セリカとライティンザの物語、断片 南へ向かう荷馬車の上で、彼――ライティンザ=ブラインド――は、ただ空を見上げていた。 雲が出ている。 その事が急に、彼の胸を締めつけるように感じられた。 馬車が彼の体を揺らすたびにゆっくりと高まる気温、変わりゆく植生、ぬるりと肌を撫でる湿り気が、彼にこれから行く場所への不安を 掻き立てずにはいなかった。 ――私はこれから、知らない土地へ向かうのだ―― 彼の生まれ故郷の周辺は、ほとんど雨が降らない。石と雑木、人を拒むように鋭く槍を立てた仙人掌の類の広がる世界の中で、 故郷のその地だけが、水に恵まれ、穀物を培い、人の営みを支えていた。 この地を生み出した神――ライティンザのみが聞く事を許されたその声は、常に彼に耳打ちした。 「雲は我が力により生まれ、汝の力を以って恵む」と。 ――私の力を以って恵む―― 胸の中で復唱しながら、杖を雲に向けて振る。無論、雲は消えもしなければ、雨を降らせる事もない。 それは、この旅の出発点であるブルームで試した時と、差はなかった。  「雨、降らないですね」思わず浮かんだ言葉が口を衝く。荷馬車が、がたりと揺れた。 セリカは頭を抱えた。横にいるこの黒肌の変人の間抜けな言葉にではない。この馬車旅に至るまでの状況の、全てにだ。 それでも、何とか口を開き、言葉を搾り出す。  「あんた、馬鹿?こんな日が照ってるのに雨なんか、降るわけないでしょうが」 変人は、少し細い目を開いて、意外そうな目をしてこちらを見る。当然の事ながら、自分から付け足す言葉はないので、これ以上しゃべる理由もない。 変人のほうも、これ以上言う事もないのだろう。また黙りこくってしまった。 いつの日かと夢見たステミア王国への旅。アルバートと名乗るニヤけ傭兵にその費用の全額を出してもらう代わりに押し付けられてからというもの、 ずっとこの調子である。この男、話が合うどころか、会った時に自己紹介の一つも行わなかったのだ。  「この人はだな、あの秘密王国フルイトのやんごとなきご身分の人でだな…」 このトウヘンボクを押し付けた傭兵のニヤけ面が思い出される。もう一度見かけたら、あのデカっ鼻ブン殴ってやる。 段差で馬車が揺れ、ふと、変人の方を見る。目が合う。 どうやらずっとこちらの方を見ていたらしい。  「何見てんのよ」苛立ち混じりに、視線に答える。  「いえ、不思議な姿をしているな、と思いまして」 セリカは溜め息をつく。  「言っとくけどね。   これから行く場所にはあんたの様な見た目の人なんて、誰っ一人としていないのよ!?   これからそこらの村娘か何かを見かけるたび、いちいちそうやってジロジロと眺め回すわけ?」  「いえ、最初に見たときと服の感じが違うな、と思いまして」  「あぁ、そういうこと」 軽く指を立ててセリカが説明する。  「あんたがあの時見たのは、要するに仕事着だったワケなの。今着てるのが普段着ね」 そう、私がこいつら――アルバートとこいつ――と出会ったのは、仕事中、大捕り物の最中だった。 仕事とは言っても、既に足を洗った怪盗稼業で私についた二つ名、それを悪用する輩をとっ捕まえるわけで、仕事というより清算に近いものだったが。  「仕事?」 ピンと来ないらしい。  「泥棒さんよ。分かるかしら?イケナイお仕事してるの」  「盗みは、よくないと思います」 あまりの返答にのけ反りそうになるのを何とかこらえる。  「あ、あんたね。泥棒に面と向かって『盗みをするな』って言っちゃう人なわけ?」 変人は目を丸くして答える。  「でも、みんな働いて大地と神の恵みである穀物を手にするのですよ?」  「…あんた、神父さんみたいなものの言い方するわね」  「シンプサン?私はそれを知りません。どういうものなのでしょうか」 セリカは、言葉を返すのを諦めた。  「おう、着いたぞ」 国境手前、河のほとり。ブルームの大地を駆け水を集めたこの大河は、国境前の森深い山岳地帯を前に大きく蛇行する。 山なりにうねったその河はこの地に大きな景観を作り、その為ここを馬車の乗り換えの宿場町として利用し、一時足を止める人々が絶えない。 荷馬車屋の髭男に促され、宿場の少し手前の森の中で下りた、セリカとライティンザ。  「ありがとうございました」 ライティンザは礼を言い、髭男に背を向ける。  「良いって事よ、それよりも」 ライティンザは少し見渡す。 先に荷馬車を下りたはずのセリカの姿が見えない。  「ひぃ!?」 背中から、怯えたような声が聞こえ振り返る。 ライティンザが見たのは 怯える荷馬車屋と その髭の根元にナイフを構えるセリカの姿だった  「いやー儲かった儲かった」 再び宿場に向け歩き出すセリカ。後ろを振り返ると、表情こそ変わりないが明らかに落ち込んでいる変人の姿があった。  「これで…よかったのでしょうか…」  「何言ってんのよ。多分アルバートのおじさんも知っててあの人に頼んだのよ」 事のあらましはこうだ。件の荷馬車屋、人を運ぶフリをしてその度相当な悪さをする事で有名な人間であった。 宿場の手前目立たない場所で人を下ろした後、油断した後ろから襲うのが常套手段で、脅迫で金品を巻き上げていたらしい。 今回もライティンザが後ろを向いた時を狙っていたらしい。そこをセリカが回り込んで御用、というわけだ。 要するにこいつは直に命の危険に晒されたのだが、こいつが気にしているのはもっと別の事らしい。  「でも…その人からお金を巻き上げるのは…」  「何?いい、あの人は何の罪もない人を騙してお金を奪う人なの。   お金さんもあんな人に使われちゃ泣いちゃうわ」  「でも…それを言うならあなたも」  「私?私はいい人だもの」  「でも…物を盗んだりしているんじゃないですか」  「だから、私は使わないの。誰かから盗んだものをお金に買えて、街の子供達に渡す。   誰も不都合はないわ」 返答が返ってこない。答えに窮したらしい。 気分がよくなったせいか、足取りも軽くなる。ふと、セリカの進む道の先から大きな、大きな音が鳴り響いている。 ライティンザは、故郷の事を思い出していた。 故郷には、盗みがなかった。 飢える子供達もいなければ、度を越えて蓄財する人もいなかった。 必要なものを必要な分、私が、いや、神が与えたからだ。 外の世界に来て見てどうだろう。 この世界には盗みが続発している。私服を肥やす人間もいれば、その影で飢えに苦しむ人もいる。 様々な考え方の人がいて、様々に暮らしている。 一人一人が、自分がどうあるかを考え、人生を歩んでいる。 外の世界に神はいない。神がいた世界に生きていた自分にとって、そこは耐え難い修羅の世界だった。 なのに何故だろう。今この外の世界の秘めるものが、自分を形作っている神の力より、ずっとずっと、巨大に感じられるのだ。  「おーい!へーんじーん!」 セリカの、声が聞こえる。石を引きずるように重い足取りで、立ち止まってこちらを呼ぶセリカに追いつく。  「すみません…暑さに慣れないみたいで…」  「いいから、あれ見てみなって!!」 セリカの指差すままに目線を動かす。キラキラと光る幅の広い水面が、山の際で緩やかに真下に向きを変え、下に落ちていっている。 これが、ブルームとステミア、二つの国の国境付近の最大の名所、「大瀑布」である事を、セリカは初めて知り、ライティンザは知るよしもなかった。  「うっわぁあー!すっごい!涼しい!」  「…綺麗だ」 ライティンザは目を奪われた。故郷に留まっていては一生見れなかったその景色。その雄大さにしばらく思考を止めさせられた。 目を移すと、今までのどんな表情よりも輝くセリカの表情が、水面の逆行で印象的に照らされていた。 気が付けば雲は過ぎ、青が空を覆っていた。