b.H.ヒストリア外伝 『Hello World』 第2章 せいぎのありか 【前回のあらすじ】  お兄様、パワハラされる。  第8話 神父と騎士(後編)  加藤マルクは神父である。  精霊教会における神父とは何か――というと、ようは教会の威光を広め伝えるための伝道者だ。教会の勢力は主に風、炎、水、大地の四つの都と聖王都を中心としており、都から離れれば離れるほどその影響力は低下する。神父とはそんな僻地において、精霊信仰の尊さを教え導く役目を担った者たちなのだ。  ちなみに何故『神父』なのかというと、女神マリアを信仰するとある宗派との過去における衝突や吸収が原因だとも言われているが、当時の資料の大半が紛失しており判然としていない。  世間的に神父という響きがわかりやすいから使われているんじゃないか――と神父仲間と談笑したことがあったが、加藤は意外とこれが真実なのではないかと思っていたりもするのだ。  まぁ、それはともかく。 「――はい、どうぞ。ミルクティーです」 「……ふわぁ」  なんとも言えない声を双子少女はあげると、ミルクティーにそっと口づけた。  少し熱かったのか、ちびちび、ちびちびと飲みはじめる。  その様子を眺めながら、加藤は先程のことを思い出していた。  夜の散歩で見た不思議な現象。  それはきっと――精霊の誕生する瞬間だ。世界でもほぼ目撃例のない珍しい光景に、精霊に関してはあまり詳しくはない加藤も深い感動を味わっていた。精神生命体と呼ばれるとおり、精霊もまたひとつの命だ。その在り方は物質世界に生きる人間とは異なるものだが――やはり、生命誕生の神秘には圧倒されずにはいられない。  だけど…… (この子たちは、まだ、何も知らない)  生まれたばかりの彼女たちは、本当に、真っ白だった。自分たちの名前も、存在も、何もかもがあやふやで定まっていない。見た目こそ十歳くらいの女の子であるが、その中身は幼児であると思っていいだろう。  そんな子たちを放っておくことは、加藤にはできなかった。  行き場のない少女たちを自分の家に――村にある小さな教会まで連れ帰ると、とりあえず軽い食事を与えてみた。書棚に閉まってあった精霊関係の本によると、精神生命体である精霊も食事はするそうだ。物質的な意味でお腹が満たされるわけではないが、美味しい食事をとったという満足感が、精神的な意味で精霊を満たすらしい。  双子精霊は、おずおずとパンにかじりつくと、パッと顔を輝かせ――今は食後のミルクティーを飲んでいる。  その様子は本当に幼い子供のもので、ますます加藤は使命感を強めていく。 (――この子たちを一人前の精霊に育て導く)  それこそが自分に与えられた運命なのだと、加藤マルクは強く感じ取っていた。 (さしあたっては)  加藤は書棚に手を伸ばす。  取り出したのはちょっと厚めの古ぼけた一冊。人名辞典だ。 (この子たちに、名前をつけてあげないと)  しばしの逡巡のあと――加藤は何年かぶりに、その本を開いた。      §  加藤マルクは妻帯者であった。  こことは違う小さな村。夢破れ都会から出戻ってきた加藤は、幼馴染のソフィアと再会し、交際がはじまり――結婚に至ったのは彼等が十九のときである。光の精霊王の名を与えられた妻は気立てもよく、神父を目指し働きながら勉強に励んでいた加藤をよく支えてくれた。  やがて、ソフィアは身ごもった。  嬉しそうに、恥ずかしそうに報告してくる彼女を、加藤は心底愛おしいと思ったものだ。  来る日も来る日も、ソフィアと共に生まれてくる子のことを考えた。  性別、  名前、  どう育てるか――どうやって、幸せになるか。  それはとても幸福な毎日だった。  今思い返しても――これ以上ないというくらいに、幸せな日々だった。  だがその幸せは、突如として崩れ去った。  ……事故だった。  生まれてくるはずの子供ごと、加藤ソフィアは他界した。  それから数年、加藤は神父となり、新たな地で教会の活動に励んでいる。  加藤が行っているのは主に子供を対象とした勉強会だ。地方では未だにまともな教育機関がない所も多い。教会はそんな村に神父を派遣し無償で勉強を教えていた。  神父としての日々は楽しかった。  忙しくて、だけど充実していて……子供たちとの触れ合いが、加藤の心を徐々に癒してくれるかのようだった。  だけど、ふと、足が止まってしまう。  全力で駆け抜けてきた道の中で――取りこぼしてしまった、大事な家族。  彼女たちのことを思うと、加藤の心は、深い悲しみに包まれるのだ。      § 「ふ……ふぇぇぇ……」  小さな女の子の泣き声が聞こえてくる。  加藤は顔を上げると、窓の外を見た。  お昼休み――教会の中庭。加藤の勉強会に集まった子供たちは思い思いに休み時間を過ごしている。そんな中、ひとりの女の子がひとりの男の子にイジメられていた。 「か、返して……」 「ふーんだ、嫌ですー!」  女の子からぬいぐるみを取り上げた男の子は、これみよがしにぬいぐるみを掲げて女の子の周りを行ったり来たりしている。男の子の方がちょっとだけ年上で、背も高く、女の子が背伸びしても手は届きそうにない。 「ほーら、とってみろよー」 「うぅ……ふぇぇ」 「泣き虫!」  ケラケラ笑う男の子。  その背中へ―― 「おりゃ!」 「ぐへ!?」  問答無用の、全力キックが叩き込まれた。  男の子は顔面から地面に激突する。その衝撃に放り出されたぬいぐるみを、キックをした誰かは華麗にキャッチし、泣きじゃくる女の子へと差し出した。 「わぁ……」  笑顔を浮かべる女の子へ、どこかお姉さんぶって、誰かは言う。 「まったくー。ダメだよレミー。泣いてばかりじゃなくて、ちゃんと反撃しなくちゃ」 「うん。……ありがとう、リリアナ」  ぬいぐるみに顔をうずめて、恥ずかしそうに女の子は言う。 (――やれやれ)  一部始終を見届けて、加藤は苦笑した。 (ふたりとも、すっかり馴染んだみたいだな)  男の子にキックをかました女の子の名前はリリアナ。長い銀髪をゆったりたらし、先っぽをくくった女の子だ。容姿だけなら物静かでおとなしそうな雰囲気があるのに、その青い瞳はキラキラと好奇心に輝いており、彼女の活発な内面を伺わせる。  そんなリリアナとそっくりの顔立ちをした、ぬいぐるみを抱えた女の子はレミー。こちらは銀髪をふたつにくくっており、外見だけならとてもオテンバそうなのだが――赤い瞳はいつも自信なさげに伏せられており、彼女の気弱さがにじみ出ていた。  リリアナとレミー。  彼女たちは双子――加藤がその誕生を見届けた、双子精霊である。  加藤の遠い親戚として村で暮らしていくことになった彼女たちは、勉強会にも参加し、友達もできて、時には笑い、涙し、喜び怒り――当たり前の毎日を過ごしている。  ちなみに双子を精霊として紹介しなかったのは彼女たちを思ってのことだ。  精霊の存在は周知されているが、実際にその姿を見たことがある人は限られている。まして精霊教会の力が行き届いていない地方の村だ。彼等にとっての精霊とは大自然の化身であり、物質化で想像されるのは獣の姿だ。  人間の――しかも女の子の姿をした精霊など、素直に受け入れてくれるかわからない。  もし受け入れてくれなかった場合、最悪、迫害される恐れもある。  そうでもなくても、精霊として村の人たちに物珍しそうに扱われるのは、まだ生まれたばかりでカタチが定まらない彼女たちにはよくないのではないかと考えたのだ。  精霊は精神生命体だ。  良くも悪くも心の在り方がその存在を決めてしまう。  それは彼女たちの成長を間近で見てきて、加藤も痛感したことだった。  最初は人格さえ定まらないほどだった双子の少女は、加藤が与えた一冊の絵本によって急速にその人格を二極化させていった。片方は元気に、片方は物静かに。双子のお姫様の冒険を描いた絵本の登場人物をなぞるように、それぞれ人格を変化させていったのだ。  物質世界に地に足をつけて生きている人間だって、幼少時のちょっとした出来事で性格が変わってしまうことがある。精霊である彼女たちは、それがとにかく極端なのだろう。  幸いにして、あれから大きな人格の変化は認められないが――何がきっかけで、彼女たちが豹変してしまうかはわからない。注意深く見守っていく必要があった。 「うぅ……ててて」  リリアナに蹴られた男の子がむくりと起き上がる。  大袈裟に背中をさすりながら、涙目でリリアナを睨みつけた。 「なにすんだよ、このぼーりょく女!」 「あなたこそ、レミーになにするのよ!」  むむむと睨み合うふたり。  男の子の名前は、エルディオン。黒髪に透けるような白い肌とピンと尖った耳が特徴的なエルフ族の少年だ。エルフ族は風の加護を受ける亜人であり、自分たちの集落からあまり出ることなく暮らしているのだが、たまに人里で生活を送る者もいる。エルディオンの一家はそんな数少ない変わり者のエルフだった。  なお、長命なことで知られるエルフ族だが、エルディオンはまだ若く見た目通りの年齢だ。幼年期の間はエルフ族も人間と成長速度はあまり変わらないのである。 「やるかー、この!」 「なによ、エルエルのくせに!」 「その呼び方やめろー!」  売り言葉に買い言葉。リリアナとエルディオンの口喧嘩はますます熱くなっていく。今にも取っ組み合いをはじめそうな雰囲気だった。 (うーん、さすがに……)  加藤は席を立つと中庭へと向かう。このふたりは互いに攻撃的な性格をしているので、放置しておくとわりと洒落にならない事態になりかねないのだ。 「ほら、君たち。ケンカはダメですよ」 「あ、先生!」  エルディオンがぱっと顔を輝かせる。  少年らしい憧れなのか、彼は加藤マルクという神父に強い憧れを抱いていた。  あれは二年ほど前のことだったか。  村を襲った野盗を、加藤は自警団と協力して撃退したのだ。神父は聖堂騎士ほどではないが教会の使者として最低限の戦闘力を有している。その力で村の発展や防衛に尽力するのが神父の努めであり、以来、自警団の要請でたびたび戦闘の手解きも行っている。  そんな加藤を見て強さに憧れる少年が懐くのも、当然といえば当然だった。 「先生、こいつ酷いんですよ! 僕を蹴っ飛ばしたんです」 「うー、あなたがレミーにいじわるするからじゃない」 「……リリアナ、もういいよぉ」  三者三様、それぞれの言い分で加藤にまとわりついてくる。  加藤は屈みこむと、三人を見返しながら、ゆっくりと口を開いた。 「そうですね……まず、意地悪はいけません」 「うっ」 「もちろん、暴力もダメです」 「うっ」 「そして、困ったことがあっても、泣いてばかりいるのもダメですよ」 「うぅ……」  しゅんとする三人。  加藤は一拍間を置くと、優しい微笑みを浮かべ、順に三人の頭をなでていく。 「悪いことがわかったなら、もう大丈夫です。今度は同じことをしないように、正しい行いを目指しましょう。そうすればきっと、精霊も喜んでくれますから」 「――うん」  子供たちはこくりと頷いた。 「よし。それじゃあ、休み時間を楽しんできなさい」 「はーい! 行こう、レミー」 「せんせい……ありがとう」  双子少女は、連れ立って走り去っていく。女の子たちのグループに合流すると、わいきゃいと騒ぎはじめた。 「……あの、先生」 「どうしました、エルディオン?」  少年は眩しいばかりに輝く瞳で、加藤を見上げている。  ……その視線が、加藤にはちょっとだけ心苦しい。エルディオンは勘違いをしている。彼のまだ小さな世界では加藤は勇者(ヒーロー)なのかもしれないが、実際はただの地方勤務の神父でしかなく……妻と子供を守れなかった、ダメな旦那でしかないのだから。  だけど、そんな事をわざわざ口に出す必要もあるまい。  せめてこの少年が世界の大きさに気づくときまでは、頼りないながらも勇者でいようと加藤は思っていた。 「先生は、せーどー騎士にはならないんですか?」 「え、ええ、まぁ……」 「どうしてです? 先生だったら超かっけー騎士になれるのに」 「うぅん……、……どうも私は剣とかが苦手で、あまり得意ではないんですよ」 「えー!」 「はは、……私には、向かないからね」  やんわりと加藤は微笑んだ。      §  双子精霊と出会ってから一年が経った。  精霊にとっての一年間がどれほどの重みを持っているのかは、よくわかっていない。なにせ寿命でさえ個人差が激しいのだ。力の強い精霊は長い寿命を持つ一方で、生まれてすぐに消えてしまうような短命な精霊もいると聞く。四大のひとつである風を属性にもつリリアナとレミーは決して弱い精霊ではないだろうが……どんなに元気に見えても、ふわふわと消えていなくなりそうな儚さを加藤は感じていた。  それだけこの一年間が幸せだった、ということなのかもしれない。  幸せだからこそ、幸せに対して不安を拭い切れないのだ。かつて妻子を失ったときのように……彼女たちもなんの前触れもなくいなくなってしまうのではないかと、そんな漠然とした恐怖を心のどこかに抱いてしまう。  ……そもそも彼女たちとの時間に、ここまで充足感を得ていることが不思議だった。  加藤が双子を育てているのはあくまで彼女たちを一人前の精霊へと導くためだ。神父としての職務であって、深い意味などないはずなのだ。  なのに、積み重ねられた日々は、徐々に加藤を惑わしていく。 「ねぇ、先生ってば!」 「え――」  ハッとする加藤。  気がつけば、リリアナがむーっとした顔で、レミーはどこか心配そうな表情で、こちらを見つめてきていた。 「……先生、大丈夫?」 「ぼーっとしてた! 何度も呼んだのにっ」 「……ええと」  時刻は、夕方。  定期的に開催している、彼女たちに精霊としての自覚を促すための勉強会。書棚に仕舞われていたクラリス・パルス・スミス十二世著『精霊学入門』――神父見習い時代に勉強のために購入した初心者向けの精霊教本――を参考に、わかりやすくまとめたミニテキストを双子に読ませていたのだが――  その最中に、あろうことか呆けていたらしい。 「すいません、少し考え事をしていました」  あわてて取り繕う加藤に、リリアナはぷっくりと頬をふくらませた。 「むぅ、つまらない! 遊びに行こうよ、先生。今夜はお祭りなんでしょ」 「お祭り……楽しそう」  レミーは窓の外を――村の中心を見る。ここからでは見えないし音も聞こえないが、今頃は夏祭りがはじまった頃であろうか。  そう。今夜は一年に一度の夏祭りなのだ。  昼間の勉強会でもエルディオンをはじめ、多くの子供達が実に楽しそうに今夜の予定を立てていた。もちろんリリアナとレミーも同じで、去年は人混みによる彼女たちへの影響を考慮した加藤が自粛させた分、特に楽しみにしていたのだが…… 「お祭りに行くのは、ちゃんと今日の勉強を終わらせてからです」 「ぼうっとしてたくせに」 「う……」 「ホントは先生もお祭り行きたくてしょうがないんじゃないのー?」 「そ、そんな事はありませんよ」 「ホントにぃー?」  じーっと、疑わしそうに見てくるリリアナ。  まぁ楽しみにしていたのは事実である。お祭り自体は何度も経験しているが、今回はリリアナとレミーも一緒なのだ。ふたりと一緒に見て回るお祭りは、さぞや楽しいことだろう。……だが、さすがにぼうっとするほどではないはずだ。まさかの大事な勉強会での失態に、疲れがたまっているのかなと疑問に思う加藤だった。  それはともかく。 「むー」  リリアナもレミーも、さっきからそわそわしっぱなしだ。もう完全に思考が勉強会から夏祭りに切り替わってしまっている。このままでは、どうにも勉強に身が入りそうにもない。 「もう、しかたありませんね」 「え――」  期待がこもったふたりの視線に、加藤は苦笑した。 「……わかりました。行きましょう、お祭りへ」  リリアナとレミーは顔を見合わせると、嬉しそうに笑顔を見せた。 「ただし、返ってきたら勉強会の続きですよ」  リリアナとレミーは、しょんぼりと肩を落とした。  ――夏祭りは、楽しかった。  この日のために購入した浴衣を着て三人揃って街へ繰り出していく。実のところ、神父としての生活は豊かではなく、まして食い扶持がふたりも増えたためにますます家計は火の車となっているのだが――今日くらいは、思いっきり贅沢をしても許されるだろう。  露天につくと、さっそく双子は大はしゃぎだ。  焼きそばを食べては「まずーい」ときゃっきゃと笑い、わたあめをかじっては「ふわふわ……」と頬をゆるめ、金魚すくいは……金魚を飼う余裕はないので諦めてもらい、かわりにヨーヨー釣りに挑戦してもらった。そこにちょうどエルディオンとその友達がいて、しかも双子の浴衣を指さし「なにそれだっせー」と大笑いするものだから、リリアナが怒りだしてさぁ大変。 「どっちが多く釣れるか勝負しようぜ」 「のぞむところよ!」  でも結局一個も釣れずに引き分け。  その後も射的や型抜きやらで競っていたが、いつの間にか勝負は有耶無耶になり、最終的に仲良くジャガバターを食べていた。加藤も懐かしくなり、子供の頃以来に食べてみたのだが……なんというか、うん、マーガリンだと思う、これ。  他にも、変なお面を買ってあげたり、くじ引きを引いてみたりと、お祭りを存分に堪能した。途中からはエルディオンたちの分も加藤がお金を出していたので、ものすごい勢いでお財布がしおれていったが――まぁ、子供たちの笑顔の対価だと思えば安いものだ。  ……それは本当に、優しい時間だった。  いつまでもこの時間が続けばいいと――そんな夢を見てしまうくらい、穏やかで、心が温まる、素敵な時間だった。  ――だけど、祭りはいつか終わるものだ。  エルディオンたちと別れた、帰り道。  月明かりの下を三人は歩いて行く。  その途中、湖による。あの日――三人が出会いを果たした思い出の場所だ。湖面には月がゆらめき、祭りの喧騒さえ届かない静かな世界をたくさんの蛍が飛び交っている。  ついさっきまで活気の渦にいたせいか、なおのこと、幻想的な光景だった。 「――きれい……」  リリアナとレミーは感嘆の声をもらす。  ふたりのひとみはキラキラと輝き、目の前の美しい光景にすっかり魅入られている。かつて彼女たちが生を受けたときとは異なる神秘性に、加藤も見とれて――そして、思う。  一年と少し前、ふたりはこの地で誕生した。  当初は自我さえあやふやで、すぐ周りのものに影響される危うさを持ち合わせていた彼女たちだが、今では美しいものを美しいと感じ、素直に感動できるまでに成長した。  彼女たちは、本当に、健康に育っている。  そんなふたりを見守りながら、しかし加藤の胸中を占めるのは寂寥の念だった。 (……いつまでも、こんな時間は続かない)  いや。続いてはいけないのだ。  彼女たちは精霊。人間ではない。その証拠に、リリアナもレミーも一年前と比べて外見的な成長はほとんどないのだ。この年頃の子は成長が早い。このまま育たないようなら、彼女たちが人間ではないと――精霊であると、正体を明かす日も遠からずくるだろう。 (……でも、きっと、みんな受け入れてくれる)  夏祭りや勉強会での様子を思い出し、加藤は思う。  リリアナもレミーも、きちんと仲間として受け入れられている。正体が魔族とかなら別だが、精霊――人々が敬意を寄せる存在の一員なのだ。彼女たちが迫害されるようなことには、もうならないだろう。 「――」  周囲から人ではなく精霊として見られるようになれば、彼女たちの在り方も変わっていくはずだ。それは精霊として正しい道へと歩み出すことにほかならないのに――どういうわけか、それを寂しいと思ってしまう自分自身に、加藤は気がついていた。 (私は……)  まるで取りこぼしてしまった何かが、今の生活にはあるような気がして――……その先の答えに、加藤は慄いた。それは正しいようで、だけど違っていて、当たり前のようで、あってはならないことのように感じられたからだ。 (私は――この子たちを、代わりにしているのか?)  生まれてくるはずだった子供をふたりに重ね合わせ――決して埋まるはずのなかった心の穴を塞ごうとしているのではないか。意識してのことではない。ふたりを育てようと思ったのは純然たる義務感からだ。なのに……今では、別の感情に支配されつつある。 (……これで、いいのか?)  彼女たちと親子ごっこを続けていくのは、きっと楽しいだろう。得られるはずだった日々は加藤にたしかな幸福感を与えてくれた。リリアナとレミーだって、この甘い時間に浸り続けることを望んでいるはずだ。  だけど……  だけど。 「ねぇ、先生。……私たち、ここで生まれたんだよね?」 「――そうだね」 「私たちは……精霊……」  ゆらめく月明かりを見ながら、ふたりは何度となく「精霊」と小さな声で繰り返した。  その様子は、まるで精霊という言葉と意味を自身の中に呑み込んでいくかのようで――加藤の胸はチクリと痛む。 「ねぇ先生。私たちって、精霊なんだよね?」 「……うん。そうだね」 「精霊って、キセキを起こせるって本当?」  キセキ――精霊術。  今はまだ精霊としての自覚が薄いためか、加藤は彼女たちが術を起動させたところを見たことはないが――精霊術の行使は一人前の精霊となるためには必須であり、彼女たちにもおのずとその機会が訪れるだろう。  リリアナとレミーが、はじめて使うことになるだろう精霊術。  それはいったい、どんなキセキなのだろう。 「私たちは風の精霊なんだから、こう、ぶわーって風とか起こせるのかな?」 「うーん……どうだろうね」  言葉を濁す加藤に、レミーは思い出すように口を開く。 「……精霊がキセキを起こす方法は、ふたつ、ある……。自分たちでえーてるにかんしょうするか、精霊じゅつしに協力してもらうか……」 「よく知ってるね」  まだそこまでは教えていなかったのだが……いったいどこで覚えてきたのだろうか。  精霊が生きるために必要なマナと、その存在を高めるために必要な信仰。  それらを得るために精霊は人間や亜人と交感し、力を貸す。精霊術師と精霊の関係はお互い様であり、双方の利益のための一時的なものだ。  もちろん――例外もあるのだが。 「ねぇ、先生」 「……なんだい?」 「ケイヤクしよ?」 「――ぶっ」  むせる加藤。 「げほ、げほ……け、契約って……」 「ケイヤクすれば、私たちもキセキができるようになるんでしょ? 先生だって!」 「いや、そうかもしれないけど……でも、なんでいきなり」  精霊契約――  精霊術師と精霊が共にあることを誓い、専属的に交感を行う関係。それが契約だ。  精霊は契約相手のマナを独占でき、精霊という種ではなく個人に向けられる信仰は格段にその存在を高次へと至らしめていく。精霊術師もまた、自分専属であるが故に可能なより深い交感によって強力な精霊術を行使可能となる。  いわば精霊交感の完全上位互換――であるのだが、もちろん、すべてにおいて万能なわけではない。  契約するということは精霊にとっては死活問題に等しいのだ。精神生命体である精霊は契約相手の精神の影響を受けすぎてしまう。心優しい精霊が極悪人とうっかり契約してしまったがために道を踏み外してしまった――なんて話も聞くくらいだ。  そういう危険を、この子たちはわかっているのだろうか? 「リリアナ。レミー。君達は、契約というものを本当に理解していますか?」  勉強会のような口調の加藤に、双子はむぅっと眉尻を釣り上げた。 「してるよー。こーかんはいきずりの関係で、ケイヤクはコイビト同士みたいなものだって、本に書いてあったもの!」 「……」  自信満々に胸を張るリリアナ。……そういえば『精霊学入門』にそんな例え話が乗っていた。なるほど、情報源はそんな所にあったわけだ。今度からは勝手に書棚をあさられないように注意しようと加藤は思った。 「……わたし、先生のこと……好き」 「わたしもー!」 「ははは……ありがとう。ですが、好きだらといって、簡単に契約を結んではいけませんよ?」 「えー、なんで?」 「それはですね。契約とは、とても大事なことだからです。ふたりが本当に、心の底からこの人とずっと一緒にいてもいいと――そう思える相手ができたときに、契約のことを考えてください」 「先生と、ずっと、いっしょ……」 「……どこか行っちゃうの?」  不安そうな少女たちの瞳。  加藤は一瞬言葉に詰まるも――すぐさま安心させるように、微笑んだ。 「大丈夫。どこにもいかないよ」  ――少なくとも、君達が大人になるまでは。 「……うん」  ふたりは甘えるように、ぎゅっと加藤へ抱きついてくる。  ふわふわの銀髪を、加藤は優しくなでてやった。      §  平和な日々だった。  朝が来て、昼が来て、夜が来る、特になんということもない平凡な日々の連なり。  喜び、怒って、哀しんで、楽しんで、そんな当たり前の日々が、とても幸せだった。  そんな毎日がずっと続くものだと――なんの根拠もなく、思い込んでいた。      §  ――爆発音が響く。  眠りより叩き起こされた加藤は慌ててベッドから飛び下りると、きょろきょろと周囲の様子をうかがう。家に特に異変はない。そうなると、外か。加藤はごくりと息を呑むと、教会の外へと駆け出して……その光景に、唖然とした。 「な……」  村の中心からいくつもの黒煙が昇っている。月の明かりを陰らせ、星々の瞬きを隠すそれらは、まるで空を閉ざすかのようにもくもくと増え続けている。  そうして、再度轟音がして――空は明るくなっていく。  煌々と燃え盛る、炎によって。 (……これは)  ただごとではない事態に、加藤の意識は鋭さを増していく。  爆発もそうであるが――ちりちりと肌を焼くような何かを、村の方から感じるのだ。ここにあってはいけない何か。穏やかな日常をあっさりとひっくり返してしまうような何かが、村では起こっている。 「……」  考えられるのは――野盗の襲撃か。  風の都をはじめとした大都市ではありえないことだが、地方の村では野盗の類に襲われるということが未だにあるのだ。まして教会の権威も行き届かず、王国騎士団も駐留していない田舎村である。野盗にとっては絶好の得物だろう。  もちろん、村もそのことは十分に承知だ。  だから青年たちは自警団を組み、野盗においそれと襲われないように対処する。だがそれでも限界というものがある。相手は暴行と略奪に慣れ親しんだ荒くれ者だ。基本、気のいい村の若者たちで結成された自警団と本気でぶつかり合った場合――その勝敗がどちらに傾くかは、火を見るよりも明らかだ。  だから、それを覆すには別の何かが必要だ。  たとえば――精霊教会から派遣された、神父の助力。 「――っ」  加藤は強く拳を握ると、急いで自室へと引き返す。  神父服を羽織り、――しばしの躊躇の後、ベッドの下からひとつの箱を引きずりだした。  ……剣。  そこに隠されていたのは、加藤がかつて愛用していた騎士剣だった。 「……」  手にした重みに、苦渋の表情を浮かべる。今まで定期的に手入れはしていたものの、やはりこのまとわりついてくるような重みには到底慣れることはできそうにない。物理的にも、精神的にも、だ。 (……また、か)  最後に実戦で使用したのは三年前――自警団と協力し野盗を撃退したときだ。  その時は結局、相手を無力化しただけで命まではとらなかった。大成しなかったとはいえ騎士団で正式に戦闘訓練を積んだ加藤にとって野盗を制することは容易かったし、命乞いをする彼等を斬ることがどうしてもできなかったからだ。  結果として、野盗たちは王国騎士団に連行されることとなった。  ――……どうも私は剣とかが苦手で、あまり得意ではないんですよ。  ――私には、向かないからね。  いつかエルディオンに言った言葉は謙遜でもなんでもない。  何故なら、加藤マルクは騎士崩れだからだ。  騎士を夢見て、故郷を飛び出し、聖堂騎士団の従士になって――……任務で赴いた野盗の討伐で、はじめて、人を殺した。  その、感触。  今でも鮮明に思い出す、命を削り取る感覚。人という生き物はこうも簡単に死んでしまうのだと、否が応でも思い知らされた。  それから何日も眠れない夜が続いた。  はじめて戦場に立った者が大なり小なりかかる葛藤を、加藤はついに乗り越えることができず――騎士の道を断念した。  ――お前は戦いには向いていないな。騎士をやるには、優しすぎる。  騎士団を去るとき、お世話になった準騎士にいわれたことだ。  それから、加藤は神父の道を志した。  誰かの役に立ちたい。誰かを助けられるような人になりたい。その道は、なにも騎士だけではないはずだ。新たな夢を抱き帰郷した加藤は、幼馴染と再会し、心の安らぎを得て、失い、そうして念願の神父になった。  エルディオンが夢見るような勇者なんて、どこにもいない。  加藤マルクは騎士という名が背負う重荷に耐えられなかった凡人でしかないのだから。  それでも―― 「……」  それでも、平穏を脅かすような輩がいるのなら。  加藤が決意を新たにした――その時だ。 「……せんせぇ……」  か細い声に振り返ると、リリアナとレミーが青白い顔で立っていた。異様な空気を肌で感じているのだろう。彼女たちの全身は震え、まるでとびきり怖い夢を見たあとのように、ふたりとも生気がない。 「……先生、どっか、行っちゃうの?」  不安なのだろう。すがりつくような声だった。 「――大丈夫」  加藤はなるべく穏やかな顔と声を意識し、安心させるように優しく言った。 「ちょっと村の様子を見てくるだけです。すぐに戻るから、ふたりとも、絶対に家から出ないでください」 「……でも」 「いいですね」 「……」  不安そうな表情のまま、リリアナとレミーはこくりと頷いた。  彼女たちは精霊だ。加藤とは別種の胸騒ぎを――あるいは直感に近い何かを感じているのかもしれない。だが、その言葉に耳を傾けたら最後、加藤はここから動けなくなる。いや、それどころかふたりを連れて逃げ出してしまう――そんな予感に、双子の言葉をこれ以上耳にすることはためらわれた。  加藤マルクは、教会の威光を教え伝える神父である。  村に異変が起きているのなら、何があろうと、逃げ出すなんてあってはならないのだ。 「これは――」  村に駆けつけた加藤を出迎えたのは、破壊の限りを尽さんとする男たちと、彼等に蹂躙された自警団の姿だった。男のひとりが剣を振るう。もはや戦意を喪失し逃げ惑うしかなかった自警団員は背中から派手に斬り裂かれ、前のめりに倒れ伏した。  最後に、顔を上げ――  その視界にひとりの神父の姿を捉えると、安堵したように息を引き取った。 「……!」  後を託された加藤は、かつてないほどの怒りをうちに秘め、男たちへと剣を向ける。  だが、男たちの正体に気がついたとき――その戦意が、わずかに揺らいだ。何故なら、彼等はここにいるはずのない――いてはいけない男たちだったからだ。 「――どう、して」  乾いた声がこぼれる。  見知った光景が、見知った人々が一方的に蹂躙されていく悪夢。その中心で……我が物顔で平穏を犯していくのは、いつか見た、あの野盗たちであった。 「――おやぁ、誰かと思えば神父さんじゃないっすか」  野盗のひとりがこちらに気づき、下卑た笑みを向けてくる。その瞳は大きく見開かれ、焦点は虚ろで定まっていない。まるで気が触れきったしまったかのようで、とてもではないが正気とは思えなかった。 「お久しぶりですねぇ、その節は、どーも」 「……なんで」  かすれた声で、加藤は返す。  彼等は王国騎士団により投獄された、はず、なのだ。こんな所にいるはずがない。  まさか、王国騎士団から脱獄してきたとでも言うのか。 (――ありえない)  聖堂騎士団と双璧をなす王国騎士団である。野盗ごときがどう頑張っても脱獄なんてできるはずがない。だが……目の前にいるのはたしかに彼等だ。三年前、涙を流しながら命乞いをし、改心を誓った彼等の姿を、加藤ははっきりと覚えている。  だからこそ――目の前の光景が理解できなかった。 「……俺たちがここにいるのが、そんなに不思議か?」 「――っ」  別の野盗が言う。大剣を担いだ大柄の男だ。こちらは先程の野盗と違いそれなりに落ち着きは残っている。だが、その口調、挙動の端々に明らかに他者を見下すような傲慢さが見え隠れしていた。 「……君達は、悔い改めたのでは、なかったのか!」  血を吐くような加藤の叫び。  それは祈りだ。これは何かの間違いなのだと、もはや完全に断ち切れたと理解していながらも、わずかな可能性にすがる――憐れな祈り。  だが。 「――ひは!」 「!」 「ひひひはは、ははははははははははははは……!!」  突如として野盗のひとりが奇声を上げる。  それは瞬く間に男たちに伝播し哄笑の渦へと変化する。自分を取り囲むように広がっていく得体のしれない威圧感に加藤は思わず後退りかけ――気合で踏みとどまった。気遅れだけはするわけにはないかない。 「ひゃははは……、馬鹿かお前は」  腹をよじるように笑っていた野盗は、嘲るような目線で加藤を見る。  間抜けすぎる、神父様を。 「改心なんてするわけねーだろ! 牢屋でずっと思ってたぜぇ、俺たちをコケにしやがったテメェらに、どう落とし前をつけてやるかをよ!」 「……」  呆然と、加藤は野盗を見つめる。  憎悪をむき出しにしている彼等。彼等は最初から反省などしていなかった。そんな上っ面の言葉を馬鹿正直に信じて助けてしまった。その結果が今日の日だというのなら、つまり……この惨劇は、加藤自身が招いた結果なのではないのか。 「……どうして」 「あ? 俺たちは野盗だぜ。襲って奪って犯して眠る。それが当たり前なんだよ」  違う。男は勘違いをしている。  加藤の問いかけは、どうして彼等が改心しなかったのか、ではない。  どうして、彼等の戯言を真に受けてしまったのか、だ。  しかし状況は、加藤に心の整理をする時間を与えてはくれなかった。 「そういうわけだ。――借りは返させてもらうぞ、神父」  大柄の野盗が大剣を振りかぶり襲い掛かってくる。加藤は急いで気持ちを切り替えると応戦する。剣が閃き、刃金と刃金が打ち合い火花を散らす。だが予想を超える相手の膂力に加藤は負けた。完全に押し負け、後退する。 「――!」  すると今度は別の野盗が剣を突き出してくる。――速い。なんとか身を反らし回避するものの、滅茶苦茶に振り回される剣捌きに反撃の糸口すら掴むことができず、加藤は防戦一方へと追い込まれてしまう。  力に速さ。いずれも、常人のものではなかった。 (強い――強くなっている!)  三年前とはまるで別人のような野盗たちの戦闘力に、加藤は驚きを隠せない。 (これは、まさか、マナを!?)  マナで身体能力を強化している――!?  かつての彼等はマナをまともに扱うことはできなかった。だからこそ、身体能力を強化することができる加藤は彼等を圧倒し無力化することも可能だった。もしも同じ条件での戦闘となれば――いくら技量が優っていても数の力に抗うのは厳しかった。 (――以前の彼等とは、違う……!)  ぎぃんと、一際大きな火花が散り――加藤の剣は、弾き飛ばされた。 「く……!」  なんとか間合いを取ると、息を整えながら野盗たちを睨めつける。  確認できるだけでも、数は六人。もしも投獄された野盗が全員脱獄したというのならその数はもっと増えるだろう。彼等に共通していることは、戦闘力の増加と様相の変化だ。三年前に戦ったときは彼等は粗暴なだけの男たちだった。だが今は違う。全員が全員、正常ではない。手にした力に振り回されている――そんな感じだった。 「……どうだ、俺たち、強くなっただろう!」  興奮を露わに野盗は吠える。 「マナっていうの? ずるいよなぁ神父さん。こんなインチキしてたなんてさ!」 「どうして、お前たちが――」  と、その時だ。  ――ひらり、と。空から黒い羽が舞い落ちてくる。  見上げると、そこには翼を羽撃かせる青年の姿。直接見たことはなかったが、ソレがいったい何者であるか、神父である加藤には理解することは容易かった。 「……魔族」  ――瞬間、すべてのピースがひとつに繋がる。  野盗たちを開放した者。  野盗たちに力を授けた者。  つまり…… 「お前たち、まさか――!」  野盗のひとりが何事かを唱えると大地が突如として隆起する。ぼこり、ぼこりと歪な音を立てえぐり出された岩塊が加藤へと射出された。全部で三つのそれを、避けて、避わして、――しかし最後のひとつは胸部へと直撃する。加藤は血反吐を吐きながら、無様に地面を横転した。  ……それは、間違いなくキセキだった。  自らの欲望で世界を侵す――邪悪なるキセキ。……魔術。 「……ぐ、ぁ」  よろよろと、立ち上がる。  肋骨が折れたのか、息をするだけで痛みが走る。 「どうして……魔術師なんかに」  それでも問わずにはいられない。  魔術師になるということは魔族や魔界に魂を売り渡すようなものだ。もはや人として正しい人生を送ることすらできないだろう。だというのに……そこまでして力が欲しかったのか。そこまでして暴力を振るいたかったのか。そこまでするほど、加藤が、憎かったのか。 「――お前たちは!」  叫びを上げた、直後だった。  突如として後頭部に強い衝撃を受け、加藤は力なく地面に倒れこむ。 「……」  焼けるような熱さは、流血しているせいだろうか。  急速に暗くなっていく視界の中、加藤は力を振り絞って振り返る。手に棍棒を持った魔術師が、下卑た笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。 「ははは……! おいおい、もう終わりかよ神父!」 「……力の差が付きすぎたな。つまらん」 「えー、もうおねんねでちゅかー。もっと抵抗してくれないと困るっすよ。俺まだ憂さ晴らしも終わってないんすから」 「それにしても、こいつも馬鹿な奴だな。あんな演技にころっと騙されて」 「ねー、俺が殺っちまってもいいっすよね? いいっすよね!」 「……ん。待て。あの方がお呼びだ。行くぞ」 「神父はどうするんだ?」 「さくっと殺っちまいますから、いいっすよね?」 「……いや、待て」  霞んでいく意識の中、魔術師たちの声だけが、やけによく響いていた。 「トドメを刺さなくていいんですかい?」 「この様子では長くは持つまい。それに万一生きていたとしても、その時は……」 「その時は?」 「――――……より深い絶望を味わうだけだ」 「……」  ――……どれくらいの時間が過ぎたのか。 「つ――」  吹きつける熱風に、加藤は意識を取り戻す。 「……――っ」  まず目の前に飛び込んできたのは炎だ。  炎。炎。そして炎。  村は燃えていた。人は殺されていた。見渡す限りが――すべてが火の海に飲み込まれていた。もう村の面影すら伺えない。加藤が守りたかったもの。大事にしていた平穏は、たった一晩で崩れ落ちてしまった。 「あ、ああ……」  力なく、加藤は立ち上がる。全身を激しい痛みが襲うも、そんな事を気にする気力すらなく――まるで悪夢の中を彷徨うように、ふらふらと、足を動かす。  激しく燃える家々。  立ち上る黒煙は空を埋め尽くし、月の明かりも星の光も届かない。淀んだ空気は煙と血臭が混ざり合っており、肺に入る度に激しい嘔吐感をもよおした。  ――と、何かにつまずき、転ぶ。 「――」  それは、小さな亡骸だった。  昨日までリリアナやレミーとも遊んでいた……勉強会にも参加していた女の子。もはや炭化している小さな体に、加藤はすがりついて――……声もなく、泣き崩れた。  と―― 「お。神父じゃねーか、まだ生きてたのかよ」  ゆっくりと声の方向を振り返れば、そこには魔術師がひとり、血みどろの剣を手に立っている。その男は大股歩きで近寄ってくると、加藤の胸ぐらを掴み引きずり上げた。 「ぅあ……ぁ……」 「ぷは――!」  魔術師は嗤う。  何故なら引き寄せられた神父の顔は蒼白だったからだ。全身には力が入っておらず、事態を受け入れきれてないのかその視線はどこか虚ろだ。三年前、自分たちを愚弄した男の姿はすでになく――魔術師は踏みにじられた自尊心が満たされていくのを実感した。 「見えるか、神父。このザマが」 「……」 「昼間まで平和だった村が、いまや火の海だ。いっぱい死んだんだぜ。今も死んでる。可哀想になぁ……あの時、素直に俺たちを始末しとけば、こうなることはなかったんだ」 「……」 「わかってるのか、神父。――――お前が、殺したんだよ」 「……ぁ」 「あん?」  否定するように、力なく、加藤は首を振る。目尻からは涙が溢れて止まらない。 「ぷ――ひゃははははは! いい大人が、ガキかよ!」  突き飛ばされる。  加藤は自らを支えることもできず、へたりと尻餅をついた。  そんな情けない姿が不満なのか――魔術師は一転して苛立ちの表情を浮かべる。 「おーい、神父よ。もう少しやる気出そうぜ」 「……」 「抗えよ。抵抗しろよ。俺を楽しませろよ。なぁ、おい」 「……」 「――チッ」  魔術師は舌打ちすると、少女の亡骸へと向かっていく。  そして、加藤を挑発するように――その頭を踏みつぶした。 「――ぁ」  骨を砕く音とともに血と眼球と脳漿が飛び散り、魔術師は慌てて飛び退いた。 「うっわ、汚ったねぇ。意外と中身が残ってんのな。ったく、こんな死に方だけはしたくないぜ。――なぁ、お前もそう思わねーか、神父?」  まるで友人に話しかけるような気安い口調で、魔術師は振り返る。――彼は、爽やかとさえいえるような笑顔を浮かべていた。 「――」  加藤はもはや、声すら出ない。 (……これが……)  これが、人のやることなのか。  ただ他者を虐げるためだけの蹂躙。ただ快楽を求めるためだけの殺戮。情けや慈愛とは一切無縁の、己の欲望だけを剥き出しにしたその生き方。  そんな生き方は、人のものではない。  そんなものが人であって、――――たまるものか!! 「――、――!」  血が滲むほど唇を噛み締め、加藤は立ち上がる。 「お、なんだなんだ。少しはマシになったか?」  嬉々として魔術師は剣を構える。  だが――遅い。  加藤はその懐へあっという間に入り込むと、拳にありったけの力を込めて魔術師の顔面を殴打する。手に伝わるのは、鼻骨を砕いた感触。魔術師は小さな悲鳴を上げると無様に地面を転がり、両手で顔を押さえながら呻いた。 「うご、ぁ……て、……てめぇ!!」  加藤の動きは止まらない。衝撃で放り出された魔術師の剣を手に取ると、男の首筋へとピタリとあてがい――動きを止めた。 「は……はは」  魔術師は、乾いた笑い声を漏らす。 「じょ……冗談だよ。冗談。そんなに怒るなって。な!」 「……」 「悪かったって。反省してる。本当に、今度こそ。申し訳ない。ごめんなさい!」 「……」 「――だ、だから、命だけは、助け――」  その瞬間、魔術師の首は宙を舞った。  首から血が吹き出し、白い神父服を変色させていく。 「――」  転がった首から先を、見る。  ソレは人のようで人ではない。例えるなら――悪魔。赤い目を爛々と輝かせ、耳元まで届かんという大きな口を残忍に歪ませた悪魔の首だった。 「……」  加藤は静かに歩き出す。  その足取りは相変わらず拙いものであったが、先程までの力の無さはすでにない。しっかりと大地を踏みしめるその姿は揺るぎない強念を抱いた男のものだ。胸中を占めるたったひとつの感情に突き動かされるようにして、昏い眼差しで加藤は戦場を彷徨い歩いていく。  そうして―― 「ぁ、あああああああああああああ!!」  吠えた。  彼の視線の先には、哄笑を上げ破壊を愉しむ魔術師の姿。今もまた、その剣で誰かの命を奪い去った。その悪魔のような所業を許せず加藤の意識は真っ赤に染まる。気がつくと全力で駆け出していた。 「!? て、てめぇ、神父――」  こちらに気づいた魔術師が構えを取るも、一瞬でその首を刎ねた。 「――な!?」  側にいたらしい別の魔術師が突然の事態に驚愕する。その間抜け面を間髪入れずに切断する。戦場を走る。魔術師と相対する。撃ち込まれた水の魔術を避け剣を突き立てる。戦場を走る。今度は二人組だ。炎と大地の魔術で生み出された溶岩の弾丸を掻い潜り、ひとりの首を刎ねた。続いてもうひとりへ打ち込もうとし――相手もまた剣を抜き放つ。打ち合いが続くも、スキをつき腕を切り落とす。悲鳴を上げる魔術師の喉へと剣を突き立て黙らせた。  ――と、背後から気配を感じ咄嗟に飛び退いた。  間合いを確保し振り向くと、大剣を振り回す巨漢の魔術師の姿。そいつは咆哮すると、まるで仲間の敵を討つかのように怒り迫ってくる。まるで人間の真似をするような魔術師の姿に、加藤もまた怒りがこみ上げ、真正面から打ち合った。  剣が砕ける。  魔術師が吠える。  加藤は胸元のロザリオを強引に引きちぎると、マナを流し込み硬度を強化、魔術師の胸元へと突き立てる。筋肉を割く感触が伝わってきて、加藤はロザリオを通して渾身のマナを叩き込んだ。 「――、ごふ……」  巨漢の魔術師は血を吐いて倒れた。  その首を、十字架を叩きつけるようにして切断する。その衝撃でロザリオは音を立ててへし折れた。 「――」  根本から折れた十字架を、加藤は見つめる。  もう武器としても役に立たないことを悟ると、投げ捨てる。剣は折れた。十字架は折れた。だがまだこの手足がある。魔術師共を皆殺しにすることは可能だ。  まだ見ぬ敵を求め、加藤はゆらりと歩き出す。  だが――足腰に力が入らず、数歩もいかずに膝をついた。 (……あれ)  ズキリと後頭部が痛み、ゆっくりと触ってみる。  ……恐る恐る確認した手のひらは、べったりと、真っ赤な血に染まっていた。 「――」  戦いによる激しい運動が傷を悪化させたのか――こうしている今もとめどなく流血が続いている。意識すると弱いもので、さらに折れた肋骨までもが悲鳴を上げはじめる。血とともに意識まで流れ落ちていくのを感じ、加藤は崩れるようにして倒れ伏した。 (そんな……)  無様に這いつくばったまま、もはや指一本すら、まともに動かせない。  これが、結末。  あまりにもあっけなく、加藤マルクの戦いは終わったのだ。 (……私は――)  耳に届くのは、この期に及んで村が蹂躙されていく音。  人の悲鳴。消える泣き声。下卑た嗤い。爆発音。それらすべてが村の断末魔であり――まだ助けられる誰かがいて、倒すべき敵がいることを教えてくれる。  なのに、力が入らない。  意識が闇へと沈んでいく。 「――」  ふいに、こちらを覗きこんでいるふたりの人影に気がついた。それは、かすんでいく視界でも見間違うことはない――加藤の大切な、ふたりの少女。 「……リリアナ。……レミー」  どうして双子がここにいるのか、わからない。  だけど、必死の力を振り絞って、加藤はふたりに声をかける。  逃げろ、と――  その言葉が届いたのかはわからないまま、加藤の意識は、沈んでいった。 「――……――」  囁くような言葉を残し、加藤は気を失った。  リリアナとレミーは、彼の言葉をしっかりと受け止め、こくりと頷く。  その直後だ。 「ひゃは――」  甲高い声と共に魔術師が現れる。気絶した神父と、彼に寄り添う小さな女の子たち。そんな格好の得物に、魔術師は足取り軽く近づいてきた。 「ひゃはははは」  まずはガキどもをぶっ殺してやろう。  どんなふうに解体(バラ)してやろうか。腕か、足か、右か、左か。一気に殺すよりは嬲り殺そう。首を斬る前に舌を引きちぎり耳を削ぎ目玉を潰す。流れる血は何色だろう。いったいどんな声で泣き喚き、憐れな最期を遂げるのか、想像するだけで興奮が収まらない。  そんな事を考えていると――少女たちがこちらに気づき、振り返った。  青と赤の瞳。  恐怖に濡れているはずのその瞳は、しかし――  ――風が唸る。 「――ひゃは?」  手にした剣ごと腕が飛んで行く。足に痛みが走り視界が揺らぐ。それは次いで袈裟懸けに、最後は首筋に走り――自分に何が起きたのか理解できないまま、魔術師は斬風(かぜ)によりバラバラに解体されていった。 「……」 「……」  リリアナとレミーは見つめ合う。  青と赤の眼差しが交錯し、――ふたりの瞳に互いの姿が映り込む。銀の髪を長く伸ばした少女の口元に浮かぶのは嘲笑。そして、その瞳に宿るのは、果てのない憎悪だった。 「――きゃは」 「きゃはは、ははははははははは――!!」 「きゃははははははははははははははははははははははははははははは!!」 「きゃはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」  哄笑が轟く。  同時に走る烈風が炎を薙ぎ、戦場を包み込む暴風とかしていく。  そこにはもはや、いつもの精霊少女の姿はない。  ――狂嵐の精霊。  様相を一変させた彼女たちは、感情のままに精霊術を解き放っていく……!  ――――それは意識するまでもなく、果たされていた。  きっかけがなんであったのか、少女たちは知らない。  いつ頃から結ばれていたのかも、わからない。  だが、たしかにその絆は存在している。  精霊契約。  精霊術師と精霊。彼の手は彼女たちの手。彼女たちの足は彼の足。彼は彼女、彼女は彼。  すなわち、加藤マルクの怒りと悲しみは、リリアナとレミーの怒りと悲しみでもあった。 「きゃはははははははははは!!」 「きゃはははははははははは!!」  死の風が渦を巻き、乱れ飛ぶ風の刃は正確に魔術師だけを斬り裂いていく。  その度に彼女たちは哄笑を上げ、感情を剥き出しに笑い続ける。  胸騒ぎに耐えられず家を飛び出して――村のみんなを一方的に殺戮する敵を、ふたりはずっと目に焼き付けてきた。そして学んだ。敵を倒すときは、どういう顔をすればいいのか。激しい憎悪を、どのようにして吐き出せばいいのかを。  それに従い、ただ耳障りな声を上げ続ける。  だが―― 「――!」  突然、上空からマナの衝撃波を叩きつけられる。避けることもできなかったふたりの小さな体は軽々と宙を舞い、地面に衝突した。全身を打ち付け、激痛に呻く。 「……ぅ」  痛みを堪え、うっすらと目を開けると――舞い落ちてくる黒い羽が見えた。  羽撃く音に空を見上げる。  戦火の夜空を背景に――黒翼の魔族が、忌々しげにこちらを見下ろしていた。 「――やってくれたな」  低く唸るような魔族の声には静かな苛立ちが込められている。  相手に対しただ感情を爆発させるのではない。煮えたぎるように激しいくせに、どこまでも静かで鋭利なそれは、純粋な殺意――ふたりが今まで向けられたことのない感情の渦だった。 「きゃはははははははは!!」  それでも、嗤う。  自身の恐怖も悲しみも何もかもを怒りに塗り替え、目の前の男へと叩きこむ。  放たれた風の斬撃は、しかし男の放つ風の衝撃波にあっさりと打ち消されてしまう。突風に少女たちは吹っ飛ばされ無様に地面を転がった。口の中を切ったのか、広がっていく血の味が気持ち悪かった。 「幼稚だな」  音もなく降り立った魔族は嘲るように言う。 「そんな未熟な術で俺に挑むなど――愚かしいにも程がある!!」  声とともに魔族のマナが膨れ上がる。  マナの量も、扱いの精緻も、戦闘経験も、何もかもが相手の方が上だ。だがそれでも、リリアナとレミーは立ち上がろうとする。相手が強い。だからどうしたというのか。この胸を焼くような憎悪の前ではそんな事は関係ない。加藤マルクより受け取り、少女たちの中で確たるものとして花開いた敵への憎しみは、精神生命体である精霊の肉体を限界を凌駕し稼働させる。 「――ぁ、っぁあああああ!」  全身を走る痛みを堪え、魔族を討ち倒すべくふたりは立ち上がり―― 「――死ね、小娘!!」  魔族が吠えた、その瞬間。  一陣の風と共に、ひとりの少女が戦場に現れる。 「――?」  その唐突さに、双子も魔族も、反応するまでに時間がかかった。  青い髪と瞳をした、リリアナやレミーと同世代と思わしき小さな女の子だ。白い大きな帽子と、白いマントと、小さな体には不釣り合いな白い鎧。そして――何故か、手には大きな鉄球を持っている。  何もかもが、双子には理解できない状況だった。  だが魔族には違ったのか、青と白の少女を訝しげに眺めながら、小さな声でつぶやいた。 「……聖堂騎士?」 「――ご名答」  聞こえてきた声はさらに別方向から。  焼ける村を背後に、威風堂々と歩いてくる大きな姿。一見、野盗の親玉かと見間違うほど野性味の溢れる顔立ちながら、どこか愛嬌のある表情を浮かべた大男だ。白い甲冑を着込んでいるのは大男も同じだが、こちらは手に身の丈ほどもある大剣を持っている。  魔族、双子と順繰りに視線を巡らせた大男は、にやりと、戦場に似つかわしくない笑みを浮かべた。 「な、なんだ、お前らは!!」 「んー、ボクはねぇ」  とぼけたような大男の声。  しかしその動きに迷いはなく、あっという間に魔族へと詰め寄ると――次の瞬間、大男の振るう大剣が、魔族を真っ二つに両断していた。 「ヴォルト・スプグリグエルって言うんだけど……まぁ、覚えなくてもいいよ」      §  村外れの一角に、魔術師の襲撃から生き残った数名の村人が避難していた。  全員が心身ともに疲弊している。生まれ育った村は目の前で焼かれ、今も爆発音や誰かの悲鳴が聞こえてくる。気がおかしくなっても仕方がないような状況だった。  そんな中で彼等を励ます女性の姿があった。  白い騎士甲冑を着込んだ、亜麻色の髪の眼鏡の女性だ。フレダ・レイヤーズと名乗った彼女は助けられた村人の護衛役であり、村人たちの心を守ろうと、必死になって元気づけていた。  その中に、エルフの少年――エルディオンの姿もある。  呆然とした表情で炎に沈む村を見つめるエルディオン。少年の両親は彼をかばって死んだ。少年自身も殺されるはずだった。だが死を覚悟したとき――エルディオンはふたりの騎士によって助けられた。  大男と、自分より年下と思われる女の子。  彼等は凶悪な魔術師を物ともせずにあっさりと蹴散らしてみせたのだ。  ……その光景が忘れられない。  エルディオンの瞳は今も、炎の中で悪を蹴散らす騎士の姿を夢見ている。  そうして―― 「もう、大丈夫ですよ」  つい今まで木霊法(こだまほう)――離れた相手と会話する風の精霊術――で誰かと連絡を取り合っていたフレダ・レイヤーズが、こちらを振り返り笑顔を見せた。 「ヴォルトさんが魔族を倒しました。残りの魔術師も時間の問題でしょう」  途端――  生き残った村人たちが歓声を上げる。  助かった。生き残った。その幸運をかみ締め、精霊たちに感謝する命の声だ。  だが、そんなものは、少年の耳には届かない。  何故ならエルディオンの胸中は、熱い思いで張り裂けそうだったからだ。 「――」  魔族や魔術師を圧倒的な力で薙ぎ払っていった大男と女の子。  それは、少年の憧れる『勇者』の姿に他ならなかった。      §  さわりと吹き込んでくる、夏の風。  まぶたを焼く陽の光に、黒く淀んでいた世界は徐々に染まっていく。  そして―― 「ん――……」  小さな呻きと共に、加藤マルクは目を覚ます。 (ここは……)  まず視界に飛び込んできたのはどこかの天井。開け放たれた窓からは白いカーテンを揺らし夏風が入ってきている。――時刻は、朝、だろうか。柔らかい布団に包まれている感覚が、自分がどこかの部屋で介抱されているのだろうということを理解させる。 (……どこだろう?)  いまいち思考がはっきりしない。  自分は――魔術師と戦っていたはずだ。その最中、力尽きて……気がつけばここにいる。その過程がわからない。あの凄惨な世界とは程遠い静かな時間。まるですべては夢だったのではないかと思うほど、窓の外の景色は穏やかだ。  ただ確かなことは、全身をめぐる血の温かさ。……生きている、という実感だった。 (あれから、どうなったんだ)  村はどうなったのか。  リリアナとレミーは無事なのか。 「……」  居ても立ってもいられなくなり、ベッドから身を起こそうとしたその時―― 「……無理をしない方がいい」  静かな声に、加藤は気づく。  部屋の壁に寄りかかるようにして、青髪青目の女の子が立っていた。 「傷は治したから命に別状はないけど、健康体には程遠い。動き回ればまた骨が折れる。かも」 「う……」  言われると――なんだか、胸の辺りが苦しいような、そうでない、ような…… 「――ぁ」  呆けた声を出す加藤。  胸の辺りに目をやれば、そこにはふたりの少女が寝息を立てている。リリアナとレミーだ。ずっと自分を看病してくれていたのだろうか。加藤は心が温かくなるのを感じた。 「彼女たちも傷を負っていたのに、君の側を離れようとしなかった。仲がいいのだな、精霊と契約者というものは」 「契約?」 「――気づいていないのか?」 「……」  正直、よくわからない。契約関係になったと言われても、今まで具体的にその恩恵を感じたことはないのだ。もしも女の子の言うとおりだとして、それを実感するのはこれから先のことなのかもしれない。  ……と、いうか。 「君はいったい……?」  女の子は壁にもたれかかるのをやめると、背筋を伸ばしてこちらを見てくる。小さな子供が精一杯大人の真似をしている――というには、それはいささか以上に堂に入りすぎていた。 「……神聖騎士団、ポポ・レイヤーズだ。君は……村の神父である加藤マルクだな」 「しん――!?」  神聖騎士団。その名は加藤も聞き及んでいる。聖堂騎士団から選りすぐった精鋭で結成される特殊部隊。小さな村の神父からすればまさに雲の上の人たちだ。  だが、その神聖騎士団とポポと名乗った女の子が繋がらない。  こんな女の子が、まさか、神聖騎士団などと―― 「……信じていない顔だな」 「え?」 「信じていないだろう、君」 「それは――」 「いや、いい。もう慣れた。……みんな絶対信じてくれないんだ。ボクが小さいから」 「……」  何やらすねてしまった様子のポポ。  こうしていると歳相応らしい女の子にしか見えなくて――ますます騎士だなんて思えないのだが。 「……笑ったな」 「え?」 「……もういい!」  ぷいっとそっぽを向くと、ポポは部屋を出て行ってしまう。開けっ放しのドアの向こうから、何やら話し声と、物音と、「痛いっ」「もう、乱暴だなぁポポちゃんは」などという声が聞こえてきて―― 「お邪魔します」  ぬっと、顔を出した大男に加藤は息を呑む。 「ああ、大丈夫、ボクは別に野盗とかじゃないから」  パタパタと手を振りながら、大男は言う。 「……お父さん、威厳がない。威厳が」 「そう? いいじゃない。病人の前で肩肘張るものじゃないよぉ」  ポポは大男にしがみつくと、加藤を見据えて言った。どことなく自慢げであった。 「……ボクのお父さん」 「はぁ」 「聖騎士スプグリグエル。神聖騎士団のリーダー」 「はぁ」 「…………」  気のない返事に、ポポはどんどん機嫌を損ねていく。加藤はしまったなぁと思った。最初の冷静すぎる印象のせいで勘違いしていたが、この子の本質はまるっきり子供だ。こういう子は一度こじらせると関係の修復が大変であり、もっと真摯に耳を傾けてあげるべきだったかもしれない。 「うーん、ポポちゃん。ちょっと下がってもらっていい? 大人の話をしたいんだ」 「む……でも」 「わがままを言わない。もう一人前の騎士なんでしょ?」 「……」  ポポは渋々といった様子で大男から離れた。  加藤と目が合う。  んべっと舌を出すと、バタンと扉を閉める。駆け足の音が遠ざかっていった。 「悪いね、騒がしくて」 「いえ、慣れてますから」 「そうみたいだねぇ。……さて」  大男は椅子に腰掛けると、真面目な顔で加藤と向き合った。 「何から聞きたい?」 「――全部を」  大男――ヴォルト・スプグリグエルの話はこうだった。  魔術結社ソーサラーの支部を、ヴォルトとポポ、フレダの三人は征伐した。だがその際に魔族のひとりを取り逃がしてしまった。魔族は王国騎士団の支部を襲撃し一部の囚人を開放、行方をくらました。  追跡を続けていたヴォルトたちは、ほどなくしてその足跡を掴むことに成功する。  だが、時すでに遅く。  加藤たちの村は炎に包まれた――…… 「――全部、ボクの責任なんだよ。聖スプグリグエルなんて大層な名前をもらっても、この体たらく。恥ずかしいよ、本当に」  眉間に深いシワを刻み、ヴォルトは言う。  だけど―― 「違います」 「ん――?」 「すべての元凶。こうなった、原因は……っ!」  唇を噛みしめる加藤。  ベッドの下で痛いほど拳を握りしめる。爪が食い込み、血が滲んでいく。  ――わかってるのか、神父。――――お前が、殺したんだよ。  ああ――そうだ。 (……私は、間違っていた)  野盗に情けをかけ、命乞いまで受け入れてしまった過去の自分は、なんて愚かだったのだろう。あの時しっかりと彼等を殺しておけば惨劇は起こらなかった。誰も死なず、傷つかず――平穏な日常は続いていたことだろう。  それができなかったのは、加藤が臆病だったからだ。優しさとは違う――根本的な、覚悟のなさ。自分の手を汚したくないと安易な道に逃げ続けてきた結果が、あの惨劇を招いたのだ。 (私は……何もわかっていなかった!)  脳裏に蘇る、血肉の感触と匂い。――吐き気がするのは、何に対してか。決まっている。大切なモノを守れなかった、自分自身にだ。 「――」  加藤はサイドテーブルに置かれた折れたロザリオを見る。  次いで、強い決意を秘めた眼差しで、聖騎士ヴォルトを見た。 「お願いがあります」 「……なんだい」 「私を――聖堂騎士団へと、参加させてください」      § 「――」  長い追想を終え、加藤の意識は現実へと戻ってくる。  あの日……  加藤マルクは神父ではなく、魔を討つ騎士となった。  それからも色々なことがあった。しばらくはヴォルト隊と同行し、戦闘のいろはを一から学び直した。加藤自身にそれほど伸びしろはなかったが、リリアナとレミーは随分と強くなって――はじめての征伐参加では、魔術師たちをめった斬りにしていた。  そうやっていくつかの功績を得て、三人は風の聖堂騎士団へと編入されたのだ。 「……」  加藤の最初の夢は騎士だった。そういう意味では夢が叶ったことになる。だけど――はたしてその夢に、リリアナとレミーを巻き込んでしまって良かったのか。  ――戦場に響き渡る哄笑。  ――撒き散らかされる残忍性。冷酷さ。  ――魔術師への、有り余る憎悪。  彼女たちの姿は、すべてが加藤の映し鏡だ。  あの日、願った想い。  逃げろ、と――そう発したはずの言葉は、別に想いにかき消された。  それは憎悪。  大切なものを守りたいという純粋な願いは敵への怒りとして顕在化し、それは彼女たちを精霊として目覚めさせた。――魔を討ち倒す、狂嵐の精霊として。 「……」  精霊契約は、契約精霊の在り方を変質させてしまうこともある。加藤が行ってしまったのはまさにそれだ。優しい女の子たちを、一方的な憎悪で染め上げ戦士としてしまった。  ……加藤の罪は、それだけではない。  今もベッドで眠り続ける少女たち。おそらく心と体が休息を求めているのだろうが、精霊にとっての物質体は仮初めのモノでしかない。あまりにもダメージが激しい場合は物質化を解除し精神世界で心の回復を図るのが精霊という種族の常道だ。  だが、彼女たちはそうしない。  加藤ですらリリアナとレミーが物質化を解いた所を見たことがない。  彼女たちが物質化を解かない理由は、おそらく自分たちが精霊であるという意識が低いからだろう。精神が物質世界に拠っているせいで「物質体を解く」という発想自体がそもそも存在しないのだ。  これは精霊としては異常だ。もしも今後、物質体に致命的な損傷を――たとえば首を斬られるなど――した場合、その精神的影響が大きくなる可能性がある。精神が「自分は死んだ」と思えば死んでしまうことだってあるのが精霊なのだから。 (私は……酷いことしか、していない)  本当なら生まれてすぐに自分たちは精霊であると強く意識させる必要があったのだ。なのに加藤は彼女たちを人として扱った。それは彼女たちを思ってのことだったが――本当にそれだけかと問われれば、自信がない。  彼女たちに――生まれてくるはずだった子供を重ねて見ているのではないか?  それはずっと加藤の中で繰り返されてきた自問自答だ。  だが、今となっては、答えはわからない。  答えを見つける前に加藤と双子は契約で結ばれた。それは今までの関係の延長であると同時に、まったく新しい関係のはじまりでもある。両者の関係は複雑さを増すばかりであり、誰よりも心で繋がっているはずなのに大事なところはぼやけていくばかりだった。  と―― 「……ん」  小さな声とともに、うっすらと、少女たちの瞳が開かれて行く。  青と赤の瞳は、ゆっくりと宙を彷徨い、やがて、静かに加藤へと焦点を定めた。 「……先生?」 「なんだい?」 「どうして、泣いているの?」 「笑っているんだよ」  言いながら、微笑んで――加藤は鼻をすすった。      §  大聖堂の回廊から、ポポは空を見上げる。  よく晴れた青――吸い込まれるような色に、薄く、目を細める。  聖女は言っていた。勝てるのかと。ヴォルトは警告していた。異端審問会が出てくる可能性があると。それらはすべて、ポポの強さを否定するものであり、聖騎士としての矜持を傷つけるものだ。 「……」  いや、それだけならばまだマシだ。ポポの矜持より大事なものはいくらでもある。  加藤マルク。  リリアナとレミー。  そして、リヒト・レイシア。  部下たちの今後にもポポは責任を負わなければならない。もしも再び魔族に敗北することがあれば――きっと、部下たちにも問題は波及する。聖騎士であるポポではなく、すべての責任を部下に押し付けて有耶無耶にする――面子を重んじる上層部ならやりかねないことだ。  そんな事は許せるはずがない。  ならば――自分のやるべきことは何か。  それは、二度と負けないことだ。部下たちと一丸となって魔族を倒し、魔術師を倒し、キサラ様を救い出す。そのためには今の立場に甘えず――ポポ・クラウディアはその名に恥じない強さを得なければならない。 (まずは……もっとみんなを知ろう)  加藤とリリアナ、レミーとはそれなりに長い付き合いだが、腹を割って話し合ったことはなかった気がする。最初は苦手だったこともあり、一緒に行動していたときもあまり話さなかったのだ。  リヒトに至っては出会ってまだ日が浅すぎる。真面目な青年であるが、妹を拐われた彼がどういう思いを秘めているのか、ちゃんと知っておくべきだろう。  それに―― (ボクのことも、知ってもらおう)  みんなで頑張ればまだまだ強くなれる。もっともっと高みへ登れる。  だから、今度こそ――絶対に負けない。 「――」  ポポは強く決意を新たにする。  その時だ。 「あ、いたいた。おーい、ポポさーん!」  呼ばれた声に、振り返る。  手を大きく振りながらこちらに駆けてくるのは黒髪の少年――神聖騎士団に所属する黒髪のエルフ、エルディオンだ。 「……君も来ていたのか」 「はい、もちろん。ひどいですよね、ヴォルトさん。ボクを置いてひとりで会いに行っちゃうんだもん」  息を切らせながら、エルディオンはポポを見つめる。  その眼差しに宿るのは強い憧れの色だ。このエルフの少年はどういうわけか、ポポとヴォルトに憧憬を抱いているようで、こうして顔を合わせれば子犬のように懐いてくる。  しかし正直な所――ポポはエルディオンのことが苦手だった。  嫌いなのではない。どちらかと言えば好きだろう。ただ、一緒にいて、漠然とした不安を感じることが多いのだ。  加藤と双子精霊が独り立ちをしたあと、入れ替わるように押しかけてきたのがエルディオンである。彼は騎士としての勉強をちっとも積んでいなかったし、精霊と交感できるわけでもなかったが、とにかく努力を忘れない少年だった。  その成果もあり、今では正騎士――しかも神聖騎士団の一員となっている。  そのこと自体は、素直にすごいと思うのだが…… 「……」  旅の途中、彼に何度か加藤の話を振ったことがある。かつて師弟関係だったと聞いて、独り立ちした加藤を懐かしんでのことだったが……帰ってくる答えはどうにも要領を得ないものだった。  簡単にいえば――自分と関係のない話に適当に相槌を打っている。そんな感じだった。  エルディオンは真っ直ぐな少年だ。  だけど、真っ直ぐすぎて、ひとつのもの意外を捨てていってるのではないか――  ポポが警戒するのは、そんな少年の危うさだった。 「ねぇ、ポポさん。ボクも協力しますよ」 「何を?」 「知ってますよ。聖女候補の奪還任務についてるって。ポポさんが負けちゃったのは、部下がどーしよーもないからですよ。ボクが補佐していたら、ポポさんが負けるなんて絶対にありえませんから!」  胸を張ってエルディオンは言う。  ――たしかに彼の言うことにも一理あるだろう。ポポの見立てでは、加藤と双子、リヒトを合わせたよりもエルディオンひとりの方が強くて優秀だ。確実に任務を果たすためには必須の人材なのかもしれない。  だが。 「……気持ちだけ受け取っておく」  言うと、マントを翻し背中を向ける。  話はこれで終わりと、歩き出そうと一歩を踏み出して―― 「でも」  なお食い下がってくる少年へと、ポポは振り返る。  その、眼差し。  いつも通りの無表情なのに、何故か強く気圧されて――エルディオンはたじろいだ。 「――これはボクたちの任務だ」  そう言い放ち、ポポは歩き去っていった。      §  交易都市モーマッカの、カメイダート・デパート二号店。  買い物を終えたキサラとヴェルガは、待ち合わせ場所でゼロの帰りを待ちながら人の流れを漠然と眺めていた。約束の時間はとっくに過ぎている。イライラと腕組みをしている青年と、青年と話をするわけでもなくベンチに腰掛けている少女の組み合わせは、傍から見れば奇妙な二人組に思えるかもしれない。  とはいえ、キサラの方はお喋りをしようという元気もないのだが。 (……頭がズキズキします)  どうもデパートでの買い物で体調を崩してしまったらしい。  キサラは人混みを特に苦手と思ったことはない。風の都の商店街だってここほどではないにしろよく賑わっていて、その常連客だったのがキサラなのだ。むしろ慣れている方だと思っている。  それなのに、たった二時間程度の買い出しで参ってしまった。  自分で思っているほど体力はないのか、あるいは人混みに当てられて、ここまでの旅の疲れが一気に吹き出てしまったのか。風の都から出たことがなかったキサラにとってこの旅は生まれてはじめてのことだらけだ。肉体だけでなく、精神的にも疲労が蓄積されていてもおかしくはない。 「――ぃ」 (……そういえば、昔も、こんな事がありました)  四年ほど前のことだ。  キサラは兄に出来たばかりのカメイダート・デパートへと連れて行ってもらったことがあった。兄は気乗りしなさそうだったが、友達が楽しそうにデパートの話をしているというのに自分だけその輪に加われないのは悔しくて――無理を言って連れてきてもらったのだ。  ところが想像以上の人混みに当てられたのか、キサラはすっかり調子を悪くしてしまった。  ベンチで肩を落とすキサラへと、兄は飲み物を買ってきて介抱してくれた。申し訳なさでいっぱいの体にオレンジジュースはとてもおいしくって、思わず泣き出しそうになったけど――これ以上、兄を困らせたくなくて我慢したのを覚えている。 「お――」  あれから四年。  再び足を運んだデパートで、同じように調子を悪くするとは、思わなかった。 (お兄様……)  兄は――今頃どうしているのだろう。  あんな形で別れてしまって、気に病んではいないだろうか。……いや、気に病んでいるはずだ。妹を助けられず――その妹は、魔術師をかばう真似までとった。兄の混乱と絶望は大きいはずで、深く傷つけてしまったかもしれない。 (ごめんなさい、お兄様。……ごめんなさい)  それでも。  それでも、私は―― 「――おい!」 「え……」  強い声に、キサラは顔を上げる。  見上げた先ではオーラント・ヴェルガが、眉根を寄せてこちらを見下ろしていた。  ぶっきらぼうに、言う。 「……お前、調子でも悪いのか」 「いえ、別に」 「……」  キサラもまた反射的にそっけなく返し、――ヴェルガはムッとした顔をした。  キサラはヴェルガが苦手である。  出会ってからの経緯を考えれば――なにせいきなり暴言を浴びせられ、髪を切られ、服を破かれたりした――当然とも言えるのだが、聖堂騎士を殺して回ったゼロについては最初恐怖こそしたものの、今ではそれほど苦手としてはいない。  温厚な青年と粗暴な少年。  結局、話しやすいか否かが、キサラの中でふたりとの態度の差となってしまっていた。 「なぁ、お前さ――」 「申し訳ありませんが。少し、静かにしてもらえませんか?」 「あ――?」  思いのほか強い拒絶の言葉になってしまい、キサラは自分の声に驚いた。  ……八つ当たりだ。  気分が優れず、苦手な相手が話しかけてきたから、つい――強い言葉で返してしまった。  キサラはゼロとヴェルガが教会の言うとおりの絶対悪なのかを知るために同行することを決めた。そのためには相手を知るための――打ち解けるための努力をしなくてはならない。だというのに、こちらから拒絶するような真似をしてしまった。 「あの……」 「――ちっ」  ヴェルガは頭をかきむしり、舌打ちすると、どこかへと立ち去っていく。 「あ……」  その背中を見ながら、キサラは思わず声をかけかけ――……結局、静かに見送った。 「……」  あんな態度を見せられたら誰だって気分を害するに決まっている。素直に謝るべきは自分だと思うし、兄や友達、学校の先生たちにはそれができていた。  なのに、どうしても躊躇してしまうのは――やはり彼が魔術師だからなのだろうか。 (――痛い)  おでこに手を当て、キサラは細く長く、息をついた。  それにしても、ヴェルガはなんの用事があったのだろうか。……もしかして、本当に調子の悪そうな自分を、心配してくれた、のだろうか。  だとしたら、いくらなんでも酷いことをしてしまった。 (……でも)  軽く首を振る  あのヴェルガが、そこまで気を回せるとはキサラには思えなかった。  乱暴で、口が悪くて、態度が悪くて、意地も悪くて、目つきも悪くて、デリカシーは欠片もない。  そんな少年が、オーラント・ヴェルガなのだ――…… 「……ん」  すっと、目の前にジュースが差し出される。  顔を上げると……そこには、自分もジュースを飲んでいるヴェルガの姿。ストローが茶色に染まっていることから、実際はジュースではなく麦茶の類なのかもしれない。 「……」  キサラは目を瞬かせたあと、ゆっくりと、ジュースを受け取る。  ヴェルガも隣へと腰掛けた。 「……」  手にしたジュースは冷たかった。そっとストローに口付ける。オレンジジュースの甘酸っぱさが口内に広がっていく。少しだけ飲んで口を離すと、じーっとジュースを見つめて、次いでヴェルガを見て、再度、ジュースに視線を落とす。 「……」  徐々に、ジュースがぼやけていき――自分が涙ぐんでいることを、キサラは知った。 「げっ――」  ヴェルガが小さな悲鳴を上げる。 「なんだよ。なんで泣いてんだお前は!」 「泣いてません」 「だって」 「泣いてません」 「……。――わりーけどな、ジュースはソレしかなかったぞ。アップルジュースとかアレば良かったんだろうけどな。ガキじゃないんだしそれくらいは我慢しろ――」 「いえ、その……」  早口でまくし立てる少年の声を遮り、キサラは涙を拭い、顔を上げる。 「あの……」 「な、なんだよ」 「――――……ぁ」  ありがとうございます、と口に出かかって。  だけど、実際について出た言葉は、何故か皮肉めいたものであった。 「……よく、私をひとりにしましたね。逃げるって思わなかったんですか?」 「――あ?」  目をパチクリとするヴェルガ。  しばらくそのまま呆然としていたが、徐々に顔は青白くなっていき――だけど最後には羞恥のためか真っ赤に染まっていく。「しまった……」という心の声が聞こえてきそうなほど、わかりやすい狼狽え方だった。 「……考えてなかったんですか?」 「ま、まさか」  わざとらしい咳払いをする。 「もし逃げやがったら、その時はデパートの連中を皆殺しにするだけだ」 「そうですか」 「……」  さらりと返すキサラに、イラッと来たのか眉間にシワを刻むヴェルガであった。  そんな時だ。 「ふ……待たせたな!」  何やら自信たっぷりといった青年の声が聞こえてくる。 「おせぇぞゼロ! どんだけ待た、せ……?」  いの一番に反応したヴェルガの声が尻すぼみに小さくなっていく。怪訝に思いつつ、キサラも声の方へと振り返って…… 「……」  沈黙した。  そこにいたのはゼロだ。間違いなく――赤髪金眼の青年だった。  黄色地に花柄という派手なシャツの下に青いインナーシャツ、首には何故か季節外れの長々とした赤いマフラーを巻いているが、紛れもなく、ゼロだった。 「……」  瞳を閉じて、再度開く。  やはり目の前にいるのはゼロだった。  わけのわからない格好をしているものの、ゼロであった。  ちなみに髪型も変わっていた。今まで後ろになで上げられていた髪は短く切られ、つんつんと前を向いている。その様子は街の若者らしさが溢れていて――謎の服装と組み合わせれば奇抜な衣装の兄ちゃんの出来上がりであった。 (……そういえば)  さっきデパートを見て回ったときに、「これが都会の最先端ですよー」とか言いつつ、都会育ちのキサラも見たことのない、わけのわからない服装や髪型を売り込もうとしている呼び込みを見かけたが―― 「お前……なんだ、それ」 「ふ――」  ニヤリと笑うと、ゼロはシャツの懐からサングラスを取り出すと顔にかける。 「どうだ。――イケてるだろう」 「……」 「……」  キサラとヴェルガは、無言で顔を見合わせて―― 「ウン、カッコイイカッコイイ」 「トッテモニアッテマスヨ」  出会ってはじめて、意見を一致させるのであった。  つづく 【あとがき】  な・げ・え・よ!!!!  気がついたらこんなになってた。反省してる。筆がノッたというか単に消化しなくちゃいけないイベント多かったというか……てか陰惨な話が多くて困る。それが理由じゃないけど、しばらくはハートフルな展開が続くよハートフル。……多分。  とりあえず次回はちゃんとコンパクトにまとめる予定。