつまでも起きてこないキサラ・レイシア。彼女の寝息は小さく乱れ、顔を覗きこんでみれば苦しそうに表情を歪めている。まるで一度は引いた波が再び押し寄せてきたように――キサラの調子は急激に悪化していた。 「ちょ――……ちっ、なんで!?」  突然の事態に慌てふためくヴェルガ。 (いつの間に、こんな!)  いや……よく考えなくてもわかる。いつの間にもクソもなく、今朝からずっとおかしかった。朝起きていない時点で気づけた。居眠りから覚めた時点なら尚更だ。なのにボケっと眠りこけたり呑気に朝飯を食べたりと、キサラが苦しんでることにまったく気づかなかったのは、言い訳のしようもないヴェルガの落ち度だった。  これでは……看病をしているなんて、とても言えたものではない。 「くそ!」  苛立ちを吐き捨てるとヴェルガは部屋を飛び出した。  いざ看病といっても、具体的に何ができるわけでもない。知識も経験もない少年にできることは、せめてこのことを誰かに伝え薬をもらうことくらいだった。  階段を降り、一階にある食堂へと駆け込んでヴェルガは叫ぶ。 「おい! 誰か――誰か、いないのか!?」  だが……しんと静まり返ったまま、誰の返事もない。この小さな宿に泊まっている客はヴェルガたち三人だけであり店員なんて気の利いたものはいない。女将がひとりですべてを切り盛りしているのだ。 「くそ、どこ行きやがったあのバ――」 「バ?」 「ば……ババロア……?」  不意に聞こえてきた声にヴェルガはビクリと背筋を震わせた。食堂を挟んで反対側、受付へと続く扉が開き、ひとりの女性が顔を出す。年齢は――おそらく三十前後か。ニコニコと愛想笑いを浮かべた妙齢の女性だった。  彼女の名はリレア。この星蘭亭を若くして切り盛りしている女主人である。 「ババロアですか? ちょっとウチにはありませんが……」 「俺もいらねぇから安心しろ」 「それは助かりました。……で、何のようですか、スマッシュさん」  スマッシュとはこの宿に泊まる際にヴェルガが用いた偽名だ。出身地が割れている以上、騎士隊に名前が知られている可能性がある。そのため施設を利用する際には偽名を用いることにしているのだ。ちなみにキサラはアリアと名乗っており、ゼロは何故か偽名を使ってはいない。まぁゼロの存在は村外には知られていなかったので別に問題はないのだろうが。  それはともかく。 「……連れの容態が悪化した。悪いけど、また薬を売って欲しい」 「はい、ありません。残念です」 「そうか。…………あ?」  目を瞬かせるヴェルガ。 「ないって。何がだ」 「薬。この前ので最後です。もうありません。次回入荷は未定です」 「……マジかよ!?」 「はい。――もしよろしかったら、お医者様をお呼びしますが……」 「……」  リレアの心遣いに、ヴェルガは渋い顔で応えた。  バイトの初日でゼロはリヒト・レイシアと遭遇したそうだ。その後もよく店に顔を出しているらしいので、騎士隊は現在この町に駐留していることになる。それを偶然と思えるほどヴェルガは楽観的ではない。奴らは自分たちを探しにこの町へ来たのだ。そんな状況で医者を呼ぶとして、入院することになったら? そこまでいかなくても通院は? 広い町といえど、出歩けばそれだけ騎士隊と鉢合わせする可能性が高くなる。そうなった場合、ヴェルガひとりならともかくキサラを連れて逃げられるのか? ゼロとの合流は? そもそもの問題として――……懐事情の貧しいヴェルガたちに、医者に掛かる余裕があるのか。  問題点は山積みだ。  だが…… 「……」  キサラの苦しそうな顔が浮かぶ。医者を避けてこの場を凌いだとして、果たしてキサラに快復の見込みはあるのだろうか。最悪の場合――……このまま、死んでしまうことだって、あるのではないのか。 (俺は、どうすれば、いいんだ)  自分たちの安全をとるのか。  それとも、危険を承知でキサラの快復をとるのか。 (俺は――)  強く拳を握りしめ、――……長い懊悩のすえ、ヴェルガは顔を上げた。  口を、開く。 「お――」 「あの」  まったく同じタイミングでリレアも口を開いた。どこか優しい顔を浮かべ、彼女は言う。 「よかったら、ご自分で作ってみますか?」 「――作る?」 「はい。スマッシュさんが、ご自分で、お薬を作るんです」  リレアはパタパタと走って食堂を出て行く。しばらくすると、一冊の本を手に戻ってきた。 「以前、お泊りになった冒険者さんから頂いたものなんですけれど……」  表紙には『霊薬百選』の文字。  それは霊薬――特殊な薬品の調合方法が載っている本であった。      §  霊薬とは、特定の素材を特定の比率で調合して作り出す特殊な薬のことだ。  市販の薬とは違い、万物の設計図たるエーテルに働きかける霊薬には、全身大火傷の状態から一命を取り留めさせたり、体中の猛毒を一瞬で浄化したりと、奇跡じみた効果を発揮するものまであるという。  例えるなら、精霊術の癒しの奇跡を誰でも使えるように『薬』という形に落とし込んだものが霊薬なのだ。  入手方法は概ねふたつ。霊薬を取り扱っている店で購入するか、もしくは自分で作るかだ。  だが、特殊な素材を扱うせいで、完成品は非常に高価だ。もちろん値段に見合うだけの効果はあるのだが、一般人がほいほい気軽に買えるようなものでないことも確かなのである。  そのため霊薬を求めるものは――その大多数が冒険者だが――自分たちで霊薬を調合することになる。幸いにして霊薬の歴史は長く、調合方法は専門の本にまとめられている。なので、材料さえ手に入れば理論上は冒険者たちでも作ることは可能なのだ。……材料さえ、手に入れば、だが。 「……」  ヴェルガはうっすらと目を細める。  昼だというのに薄暗い、人の手を拒むような広大な森が、少年の眼前には広がっている。 「――ちっ」  舌打ちをすると、リレアから借りた調合書へと目を落とす。開かれたページには鎮痛解熱剤の調合方法が記されている。必要な素材はウルムトカゲの尻尾とフキミツバチの腹部、エリック草の根と葉。そして、メージ茸の傘。それらを煎じてスープにして飲むのが一般的な服用方法らしい。  ちなみに、調合書にはもっと効き目の高い――それこそ大抵の病に効果を発揮する万能薬じみたモノの製法も載ってはいるのだが、効き目が高い分だけ心身への負担も大きく、今のキサラに耐えることは難しいだろうと思われた。なので、今回作るのは霊薬としては初歩的な鎮痛解熱剤となっている。 (その割には、手間取っちまったけどな)  ヴェルガはリレアから本を借りると、さっそく素材集めに奔走した。  素材を一から採ってくる時間なんてないために、利用したのは素材屋だ。幸いにして、尻尾と蜂蜜と根と葉は素材屋をはしごすることでなんとか揃えることができたのだが――素材屋自体が人目を忍ぶようにひっそりと点在するために探し出すのも一苦労で、思いのほか時間がかかってしまったのだ。 「……」  それに、意外だったのは――その中のひとつが、スラム街にほど近い場所に店を構えていたことだ。ヴェルガにとってスラム街は物語に登場する舞台のひとつでしかなかった。もちろん実在することは知っていたが、あったとしても貧しい地域に限定されると思い込んでいたのだ。  しかし、現実は違った。  ドメシアの町は発展を謳歌している。だが、それに取り残され、切り捨てられた場所と人々も存在している。まるで昼と夜。光と影。活気と熱気は霧散し、綺麗事の下から覗いたのは力無き人々の嘆きだ。それは発展途上の都市が抱きやすい、ひとつの歪みの現れなのかもしれなかった。 (……ちっ、集中しろ、俺)  雑念を散らすように、ヴェルガは強く頭を振るう。  スラム街の存在は気にはなるが、しょせんは他人事だ。キサラ辺りなら変な同情を寄せかねないだろうが、ヴェルガは違う。霊薬に関係してこない以上はバッサリと切り捨てていい話でしかない。 (もう少しなんだ……!)  あらかた素材は集まった。残るは――メージ茸というキノコだけ。  だが、どの店にもこのキノコは置いてはいなかった。最後に立ち寄った店の主人に話を聞いたところ、なんでもここら一帯では町に隣接する森の中でしか手に入らない希少な素材なのだという。  ――ドメシアの森。  この森には数年前から魔物が住み着いており、何度か送り出した討伐隊は誰一人として帰ってこなかった……らしい。正直、そんな場所に踏み込むのは気が進まなかったが、そうは言ってもいられない。  覚悟を決めて、ヴェルガは森へと踏み入っていった。  ドメシアの森は、見た目通りに深く、暗かった。  目当てのメージ茸は陽の光を好むという。しかし、森の出入口に近いところに生えてはいないだろう。希少な素材ということはそれだけ採るのが難しいわけで、ならば森の奥深くが狩り場ということになるはずだ。 「……」  ヴェルガはしっかりとした足取りで森の奥へと進んでいく。  とはいえ、決して平常心なわけではない。一歩進むたびに、得体のしれない不安感は確実に大きくなっていく。それはやはり、魔物が出るという噂のためか。――いや、討伐隊の話が本当ならば何がしかの生物が確実に存在していることになる。それが凶暴なだけの動物なのか、本当に魔物なのかはわからないが。 (……ドラゴンとか出たりして)  調合書を思い返す。高度な霊薬に必要な素材として、やたら頻出していた竜のうろこ。素材屋巡りでも一度だけ見かけたが、メチャクチャ法外な値段が付けられていた。やはり最強のドラゴンからは、うろこ一枚採るだけでも大変なのだろう。 (……出たり、しないよな?)  ドラゴンは最強の魔物だ。聖王国がほこる二大騎士団ですらその討伐には大きな犠牲を伴うという。おそらくゼロですら勝てるかどうかは怪しく、ヴェルガなんてイチコロだろう。最強すぎて、最近では知恵のある種は魔物として扱うことは不的確とすら言われている。そんな彼等の主な生息地は大陸西の山脈だ。なので、まさか、いくらなんでも、こんな所にいるはずが――  ……がさ。 「――!?」  物音に思わず足を止めるヴェルガ。  息を潜め、つばを飲み込み、周囲を警戒し――……しばらくして、足元を野兎みたいな小動物が通りすぎたのを見て、盛大に息をつく。両手にじっとりと汗が滲んでいるのを自覚しながら、ヴェルガは探索を再開した。 (――ちっ。何をビビってやがんだ、俺は)  オーラント・ヴェルガはただの人間ではない。魔族ゼロと契約を交わした魔術師なのだ。相手が魔物だろうと焼き払えばいい。それだけの実力はあるはずだ。もう――……リヒトのときのような、情けない姿は、晒さない。  そうして、長い探索の果てに。  ヴェルガはついに、それを発見した。  森の一部が突然開けたのだ。生い茂る草木は踏みならされ、木々も不自然になぎ倒されている。まるで森の一部を繰り抜いたかのような円形の空間。そこに倒れる樹木のひとつ――苔に覆われたそれに、陽光を受けるようにして目当てのキノコは生えていた。 「あっ……た」  何度となく本に描かれている絵と見比べて、ヴェルガは大きく安堵の息をこぼした。 (それにしても……青いな)  メージ茸はやたらと鮮烈な青色の傘をしたキノコだ。そのカタチも歪であり、見るものに生理的嫌悪感を抱かせる。実際、特定の生物にとっては毒となる成分が含まれているらしい。幸いにして人間には無害らしいのだが……どうにもイマイチ信用しきれないヴェルガであった。 (……そういやコレ、魔族が食べたらどうなるんだろうな)  しかめっ面のまま、キノコを採ろうとした――その時だ。  遠く、森がざわめいた。 「――!」  そのわずかな違和感に、胸中で激しい警鐘が鳴り響いていく。ヴェルガは息を呑むと、慌てて身構えた。嫌な予感に冷や汗が頬をつたい流れ落ちる。  ……息を整えながら、耳を澄ます。  聞こえてくるのは、重い足音。大きな何かがこちらへと近づいて来ている。  逃げた方がいい――そう訴えかけてくる直感を押し殺したのは、ヴェルガの魔術師としての、いや、少年としての矜持(プライド)だった。リヒトに遅れをとった時とは違う。相手が魔物だろうと追い払わなくてはならないと、強く、決意を固めた。 「――っ」  やがてそれはヴェルガの前に現れた。  青黒く巨大な熊のような魔物。ただ熊と違い、裂けたような口からは何本もの巨大な牙が生えており、爪も太く大きい。赤い目は爛々と輝き、獲物を――ヴェルガを虎視眈々と睨みつけている。  グリズリー。  魔物としては下級に相当する種族ではある。だが、それはあくまでも冒険者や騎士団といった危険に身を投じる者たちからすればの話だ。一般人にとっては出会ったら死を覚悟しなければならない凶悪な魔物であり、まして町の討伐隊を返り討ちにした個体である。新米魔術師であるヴェルガにとっては勝機などほぼ皆無に等しい相手であった。 「……ちっ」  小さく舌打ちすると、ヴェルガは思考を加速させる。  勝てる相手ではない。だが、勝たなければならない。勝たなければキサラを救えないし、いつまでたってもゼロと並び立つことはできないだろう。この魔物は越えなければならない壁だ。この壁を焼き尽くしてこそ、魔術師オーラント・ヴェルガに未来(さき)はある。 「――」  息を整えながら、じりじりと後退っていく。あの巨体からくり出される攻撃は、たった一撃でも致命傷となりうるだろう。ヴェルガが勝つ方法はひとつだけ。間合いをとって火炎魔術で焼き殺す。ヴェルガの火力では一度では無理だろうから、倒しきるまで何度でも炎を放つ。それだけが勝利への道だ。 「ヴェルク・エル・ゼルク」  まずは魔術で身体能力を強化する。  続いて火炎魔術を練り上げていく。狙うは――目玉。まずは相手の視界を奪い、こちらが行動しやすいように――  その時だった。 「ぐるあああああああああああああああああああああああああ!!」  突如、魔物が咆哮した。  まるで森を震わせるかのような大絶叫に、ヴェルガは思わず怯んでしまう。そのスキを魔物は見逃さない。威嚇に続き、その巨体には似つかわしくない素早い動きでヴェルガへと爪を振るう。 「ちょ!?」  その怒涛の一撃を身を投げ出してヴェルガは避わした。慌てて距離を取り振り返ると、空振った魔物の腕はそのまま大木へと命中、大きな音を立てながら大木は半ばから薙ぎ倒されていた。 「っ――」  ズキリと頬に痛みが走る。  避けたときにかすったのか――頬をこすると、その手はべったりと血に汚れていた。 「この!」  恐怖を振り払うように叫ぶと、ヴェルガは再度、魔術の起動準備に入る。――が、魔物の動きは想像以上に素早く的確だ。あっという間にヴェルガへと肉薄し爪を振り上げる。ヴェルガは術の起動を中断し、逃げ出すしかなかった。 「く、そ――!」  魔術を起動させる時間が取れない。  一流の魔術師なら接近戦をこなしながらでも術の起動を行えるのだろうが、ヴェルガはまだまだ未熟者だ。魔物の攻撃を避けることに精一杯で、とてもではないが反撃に転じることはできそうにない。もしも最初に肉体強化をしていなかったのなら、とっくに肉塊にされていたに違いなかった。  もっとも、それも時間の問題だ。  このままではいつかは……殺される。 「ちぃ!」  限界ギリギリの命のやり取りを経て、ヴェルガは方針を転換する。今の自分ではこの魔物は倒せない。だが――ここに来た目的は魔物討伐ではなく、メージ茸の回収だ。目当てのキノコさえ採ってしまえば用はない。開けた場所ならともかく、森の中を逃げに徹すればあの巨体に追いつかれる心配はないはずだ。  そう考えたヴェルガは、何度目かになる魔物の攻撃を避わすと、目当ての倒木へと全力で駆け寄った。気持ち悪いキノコを遠慮なく掴むと引きちぎる。見た目通り、触った感触も気色が悪い。生理的な嫌悪感を押し殺し、急いでこの場を離れようと顔を上げ―― 「……」  目の前には、すでに魔物の巨体があった。  振り下ろされる巨大な爪。慌てて飛び退いたヴェルガは受け身も取れず、地面を無様に転がった。すかさず魔物は吠えながら追撃に出る。ヴェルガは必死に体勢を整えようとするが――とてもではないが、間に合わない。 「く、そ!!」  ――結局、オーラント・ヴェルガは何も出来ない。  旅の連れに薬を作ってやることも出来なければ、戦友と共に戦うなんて夢のまた夢。自らの力のなさを思い知りながら、ヴェルガはその生涯に幕を下ろす――……  はず、であった。  ……――風が吹く。それは一陣の風だ。だが決して弱くはない、強い意志の宿った風。それは魔物を捉えると、突如暴風のように弾けて軽々とその巨体を吹き飛ばす。何度となく横転する魔物。だが倒すまでには至らず、唸るような声を出しながら再び魔物は立ち上がった。  その眼前――ちょうどヴェルガと魔物との間に、ひとりの青年が現れていた。  茶色い髪と白い服の青年は、すっと、魔物へ片腕を伸ばす。するとどうだろう。その手より放たれた風の衝撃波は再び魔物を吹き飛ばしてしまう。圧倒的な巨体がまるでぬいぐるみのように軽々と扱われているさまは非現実的で、それを行っている青年もまた非現実的であった。  やがて、対峙する青年に何を見たのか――  魔物は小さく呻きながら、森の中へと逃げていった。 「……ふむ。まぁ深追いすることはないでしょう。今大事なのは……こちらですから」  言うと、青年は倒木からメージ茸を採取する。  そして、未だ倒れたまま呆然としているヴェルガへと笑いかけた。 「あなたも、これが欲しかったのでしょう?」 「……も?」 「私もなんですよ」  微笑みを浮かべながら、その――白い神父服の青年は自己紹介をする。 「はじめまして。私は神父の加藤マルクと申します」      § 「……いないじゃないですか」  こぼれた言葉は――何故か、恨み言っぽくなってしまった。  夕方――  長い眠りから目が覚めたキサラは、ベッドから体を起こすと軽く首を振る。全身がだるく、頭は痛い。火照った体は正常とは程遠く、病気がぶり返したらしいことは明らかだった。  なのに―― 「……」  再度、室内を見回す。  夕日に染まった部屋はガランとしていて、人の気配は、どこにもない。  それが、どうしようもなく――キサラの心をささくれ立たせた。 (……見張ってるって、言ってたじゃないですか)  何に対して腹を立ててるのかわからないまま、キサラは膝に顔をうずめる。  小さく、唇を噛んだ。  と――  廊下の方から、話し声が聞こえてくる。キサラは弾かれたように顔を上げた。 「だからもういいって――」 「いえ、これも神父の努めです。容態を見るくらいはできますから――」 「それが余計なお世話だって――」  何やら言い争っている声。その片方はここ数日で嫌でも聞き慣れた少年の声だ。キサラは自然と居住まいを正すと、すまし顔を取り繕う。 「失礼します」  軽いノックの後、――扉が、開く。 「――っ!」  瞬間、キサラの全身を緊張が駆け抜けた。入ってきたのは教会の神父服を着た青年だったからだ。神父の後ろでは焦った様子のヴェルガの姿もある。彼は何故か、頬に湿布を貼っていた。 「――、……貴方は……」  問いかけるキサラの声は硬い。キサラは信心深い少女ではあるが、魔術師とは何なのかを確かめたい今の彼女にとって、教会の関係者は歓迎できない相手となってしまっているからだ。後ろめたさを感じつつ、キサラは神父たちへと目を配る。  優しそうな顔をした神父だった。  長身痩躯を白い神父服で身に包んだ、茶色い髪をした青年だ。両手で大事そうに抱えたトレイの上には何かのスープ皿が乗っている。そんな青年の側には小さな双子の女の子がおり、どうやら彼女たちが扉をノックしたり開けたりしてくれたらしい。  そして、神父の後ろには「やっちまった……」みたいな面構えをしたヴェルガがいる。いつもムスッとした表情ばかりの彼のこんな顔は珍しく、キサラはちょっとだけ意地悪な気分になった。 「…………」  ヴェルガと目が合う。  意識して睨みつけるような目をしてみると、少年はバツが悪そうに顔をそらす。ますます落ち着かない様子のヴェルガに、なんとなく、キサラは心の中で勝ち誇った。  それはともかく。  神父は部屋へ入ってくると、一礼する。キサラも慌ててペコリとお辞儀を返した。 「はじめまして。アリアさん、ですね。私は神父の加藤と申します。お連れの方から病人がいると聞きまして――」 「もういいっつってんだろ! 帰れ!!」  ヴェルガ必死の怒鳴り声。それがガンガンと耳に響き、思わずキサラは顔をしかめた。 「……うるさい」 「な――お、お前な」  たじろぐヴェルガの裾を、神父の連れらしい双子の少女が引っ張っていく。 「静かにしてなくちゃ、ダメなんだよ!」 「お外、行く……」 「はぁ!? ちょ――」  見た目に反して力は強いのか、無理やりヴェルガを外へ連れ出していく双子の少女。  パタン、と、静かに扉は閉ざされた。 「……」 「……」 「……」 「……そこ、よろしいですか?」 「あ、はい」  キサラは頷く。  加藤と名乗った神父はスープをサイドテーブルに置くと、椅子に腰掛けた。そのスープを見て、キサラは唖然とする。……青い。ものすごく真っ青な、ブルースープ。なんというか、見事に食欲を減退させるような鮮やかな色合だった。  顔が引きつるのを自覚しながら、キサラは神父へ問いかける。 「……あの。何か、ご用で、しょうか?」 「スマッシュさんから病気で寝込んでる方がいると伺いました。私は――神父は医療の心得もありますので、少しお節介を焼かせてもらおうと思いまして。まぁ、本職の方ほどではありませんが」 「はぁ……」  曖昧な返事をするキサラ。……正直、どう対応すればいいのかわからない。普段通り振る舞えばいいのだろうが、その普段通りがちっともわからず、ただただ、緊張感だけが高まっていく。 「そ……そのスープは?」 「鎮痛解熱効果のある霊薬です。これを飲めば、少しは体調も良くなると思いますよ」 「……そう、ですか」  だが、キサラはスープに手を付けない。依然として警戒の眼差しで人の良さそうなを神父を見つめている。彼がキサラのことを――拐われた聖女候補のことを知っているとは思えないが、万が一ということもあり得るのだ。  もしも対応を誤れば、キサラの旅路は終わりを告げる。  最初はそれを望んでいたはずだった。  だけど―― 「……」  その場合、ゼロやヴェルガは――……きっと。 「……緊張しているようですね」 「あ――すみません」 「いえ……ふむ。それでは、少しお話をいたしましょう」  どこかイタズラっぽい笑みを浮かべると、加藤神父は口を開いた。 「彼――スマッシュさんは、ご兄弟ですか?」 「いえ。従兄弟です」  偽りの関係が咄嗟について出る。だが兄弟は嫌だった。キサラにはリヒトがいるし、その場凌ぎとはいえその立場にヴェルガが入るなんて寒気がする。第一、キサラとヴェルガの容姿はちっとも似ていない。だから、一緒にいて怪しまれない落とし所としての従兄弟というのは――まぁ、悪くはないだろう。  口に出してから考えてみると、我ながらすっきりする関係だとキサラには思えた。 「そうですか。失礼しました。実はですね――今日、彼とはよく町中ですれ違いまして」 「町で……ですか?」 「はい。その霊薬は、私も少しだけお手伝いさせてもらいましたが、作ったのはスマッシュさんなのです」 「――彼が……?」  予想だにしていなかった神父の言葉に、キサラは戸惑った。  詳しく話を聞くと、加藤神父もまた霊薬を作ろうと素材屋を巡っていたそうだ。その先々でよく見かけた、真剣な顔をした少年。この道には詳しくないだろう彼は、本を片手にアレコレ悩み、素材を選んでいる。  その姿に加藤は優しい気持ちを抱いた。  何故なら少年の顔は、誰かのために一生懸命な、頑張っている人の顔だったからだ。 「だから私は、彼のお手伝いをさせてもらったんです」 「そう……だったんですか」 「最後は魔物とも戦ってましたよ」 「な――怪我は――……」  ……――していた。頬に大きな湿布を貼っていた理由は、それなのだろう。 「……」  キサラは青いスープを見る。  これは、病気がぶり返した自分を心配し、ヴェルガが必死の思いで作ったものだ。 「……」  どうして、そこまでするのだろう。  キサラ・レイシアは聖女の後継者だ。聖女は――聖堂騎士団や教会は、彼にとっては仇でしかない。憎んでもあまりある存在だというのに、どうしてヴェルガがそこまでしてくれるのかが、キサラには理解できなかった。 「……」  ……本当に、そうなのだろうか。  キサラはそっと胸に手を当てる。キサラがこの短くも色々なことがあった旅の中で見てきた少年の姿。それを思い返しても、理解できないなんて――言えるのか。 「……」  本当はもう知っている。  ただ、どうしてもそれを認めたくなくて――つまらない意地を張っているだけだ。 「彼は――」  目を伏せて、小さな声で、キサラは認めたくなかったことを、口にする。 「彼は、……粗暴で、口が悪くて、意地も悪い人だけど……」 「でも、やさしいところも、あるんです」 「――そうですか」  加藤神父は、そんなキサラに優しく微笑んでみせる。まるで素直になった生徒を見守ってくれる先生のようで、キサラは気恥ずかしさに頬を染めた。 「どうやら緊張はほぐれたようですね。――その様子なら大事はなさそうです。しっかりと眠って、よく休んでください」 「あ――はい。ありがとうございま……す……」  最後、声が小さくなる。  この言葉。  ずっと、避けてきたこの言葉を――本当に言わなくてはいけない相手は、誰なのか。 「……お大事に」  神父は微笑むと、静かに扉を閉じ部屋を出て行った。 「……」  キサラは、小さく、長く、吐息をつく。そうして――自然と霊薬へと目を向ける。 (……私のために、これを……)  胸の奥が、トクンと、高鳴る。  切ないような、むず痒いような――言葉にできないような、不思議な気持ち。  キサラはそっとお皿を手に取ると、意を決して、青々しいスープへと口をつけた。 「……」  温かいスープは、とても苦かった。      §  星蘭亭の廊下。板張りのそこで壁に背を預けながら、落ち着かない様子でヴェルガは診察が終わるのを待っていた。キサラのことは教会でも一部の者しか知られていないとゼロは推測していたが――実際にこんな事になってみると気が気ではない。 「ちっ」  苛々と舌打ちをするヴェルガ。  そんな彼に鼻を近づけ、すんすん、と臭いをかぐのは銀髪の少女たちだ。 「……なんだ、お前ら」  鬱陶しそうなヴェルガに、双子たちは鼻を抑えながらしかめっ面でこう言った。 「スマスマ、くっさーい」 「……気持ちが悪いです」 「くさ――、き、キモい!?」  地味にグサリとくる台詞にヴェルガは唖然とする。慌てて自分の腕や服の匂いを嗅いでみるが……別にそんな臭くはない、はずだ。もっとも自分の匂いは自分ではわからないらしいとも聞く。もしかして、今までゼロやキサラも「オーラントは相変わらず臭いなぁ」とか「うわ……この臭い、まじひくわー」とか思っていたのだろうか。  その点、子供は正直だというが…… (……ちゃんと風呂はいってんだけどなぁ)  眉間にしわを寄せ、唸るように悩みこんだ、そのとき。  静かにキサラの部屋の扉が開き、加藤マルクと名乗った神父が廊下へと現れた。途端、双子がととと……っと小走りに駆け寄っていく。ヴェルガは今しがたの深い悩みをとりあえず棚上げし、目の前の危機と向かい合う。  ……この神父たちを追い払うまで、気を抜くことは許されない。 「なんだ、もう終わったのか」 「ええまぁ。顔色を見ればすぐにわかりましたから。もう峠は超えて快復に向かっています。アリアさんはすぐに良くなりますよ」 「……だったらとっとと出てけばいいだろうに」 「ふふ、ちょっといい話をしたくなりまして」 「あ?」  どことなく意地の悪い神父の視線。まるで世話やき教師のようなそれがどうにも煩わしく、ヴェルガは悪態をついてみせた。 「用はもうすんだろ。とっとと出てけ」 「ふふ……それでは失礼します」  軽く頭を下げると踵を返し――しかし、ふと思い出したように、神父は足を止めた。 「…………ひとつだけ、よろしいでしょうか?」 「なんだよ」 「あなたはどうして、そんなに私たちを嫌っているのでしょう?」 「――」  その問いかけに、ヴェルガは言葉に詰まった。  ……もちろん素直に答えられるわけがない。かと言って、気のせいだ、嫌ってなんかいないと――そんな嘘をつけるほどヴェルガは大人ではなかった。だから、しばしの逡巡のあと、素直な気持ちだけを口にした。 「……教会は、嫌いだ」 「そうですか」  残念そうに神父は言う。 「それでは失礼します。――行きますよ、リリアナ。レミー」 「……はい」 「じゃーね、スマスマー!」  双子の少女たちも、神父のあとに続いていく。  ……遠ざかる白い背中。  その背中へと、届くか届かないかという小さな大きさで、ヴェルガは声をかけた。 「……だけど、お節介野郎は、嫌いじゃない。……世話になったな」 「――」  加藤は足を止めて振り返る。ヴェルガは慌てて顔をそらした。  そんな少年へ、加藤は穏やかに微笑むと――会釈をして、去っていった。 「……」  そうして――  宿から神父たちの気配がなくなると、ヴェルガは盛大にため息をつき、天を仰いだ。 (よかったぁぁぁぁ……)  あの様子を見る限り、キサラのことはバレてはいないようだ。なんとかやり過ごすことに成功したわけだが――……本当に、今回は危なかった。 (もうこんな橋はわたらねーように気をつけないとな)  肩をほぐすように回しながら、少々ゲンナリとしつつキサラの部屋へと足を向ける。  ノブに手をかけ、扉を開けた。 「あ……」 「――?」  ベッドの上では、ちょうどキサラが霊薬を飲んでいるところだった。目が合うとキサラは何故か見る見る間に顔を赤くし、急いで皿を置くとぷいっとそっぽを向く。  耳まで赤いのは、夕日だけのせいではなさそうだが―― (……あの神父、ヤブじゃねーだろうな)  そこはかとない不信感を抱きながら、ヴェルガは椅子へと腰掛ける。 「……」 「……」 「……おい」 「!?」  ビクリと肩を震わせるキサラ。しかしこちらに振り返ることはない。……もしかして顔を背けたくなるほど臭いのだろうか。一度は棚上げした疑惑が再び顔を覗かせて、ヴェルガはなんだか落ち着かない気持ちになった。 「薬、まだ残ってるぞ。不味いんだろうけどちゃんと飲んどけ」 「……」  キサラは小さく深呼吸をすると、恐る恐ると言った風に、ヴェルガへと向き直る。  その顔は――やはり赤い。  碧い瞳は戸惑うように揺れており、どことなく色気を感じさせた。 「っ――」  思わずドキリとし、ヴェルガはゴクリとつばを飲み込んだ。 「あの、……」 「……な……んだよ」 「その……」 「……」 「…………お薬、ありがとう、ございます」  ――ずっと言えなかったことを言葉にして、キサラは勢いよく頭を下げた。本当は薬のことだけではなく、デパートでのことや、ずっと看病してくれていたことにもお礼を言うべきなのだろうが……今のキサラでは恥ずかしすぎてこれが限界であった。 「……」  やがて、ゆっくりとキサラは顔を上げる。さっきからヴェルガの反応はない。唐突な自分の言葉に呆れているのか、あるいは今更だと怒っているのか。どちらにしろ、ひどく申し訳ない気持ちになりながらキサラはヴェルガと顔を合わせて――…… 「――」  パチクリと、目を瞬いた。  ヴェルガはポカンとした顔のまま、まるで固まってしまったかのように動かない。まるで学校でお化けでも見たような、あるいは綺麗なものに見惚れているかのような、そんな表情だ。  その予想外の反応に、キサラは眉根を寄せると、困惑気味に声をかける。 「……あの」 「は――!?」  ようやっと正気を取り戻したのか、ヴェルガはキサラからじーっと見つめられていることを知ると大慌てで視線をそらした。腕を何度も組み直したり、視線をやたらと彷徨わせたりとどうにも落ち着きがない。  そうこうしているうちに、少年の頬はだんだんと赤く染まっていく。 「……大丈夫ですか?」 「だっだいひょうぶにきまってるだろう!?」 「……」 「大丈夫だ!」  半ばヤケクソ気味に声を張り上げヴェルガは椅子から立ち上がると、これみよがしに高圧的な態度をとる。――もっとも、それがただの照れ隠しであることは、さすがのキサラにもまるわかりであったが。 「――ふん。とっとと病気を治すんだな、このバカタレめ」 「はい。はやく治しますね」 「ぐ――!」  たじろぐように呻くヴェルガ。  そんな少年に、キサラは胸の奥があたたかくなるのを感じるのだった。  つづく 【あとがき】  ※本編のネタバレ一部含むので注意。  多分作中で触れる機会はないだろう、どうでもいい話。  ブラウンとリレアは親子。ブラウン亭を継ぐことを嫌がったリレアが独立してはじめたのが星蘭亭。とはいえお互いに愛情はあるので、ブラウンは娘の頼みということでゼロという変則バイトを雇うことにした。  ……うん、どうでも( ;∀;) イイハナシダナー  Q:スマスマくさいの?  A:くさくないです。単に精霊が魔界の気配を苦手としているだけです。  精霊にとっては魔界って汚染されてるやばい場所なんです。だからそことやり取りする魔術師や魔族は彼等が嫌う気配みたいのがこびりついてるわけですな。双子はソレを『臭い』に例えたわけです。  もともと魔界(奈落)は旧世界のシステムでは神が不要とする負の想念、汚い感情の掃き溜めでした。魔王や魔族とは、新世界創世の際にその奈落に落とされた神霊や精霊、人間たちの成れの果てなわけで、まさに精霊にとって奈落(の泥)は猛毒みたいなもの。その気配をまとう魔術師に嫌な気配を覚えるのは当然なのです。  そんなわけで、一度魔術師になってしまった者は精霊が近寄ってくれないので二度と精霊術師にはなれません。まぁこの辺の設定はハロワには直接関係なく、現代編で魔術師へと転向しちゃったエレオノーラ嬢に絡んでくる設定となりますが。  Q:魔術師の気配がわかるなら教会とかに通報しないの?  A:嫌な気配がする=魔術師、ではないのでそんな事はできません。  たとえば、ごく普通の風の精霊術師に対して風の精霊が嫌な気配を感じることもあります。まぁウマが合わないのを直感的に感じ取って避ける感じ。なので精霊にとってその気配が単に性格の不一致なのか魔界の力によるものなのかは判別できません。  双子もヴェルガのことは「なんか臭いお兄さん」以上の認識はしてなかったり。  以前書いたジョシュアの短編だと、ざわついた精霊からあの騎士団長さんは直感で魔術師の正体を暴いてますけど、あれはジョシュアの直感がすごいのですな。  というわけで、次回は多分一月末…までには。  2章は残り2話で完結予定。ようやっとお兄様のターン!