【まえがき】  前回うpったジョシュア短編『騎士団長の休日』を事前に一読されることを強くオススメします。てかぶっちゃけあの話の派生です。でも読まなくても全然大丈夫だよ!  b.H.ヒストリア外伝 『Hello World』  第0話  ――――それは、ある春の日のことだ。  リン、ゴン……  リン、ゴン……  荘厳な鐘の音が鳴り響き、礼拝堂に集まった少女たちは一斉に祈りを捧げはじめる。  ここは聖ルフィア女学園。  シスター服にも似た白い制服に身を包んだ彼女たちの祈りの先には、大きな五つのステンドグラスがある。それぞれが地水火風の精霊王とその他の精霊たちを描いた精霊教会の象徴は、陽光にきらめき神秘的な美しさを醸し出していた。  やがて鐘の音は止み、厳かに少女たちは歌いはじめる。  精霊を称える聖歌だ。  歌声に乗せ、少女たちの健やかな祈りが礼拝堂を満たしていく――……  地よ、水よ、火よ、風よ  其の道がいかに険しくとも 正義を掲げ、あなたと共に光の世界を目指します  愛を胸に、勇気を友に、永久の誓いを交わしましょう  地よ、水よ、火よ、風よ  地よ、水よ、火よ、風よ ……      §  新世界ルネシウス。  女神により新生されたと言われるこの世界は、しかし、同時に不完全な世界でもあった。  地と、  水と、  火と、  風と――……  世界を構築するために必要な四元素が著しく欠けていたのだ。  生まれながらにして歪、ただ崩壊を待つだけの世界。  そんな世界を救ったのは、四人の偉大なる精霊王たちであった。  彼女たちはマナクリスタルと呼ばれる自らの力の源を開放し、それぞれがそれぞれのマナを補うことでかろうじで新世界を存続させることに成功したのだ。  しかし、それを喜ばない者たちも、存在する。  魔王。そして、魔族。  魔界より現れいでた彼等は世界を無へと還すため、精霊王たちと熾烈な戦いを繰り広げた。創世戦争――人智を超えた戦いは実に世界の三分の二を溶かし尽くしたという。  その争いの果て、最終的に魔王たちは敗れ去り、魔界へと封じ込められた。  新世界にひと時の安息が訪れたのだ。  もっとも、魔界の脅威が完全になくなったわけではなかった。  二千年近く前には魔族の一部が復活、聖王国との間に二度に渡る戦争が起こったし、五百年ほど前には東方の魔王の手によりついに大地の精霊王とマナクリスタルは打ち砕かれ、新世界の大地の大半は失われてしまった。  それでも人々は屈しない。  残された僅かな大陸を風の力で浮遊させ、希望を胸に輝く明日を生きていく。  そのよるべのひとつが、精霊教会シンフォニアだ。  精霊教会は精霊へ祈りを捧げ友人として共に歩むことを教義としている。人々の祈りが精霊の力となり、精霊たちが世界を支え、その世界で人々は生きていく――……それが新世界ルネシウスの在り方だった。  精霊への想いは世界への想いに、  世界への想いは人々への想いに、  人々への想いは精霊への想いに――  だからこそ、少女たちは祈りを捧げる。  だからこそ、少女たちは歌をうたい続けるのだ。  地よ、水よ、火よ、風よ  広大なる大地よ、育み給え  其は安寧 我らの憩い  あなたの優しさに癒されます  新緑のさえずりを聞きながら あなたと共に歩みましょう  涼やかなる水よ、清め給え  其は誓い 我らの願い  あなたの慈悲に感謝します  湧き上がる心を恵みに変えて あなたと共に夢(ねむ)りましょう  燃えたぎる炎よ、焼け給え  其は強さ 我らの猛り  あなたの愛に焦がされます  全てを照らす灼炎の宴を囲み あなたと共に踊りましょう  吹き抜ける風よ、伝え給え  其は祈り 我らの想い  あなたの勇気に満たされます  揺れる鈴の音に導かれながら あなたと共に謳いましょう  其の道がいかに険しくとも 正義を掲げ、あなたと共に光の世界を目指します  愛を胸に、勇気を友に、永久の誓いを交わしましょう  地よ、水よ、火よ、風よ  地よ、水よ、火よ、風よ ……      §  その日、キサラ・レイシアはものすごくはりきっていた。  夕食の買い物を終え、どこか浮き立って歩いて行く。  精霊教会の信徒が通う聖ルフィア女学園の高等部に籍を置く彼女は、放課後から商店街へと直行したためシスター服にも似た白い制服姿だ。長くのばした黄金色の髪を空色のリボンで飾り、碧い瞳がとても美しい可憐な少女なのではあるが――今はその顔がゆるりととろけており、どことなくしまりがない。  有り体に言えば、とても幸せそうであった。 (だって、今日はお兄様が久しぶりに帰ってくるんですもの!)  こらえきれない笑みが溢れる。  たったひとりの家族である兄とは現在、実質的に離れて暮らしている。一応、二人暮らしではあるのだが、多忙な兄は泊まりがけの仕事が多く、今日だって実にひと月ぶりの帰宅であった。  聖堂騎士団――精霊教会が擁する騎士団の一員となった兄は、自分を養うために、それこそ身を粉にして働いてくれているのだ。  だから、たまの休日くらいは、兄には優しい時間を過ごしてもらいたい。  そう思ったキサラは、兄が帰ってくるたびにせめてもの気持ちを込めて、手料理を振る舞うことにしていたのだ。今夜のメニューは、ホワイトシチュー。ジャガイモとニンジンがたっぷり入ったお手製シチューはキサラの得意料理でもあった。 (お兄様、ニンジン嫌いはなおっているのでしょうか?)  ニンジンが苦手な兄ではあるが、キサラの料理を残したことはない。ちょっとだけ困ったような顔で、それでも美味しそうに食べてくれる。そんな兄がキサラは大好きであった。 「ふふ、はやく、帰らないと」  兄の顔を思い浮かべるだけで自然と頬がほころんでしまう。  その時だった。  ふわりと風が吹き、キサラは思わず足を止める。  風の都ウェントゥスの市民区画、その大通りのひとつ。夕闇に呑まれていく街並みの中で――少女がひとり、道端に座り込んでいた。 「――」  彼女は美しかった。まだ十歳前後だろう少女に美しいという形容は似合わないのかもしれない。だけど、その言葉以外は浮かんでこないほど、彼女は研ぎ澄まされていたのだ。  長い黒髪。  きらびやかな異国の衣装。  そして――――とても寂しそうな、眼差し。  今にも消えてしまいそうな儚げな少女は、誰に話しかけるでもなく、かけられるでもなく――まるで母親の姿を見失った子供のように、しょんぼりと膝を抱えていた。 「……」  キサラは胸が苦しくなる。  大通りだけあり夕方でも人の行き交いはまだまだ多い。なのに少女はひとりぼっちだ。家路を急ぐ人々はあきらかな面倒事を避けるように、困っている女の子の存在を無視している。……どうして誰も彼女を助けてあげようと思わないのか。人々の薄情さに憤りを感じ、誰にも頼れない少女の心細さに切なくなる。  だから少女に声をかけたのは、キサラからすれば当然のことであった。 「――あの、大丈夫、ですか?」 「!?」  ふいにかけられた声に黒髪の少女はビクリと肩を震わせた。  ゆっくりと顔を上げる。宝石のような黒く綺麗な瞳に映るのは、金髪碧眼の少女の姿。優しく微笑む、キサラ・レイシアの姿だった。 「困ったことがあるのでしたら、お姉さんが相談にのります。だからなんでも話してみてください」  キサラは少女に視線を合わせるようにかがむと、つとめてやわらかい声で話しかける。  一方の黒髪の少女は、きょとんと呆けた顔をしたあと……ゆっくりと、自分を指さした。 「……のじゃ?」 「の、のじゃ?」 「む――」  こほん、と軽く咳払いする少女。  探るような眼差しで、キサラを見つめてくる。 「――それは、妾に言っておるのか?」 「は、はい。そうですけれど……」  途端、少女の顔がむぅっと膨れはじめる。どうやら機嫌を損ねたようだ。 「むむむむむぅ……。こ、困ったことなど何もないのじゃ! ああ、そうだともそうだとも。妾はいたっていつも通りじゃ。こんな事、もう幾度となく繰り返してきたのじゃ。……今度だって、……同じことじゃ」  徐々に声が小さくなっていく。  少女に何があったのかはわからない。ただ、カラ元気なのは見え見えで、こんな小さな女の子が虚勢を張らなければいけないほど思いつめているのだと思うと、キサラはひどく悲しくなった。 「……あの……辛いことも悲しいことも、永遠ではありません。人の心の在り方次第で、人生もまた変わっていきます。世の中、悪いことばかりじゃなくて、辛い思いをした分だけ――いいえ、きっとそれ以上に、楽しいことが待っているはずなんです。ですから、どうか、元気を出してください」  キサラは手を差し伸べる。  その手を見つめながら、少女はしばらく黙りこみ――…… 「うっざ!」 「ええ!?」  本気で嫌そうな口ぶりだった。  少女はすっくと立ち上がると、パンパンとおしりの汚れを払い落とす。どこからともなく取り出した扇で口元を覆い隠すと、キサラへ鋭い眼差しを向ける。 「ふふーん。妾は知っておるぞ。今のは風の聖女の受け売りじゃろう? たしか前に似たようなことを新年の挨拶で言ってたハズなのじゃ。しかし驚いたのじゃ。まさか自分に向けられるとこんな――」 「貴女も聖女様のお言葉を!?」 「にぃぃ!?」  キサラは瞳を輝かせてずずいっと身を乗り出してくる。さっきまでの清廉な姿はどこへやら、まるでアイドルの追っかけに勤しむかのような見事な俗世っぷりである。少女はこの手の手合に心当たりがあった。公の場に聖女が顔を出す時に必ず着いてまわってくる、ちょっと行き過ぎた信奉者、というやつだ。  若干引きながら少女はキサラに問いかける。 「――な、なんじゃ。お主は、聖女のことが好きなのか?」 「はい! 私は――……私たち兄妹は、聖女様のお言葉に救われましたから」  胸に手を当て、祈るようにキサラは答えた。  聖女――  彼女たちは精霊王の声を聞くことを許され、その意志を人々へ伝え導く役目を担っている特別な聖人だ。高潔で慈愛に満ちた彼女たちは教会の信徒以外にも広く慕われており、まさに精霊信仰の象徴ともいえるだろう。  ちなみに、ここ、風の都ウェントゥスは風の聖女シルフィードのお膝元であり――キサラもまた、敬虔な信徒として以上に、風の聖女を深く敬愛していた。 「ほう。……それを聞いたら、あやつも喜ぶじゃろうな」 「え?」 「なーんーでーもーないのじゃ」  少女は含み笑いを浮かべる。少しだけでも元気が出たのか、寂しげな雰囲気はいくらか和らいでいた。それに気づいたのか、少女は若干不愉快そうに眉根をよせる。 「むぅぅ……」 「どうかしましたか?」 「……お主は生意気な娘じゃな!!」 「ええ!?」 「もう、帰る!」  話の流れが読めず呆気にとられるキサラを残し、少女はくるっと踵を返して――、……そのままさらに半回転。きれいに一周回ると、不機嫌そうな表情でキサラを見上げた。釣り上げたまゆはそのままに、頬が徐々に赤くなっていく。 「やっぱりスッキリしないのじゃ」  ぶっきらぼうに言うと、困惑し続けるキサラの腕をとり――手を握る。  握手、だ。 「…………忘れ物じゃ」 「あ――」 「……さっきはありがとう、なのじゃ」  少女は目線を合わせない。  どこか拗ねたような顔のまま、しかし感謝の気持ちはたっぷりと手のひらから伝わってくる。キサラは胸の中が優しいあたたかさに包まれていくのを感じていた。 「――はい!」  花が咲いたような笑顔で少女の手を握り返す。 「私の名前は、キサラです。聖ルフィア女学園高等部一年生の、キサラ・レイシア。――困ったことがあったら私が力になりますから。いつでも声をかけてください」 「……」  少女はそんなキサラに、これみよがしに肩をすくめてみせた。 「まったく。お主は……ずい分と妾に心を砕くな。さっき会ったばかりの小娘相手じゃぞ」 「時間なんて関係ないと思います。こうして手を取り合うことができたのですから、私たちはきっと友達になれますよ」 「うわぁ、そこまでいくとなんだか気持ち悪いのじゃ」 「ええ!?」  少女はキサラの手を振りほどくと、今度こそ背を向け小走りに去っていく。その足音は軽く、まるで涼やかな風の音のようだった。思わずキサラは手を伸ばしかけ――途中で下ろす。  友達になれるかも、と思ったことは本当だ。  だけどそこに未練を残してはいけない。人と人の出会いは奇跡であり、その縁を大事にするということは――別れもまた受け入れなければならないと、聖女様もおっしゃっていたのだから。  と――  ふいに少女は、足を止めて振り返る。  風が吹き――さらさらの長い黒髪が、ふわりと舞う。  太陽が沈んでいく。  夜の帳に包まれていく街並みの中で、夕焼けを背に――少女はニヤリと笑っていた。  風と共に、声が届く。 「――先程の言葉、しかと胸に刻んだのじゃ。いつかまた、会える日を楽しみにしておるぞ。……我が友よ」  直後、一際強い風が吹き抜ける。  キサラは思わず目を閉じて――次の瞬間には、少女の姿は見えなくなっていた。 「え……?」  キサラは瞳を瞬かせる。  きょろきょろと辺りを見回すも、少女の姿はない。通行人の姿がぽつりぽつりと見えるだけで、夜の訪れとともに急速に街から喧騒が引いていくかのようだった。  まるで夢を見ていたかのような現実感のなさ。  だけど、違う。  キサラの右手には、少女と交わした温もりが、今もしっかりと残っているのだから。 「……あっ」  ふいに、気づく。 「名前、教えてもらってませんでした……」  つぶやく声は、しかし、どこか期待に満ちている。  キサラは半ば確信していた。あの不思議な少女と、近いうちにまた出会えると――。その時こそ、名前を教えてもらえばいい。今度はゆっくりと、ふたりで話しあおう。 「――あっ」  空を見上げると――いつの間にか、たくさんの星々が瞬きはじめている。 「はやくしないと、お兄様が!」  両腕でしっかりと買い物袋を抱え直すと、足早に家路につく。  今日のこの不思議な出会いを聞いた兄は、いったいどんな反応をするのだろうか。そんな事を考えるだけで、キサラの胸の中は、またしても優しい気持ちでいっぱいになっていくのだった。  プロローグ  ある春の日のことだ。  大聖堂の応接室て、風の聖女シルフィードは客人を迎えていた。  青い髪をポニーテールにまとめた彼女の名前は、ルゥリィ・カトレイヤ。シルフィードの養女である風の勇者シルヴィアのお世話役を務める才媛だ。  お世話役、というのは額面通りの意味だけではない。  身辺の世話はもちろん行うが――それとは別に、風の勇者の補佐役も含まれている。まだ若く未熟な少女が、勇者として正しい道を歩けるように誠心誠意、サポートする。それがルゥリィがシルヴィアの側に仕える本当の理由だった。  そうして、そうした役目柄、定期的にシルフィードの元へ報告に訪れている。  だが今回の報告はシルヴィアのことだけにとどまらない。  なにせ最近シルヴィア城に増えた、新たな同居人の問題もはらんでいるのだから。 「特に異常はありませんか?」 「ええ、問題はありませんわ。――彼女に現在、魔王としての兆候は見られません」  魔王。  そう称されるべき少女が、今、シルヴィア城では暮らしている。  事の発端はひと月ほど前だ。  風の大陸と魔界は、とある理由により限定的な次元の連結に見舞われたのだ。当然、風の大陸は大混乱に陥った。聖堂騎士団と魔界の軍勢が争い合う中、騒動の中心にいた魔族の少女はその身に魔王を宿し、逆に取り込んで――  現在はひとりの少女として、風の大聖堂の監視下に置かれながら日々を過ごしている。  彼女の名前はシフォン。  勇者と同居する、新生した魔王だ。 「彼女に接触しようとする者は?」 「いませんわ。このまま、魔術結社がおとなしくしていてくださればよろしいのですが」 「……ジョシュアが、警戒はしているみたいですけれど……」  シルフィードは複雑な表情を浮かべた。  精霊信仰の要たる精霊教会の敵対者、それが魔術師たちの組織である魔術結社だ。魔術師は魔王や魔族と思想を共にし、世界を無(ゼロ)に還すことを目的としている。そんな彼等がこの機をみすみす見逃すとは思えない。事実、いくつかの魔術結社が不穏な動きをしているという報告も上がっている。  先の事件で魔族との戦いは終わったわけではない。  むしろ、逆。  新たな戦いがはじまったのだ。  世界の平穏のためにも、今まで以上に覚悟を決めていく必要がある。風の聖堂騎士団は騎士団長ジョシュアの元、より一層の修練に励んでいた。  もっとも―― 「シフォンさんについては、ある意味で一番安全ですわ。お嬢様が側にいるのですから」  ルゥリィは微笑みながら断言する。  人類側の最強戦力たる勇者のひとりと同居しているという事実は、何よりもシフォンの身の安全を保証する。加えて柔和な笑みを浮かべる青髪のメイド長も戦闘の達人なのだ。たとえ高位の魔術師や魔族であってもおいそれと彼女に接触することは不可能だろう。  ただ、気になることも、ある。  先の戦いで魔界から相当数の魔族が大陸に侵入し、魔術結社と接触している可能性が高いのだ。彼等の力が合わさることにより、とんでもない大事件を引き起こすことも予測されている。シフォン以外にも目を配らなければならないだろう。  それはともかく。 「それで……その、どうなのですか?」 「何がです?」  急に声を潜め、ひそひそ話をはじめる風の聖女に、ルゥリィはあっけらりんと首を傾げる。質問の意図を正確に理解していながら、相手の反応が面白そうなのでとぼけている、そんな反応だ。いつの間にこんな意地悪な子になったのだろうと、シルフィードはむぅっと頬をふくらませた。 「……シルヴィアとのことです。……その、恋敵、なのでしょう?」 「あらあら、そうなのですか?」 「とぼけないでください。陽月少年を巡って静かな対立が続いているとも聞いています。……それで、どちらが優勢なのですか?」 「お嬢様に直接お尋ねしてはいかかでしょう?」 「それは無理、です! だってあの子、私にはそういう話はちっともしてくれませんから」  どこか拗ねた様子のシルフィード。  思わずルゥリィの口元がほころんだ  娘にかまってもらえず寂しがっている母親みたいなその様子は、大衆の前で演じられる風の聖女の姿とは異なるものだ。色恋沙汰に耳ざといところも含めて、彼女の本質はそのへんの井戸端オバサンと大差がないのではないだろうか。 「ルゥリィ」 「なんですか?」 「今、とても失礼なことを考えましたね?」 「考えていませんわ」 「精霊に誓って?」 「もちろんですわ」  お互いに微小を浮かべ合う。 「まぁいいでしょう。少し、脱線しすぎました。話を戻します」  風の聖女は仕切りなおすように、紅茶を一杯、口へと運ぶ。  紅茶はすっかり、冷めていた。 「真面目な話、シフォンの様子はどうなのですか? ……信用、できますか?」  そう問いかける聖女の瞳は揺らいでいる。魔王を宿すことになった少女を心の底から心配し、だけど、立場上疑わねばならない。そんな辛さが見て取れた。 「わたくしは信用していますわ」  ルゥリィは頷いた。 「可愛らしいものですよ。朝に弱いし、どこかぼうっとしてますけれど、気になる男の子と一緒にいると喜んでいるのがよくわかりますもの。彼女に悪意は見られません」 「そう――ですか。よかった……」  ふぅ、と大きく安堵の表情を見せるシルフィード。 「あの三人を見ていると、勇者や魔王なんて肩書きが実に薄っぺらいものであるか、思い知らされますわ。おかげでわたくしも、毎日がとても楽しく、とても充実しています」 「…………勇者と魔王と、男の子、か」 「シルフィード様?」  ふいにシルフィードの表情が曇る。 「ねぇ、ルゥリィ。……本当に、そう思いますか?」 「え……?」 「本当に――彼女たちの肩書きが、薄いものであると、思ってくれますか?」 「……それは」  精霊と魔族。  精霊術師と魔術師。  精霊教会と魔術結社。  そして――勇者と、魔王。  両者は長い歴史の積み重ねの末に対立している。社会秩序を乱すものは排除され、彼等との交流など認められるはずもないという普遍的な正義がそこにはあった。故に勇者シルヴィアや魔王シフォンが互いに信頼を築いたとしても、世界は彼女たちの関係を許してはくれないだろう。彼女たちの思いは踏みにじられていくしかない。  それが常識。当然のこと。  精霊教会自体が――そうやって平和を守ってきたのだ。  だからこそ、シルヴィアたちが歩きかねないその道の険しさ、苛酷さ、残酷さを、聖女であるシルフィードは知っていた。 「私は怖いのです。ルゥリィ。……あの子たちがどうなってしまうのか……」 「……」  ルゥリィは答えられない。  聖女の言葉は真実で、気軽に否定できるものでは、ない。  だけど……  だけど、そうと知っていても、なお――…… 「理不尽ですわね」  ぽつりと、ルゥリィは言葉を漏らす。煮えたぎる感情が渦巻いたような声だった。 「……シルフィード様。そのお考えは理不尽ですわ。しょせん世界の常識なんて、歴史とともに変わっていくものです。もしかしたら、今がその時なのかもしれませんわ」 「あの子たちが?」 「そう願っても、よろしいのでは?」 「……」  精霊教会の――否、この世界の歴史を紐解いても、勇者と魔王が食卓を共に囲んでいるなんてことは、ない。ありえない。ありえなかった。なのに、今、それは起こっている。  勇者と魔王が、  本来、相容れないはずの者たちが、  互いに手を取り合える――そんな時代が、来ようとしているのかもしれない。 「――ええ、そうですね、ルゥリィ」  シルフィードは頷いた。  異世界から来た勇者が、魔王を吸収した優しい魔族と、ひとりの少年を挟んで友情を築き恋の火花を散らし、時には喧嘩したり笑い合ったり――そんな普通の日々を送る。これが新時代の幕開けでないなら、なんだというのだろう。  そうだ。  自分が信じなくて、いったい誰が信じるというのか。  自分が祈らなくて、いったい誰が祈りを捧げるというのか。  シルフィードは首から下げた金色のロザリオに手を添える。静かに瞳を閉じた。  ――――どうかこの縁が、優しい世界へつながっていきますように。  そのために自分にできることを、しっかりと果たしていかないといけない。シルフィードは改めて覚悟を決めると表情を引き締めた。 (私がやるべきこと。それは……)  その時だ。  ――とんとん、と、ノックの音が響く。  シルフィードは決意を秘めた眼差して、客人を迎え入れた。  第1話 キサラと聖女 「――どうぞ、入ってください」 「し、失礼します!」  ガチガチに緊張した身体をなんとか動かし入室すると、キサラは深々と頭を下げた。 (ど、どどどどど、どうして――)  ハッキリ言って、キサラは混乱していた。  キサラはごく一般的な風の都の市民だ。生まれこそ一応貴族であるが、キサラが幼少の頃には完全に没落し、以降は普通の市民として暮らしている。少なくとも自分がお貴族様だという自惚れはキサラにはない。  ちょっとだけ他所と違う所があるとすれば、両親が他界していること、自分の保護者である兄が聖堂騎士団の一員であることくらいか。  それにしたって―― (どど、どうして私が、聖女様のお部屋に――!?)  朝食を終えいつも通り学園へ行こうとした矢先、精霊教会からの使者が現れたのだ。  彼等は言った。  風の聖女シルフィード様がお呼びである、と。  最初は意味がわからなかった。  もちろん言葉がわからなかったのではない。内容を理解できなかったのだ。やがて言葉の意味を噛み砕き飲み込んだあとも――やっぱり意味がわからなかった。 (なんで、なんで――!?)  無理もない。  聖女は精霊王の意志を人々に伝える精霊教会の象徴だ。地水火風の四人しかおらず、その聖位は教皇に次ぐ。いや――教皇はしょせん人の手によって選ばれるのだ。精霊王から直々に指名される聖女の尊さと偉大さは、そういう意味では比較にならないだろう。  もちろんキサラなんかとは住む世界が違いすぎる、まさに天上人だ。  ごく普通の少女として暮らしてきたキサラの平常心なんて機能するはずもなく、頭は緊張にこんがらがり、挙句の果てに真っ白に染まりきっていた。  そんな少女に、風の聖女はあたたかな声をかける。 「顔を上げてください、キサラ」 「ひゃい!?」  なかば条件反射で顔を上げる。 「――」  そうして、息を呑む。  風の聖女シルフィード。白いドレスを身をまとった、美しい金髪、慈愛の眼差し、優しい微笑みの美女――まるでおとぎ話に出てくる女神様が、目の前にいた。 「あ、ああああ、あの、ほほ本日は――ぐきゃっ!」  舌を噛んだ。  シルフィードはくすりと微笑むと、キサラを制する。 「いいのですよ。緊張しているのでしょう? 楽になさってください」 「そ、そんな――」 「いいから」 「うぅ……」  カチコチの身体を無理くり動かし、キサラは進められるがままに腰を下ろす。ふかふかの椅子は本来ならすっごく快適で気持ちが良いのだろうが、残念ながらその感触を味わっている余裕はキサラにはない。 「本日、あなたをお呼びした理由ですが――……実は、お願いがあるのです」 「ほえ!?」  お願い?  風の聖女様が、私に、お願い!?  加速する事態がより混乱を深めさせる中、しかし驚くほど静かに、すみやかに、シルフィードの次の言葉はキサラの中に染みわたっていった。 「天啓がくだりました」 「――キサラ・レイシア。あなたが、次代のシルフィードです」  今度こそ完全に、キサラの思考は停止した。      §  キサラの一番幼い記憶は、大好きな兄との思い出である。  ある時、キサラがひとりで中庭で遊んでいると、一匹の野犬が侵入してきたのだ。  逃げるキサラ。  追う野犬。  もちろん幼い子供の足で逃げきれるはずもない。そこへ駆けつけてくれたのが兄であった。兄は野犬と向かい合い――だけど闘うことはしなかった。手に持った木の棒を振るうこともせず、ただ困ったように立っているだけだ。  怖いのだろうとキサラは思った。  だけど――  野犬が飛びかかろうとした瞬間、兄は一気に間合いを詰め、威嚇した。その気迫は守られていたキサラでさえ驚くほどで、次の瞬間、野犬は一目散に逃げ出していた。兄はいつでも野犬を追い払うことができたのだ。  どうしてすぐそうしなかったのだろう?  妹の疑問に、兄は頬をかきながらこう答えた。  暴力は嫌いなんだよ、と。  兄の名前はリヒト・レイシア。  キサラにたったひとり残された、大切な家族である。  レイシア家は没落貴族だ。  かつては聖堂騎士団で隆盛を極めていたらしいがいつしかその才は失われ、ただ財を浪費していくだけのボンクラ貴族へと成り下がった。  そんなレイシア家を必死で立て直そうと奮闘し、なのに志半ばで両親は他界した。それはまだキサラが五歳の頃で、世界のほとんどが父と、母と、兄によって占められていた頃だ。賢い子であったキサラは両親の死を理解できたが、悲しみまでは無理だった。  だから、泣いた。  両親の死からずっと、泣き続けた。  ――……そんな、冬の日のこと。  その日は女神様の聖誕祭。華やかに賑わう街とは正反対に、リヒトとキサラは身の振り方すら定まらない。先の見えない闇の中を手探りで進まなければならない恐怖は、幼い少女の心を押しつぶすには十分すぎた。  やがてふたりは、人混みで賑わう大聖堂の大広場へと足を運んで……  いつの間にか、キサラはひとりぼっちになっていた。  人、  人、人、  ひと――……  いっぱいのだれかがいるのに、おにいさまは、いない。……おにいさまも、いなくなってしまった。  寒い夜に、身も心も凍てついていく。  きっと、わたしは、このまましんでしまうんだ。  それでも構わなかった。  大好きだったお父様とお母様の元にいけるのなら、それはとても幸福なことのように思えたから。  ……だと、いうのに。  急に手を掴まれる。ハッとして振り返ると、必死な顔をした兄が、自分の小さな手をしっかりとつなぎとめていてくれた。キサラの頬を、涙が流れていく。止まらない涙は、やがて号泣へと変わっていった。  そんな、泣きじゃくる妹を優しく抱きしめながら、力強く、兄は言った。 「大丈夫。僕がキサラを守ってみせるから」  その夜から兄は変わった。  覚悟を決めたのだと思う。  兄は生まれ育った屋敷を売却し、新しい生活のための支度金とすると、市民区画に家を借りた。兄妹だけでの暮らしがはじまったのだ。  使用人のいない生活は大変だった。  なにせ料理も掃除も洗濯も、全部自分たちでやらなくてはいけない。  最初はふたりで分担しながら頑張っていたが、やがてそのすべてをキサラが担っていく。それができるだけの年齢にキサラは成長したし、何よりリヒトの聖堂騎士団への入団が決まったからだ。  キサラとしては兄が騎士団入りするのは反対だった。荒事が苦手な兄が、剣や槍を振るって魔物と戦う。場合によっては魔術師と戦う可能性だってあるかもしれない。つきまとうのは死の気配であり、兄を失うかもしれないことがキサラにはとても恐ろしかった。  何度となく、危ないことはやめてくださいとお願いした。  だけどリヒトは頑として首を縦に振らなかった。  ――恩返しをしたい人がいるんだ。  兄はそう言い微笑むと、優しくキサラの頭をなでてくれる。そんな事でほだされたわけではないけれど、兄の決意の強さもよくわかったので、キサラはしぶしぶながらも納得するしかなかった。  聖堂騎士団は激務だった。特に下っ端である従士は任務と修練に加えてひと通りの雑用までこなさなければならない。自然と家へ帰れる時間も遅くなるし、それどころか泊まり込むことも多くなっていく。  妹ひとりを残すことに不安を浮かべる兄に対し、キサラは胸を張って大見得を切った。 「大丈夫です。私がお兄様を支えてみせますから」  本当はお兄様のいない毎日はとても寂しかったけれど、自分を養うために毎日頑張ってくれている兄に対してそんなわがままを言うことは、子供心にすごく恥ずかしいことだと思えたのだ。  クタクタのはずなのに疲れた顔ひとつ見せないで、兄はキサラに笑いかけてくれる。  キサラもまた、自然と笑みを返した。  たまに家に帰ってきた兄は、穏やかな顔である女性のことを語った。  風の聖女シルフィード様。  精霊教会を束ねる聖女のひとりである彼女の素晴らしさを、兄はたっぷりと話してくれた。直感する。この街の聖女様が、兄が身を張ってまで恩返しをしたい方なのだと。正直、ちょっとだけ嫉妬したけれど――そんな感情もすぐに溶けて消えていった。  ――幾度目かの冬がやってくる。  いつか以来に、兄妹は大聖堂へと足を運ぶ。  聖誕祭にて講演する風の聖女様の姿を、はじめてキサラは目に焼き付けた。  それはとても優しくて、  それはとても慈悲深くて、  それはとても、あたたかくて――  ああ、そうか。  聖女様が、お兄様を導いてくれたんだ。  気がつけば、キサラは涙を流していた。  その日から兄と同じく、キサラの心はシルフィード様への敬愛の心でいっぱいとなったのだ。      §  ――――まどろみから覚める。  キサラはベッドの上から体を起こすと、軽く頭を振る。部屋の中は暗い。陽はすでに落ちており――カーテンの向こうには綺麗な星空が広がっていることだろう。  暗闇に徐々に目が慣れていく。  洗練されたデザインのインテリアが目に入る。作りもしっかりしており、派手さはないものの高級品だろうことが伺える。アパートの自分の部屋とは大違いだ。  ここは大聖堂の三階にある部屋のひとつ。  風の聖女シルフィード様から衝撃的なお話を頂いたあと通された――新しい、キサラの部屋だった。 「……ん」  あれからどうやってこの部屋まで来たのか、覚えていない。  騎士たちに案内されていたのは覚えているが、彼等の自分へのあまりにも恭しい対応は少女から現実感を根こそぎ奪っていった。  まるで自分が自分ではないような、そんな感覚。  だけど――今日起こったことは、現実なのだ。 「――」  キサラは大きく深呼吸をする。  そっと胸に手を当てる。  トクン、トクンと、鼓動は静かだ。呼吸も落ち着いている。  不思議なくらい、心は穏やかだった。  瞳を閉じる。  状況を整理する――――…… 「ど、どど、どうして私が、おお、お、恐れ多い!?」  しばしの思考停止のあと、キサラの中を一瞬にして染め上げたのはそんな当然の感情だった。よりによって自分が新たな聖女様? ありえない。ありえない。ありえないったらありえない。ありえなさすぎてこれは夢なのだと思いたいくらいだ。  しかし真面目な顔で見つめてくるシルフィード様が、キサラから現実逃避を許してはくれない。  現状を否定することは、すなわち、聖女様を否定することに等しかった。 「キサラはどうやって聖女が選定されるかご存じですか?」 「は、はい! ……た、たしか、精霊王がご自身で選ばれる、と、伺っております」 「その通りです。そこには誰の意志も介在できません。精霊王の決定は絶対なのです」 「で――です、が……」  キサラには自分が選ばれる心当りがない。だいたい精霊と出会ったことすらない自分が、何をどう間違ったらそんな事態になるのかさっぱりだ。 「何かの……間違いなのではないでしょうか? 私が選ばれる理由がありません」 「いいえキサラ。あなたは選ばれたのです。聖女(わたし)の後継者に」 「……」  言葉が出ず、キサラは顔を伏せる。  シルフィード。  風の聖女。精霊教会の象徴。人々の信仰を一心に背負う人。  優しくて、  慈悲深くて、  あたたかい、人。  ……恐ろしいことだと思う。誰からも慕われ、人々を導く偉大なる聖女に、自分のような人がなる。なって、しまう。それは聖女様に想いを寄せるすべての人に対する裏切りなのではないか。他にふさわしい人はごまんといるはずであり、キサラごときが決して触れていいものではないはずだ。 「……」  いつの間にか、手が震えていた。  涙が溢れてくる。 「わ、わた、しにはっ」  それでも声を絞り出す。――尊いものを、守らなくてはいけないから。  と―― 「キサラ」 「あ……」  ふわりと、心地の良いぬくもりに包まれる。  風の聖女シルフィードが、優しくキサラの体を抱きしめてくれていた。よしよしと頭をなでてくれる。まるで子供をなだめる母のように――母にあやされる子供のように、キサラの心は安寧を取り戻していく。 「シルフィード様……」 「恐れることはありません。私も最初は、そうでした」  そっと体を離すと、シルフィードはキサラへと微笑みかける。  目尻に浮かんだ涙を、指先ですくいとってくれた。 「大丈夫です。教会のみんなが、精霊王が、何より私がいます。私たちがあなたを支えてみせます。……あなたに出会って確信したのです。聖女を本当に大切に思ってくれているあなたならば、きっと、立派に私の跡を継いでくれると……」 「……っ」  風の聖女は自らの胸に輝いていた金色のロザリオを外すと、キサラへ優しく握らせる。  その意味、その重さを、知らないキサラではない。  精霊教会において金十字を身につけることを許されているのは聖人のみだ。つまり、シルフィードより手渡されたそれは次代の聖女の証も同然であり、そんな大切なものを預けてくれたことに、キサラの胸は高鳴った。  ……期待、されている。  聖女様は本当に――キサラ・レイシアという少女に、期待してくれているのだ。 「シルフィード様……」  心細げなキサラの眼差しを、風の聖女は包容力のある微笑みで受け止める。 「私は……、……でも……」 「キサラ」  尊い想いが、  優しい祈りが、  少女の心を、包み込んでいく――…… 「――どうか私たちのお願いを、聞き入れてはくれませんか?」 「……ぁ」  不思議だった。  自分が聖女様になるなんて絶対にありえないと思っていたのに――今は迷ってしまっている。それどころか指し示された未来へと駆け出したい気持ちがどんどん強くなっていく。  こんな気持ちは、はじめてではない。  そうだ。あの冬の日、自分たち兄妹に道を示してくれたのは誰だろう、風の聖女様だ。聖女様がいたから自分や兄は今日まで生きてこれたのだ。その聖女様が自分を全力で信頼し大役を任せてくれようとしている。  嬉しかった。  どうしようもないくらい、嬉しかった。  それは選ばれたことに対する不安や戸惑いを飲み込んでしまうほどの決定的な感情となって、キサラの小さな背中を後押ししてくれていた。  だというのに…… 「……」  大事な一線を超えるためのあと一歩を、踏み出せない。  だからこそ―― 「……ひとつだけ……お願いがあります」  深く、大きく、深呼吸をする。 「――どうか、お兄様と、ご相談させてください」  お兄様――聖堂騎士団の従士であるリヒト・レイシアは、騎士隊の一員として遠征中だ。だから今は、会いたくても会うことはできない。  本当ならすぐにでも会いたかった。  会って、聖女に選ばれた幸福を分かち合いたかった。きっと兄は祝福しれてくれる。自分の妹が聖女になるという望外の奇跡を喜んでくれる。妹の手を取り励まし笑顔で送り出してくれる。ふたりっきりの兄妹だからこそわかる確信だった。  そして。  そのふれあいが、ふたりの最後の思い出となる。  兄妹という関係は、聖女と従士という関係に比べればあまりにもちっぽけで……もう、ふたりっきりで暮らすことは許されないはずだ。お兄様との幸せな再会は、同時に、ふたりの別れでもあった。  それでも――  その別れを経てはじめて、聖女としての一歩を踏み出すことができる。  キサラはそう信じていた。  ……――――ゆっくりと、目を開いた。  思い返してみても無茶苦茶な状況だと思う。今朝まで普通の少女として生きてきたのに、いきなり聖女になるようにお願いされたのだ。昨日までの自分が今日の出来事を聞いたら、あまりにも不敬な妄想だと怒りすら通り越し呆れ果てていたかもしれない。 「――」  キサラは手に握ったままのロザリオを見つめる。  聖女になる話を保留したキサラであるが、ロザリオは預けられたままだ。それは聖女様が自分を信じてくれている証でもあり、同時に、精霊王の決定は絶対であることの象徴でもあるのだろう。  キサラの意志に関係なく、精霊王から選ばれた時点で未来はすでに決定している。  あとは真正面からそれを受け入れるための切っ掛けが必要なだけ……の、はずだ。 「……」  オリハルコンで精製された金十字は、その大きさに比べてずしりと重い。それは風の聖女として、精霊教会の顔として、精霊王と共にこの世界を守り導いていかなければならない責任の重さでもある。  まだ少女のキサラには、あまりにも重すぎる十字架だ。  それでも聖女として、生涯をかけて背負っていこうという覚悟はある。自分程度がおこがましいだろうことは百も承知だ。他にふさわしい人材だっているに決まっている。だからせめて、自分を選んでくれた風の精霊王とシルフィード様に恥じぬよう、しっかりと、その役目を果たせる大人になっていこう――…… 「……あ」  なんだ、とキサラは思う。  よくよく思い返せば、とっくのとうに自分は心を決めているではないか。ただ、このまま聖女になってしまうと二度とお兄様と兄妹に戻れないから――キサラ・レイシアとして、最後のワガママを言っているだけだ。 「……お兄様」  聖女を継ぐということは、きっと、大変だ。  なにせ世界は一変する。ふさわしい教養を身につけるための勉学は聖ルフィア女学園とは比べ物にならないだろうし、教師よりずっと年上の聖堂騎士ですら自分へとかしずいてしまう。今日まで立って生きてきた足元が崩れ去り再構築されていくさまは、ある種の恐怖を伴っていた。  ただの市民が聖女になるとは、そういうことだ。  だけど、何よりも――兄、リヒトと離れ離れになってしまうことこそが、キサラにとっては一番辛いことなのかもしれなかった。 「――」  キサラはベッドから降りると、そっと窓を明けた。緊張と希望に濡れた瞳が夜空を覗く。  ――輝く月、瞬く星々。雲ひとつない春の空。  綺麗な、夜。  地よ、水よ、火よ、風よ  地よ、水よ、火よ、風よ ……  自然とキサラは口ずさんでいた。  聖ルフィアでの礼拝の時間、学園のみんなと共に歌い上げる祈りの聖歌。シスターを志していたキサラにとってもっとも慣れ親しんだ歌のひとつだ。精霊たちとの共栄をうたったこの歌のことが、キサラは大好きだった。  地よ、水よ、火よ、風よ  地よ、水よ、火よ、風よ  其の道がいかに険しくとも 正義を掲げ、あなたと共に光の世界を目指します  愛を胸に、勇気を友に、永久の誓いを交わしましょう  地よ、水よ、火よ、風よ  地よ、水よ、火よ、風よ ……  キサラの覚悟が、不安が、寂しさが、希望が、夜空へと溶けこんでいく。定められた未来と大好きな家族の狭間で、少女の心はされど、しっかりと自分の未来の姿を見据えていた。  ……その時、だった。  ――――轟!!  爆音と共に夜空が赤く燃え、衝撃波がキサラの長い髪を乱す。突然の事態に思わず目を覆い――改めて夜空を凝視し、異変に気づく。 「……っ!」  夜の闇に紛れるようにしていくつもの影が飛び交っている。それがヒトの形をし、なおかつ争い合っていることに気づくのに数瞬遅れたことは、今朝まで一市民として生きてきたキサラにとっては当然であり、落ち度はない。しかし――それを目に焼き付けることになってしまったのは、普通の少女にとって、あまりにも不幸なことであった。 「あ、ああ……」  怯え、震える声が漏れる。  なのに、あまりにも衝撃的な光景に目を逸らせない。あるいは想像を絶する事態に思考は焼け付き、体を動かすことすら忘れていたのかもしれない。  風が、唸る。  炎が、猛る。  超常の力同士の激突は、しかしあっさりとひとつの結果を描き出す。風を放った誰かは炎の中へと無残に飲み込まれていったのだ。悲鳴が聞こえる。苦痛を訴えかけた誰かは力なくキサラの目の前を落下していく。  ……白い、騎士鎧。  聖堂騎士団の誰かは地面に叩きつけられ、気を失った。そうであってほしいと思う。死んでいる、なんてことは、嫌だった。 「――ぁ」  キサラは力なくへたり込む。  目を覆うも、焼きついた光景は離れない。呼吸が詰まる。喉の奥がちりちりする。こみあがってくるものを、口元を抑え必死に堪えた。身体が寒い。身体が熱い。全身の震えが、止まらない。 「……――、……」  何が起こっているのだろうか。  わからない。どうして大聖堂の空で戦いが行われているのか。どうして人が傷つき倒れていくのか、さっぱり理解が及ばない。  いきなり直面した生と死の狂宴。  それは普通に生きてきた少女が受け止めるには、どうしようもなく、過酷すぎた。  と―― 「キサラ様!」  騒動を知ってだろう。聖堂騎士が二名、息せき切って駆けつけてくる。彼等はそれぞれ剣と槍で武装していた。騎士たちの鬼気迫る表情は、事態の深刻さをいやがおうにもキサラへと突きつけてくる。 「……っ」  キサラは慌てて涙を拭うと立ち上がった。足元がまだ震えていたが、全身全霊をもって平常心を装った。自分は次代のシルフィードなのだから、怯えていたら騎士たちを心配させてしまいかねない。情けないところは見せられなかった。 「いったい、なにが…」 「わかりません。ですが、どうやら敵襲のようです」 「敵襲? 魔術師の…?」 「おそらくは。現在、騎士隊が交戦しております」 「そう、ですか……」  先ほど見た戦闘の一部。  炎を操った殺戮者――あれが、魔術師。魔族と結託し世界の終焉を望む大罪人。そんな人が、近くにいるなんて…… 「……」  キサラは身震いしそうになるが、金のロザリオをぎゅっと握りしめ、耐えた。あくまでも気丈に振る舞う。自身が今まで感じてきた風の聖女を演じ続ける。――あるいは、そうすることで、自身の中の恐怖と戦っているのかもしれなかった。 「ここは危険です。地下へ参りましょう」 「地下?」 「はい。避難施設があります。もちろん騎士団の敗北はありえませんが、キサラ様の身に万一があってはなりません」 「……わかりました。案内を、お願いします」  うやうやしく頷くと、騎士たちはキサラを先導していく。  風の都の中央にそびえ立つ、ウェントゥス大聖堂。  着工から完成まで百年をようした聖王国でも随一の巨大建造物は、絢爛豪華さと静かな神秘性を併せ持ち、見るものすべてを圧倒する芸術の極地だ。その地下には風のマナクリスタルが安置された祭壇があるという噂は、キサラも聞いたことはあるが―― 「市民たちを収容するための避難施設をはじめ、聖堂騎士団の本当の拠点は地下にあるのです。精霊術と機械文明で織り成された強固な結界は、たとえ魔術師であろうと破ることは不可能でしょう」 「シルフィード様も、そちらに?」 「いえ。聖女様は騎士団長以下、数名の騎士を伴い隣町まで出ております。おそらくお戻りになるのは明日でしょう」 「そうですか。よか――きゃあ!」  階段を降りる途中、大聖堂を大きな振動が襲う。遠くから窓ガラスが何枚か割れた音が聞こえてきた。 「……急ぎましょう!」  キサラはこくこくと頷いた。  一階まで降りきると、中庭を囲むように造られた回廊を走って行く。……中庭では、何十人もの騎士たちが倒れている。彼等の大半は焼けていた。彼等の大半は赤かった。彼等の大半は動かない。むせかえるような戦場の匂いに、キサラは軽くめまいを起こした。  その時だ。  コツ、コツ、コツ。  回廊をこちらに向かってくる、誰かの足音が聞こえた。  キサラは顔を上げる。護衛の騎士たちも、そちらを見た。  夜の闇。  そこから這い出てきたのは――――やはり、夜のように黒い男であった。 「……」  その男は黒いコートに身を包んでいた。赤い髪を後ろへなで上げた長身の青年。黄金の瞳は昏く瞬き、真一文字に結ばれた口は強固な意志を感じさせる。美形ではあるのだが、涼やかさや爽やかさとは程遠い仄暗さを感じさせる男であった。  規則正しい足音を響かせていた彼は、キサラたちを前にすると、ゆっくりと足を止める。  キサラはハッとする。  黒いコートに溶け込み分かりにくいが、彼の体には――赤い血が、染み込んでいた。 「あの……大丈夫、ですか」  怪我をしているのではないかと、おそるおそるキサラは声をかける。  赤い髪の男は応えず、鋭い眼差しを向けてきた。  途端―― 「お下がりください、キサラ様!」  護衛の騎士はとっさに飛び出し男へと槍を突き出す。鋭い踏み込みだった。躊躇なく相手を突き殺そうという殺意の一刺し。場数を踏んだ騎士の動きだった。  しかし彼の一撃が男へ届くことはない。  男は静かに身をひねるとあっさりと槍を避わす。そのまま間合いを詰めると右腕で騎士の顔面に手を添えて――炎が放たれる。たった一瞬の、閃光のような業火。倒れた騎士の頭部は黒く焼け焦げ、彼の生存を絶望視させた。 「貴様――!」  状況を理解したもうひとりの騎士は、キサラを守るように前へ出ると、剣を抜く。  キサラもまた、相手の正体を悟る。 「……魔術師……!」  今宵の惨劇の張本人たる赤髪の男は、冷淡な眼差しを伏せると小さくため息をつく。呆れたような、憐れむような、そんなため息だった。そうして――バサリ、と、誇示するようにソレを現出させ広げてみせる。 「な……」  絶句、する。  ソレは黒かった。  ソレは一対あり、背中より生じていた。  ソレは羽撃くモノの証だった。  ソレは、黒い翼、だった。 「――」  金色の瞳がキサラたちを睥睨する。ただ、それだけで、少女は心臓をわし掴みされたかのような濃厚な死の気配を悟る。……思い出したかのように、全身が震えはじめた。心の底からの圧倒的な恐怖が、少女の心身を蝕んでいく。  ソレの存在をキサラは知っている。  知識としてなら、この世界に生きる誰もが知っている。  だが実際にソレと向き合う覚悟を抱いて生きているものが、いったいどれほどいるだろう。五百年前、この世界より大地を滅ぼした恐るべき異端の軍団――魔術師すら凌駕する邪悪こそが、男の正体だった。  ひらひらと……黒い羽が舞い堕ちていく。  そう。  彼等の名は――――…… 「……魔族……」  かすれた声で、キサラ・レイシアはつぶやいた。       § 「お逃げください、キサラ様!」  護衛の騎士は剣を構え、突撃する。絶対に勝てないだろう相手に果敢に挑む彼の勇気は、しかし魔族には欠片も通じない。数瞬の攻防を経て、業火はたやすく騎士の命を燃やし尽くしていった。 「……ぁ……」  ひとり残されたキサラは、怯えまなこで魔族を見上げる。  燃えるような赤い髪に、怜悧に輝く金色の瞳。人の血をたっぷりと吸い込んでいるだろう黒いコートをまとったその姿は、改めて見ても、翼がなければ普通の人間としか思えなかった。  ……それがなおのこと、キサラの中の恐怖を煽る。  魔族――  魔王の眷属として世界を滅ぼそうとする彼等は、時に精霊王に対する精霊に例えられることがある。たしかに超常的な力を持った存在に仕える種族、という意味では似ているのかもしれないが、キサラにはその例えが不快で仕方がない。  だって精霊たちは友人だ。  共に歩み、共に生きる、背中合わせの隣人みたいなものだ。  比べて魔族は世界の敵である。  彼等はこの世界に悪意を持ち挑んでくる。それはもう、絶対に相容れないカタチでだ。  たとえば五百年ほど前、海を隔てた東方の国で魔王のひとりが復活を遂げた。彼女は魔族や現地の蛮族を率いると、聖王国の大地の都を攻め落とし、大地のマナクリスタルを破壊した。  キサラたちが生きるこの新世界は、四大元素のマナクリスタルによって維持されている。  そのひとつである大地を失い、世界は死の危機に窮した。  結果としてかろうじで世界は保たれることとなったが――代償として、多くの人々が死んだのだ。  そして、その惨劇は、今夜くり返された。  庭園の落ちた騎士。事切れた者。かろうじで命をつないでいる者。焼かれた護衛。むせ返るような、戦場の気配。――規模は違えど今夜演じられたのは、死の世界の再現にほかならない。  今まで散々教えこまれてきた魔族という種族への恐怖と嫌悪感は、実物を目にしてなおのこと確たるものとしてキサラの中に根付いていく。それは邪悪を憎む、人としてあるべき正しい姿であった。  そんな少女へと、魔族は冷酷な眼差しを向ける。  視線が、絡み合う。 「……っ」  すがるように金のロザリオをぎゅ……と、握りしめる。  その確かな重みをよすがに、キサラは魔族を睨み返した。恐怖か、あるいは意地か。眼尻には涙が浮かび、震えていたが、歯を食いしばり、視線だけは決して目の前の男からは逸らさなかった。 「――」  時間としては、数瞬。  だけど、キサラにしてみれば永遠にも感じられた時間が過ぎ――……不意に、魔族は口元を和らげる。嘲笑している風ではない。面白いものをみたような自然な微笑だった。 「こんばんは、お嬢さん」  魔族は深々と一礼する。よく通る声だった。 「怖い思いをさせてしまってすまない。いきなりの非礼は詫びよう」  物腰は柔らかく紳士然としている。だが先ほどの残酷な行為を見てしまったキサラからすれば、すべてが茶番、白々しく映るのみだ。 「実はだね、お嬢さん。私は人を捜している。彼女の居場所さえわかれば、お嬢さんには手を出さないと約束しよう。だから、どうか、素直に答えて欲しい」 「……」 「――風の聖女は、どこにいる?」 「……!」  その一言でキサラの恐怖はすべてを突き抜けた。  この男の目的はシルフィード様を手に掛けることなのだ。聖女様の死はさぞや魔の者に希望を与え、生きとし生けるものを絶望に追い込むことだろう。そんな事は許せない。絶対に、許してはいけない。  ここにきて、キサラの意識は強く鋭く研ぎ澄まされていく。  手にしたロザリオを強く握る。  キサラをここまで奮い立たせていた力――次代のシルフィードを託されたという想いが、矜持が、忌むべき魔族と対峙する強さを与えてくれていた。  怯える体にムチを打ち、キサラ・レイシアは凛然と応えてみせる。 「…………教えることなど、ありません」 「そうか」  なかば予想していたのか、魔族の声音に変化はない。  だがその声とは裏腹に黄金の瞳はキサラを値踏みするように酷薄に見下している。全身を舐められるようなすさまじい嫌悪感に、背筋を悪寒が走り抜けた。  やがて、魔族の視線は金のロザリオへと注がれる。  まるで聖女様を汚辱されているかのような気持ちになり、キサラは思わず声を荒らげた。 「あ、貴方は……!」 「……」  その時だ。 「キサラ様!」  新たに十数名の武装した騎士たちが駆けつける。彼等は魔族を包囲するように陣形を組むと剣や槍を突きつけた。魔族はそんな彼等を舐めつけるように、見る。――途端、数瞬だけ、切っ先が震える。騎士たちも制御できない無意識下での恐怖が、体を震わせたのだ。  魔族は呆れたようにこめかみを押さえ、首を振る。  準騎士に、従士。新たに駆けつけた騎士たちは半人前であり、とてもじゃないが魔族と戦える実力などはない。そんな彼等が死に物狂いで戦場に臨んだ理由は、もちろんキサラを助けるためだ。  次代の聖女を救い出す。  その使命感、聖女を失うかもしれない喪失感は、騎士たちの恐怖を軽く上回る。玉砕覚悟で臨む彼等は、されど、死の恐怖を抱えながらもかつてない士気に漲っていた。  もっとも、キサラに彼等の心理心情がわかるはずもない。闘志に燃える騎士たちの頼もしい姿は危機的状況に現れた救世主でしかなく、ただ安堵の吐息を漏らすのみだ。  故に――  金色の瞳が怪しく輝いたことに、気がつくことはなかった。 「――!」  一瞬のことだった。  魔族の屈強な腕がキサラの口を抑え、その体を後ろから抱きかかえる。  まるで盾。  事実として、人質であった。 「な……!!」  騎士たちの間にざわめきがはしる。 「んー! んー!!」  ジタバタとキサラは暴れまわるが、すかさず魔族はその首筋へと手刀をいれる。  静かな、だけど深い衝撃に――――キサラの意識は、たやすく刈り取られていった。      §  魔族が大聖堂の騎士たちと交戦状態になってから、すでに二十分は経とうとしている。  これだけの時間を経て、されど、新たに現れた騎士たちは――未熟者の集団だった。正騎士ですら勝てない相手に準騎士以下が勝てるはずもない。本気で自分を倒す気があるのなら騎士団長クラスの実力者が出てこないとおかしいのだ。 (……まさか)  魔族はひとつの可能性を推測する。  風の聖女シルフィードは……不在なのではないか、と。 (だとしたら、とんだ道化だ)  内心で舌打ちをする。風の聖女を仕留めるために死を覚悟して大聖堂に乗り込んだというのに、肝心の聖女がいないのではまったく意味がないではないか。 「……」  ジロリと未熟な騎士たちを再度睨めつける。  彼等の顔は青ざめ、先ほどまでの闘志をどう振り下ろすべきなのか見失っている。その原因はこの――金髪碧眼の、たわいもなさそうな少女にあるだろうことは容易に想像がついた。 「貴様……!」 「……近寄るな。動けばこの娘の首をへし折るぞ」  事実、ジリジリとにじり寄っていた騎士のひとりにわかりやすく脅しの言葉を投げかけてやれば、思った通りに動きを止めた。  聖人の証である金十字を持つ少女。  彼女が何者なのかは知らないが――せっかくの好機である。せいぜい利用させてもらうだけだ。  ――翼を、開く。  バサリと大きく羽撃いて――次の瞬間には少女を抱えたまま、魔族は高空へと飛び立っていた。  人質のせいか、騎士たちは飛翔の精霊術で追いかけてくるものさえいない。あるいは飛べる術を使えるものがもう残っていないのかもしれない。それとも事態にどう対処したらいいか混乱しているのか。……いずれにせよ、魔族からすればどうということはない小物どもだ。  それでもこれ以上の戦闘を避けたのは、意味がないからだ。  大聖堂を破壊しつくし帰ってきた聖女たちに一泡吹かせる――ということもできるだろうが、もともと聖女を殺す、という一念にのみ従い襲撃を仕掛けたのだ。その対象が不在となっては、今後の方針を含めて色々と検討し直さなければなるまい。  なによりも―― 「……」  気を失い静かに眠りこけている少女。  聖人である少女が魔族の手に堕ちた――それそのものが大聖堂の破壊に勝る精霊教会への最大級の侮辱であり、彼等にとっての汚点になる。そういう意味では今夜の襲撃はまったくの無駄ではなかったのかもしれない。 「は――!」  薄く、邪悪な笑みを浮かべ、魔族は羽撃いていく。  その姿は夜の闇に紛れ、どこへともなく消えていった。                                 つづく 【あとがき】  久しぶりにシリーズ物。勢いとノリで先の展開が変化してった『奈落』と違ってこっちは先の展開まできっちり予定立ててるんで迷走はしない、はず。  あとなるべく文章量減らしてテンポよく。『奈落』みたいに長編化しないようにが目標。  まぁ現時点で16話まで構想してるんで最終的なボリュームは『奈落』とあんま変わんないとは思いますけどね(´・ω・`)