それは、誰も望まなかった形。  それは、誰も願わなかった形。  それは――――、あまりにも不幸な偶然より生まれいでてしまった、確かな生命(いのち)。  光苔が淡く輝き照らすだけの広大な地下空洞の中。その中心に巨大で歪な繭が存在していた。それは赤黒く、青黒く、白く、あるいは緑に、黄色に、茶色に、不気味に明滅しながら、まるで胎動するかのようにドクリ、ドクリと脈打っている。  その繭を眺めているのはふたつの人影だ。  さらに彼女たちを遠巻きに囲むようにして黒い異形がひしめいていた。異形の姿は醜かった。鋭い牙が生えそろった巨大な顎、鉄のように硬い甲殻に覆われた四肢に、黒き羽根に尻尾をもつ怪物。かろうじで二足歩行をとっているものの、その瞳からは知性の輝きはほとんど伺えず――どちかといえば、魔獣のソレに近かった。  と――  地下空洞の出入口に、新たな人影が現れる。  瞬間――  異形の群れは、まるで潮が引くかのようにふたつに分かたれていた。かしずき、膝まずき、頭を垂れて道を作る。まるで絶対王者に屈服する黒い道のようであった。事実、知性の伺えないはずの瞳に映るのは恐怖と敬愛と、憎悪と愛情だ。そして、それらの感情を飲み込むほどの圧倒的な力を、新たな来訪者は宿していた。  コツコツ……  足音を響かせながら人影は悠々と歩いて行く。静かな、しかし確かな焦燥が足音からは感じられた。途中、その背より大きく展開されていた甲殻の翼が閉じられ消える。同じく甲殻に包まれた大きな尻尾が、力強くうねっている。  それはやはり異形の少女だった。  人に近いフォルムを持ちながらも、決定的に人とは違う容姿をしている。肌は鮮やかな桃色であり、頭部からは長い触覚が二本生え、衣服の類を見につけてはいない。代わりに小さな胸と腰と局部を覆っているのは甲殻だ。素肌には赤い宝玉のようなものが散見され、まるで複眼のように怪しく灯っている。  異様にして、威容。  上級と分類される異形の姫こそが、彼女であった。 「……姉さん」  桃色の姫は繭までたどり着くと、ふたつの人影へと声をかけた。彼女たちもまた王の血を継ぐ者たちだ。 「――遅かったわね。ソトス」  青の姫君――デュ・ドュ=アブルが妹へと視線を投げかける。デュ・ドゥ=ソトスと違い、凹凸のしっかりした肉体を申し訳程度に甲殻で覆ったその見た目は、異形であるが故に蠱惑的であり、背徳的な性を刺激する。  そんな青の姫は妹のオデコへと腕を伸ばすと、ペチン、とデコピンをかました。 「あなたももうすぐお姉ちゃんになるのだから、もっとしっかりしないと……」 「ごめんなさい……」 「ま、いいじゃないか。間に合ったんだし」  最後のひとり――黄色の姫であるデュ・ドゥ=ファロルはさして気にした風もなく言う。三姉妹における次女である彼女は、どこか大雑把な所があり、さして大きくもない胸も合わさってどこかボーイッシュな印象を与えている。 「ほら、見なよ」  ファロルは繭を見上げる。  姉と妹もそれにならった。  胎動する巨大で歪な繭は――かつては姉妹たちと同じく人型の異形だったものだ。もっと簡潔に言ってしまえば、姉妹たちの父の愛妾の成れの果てだ。彼女たち異形の雌は孕むと姿形を変容し、長い時をかけて胎内で子を育み、出産と同時に死滅する。――もっとも、死んでいるというのなら母体はすでに死んでいる。子を孕んだ時点で本人の意思は消滅し、植物のような存在になってしまうのだから。  ドクン……  ドクン……  繭の明滅が激しくなる。  それに伴い、異形の群れもまた息が荒くなっていく。 「……産まれるのですね」 「ええ」  アブルは感慨を込めた眼差しで、父の愛妾だったものを見上げた。  統一戦争での敗北後――  冥界を追われた。  魔の国を追われた。  夜の国を追われた。  死の国を追われた。  そうして敗走を続けた異形のモノがたどり着いた最後の地こそが闇の国であった。彼女たちにとってありがたかったのは、この地の魔王が異形の殲滅へとあまり関心を抱いていなかったことだろう。魔王軍の目を逃れながら、歴史の闇に葬り去られながら――それでも、彼女たちはしぶとく生き続け、今もこうして種は存続している。 「ついに、この時が来たのよ」  身を潜め続ける屈辱の歳月だった。  だが、それも終わる。  もうすぐ……終わりを迎えるのだ。  繭が、軋む。唸る。かつてない速さで明滅と胎動を繰り返す。異形の雑兵たちが興奮に声を荒げ、大空洞を震わせていく。 「ついに――、ついに!!」  黄色の姫も興奮を隠さない。  なぜなら、訪れようとしているのは新たな家族が生まれるだけの瞬間ではないのだ。異形の雌なら比較的短時間でもって大量に生まれてくる。異形の雌は生涯に一度しか繁殖できないため、そうでなければ種族の繁栄など夢の夢だからだ。事実、ファロル自身も、姉であるアブルも、妹であるソトスも、大勢の姉妹と共に生まれ――選別を超え、ただひとりの姫として生まれた身である。  つまり、逆を言うのなら……  長い長い、長い時をかけて生まれてくるモノは異形の、雄、なのだ……!  ドクリ。  ドクリ――!  まるで悲鳴を上げるように繭がわななく。  場の興奮が高まっていく。  まるで濃密な麻薬にあてられ理性を飛ばされたかのような――狂気染みた場の空気。そしてそれすらを支配する、一際大きな音が異形たちの耳へと届く。繭に亀裂が走ったのだ。中から緑色に濁った汚泥のような液体が溢れでてくる。  途端―― 「おおおおおおおおおおおおおお!!」  異形たちの興奮が最高潮に達し、傷つけあうモノ、傷を舐めあうモノ、共食いをはじめるモノ、自らの首を引き裂き絶命するモノ、雌を襲いはじめる雄、子を食らう親まで出はじめる。狂気と妄執が混ざり合い、ただ本能のまま、剥き出しのままに理性という衣は投げ捨てられていく。  そんな乱痴気騒ぎに背中を押されるように、繭の亀裂はギチギチとましていく。  明滅が明確な光となる。  全身に走った亀裂から汚泥が鮮血のように吹きでていく。  異形の情念が大空洞を侵食する。  ――――そして、その時は訪れる。  眩い閃光の後……役目を終えた繭は粉々になって、崩れて消えた。  母の残骸の中――  ビチャリ、ビチャリと……はいでるように、それは、現れた。  闇統べる覇王の血を継ぐ、唯一の雄。  新たなる盟主を約束されたモノ。  そう……  異形の、王子が――――!! 「……ぅぅぅるうううぅうぅうぅぅぅぅぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおお!!」  嵐の夜。  産声と共に――雷鳴が轟いた。  それはまるで、世界が上げる……断末魔の悲鳴のようであった。    □□□  ラセフォールは学業優秀な少年である。  運動能力も高く、素行もいい。典型的な優等生であるが、それはもちろん彼が他者より努力家であり、真面目な性格であるが故である。そして彼がそのような少年に育ったのは、彼自身が密かに抱えるコンプレックスが原因に他ならない。  ここ、闇の国に住む魔族は獣人と呼ばれ、身体のどこかに獣の特徴を有している。それは獣耳だったり、尻尾だったり、あるいは獣の瞳であったり翼であったり様々だ。だがラセフォールにはそれがない。頭部には二本の立派なツノが生えているが――その由来は獣に通じるものではないのだ。  鬼人。  ラセフォールは鬼人と呼称される魔族だ。  鬼人は別の魔界である夜の国に住む魔族たちであり、長いこと別魔界との接触を避けてきた闇の国においては非常に希少な種族である。というか、闇の国を隅から隅まで調べてもラセフォールしかいないのではないかというレベルでレアなのである。  そんな彼であるから、向けられる人々の視線は奇異だった。集団において異物は排除される。まして少年とその母はふらりとこの町に住み着き始めた余所者なのだ。物心ついた時から周りは敵だらけで、だからこそ周囲を認めさせるだけのものが少年には必要だった。 「……ふぅ」  額の汗を拭う。  今日も少年は朝から勉強に勤しんでいた。通っている町の学校はすでに夏休みだが、かといって遊んでばかりもいられない。堕落すればヒトはどこまでも堕ちていける。それは彼が生まれてからの十年という人生で、嫌というほど思い知ったことであった。 「算数は、今日の分は終わり。次は……」 「らっせぽ〜〜ん」 「…………」 「らっせぽ〜〜ん。おーい。らっせぽ〜〜ん」  どこからか脳天気な声が聞こえてくる。らっせぽ〜んと怪しげな鳴き声を発しているが、もしかしてそれは自分の名前だったりするのだろうか。ラセフォールというなんだか不思議な響きのするこの名前をこっそり気に入っている身としては、微妙な気分になってくる。  まぁ、そんなことは些末事だ。  もっと問題なのは…… 「あ、そこにいましたか、らっせぽ〜ん」  ガバリ、と後ろから抱きつかれる。決して頑丈とはいえない椅子が軋みを上げた。  少年にちょっかいをかけてきたのは、少年と同じ年くらいに見える少女だ。見える、というのがミソで、少女の実際の年齢はラセフォールの比ではない。事実、少女からは見た目にそぐわない色香すら感じられ、その一方で無邪気な童女としての様相も見せている。魔族を見た目の年齢で判断することに意味などないのだ。  とは言え、それでも少女の見た目は幼すぎるが。 「なにしてるんですかー」 「……勉強」 「へぇ、相変わらず勤勉さんですねー。これならベンゾウと名付ければよかったです」 「……なんかそれは、嫌だなぁ」 「嫌ですか」 「大成しなさそう……」 「まぁ、失礼なっ!」  少女の頭部には獣人と呼称される魔族である証として獣の耳が生えていた。ぴょこんと伸びて先端が垂れている、可愛らしいうさぎの耳だ。  そんなうさ耳を揺らしながら、少女は少年の手元を覗き込んだ。 「どれどれ……。これは算数ですか。懐かしいですね。昔は私も電卓片手にカンニングに勤しんだものです」 「それは自慢してるの……? ……お母さん」  ため息混じりに、ラセフォールは言った。  母。  適当なノリで適当なことを言いまくるこの少女は、残念なことに少年にとって母と呼ぶべきヒトである。名前は、シュリア。黙っていれば息子の自分ですらたまに――本当に、本当の本当に、本当にごくたまに、であるが――ドキっとする程度に整った容姿をしているうさぎ獣人の少女だ。  少女、というのも本当は正しくないのかもしれない。  母が生きてきた時間はもちろん息子のそれよりもはるかに長いのだ。しかし十代後半から二十代後半までで外見の成長が止まり長い青年期に突入する魔族において、少女かどうかは結局のところ見た目によって左右される場合が多い。  つまるところ。  ラセフォールにとって母とは、同級生に混じっていても違和感のない容姿をした少女のことなのである。 「……あの、さ」 「なんですかー?」 「ちょっと……その、離れて欲しいんだけど」 「む。つれないですね」 「……勉強の邪魔なんだよ」 「むむむぅ」  シュリアはむくれているが、ラセフォールは正直それどころではなかった。十歳ともなれば少なからず異性というものを意識しはじめる頃である。別に母を異性として意識したことなど全くないが、やっかいなことに体格は同級生たちとほぼ同じなのである。……こう、ベタベタされると、考えなくてもいいことまで考えてしまうのだ。 「お願いだから、そっとしておいてくれよ」 「……はむ」 「うわぁ!」  耳たぶに感じる甘い違和感。何を思ったか、シュリアは少年の耳たぶを甘噛みしはじめたのだ。はむはむ。ペロペロ。はむ。少年は母の束縛を振りほどこうともがくも、やたら強い力で抑えつけられておりそれも叶わない。 「――はぁ」 「……!? ちょ――――お母さん!?」 「ま、これくらいで許してやりましょう」  息子を解放すると、腰に手を当て「やれやれ困ったちゃんねこの子は」みたいな態度でため息をつくシュリア。意味不明なポーズの上に、いったい何を許すのかもさっぱりだが、母の考えなしは今にはじまったことでもないので放置しておく。 (なんなんだよ、もう……)  ラセフォールは算数のテキストをしまうと、次に社会のテキストを引っ張り出す。 「……今度は何のお勉強ですかー?」  構い方が足りなかったのか、シュリアは横からひょいっとテキストを覗き見る。まぁ、後ろから抱きしめられて邪魔されるよりは万倍もマシだろう。 「これは……歴史?」 「そう。この国の近代史」 「意味あるんですかねぇー、それって」  どこか皮肉げに、母は言った。  それは十年前のことだった。  闇の国を長いこと――それこそ創世の時代から――支配してきた魔王、惡兎臣フォルトゥーナが革命軍に討伐されたのだ。民の声を聞かず、ひたすら己の我を貫き通した魔王に対しついに下された裁きの刃。なのに、その革命軍も結局は惡兎臣配下の魔王軍と共倒れになってしまい――闇の国は法と秩序を失ってしまった。  訪れたのは戦乱の時代。  野心溢れる有力者たちが、それぞれ覇を競いあう無法の時代だ。  だが、それも十年の月日を経て徐々に変わりはじめている。  とはいえ―― 「この国の近代史なんて、魔王が倒されました、今荒れてます、で終わりじゃないですか」 「……酷いまとめ方だよ、お母さん」  げんなりする息子から母はテキストを奪い取る。 「さーて、我が息子はどんな教育(せんのう)をされているんですかねー……って、んー?」  シュリアは目を細める。  眉間にシワが寄った。 「魔王軍の正当性……? なんですかー、これ」 「この町、というか地方は、今は魔王軍残党の勢力下だから。こうやって自分たちの正当性を主張してくるんだよ」  そう。  魔王の死より十年。野心溢れる有力者たちによる戦乱は収まりを見せ、現在この国は大きく分けてふたつの勢力が――革命軍の残党と魔王軍の残党が争い合っている。それぞれが貴族をはじめとした有力者とその支配領地を傘下に入れ、互いの領地を奪い合うまさに天下分け目の時代であった。 「ここって魔王軍の勢力下だったんですねぇー。知りませんでした」 「お母さんは新聞読まないもんね」 「失敬な! 四コマ漫画だけはしっかり読んでますから!」 「うん、言うと思った」  そして実際には四コマ漫画すら読んでないのがシュリアという母である。 「それにしても、何ですか、これは」  テキストのページをめくりながら、しかめっ面でシュリアは言う。 「この世界は、再び魔王軍の手により統治されるだろう――っとか。歴史でも何でもない妄言じゃないですか。未来日記かって話ですよ。うへぇ、気持ち悪いっ」 「……お母さんって、昔は魔王軍で働いてたんじゃなかったっけ?」  古巣に対して酷い言い様である。 「そうでしたっけぇ? 昔のことは忘れました。私は過去を振り返らない女なの……!」 「はいはい」  少年がまだ本当に子供だった頃、「私はこれでも軍のお偉いさんだったんですよーすごいんですえっへん」とか散々自慢していたくせにコレである。もっとも、今となっては発言の信憑性すら怪しいが。シュリアの言うことを真に受けて「お母さんすごいや!」と素直に感心していた昔の自分をどついてやりたいと思うラセフォールだった。 「とにかく」  母からテキストを取り返すラセフォール。 「勉強の続きをやるから、出て行ってくれよ。暇なんだったら新聞でも読んだらいいじゃないか」 「三行以上の長文は読まない性分なんで」 「じゃあ内職進めたら? たまってるって言ってたじゃない」 「ひどい! 親を馬車馬のようにこき使って自分はだらだらお勉強に興じるなんて……! いつからそんなに血も涙もない子供になってしまったの……!!」 「ああ、うぜー」  そんな時だった。  コンコン、と――部屋のドアがノックされる。  開けっ放しだったドアの向こう。  こちらを呆れた目で見ているのは、背中より鷹の翼を生やした気の強そうな女性だ。 「まったく。いくら呼び鈴を鳴らしても出てこないから何してるのかと思えば――」  腕を組むと女性は部屋の中へと入ってくる。 「仲がいいのは結構だが、こちらの予定も忘れてもらっては困るぞ、シュリア」  そんな女性に対し、ラセフォールは礼儀正しくペコリとお辞儀をする。 「あ、おばさん、。こんにちは」 「おば……。…………いいけどさ、別に」  しぶしぶ呟いた女性に対し、シュリアは元気よくシュピっと腕を上げた。 「それじゃ遠慮なく。わーい、アンジェリカおばさんじゃないですかぁ。こんにちはー」 「お前が言うな!」 「ワガママですねぇー。それじゃアンジェ・リカオ・バサンで」 「名前っぽく言うな!」 「じゃあどうしろって言うんですか!!」 「普通に呼べよ普通に!!」 「という話は置いといて。何か用事ですかー?」 「お、お前な……」  ゲンナリとするアンジェリカ。そんな母の友人を、息子は同情を込めた眼差しで見つめるのだった。  鷹翼のアンジェリカ。  この町で代々自警団長を務めている家柄の娘で、見た目の年齢は二十代の半ばくらいだ。もちろん実際の年齢はそれを遙かに超えている。かつては魔王軍で働いたこともある腕利きの戦士だったらしいが、先代の自警団長の死を契機に退役し、町へと戻ってきたという郷土愛溢れる女性である。  ちなみにラセフォールたち母子にとって、アンジェリカを一言で表すのならば「恩人」となるだろう。この町が激動の時代に現れた得体のしれない余所者母子を受け入れているのも、アンジェリカの口利きによる所が大きいらしいというのは、少年もつい最近知ったことである。  法と秩序が崩壊し、野盗や魔獣が暴れ、ヒトがヒトを信じるのが難しかった時代。  アンジェリカは、見るからに胡散臭いうさ耳少女とその息子を、信じてくれたわけだ。  そんな恩人に対し母の対応はというと―― 「はて。今日って何かありましたっけー?」 「あった」 「洗濯の日は明後日でしたよねー?」 「明後日だ。今度はちゃんと洗濯物まとめとけよ」 「ゴミ出しは……」 「それは一週間後。というか、いい加減ゴミ出しくらい自分でやってくれ」 「ただ捨てるだけなら喜んで。まったく、誰ですかー、ゴミの分別とか言い出した面倒なヒトは」  勝手にプンスカしているシュリアを、アンジェリカは大きなため息をついて見返した。 「――ま、そんなこったろうと思ってたけどさ」  そして、ひどく冷たい眼差しで、ラセフォールを見た。 「ラセフォール、悪いけど外に出ててもらえるか?」 「え?」 「ああ、ただしあまり遠くへは行くなよ。陽が沈む前には帰ってくるように」 「は……はい。わかりました……」  どうしてだろうか。  アンジェリカは、度々このような鋭い眼差しをする。  そういう時に限って、自分は追い出されて――母とふたり、内緒の話をはじめるのだ。 「すまないな」  きっと――  それは、子供には教える必要のない話なのだろう。 「さて……」  ラセフォールが家を出たのを確認すると、シュリアとアンジェリカはテーブルをはさんで向かい合う。  場所は子供部屋から移動して、初夏の日差しが差し込んでくる居間だ。テーブルの上には客人をもてなすべくクッキーと麦茶が置かれている。もちろんアンジェリカが自分で用意したものだ。対面に座るこのうさ耳少女が、客人をもてなすスキルなど持ち合わせていないことはすでに承知の仲なのである。 「いったい何用なんですかー、鳥タイチョー」 「あの子……」  麦茶でのどを潤すと、どこか遠い目でアンジェリカは言う。 「ラセフォールは……いい子に育っているな」 「――そりゃあ、私の子ですからね」 「ああ、まさに奇跡だ」  うんうん、と感慨深く頷くアンジェリカ。 「……いい子すぎるのも、考えものだがな」 「そーですか?」 「きっと……少しくらい不真面目にひねているのが、……丁度いいんだろう」  この親子との付き合いも、かれこれ十年になる。  生活能力が低いシュリア家の面倒をアレコレと見ているうちに、アンジェリカにとってもラセフォールは家族のような――さすがに息子とは思わないが、……そう、弟のような存在になっていた。  だからこそ、気になることもあるのだ。 「…………」 「なんですかー?」  この、一見脳天気でありながら、心の奥底では全てを穿って見ているような――少女。  彼女と、その息子。  今でも鮮明に思い出せる。  十年前の嵐の夜、突然現れた少女と赤子のことを―― 「……あの時は、本当にビックリした」 「はい?」 「まさか、またお前と顔を合わせることになるとは……」  アンジェリカは伏し目がちに言う。様々な思いがこもり、複雑な感情が言葉のはしに浮かんでいるが、当のシュリアは肩をすくめるだけだ。 「前にも言いましたけど。私たちって以前お会いしたことあったんでしたっけ? 記憶にないんですけどー」 「――なんでもない。忘れてくれ」 「忘れましょうとも」  シュリアはクッキーをかじる。  もぐもぐとよくかんでから、ごっくんと飲み干した。 「で。私に何の用なんですかね」 「…………」 「何か言いづらいみたいですけどー。あなたが私に助けを求めてくるのなんて、決まって、いつも、呆れるくらい、毎回同じことでしょー?」 「……ああ」 「その怪我の理由ですか?」 「……気づいてたのか」 「私の目はごまかせませんよー。ふふん、どうやらこっぴどい目にあったようですねー」 「楽しそうに言うな」  自らの左腕をさすりながらアンジェリカは口を尖らせる。 「バイトのお時間ですね」 「……とは言え、今回は少し勝手が違うのだがな」 「と、言いますと?」  シュリアは不敵な笑みを浮かべる。  アンジェリカはどこか悔しそうな顔で、少女から目線を逸らした。  ポツリと、言う。 「……魔獣が、出現した」 「魔獣?」  ラセフォールは不吉な単語に顔をしかめる。 「そう、魔獣」  河川敷で寝転がりながら、アイザック少年はラセフォールに唐突な話を振ってきた。  川の流れる音。  どこからか聞こえてくる、蝉の声。  家を出たラセフォールは友人であるアイザックの元へと赴き、一緒に外で遊ぶことになったのだ。  アイザックは金色の髪が美しいナマケモノの獣人で、優等生過ぎるが故に孤立しがちなラセフォールとも気さくに接してくれる、鬼人の少年にとっては気の置ける数少ない相手である。事実、今日も家に遊びに行くなり「待ってたぜ! 約束してたもんな」など意味不明なことを口走り「母ちゃん、俺ちょっと出かけてくるから」「コラ! 待ちなさいアイザック! 宿題進んだの!?」「帰ってからやるー」「まぁ、こら!!」「うっし、んじゃ行こうぜラセっちゃん」などと快くラセフォールに付き合ってくれた。帰宅した後の彼の運命には軽く同情を禁じえない。自業自得だが。  それはともかく。 「最近さ、魔獣が出るらしいんだよ」 「マジでか」 「そ。結構騒ぎになってるんだぜ。やっぱ知らなかったのか」  ラセフォールの家は町の外れの外れにある。余所者にはそんな場所しか与えられなかったのだが、家があるだけありがたいし、住む上で大きな不便もなかったので(学校や商店街が遠いのが不便といえば不便だが)不満を抱いたことはない。ただ、こういうヤバそうな情報が入ってこないというのは……正直、どうなのだろうか。 (……人付き合い薄いからなぁ、うちは)  学校が夏休みのためラセフォールは最近町へと出ていなかったし、出ていたとしても鬼人の少年は相変わらず腫れ物扱いである。しかも母は他者とまともなコミュニケーションを取れないヒトであるわけで……  ……結局、シュリア家は十年経っても町からは孤立している、ということだろう。  だからこそ、アイザックやアンジェリカの存在は少年にとってありがたかった。 「知らなかった。そっか、魔獣か……」 「家畜が結構食われたんだってよ。噂じゃ、ヒトも、らしいけど」 「そっか、それでか」  アイザックと町を散策している間、自警団員を何人も見かけている。どこかピリピリした空気から、なにか事件があったのだろうとは思っていたが……魔獣とは。  魔獣。  それは凶暴にして凶悪な獣のことだ。  普通の獣と違い彼らは積極的にヒトを襲う。知能も獣とは思えない程度には高く、口から炎を吐いたり羽撃きで風を起こしたりと、厄介な能力を備えていたりもする。例えるなら地上世界で言う所の魔物(モンスター)であり、一般市民は度々彼らの脅威にされされることとなるのだが―― 「これ以上の被害がないといいけど」 「おっかねーよな。お陰で気が弱いボクの心はビクビクだ。宿題すら手につかないぜ」 「…………」  話のおかしい曲がり方に、ジト目で友人を見つめるラセフォール。  大げさなアクションで嘆いてみせるアイザックの金髪が、キラキラと輝いている。 「でさ。ラセっちゃんは宿題進んでる?」 「もちろん」 「俺さぁ。宿題ちっとも進んでないんだよ」 「知ってる」 「なん……だと……。そこに気づくとは……やはり天才か」 「ちなみに見せないぞ」 「っ……。…………ケチ」 「まだまだ先はあるんだから、明日からでもじっくりやっていけば終わるって」  宿題なんてそうなるように出来ているのだ。  終わらないのはつまるところ、当人の激しい怠慢に他ならない。 「はぁー。でもさ、やれやれーって言われるとやる気なくなるよな?」 「……そういうもんか?」 「うちの母ちゃんなんか口癖のようだぜ。もっと子供の自主性というものを尊重してくれてもいいんじゃないかよ、なぁ?」 「うーむ」  同意を求められても困る、というのが正直な感想だ。  何故ならラセフォールは母に叱られた記憶がない。何かあれば叱ってくれたのはアンジェリカだし、むしろ悪化する事態をニヤニヤ眺めているような母を逆に叱るのが自分の役目だった。  だから、アイザックの言うことは、よくわからない。 「ラセっちゃんとこはいいよなぁ」 「何が?」 「母ちゃん優しいじゃん」 「は?」 「いつもニコニコしてるし、可愛いし、ノリいいしさー。羨ましいぜー」 「…………」  信じられないモノを見るような目で友人を見つめるラセフォール。  もしかして自分とアイザックは別の世界線で生きてるんじゃなかろうか……?  それとも、他所様から見たらあんなんでも魅力的なのだろうか……? 「……わからん」  この世の不条理に、少年は頭を抱える。  その時だった。 「――――……きゅー!」 「……なんだ?」  どこからか聞こえてきた何かの鳴き声に、少年たちは立ち上がる。  河川敷を駆けてくる、小さな影。  それは少年たちの足元まで跳ねてくると、力尽きたかのようにべチャリとうずくまった。 「これって……魔獣!?」  アイザックが驚きの声を上げる。 「きゅうぅ……」  バタンキューと倒れているのは、一見して魔獣であった。なにせ手もなければ足もなく、胴体すらない。ぷよぷよしてる顔だけで動き生きている珍生物であった。 「まさかこいつが――……ねーな」  魔獣の大きさはヒトの顔程度である。これで家畜やヒトを食い殺せるはずもない。それ以前に、スライムみたいでなんか弱そうだ。 「死んでは、いないか」 「あ、おい」  ラセフォールが止めようとするも、アイザックは興味本位でバタンキューへと手を伸ばしていく。魔獣は化物である。この一見無害に見えるぷるぷる生物も例外ではないかもしれない。触った途端にバクリっと腕を食べられてしまう可能性もあるのだ。  もっとも。  ぷるん。 「……おっ……ぁは――」  ぷるん。  ぷるん。 「あ――あぁ、あっ――」  ぷるん。  ……この珍生物については、実際に無害っぽそうであるが。 「うわぁ……なんかこいつ気持ちいいぞ。ラセっちゃんも触ってみろよ、ほら」 「いや……いい」  なんか恍惚とした表情でバタンキューを撫で回しまくる友の姿に、ラセフォールはちょっとだけドン引きしたのであった。 「それにしても――ぁ、何だろうな、……ふぅ、こいつ」 「ううむ……」  ラセフォールはぷるんぷるんを堪能している友を押しのけ(アイザックはかなり不服そうだったが)魔獣と思しき生物を観察する。体色は青く、顔にして体は丸っこい。頭頂部が尖っており、口と目つきはなんかアホっぽかった。なんとなく、酔っ払った親父がしていそうな表情(かお)だな、と思う。……無論、父親を知らないラセフォールの偏見だが。 「なぁ、こいつ――」 「何かわかったのか、ラセっちゃん」 「……こいつ、よく見ると――」  言いかけた、その時だ。 「いたぞー!」  ちょっと野太い子供の声が聞こえてきた。  振り返るとラセフォールたちより二、三歳ほど年上と思われる少年が三人、こちらを――正確には足元のぷるんぷるんを――睨みつけながら仁王立ちしていた。……見覚えがある。確か隣町のガキ大将たちだ。 「おい、お前たち! その怪物をこっちへわたせ!」 「言うこと聞かないとぶん殴るぞ!」 「そうだそうだー!」 「――――」  なるほど、とラセフォールはひとり納得する。  謎の珍生物はよく見ると体中が傷だらけであった。おそらくこのガキ大将たちに襲われて、傷を追いながらも必死にここまで逃げてきたのだろう。 (さて……)  これからどうするべきか。  ガキ大将たちに魔獣を素直に渡す、というのが一番平穏な選択肢だろう。さっき出会ったばかりの、しかも魔獣をかばいだてする意味など皆無だ。渡された先でこの傷だらけのスライムがどのような末路を迎えようと、気にすることはないとも思えた。  その一方で、魔獣とはいえ傷だらけの弱者を、凄惨な未来が待ち受けていると知りつつ渡すことに激しい抵抗もあった。もしかしたら自分は、この魔獣を犬や猫と同列に扱っているのかもしれない。だとしたら恐ろしいことだと思う。おそらくまだ子供であろうこの魔獣も、成長したらヒトを食い殺す化物になるかもしれないのだから。 「…………」  どうしたものかと思案を巡らせる。  もしも素直に渡さない場合は年上の少年たちと取っ組み合いのケンカになるだろう。その場合の勝率は――あまり考えたくはない。ラセフォールもアイザックも決してケンカ馴れはしていないし、何より体格の差は大きい。成長期の少年にとって数年の年齢差は大人と子供のそれであり、まして人数も相手の方が優っていた。  ケンカになれば負けるし、痛い思いをしてまで魔獣を守っても、いいことなんて、きっとない。  結論は見えているのに、それを決断しきれないのは――優等生であるラセフォールという少年の良いところであり、悪いところでもあった。 「…………」  悩む。  当然の帰結をとるべきか、自分の中のちっぽけな良心を信じるべきか。 「…………」  悩む。  悩んで―― 「――――ひっ」  ガキ大将と目があった途端、悲鳴を上げられた。  顔を青ざめさせ、まるでこの世のものとは思えない怪物を見てしまったかのように、恐怖に体を震わせる。 「き、きょきょきょ今日はこれで見逃してやるからな!! お、覚えてろよー!!」 「まってくれよ、兄貴ー!」 「うわああああああああああああ殺されるーっ!?」  ……などと叫びながら。  あっという間に、ガキ大将たちは逃げ出していた。 「…………」  周囲を見回す。  相変わらずの風景に変化はない。残されたのは自分と、アイザックと、足元の魔獣だけだ。いったいガキ大将たちを怖気付かせ、逃げ出させたのは、何だったのだろうか――? 「……?」  ぽん、と。  アイザックがねぎらうように肩を叩いてきた。  困惑するラセフォールに、感嘆の息を漏らしながら友は言う。 「いやー、お前って怒るとホント怖いのな。顔が」 「…………」  承服しかねるラセフォールだった。  アイザックと分かれ、家へと続く帰り道――  夕焼けに染まる世界の中で、ラセフォールは母と自分の関係について思いを馳せていた。 「――――」  母のことを優しそうだと友は評していた。  しかし実際はそうではないことを自分は知っている。母は自分を叱らないし、褒めることもない。あってもそれはポーズだけで、本当に心から、本心から自分にぶつかってきたことなんて、一度もないのではないだろうか。  果たしてそれを――優しいなんて言えるのか。 「――――」  ラセフォールとシュリアは実の親子ではない。  そんなことは自分も、アンジェリカやアイザックだって百も承知だ。生まれてくる子供は母胎と同種族となる――なんてことは疑うまでもない世界の常識であり、うさぎの獣人であるシュリアからは鬼人であるラセフォールは絶対に生まれない。この常識に囚われないのは地上世界に住む豚の亜人オークのみだが、それこそ魔族であるシュリアと自分には何の関係もないことだ。  つまりラセフォールの本当の母は、かつてこの世界にいただろう鬼人の女性ということになる。闇の国にいた鬼人といえば、有名なのが惡兎臣フォルトゥーナの側近であった闇元帥ハーディアスだが、彼は男であるため少年の母には該当しようもない。そも、他の魔界との接触を可能な限り避けてきた闇の国である。鬼人の女性がこの国にどれだけいるか――それがまず大きな疑問であった。 「…………」  はぁ、とため息をつく。  いけない。  思考が脱線している。自分を生んだであろう本当の母のことが気にならないといえば嘘になるが、探しだそうとまでも思えなかった。そこまで執着しているわけでもないし、今の生活に大きな不満があるわけでもない。はいかいいえで答えるとするならば、ラセフォールはシュリアという母を肯定するだろう。  ただ……  やはり、自分と母との関係は不自然なのではないかと、強く思う。  母はよく微笑む。  母はよく自分と遊んでくれる。  母は世間的には、優しい母なのであろう。  だけど――――……どうしようもない距離感みたいなものを、最近は感じてしまう。それはおそらく、ずっと少年の中で降り積もってきたものだ。積もり重なり大きく膨れ上がった違和感は、思春期を迎えようとしている今、少年の心を否が応でも激しく揺さぶってくるのだ。 「はぁ……」  もやもやした気持ちを引きずりながら、家路を急ぐ。  ……その後を追いかけてくる影があった。 「――――」  振り返ると、青いスライムがこちらを見上げていた。  あれからこっち、今までずっとこの魔獣は少年の後をついてくる。どうも先程の一件で懐かれてしまったようだが……正直、困るというのが感想だ。まさか魔獣を飼うわけにもいかない。……いや、あの母なら「面白そうですねー」とか言って飼いかねないが、町のみんなに見つかればただではすまないだろう。ガキ大将たちがこのスライムを攻撃したのは決して彼らが乱暴者でイジメっ子だからではない。魔獣は倒すべき敵ある――それは魔界に生きる者たち共通認識なのだから。  とはいえ…… 「きゅー?」  顔に似合わない可愛らしい鳴き声を上げてくるこの生物を、無下に追い払う気力が沸かないのも事実であった。 (どうしたものかな……)  考えても答えはでない。  そうこうするうちに、家へと着いてしまった。 「…………」  魔獣はのんきな顔で今もラセフォールに寄り添っている。これを思いっきり蹴っ飛ばすことが出来たなら、それはどれだけ楽なのだろうか……。もちろん自分がそんな真似をできないことを、少年は誰よりもよくわかっている。 (――ええい、もうどうにでもなれ)  半ばヤケになりながら少年は自宅の扉を開いた。 「ただいまー」  声をかけるも返事はない。  家の中は、暗い。  人の気配は――なかった。 「……いないのか」  ちょっとだけ、ホッとする。母は……また夜の仕事にでも行っているのだろう。  普段はろくに働きもせず、まれ〜〜〜に内職などをして生活費を稼いでいるシュリアだが、それだけで親子の生活がまかなえるはずもない。だからなのか、母がこうして不定期ながら夜中に何かの仕事をしていることを、ラセフォールは知っていた。仕事の中身までは知らないが、あのアンジェリカの斡旋なのである。危険だったりやましかったりはしないだろう。 「……ん」  冷蔵庫から麦茶を取り出すと、のどを潤す。  続いてミルクと皿を用意すると、家の中まで着いてきた魔獣へとくれてやる。皿へ注がれたミルクをペロペロと舐めはじめた。なまじ顔が気持ち悪いだけに、その光景はすでに不気味を通り越して圧倒的に気色が悪かった。 「えーと……」  続いてラセフォールは救急箱を探す。小さい頃はやんちゃで、よく外で怪我をして帰ってきては自分で手当をしたものだ。母はその辺りも放任主義で、薬がしみて痛む息子を前に「気合と根性ですよー、勝利はすでに目前です!」とか言ってるだけのヒトだった。そのため完全に我流となるが、何もしないよりはマシだろう。 (――魔獣に効くのかは別問題だけど)  ミルクを飲み終わった魔獣を抱え上げ、自らもソファーの上に座るとあぐらをかく。魔獣を足の上に横たえた。横というのかどうか怪しい容姿ではあるが、まぁ、あまり深く考えても仕方がないだろう。  魔獣の体は擦り傷だらけだった。所々に打撲のような後もある。よほど手酷くやられたようだ。ラセフォールは頭(と思われる場所)を撫でながら傷薬などを塗っていく。くすぐったいのか、魔獣はぷるんぷるんと震えている。確かにこの感触は……気持ちがいいかもしれない。 「これでよし、と」  最後に包帯を巻いて、魔獣を床の上へと降ろしてやる。魔獣はしまりのない顔でぺこりとお辞儀をした――ように見えた。完全我流の手当方法だし、魔獣に対してどれだけ効果があるのかも疑問だが、喜んでくれたのならこちらも嬉しかった。 「さて……」  窓際まで向かうと空を見上げる。  陽はすっかり落ちており、見渡すかぎりの黒い夜空が広がっている。星々が瞬いていた。  魔界の夜空。  かつては赤く染まっていたらしいが、十年前――惡兎臣が倒された頃と時を同じくして闇の国の景色は変わったという。黒く晴れ渡っていた昼の空は青色に、赤く彩られていた夜空は黒色に。それは地上世界ルネシウスと、つまりこの世界が奈落に堕とされる前と同じ空の色だ。  いったい闇の国に何が起こったのか、それを知るものはいない。  わかっていることは、闇の国は魔界においてただ唯一、堕とされる前の世界を取り戻せたということだけ――――らしい。  かつての世界を知らないラセフォールには、そのことに対する感慨も実感もないのだが。  でも、まぁ……  昼間が黒かったり夜が赤かったりしたら、気持ちが悪いだろうなとは思う。 「お母さん、大丈夫かなぁ」  この暗い夜の下で得体の知れないお仕事に精を出しているだろう母の身を案じながら、ラセフォールはいそいそと夕食の準備をはじめる。多めに作って残りは明日の朝にも食べれば手間が省けるだろうし、それに…… 「そうだな、せっかくだし」  朝帰りするだろう母の、好物でも作って上げようと考えて―― 「きゅぴ」 「ん、どうし――」  振り返った先。  そこにいる異形に――――少年は声を失った。 「にんじん食べたい……」 「は?」 「なんだかお腹すいてきました」  自警団の詰所にて、だらしなく机に突っ伏しながらシュリアは言う。他の自警団員からの冷たい視線がざっくり突き刺さっているが、本人はもちろん平気のヘーである。 「……頼むから、もうちょっとシャキっとしてくれ。でないと、私の立場までないじゃないか……」  アンジェリカがこっそり耳打ちしてくるも、その長いうさ耳は飾りなのかシュリアの態度が変わることはなかった。  今、ふたりがいるのは自警団の詰所の一室だ。  一ヶ月程前――  町の家畜が魔獣に襲われる事件が発生した。それは一度ではなく、日を開けて二度、三度と続き、ついにはヒトが食い殺される事態にまで発展してしまった。その間、自警団とて遊んでいたわけではない。昼夜問わず町を見回り魔獣の襲撃に備え、ついに標的を捉えることにも成功した。だがアンジェリカの剣は届かない。あそこまで凶悪で力強く荒々しい生命(いのち)を、アンジェリカは見たことがなかった。  結局――自警団長が全力を尽くしても、魔獣に傷をつけることしか出来なかった。  このままでは……駄目だ。  情けないことだが、アンジェリカ率いる今の自警団では魔獣に対処しきれないのだ。  だからアンジェリカは決断した。  この……町外れの外れに住むうさ耳少女の力を借りることを。 「ああー、暇ですねぇ〜。キャロットジュースでもいいから飲みたい」 「そんなものはないから、我慢しろ」 「鳥タイチョーのいけずぅー」 「……こいつは」  軽く頭痛を覚えるアンジェリカだが、実はこうなることは想定の範囲内だ。今まで何度かシュリアを裏の仕事に連れ出したことがあるが、いつだって彼女はやる気がなく、そして適当だった。  はじめて会ったあの頃から……全く変わっていない。 「――――」  ふたりの出会いはアンジェリカがまだ国軍に務めていた頃にまで遡る。平民出ではあるが腕のたつ戦士として武功を上げたアンジェリカは、方面軍から中央軍――魔王のお膝元である首都クリスタルファンタジアへ栄転となったのだ。  そこでアンジェリカが仕えることになったのが誰あろう、このシュリアである。  彼女は将軍と呼ばれる上級軍人のひとりであった。  上級軍人は無能な貴族が見栄をはるためだけに務めていることも多い。なので最初はシュリアもその手のヒトだと思っていた。なにせ普段の言動はふざけているし、何事もテキトーだし、とてもではないが上官として信用に足る人物とは思えなかったのだ。  だが、それは杞憂に終わった。  彼女は貴族の出でありながら決して無能などではなかったのだ。シュリアに付き従い共にした初の戦場で、アンジェリカは計り知れない衝撃を受けることとなる。大鎌を武器に戦場を駆ける少女の姿。普段と同じく道化でありなあら、研ぎ澄まされた刃となった少女の威容。  圧倒的な力の差。  絶望的なまでの、世界の違い。  それを生まれてはじめて――アンジェリカは目の当たりにしたのだ。  最初に感じたのは、強烈なまでの憧憬だ。  次に感じたのは、――――どうしようもない、諦観。  ……やがて父の訃報を知ったアンジェリカは、自警団を継ぐために故郷へと帰ることを選択した。その理由は故郷への愛だけではない。自分の力など所詮は井の中の蛙だと思い知ったからだ。アンジェリカの力などこの国の中枢においては有象無象。ならば、少しでも故郷のために役立てたいと願ったのだ。  そうして、アンジェリカが退役してから数年。  惡兎臣フォルトゥーナが倒されてこの世界は動乱の時代を迎えた。町を守るためより一層気合を入れたアンジェリカだが、嵐の夜に、もう二度と会うことはないと思っていたシュリアと再会してしまい――その歯車は、大きく狂いはじめる。  相手は自分のことなど覚えてはいなかった。  さもありなん。シュリアのような遙か高みを生きるものは、自分のような底辺の存在など気にかけるはずもない。そのこと自体については疑問もない。だが、彼女が抱き抱えていた鬼人の赤ん坊には興味を惹かれた。  この生きたちゃらんぽらんと、赤ちゃん。  異常な組み合わせとしか思えなかった。  さしあたって、アンジェリカは町長を説得しシュリアたちを町に住まわせることに成功した。かつての上官に対する親切心もあるが、実のところ彼女がシュリアを引き止めたのは打算的な思惑によるところも大きかった。  ――シュリアの力があれば、この町を襲う野盗や魔獣など屁でもないのではないか?  結果は、その通りだった。  自警団の手に負えない野盗たちが現れた時、アンジェリカはシュリアへと救いを求めた。生活費の足しにするため――あるいは面白半分で――シュリアは快くそれを引き受け、この町を守ってくれた。  もしも彼女がいなかったなら、このちっぽけな町は激動の時代に飲み込まれ、滅びさっていただろう。  だからアンジェリカは監視する。  何くれと世話を焼くふりをして、シュリアという最終兵器が自分から逃げ出さないように首輪をつける。かつては見上げるほどの高みにいた少女が、翼を持ちながら地を這うしか出来なかった自分の下で働いている――そう思うと、黒い愉悦と共に、己のあまりの矮小さに泣きたくなってしまう。しかしそれでも、アンジェリカはシュリアとの関係を断ちきれなかった。  シュリアが向けてくる微笑。  何もかも見透かしたような、その微笑み。  ……本当に利用されているのは誰なのか。  ……本当に、玩具にされているのは、誰なのか。 「どうかしましたかー?」 「あっ――い、いえ、なんでもありませ――」  不意に声をかけられ、アンジェリカは上ずった声で、しかも昔の口調で喋ってしまう。  かつての上司を相手に、タメ語で話す……  相手が自分を覚えておらず、なおかつこの町では自分の方が地位があるために自然とこうなったのだが、やはり黒い感情が沸き上がってくるのは抑え切れない。自分を素直に慕っているラセフォールは、こんな嫉妬にまみれた自分の本性を知ったのなら、どう思うのだろうか…… 「なんですーその喋り方は。気持ち悪いですねー」 「……気にしないでくれ」  アンジェリカは軽く首を振る。  話題をそらすように視線を彷徨わせ、――何かを思い出したかのように、再びシュリアを見た。 「そういえば……最近、ラセフォールのことで気になることがあるんだが」 「ショタコンですか、キモッ」 「そういう話じゃないから! お前とあいつの話だよ!」 「私と?」 「ああ。……なんだかな、最近、ラセフォールがちょっとお前に対してよそよそしいんじゃないかと思って」 「そうですかー?」  気のない返事を返してくるシュリア。  相変わらず机に突っ伏しだれている。息子のことに興味はないのだろうか……? 「私たちは仲良しこよしの親子ですよー。鳥タイチョーだって知ってるでしょ?」 「仲良し……ね」 「何か文句が?」 「別に。……あぁ、いや。――あると言えば、ある」 「んー?」 「……前から思ってはいたんだが……お前って少し冷たくないか?」 「……」  もっさりとシュリアが顔を上げる。  やる気のなさそうな赤い瞳の中で、アンジェリカの姿がゆらゆらと揺らめいている。 「――心外ですね。私ほど優しいお母さんはいないですよ」 「……お前のは優しさとは違うだろ?」  頭をかきながら、言葉を探すようにアンジェリカは唸る。 「あー、んー。……何というかさ。仲は良いんだけど――同じくらいに、見えない壁みたいなものを感じるんだよ」  伊達にこの母と息子を見守ってきたわけではない。  いつからか感じるようになった違和感は、少年の成長と共に確固たるものとして表層化してきている。それは、もうひとりの家族であるアンジェリカにとっても頭を抱える問題であった。  いったい何が原因なのか。  それにより、ふたりの間で何がずれてきているのか。  詳しくは分からない。  とはいえ、少しずつ軋みずれていく歯車を傍観し続けるのも、躊躇われた。 「……ラセフォールだって、そろそろお年頃だろ。お前とだって、今までみたいな関係ではいられないんじゃないか?」 「なにそれエロい」 「茶化すなよ」  ――不意に、シュリアの瞳が色を帯びる。 「とにかく、思春期ってのはやっかいなんだ。まして母子家庭なんだし、それなりに心構えというものを――」 「――――しっ!」  有無をいわさぬ静かな迫力で、シュリアはアンジェリカを黙らせる。 「……来ましたねー」  短い言葉。  だが、それだけで全てが伝わった。  一瞬にしてアンジェリカの顔が引き締まる。シュリアの口の端がつり上がる。 「……場所は?」 「東の方。作戦はプランQ、ブラッディフェイクブーゲルンガーディで」 「意味は分からんが了解した」  頷くとアンジェリカは詰所で控えていた部下たちに支持を飛ばす。それを受けて自警団員たちが行動を開始した。 「さて……それじゃ私たちも行きましょうかー?」  シュリアが大鎌を手に取った。彼女のために自警団が作ってくれた(というか作らせた)専用の武器だ。アンジェリカも愛用の剣を手に取ると、ふたりは詰所を飛び出した。  月明かりの下。  鷹翼のアンジェリカは空を羽撃く。速い。地を駆けるものでは到達し得ない、翼あるものだけが辿りつけるはずの速さ。しかしシュリアは驚異的な跳躍力で屋根から屋根、木から木へと跳ね、悠々とついてくる。いや、こちらに速度を合わせているのだろう。彼女が本気を出せばアンジェリカなどとっくに置いていかれているはずだ。 「……ひとつ聞いていいか?」 「なんですかー?」 「どうして魔獣が来たってわかるんだ?」 「愚問ですねー」  ふふんと少女は笑う。 「そんなの、この町全体の気配を探るだけじゃないですか。明らかな異物がやってくればそれはすなわちー、敵ですよ」 「……なるほど」  苦笑する。  つまり、常人では到底できっこない方法をご使用になったというわけである。  ふたりの立てた作戦はこうだ。  まず自警団による夜の見回りを取りやめる。これにより魔獣にスキを見せおびき出しやすくさせ、やってきたところをシュリアとアンジェリカで撃退する。他の自警団員は万が一――魔獣が町の中へ逃げ出した場合など――に備えて住民の警護や避難のために動いてもらう。「魔獣程度で大げさですねー、仕留め損なうとでも思ってるんですかコノヤロー」とはシュリア談だが、相手の恐ろしさを身を持って知っているアンジェリカは住民の避難ルートの確保だけは絶対に譲らなかった。  それにしても、見回りなしにどうやって魔獣を発見するのかと思えば…… 「本当に……底が知れないな。お前は」 「どうもですー」  にこやかにシュリアは笑う。 「でもこれ、私のししょーの技なんですよねー。いやーぶっつけ本番で成功してよかったよかった」 「…………」  返す言葉もなかった。  ――そうこうするうちに、ふたりは目的地へと到着する。  町と、町を囲む森の境目にある草原だ。  しかし……そこには誰もいない。  魔獣の気配など、しない。 「……シュリア」 「あっれー。おっかしいですねー」 「…………」  この少女の言うことなど信用せずに、こっそり見回り組を配置しておけばよかった……そういう後悔の念が強くなってくるが、本当に外れだったのかもまだ分からない。襲撃の可能性を視野に入れつつ、アンジェリカは周囲の探索をはじめる。  ……ほどなくしてソレは見つかった。  草原に横たわる、まだ生暖かい動物の死骸。  大量の血で草原を湿らせただろう無残な骸は、まるで巨大なアギトに引きちぎられたかのような凄惨な姿を晒している。異臭が風に乗って漂い、アンジェリカはむせこんだ。 「これって頭ですかねー」 「え……?」 「ほら。胴体とさよーならしてますけど、これって、これの、頭じゃないですかー?」 「――――」  息を飲む。  シュリアが指し示した先にあったのは――左目に大きな傷が残る、屍体の頭部であった。  見覚えがあった。  いつかの夜。  決死の思いで魔獣の左目を斬り裂いた記憶が蘇る。  そうだ……  黒い屍。  その全てに、見覚えが、あった―― 「実はですねー」  シュリアが言う。 「今さっき、気配探知再開してみたんですけど。森の方でこっちを視姦してる怪しげな気配が三つほどあるんですよ。……さて、どう思います?」  直後だった。  森の中からすさまじい勢いで黒い影が飛び出してくる。瞬時に反応したシュリアは大鎌を構えると影へと逆に突撃し、――その体を真っ二つへと両断した。  血の雨が降る。  だがその色は……濃緑だ。 「な……」  事態についていけないアンジェリカは、ただ呆然としているしかない。 「どうやら――魔獣騒ぎなんて前座だったみたいですねー」 「な……なんだよ、こいつは」 「来ますよ」  森の中から今度はゆっくりと、間合いを測るようにして――異形が現れた。  歪な形。  前かがみに歪んだ巨躯。腕は長く細く、しかし力強い。背中にはコウモリのような大きな翼を持ち、全身は鋼の甲殻に包まれている。頭部には鋭い牙が並んだ、顔が裂けるほどの巨大なアギトが開いており……それはどこか、血生臭かった。  醜悪だった。  見るだけで心が腐っていくような……そんな、あまりにもおぞましい生命。  こんな生物が存在を許されていることこそが、生きている全てのモノへの冒涜であると迷わずに断言できてしまうほどの、桁外れの醜さだった。  だから――  心が、折れる。  魔獣と戦っても折れることのなかった闘志が、挫けてしまう。  なんだ。  なんなんだ、こいつは。  なんだというのだ、この、怪物は――――!! 「……降魔(ごうま)」  シュリアの小さな声が、アンジェリカには途方もない死刑宣告のように聞こえた。    □□□  それは、誰も望まなかった形。  それは、誰も願わなかった形。  それは――――、あまりにも不幸な偶然より生まれいでてしまった、確かな生命(いのち)。  かつて神は世界を創造した。  偽りの女神などではなく――正真正銘、全能の存在たる超越神により行われた天地開闢。  それにより世界は大きく分けて三つに分類された。  ひとつは神界(エルスフィア)。  超越神の眠る神殿を抱え、三幻神(トリニティ)と呼ばれる神の分身と、神霊と呼ばれる世界の管理者が住まう世界。  ふたつめは、十の世界(エクスワールド)。  人間に精霊――物質生命体や精神生命体が暮らす地上世界。そこで生命が感じた様々な『正の感情』は、神殿で眠る神のもとへと送られ力を与えているという。  そして、最後の世界――奈落(アビス)。  神が望まない『負の感情』が落ち込むだけの世界。世界の悪意を沈殿させるために創られた、底の底の底の底の底、どこまでも深く暗い世界の果て。悪意の坩堝、邪悪の掃き溜め、怨嗟が反響(こだま)する終焉の世界。  そこはただ、不要な感情を廃棄(すて)さるだけの世界だった。  なのに、いつからだろう。  この深く暗い永久(とこしえ)の闇に、生命の輝きが宿ってしまったのは。  降魔。  沈殿した悪意が凝り固まった怨霊にして、神ですらその存在を予期できなかった異形の怪物。鋭い牙が生えそろった巨大な顎、鉄のように硬い甲殻に覆われた四肢に、黒き羽根に尻尾。そのおぞましい姿は――まさに、負の感情から誕生した邪悪生命体に相応しいものであった。  降魔たちは破壊と殺戮という本能に従い動く、単純な生命であった。同族同士で殺し合い、捕食し、より存在を強め、光の世界――地上世界や神界を目指し奈落をはいあがっていく。もちろんそのような邪悪を神が放っておくはずもなく、大命を受けた神霊たちにより降魔の殲滅が度々行われてきた。しかし人々が行きている限り悪意はなくなることはない。降魔たちは滅亡することなく、奈落という深い闇の底で生き続けた。  ……やがて彼らの社会にも大きな変化が起きはじめる。  一匹の力ある降魔が、ついに知性の領域に足を踏み入れたのだ。破壊と殺戮という本能を制御する強い意思を得た彼は、自らを降魔王サタナイルと名乗り奈落の底にひとつの社会を形成した。知性ある降魔の誕生は、降魔という種族そのものに大きな影響を与え、次々と自らの本能を律する降魔の誕生を促すこととなる。  降魔王と上級降魔。  彼らに率いられた降魔軍と神霊たちの戦いは、人知れず闇の世界で、悠久の時を経て続いていくものと思われた。  しかし――  数千年前に起こった女神マリアによる世界創世。  その結果、降魔の世界であった奈落は魔界へと変貌してしまった。それだけでも降魔にとっては自分たちの世界を失うという大きな痛手だったのに、魔王率いる魔族たちは創世戦争――地上世界への侵攻に失敗した後、魔界統一のために降魔狩りをはじめたのだ。  魔王と魔族からすれば、降魔などという負の感情が凝固した存在を許容などできようはずもない。降魔はただそこにいるだけで他者の心を黒く塗りつぶしていく。自分たちが安定した社会を形成するためには降魔の排除は絶対条件だったのだ。  一方の降魔側からすれば、いきなり世界をいじられ、侵略者たちに空と大地を乗っ取られたも同然であり、抗うのは当然の選択であった。  両者の間に和解の道はない。  何年も何十年も何百年も、激しい戦いが続いて―――  やがて、降魔王サタナイルが魔王たち――冥帝ヘル、黒死将ハルシャギク、夜姫ネフティース――に倒されたことを切っ掛けに、魔界統一戦争は終わりを迎えた。  それが……  魔界の誰もが知るはずの、降魔の顛末であった。    □□□ 「うぉげ――ぁ、か――――、ぁ……」  あまりの胸糞悪さに、アンジェリカは嘔吐した。  体が震える。恐怖と嫌悪により体の芯から震えている。血の気がひいていく。涙が零れた。怖い。恐い。こわい。逃げ出したい。何もかも放り出して、全てに背を向け逃げ出したい。いっそのこと死んでしまいたい。一刻も早く、どのような手段でも構わないから、この怪物の側から離れたかった。  降魔……  伝説に謳われる邪悪な怪物。  それは――――  それは、すでに滅び去ったのではなかったのか!? 「そうだ……」  アンジェリカは首を振る。  降魔は、確かに、滅び去った。  それは――――魔界に生きる全ての者の『当たり前』であるはずだ! 「降魔のはずが、ない」 「降魔ですよ」  その淡い幻想を、少女の冷たい声が打ち砕いた。 「そんなことは、あなたの心が誰よりもわかっているでしょー?」  シュリアとて降魔の実物を見たことはない。  彼女の知る降魔の歴史はアンジェリカのそれと大差なく、まさか降魔が生きているなどとは、ついさっきまでは微塵も想像してはいなかった。だがこれは現実だ。現実として降魔が目の前に存在し、それを自分の心が嫌というほど感じ取り肯定している。  それは輪廻転生の輪を越えて本能に刻み込まれた警告だ。地上も魔界も精霊も魔族も人間も亜人も関係ない。全ての生命あるものならば感じずにはいられない、まるで精神を侵されるような不快感。それは生命の醜さ、汚らわしさだけを抽出し凝り固めたものだ。  故に、降魔。  意志の力で否定など出来やしない。  だからこそ――本当はわかっているからこそ、アンジェリカの意思はそれを全力で否定しようともがいているのだ。 「――ぁ……」  アンジェリカはガクリと膝を折る。  倒れ込みそうな体を剣でなんとか支えた。震える体で、しかし降魔からは目を離さない。消え入りそうな感情を総動員し、最後の一線を、己の矜持を守り続ける。  だが心は揺れる。  たゆたうロウソクの灯火は、あまりにも儚すぎた。 「……く……!」  いないはずの存在が、いる。  いるはずのない降魔がいる。  どうして?  なんで?  どんな事情で、どんな理由で、どんな運命で、こんな所にいるのか――?  どうして、  自分が、  なんで、  こんな怪物と、  向かい合って――――――――――――――――………… 「飲まれないでください」 「――!」  シュリアの冷静な声がアンジェリカの胸を抉る。  恐怖に押しつぶされそうな戦士の心を、じわじわと切り開いていく。 「降魔は生命体の負の感情を糧にします。その存在は文字通りの負の塊。飲まれてしまえば後は堕ちて行くだけですよー。……まぁ、分かりやすく言えば、負け犬オーラに当てられて自分まで負け組になっちゃうみたいなー?」 「な、にを、言って、」 「しっかりしなさいよー。――この町を、守るんでしょ?」 「――――」 「なのに、こんな所でおねんねなんて。ははは、カッコ悪いったらありゃーしません」 「うる、さい、な……!」  言い返しながら、アンジェリカは気をしっかりと持ち直す。  体の震えはおさまってはいない。  だが、わずかな闘志を再燃させるにはシュリアの言葉だけで十分であった。  そうだ。  相手の気配に飲まれてはいけないなんて、戦士としての初歩の初歩の心構えだ。弱気になってどうする。相手はあの魔獣ですら食い殺した正真正銘の怪物なのだ。ここで自分たちが怯んでいては――負けてしまえば、きっと、町の人達が殺される。アンジェリカという戦士は自警団長だ。みんなを守りたいから剣を取り、ここまで歩いてきた。  ならば負けることは許されない。 「私は――!」  膝を屈している暇はない。  命に変えても、降魔たちを仕留めなくてはならないのだから――!! 「あのー」 「なんだ」 「盛り上がってるとこ、申し訳ないんですけどー。鳥タイチョーは引っ込んでてもらえませんかねー?」 「は……?」 「単刀直入に言うと、――――――――邪魔です」 「……シュリア」  その言葉に一切の容赦は存在しなかった。  喉が痛いほど乾いている。  上手く頭が回らない。  分かっていることは、理解していなかった、ということだけだ。  アンジェリカは、シュリアという少女を、全く、理解して、いなかったのだ。  少女から発せられる殺気。  自分に向けられたわけでもないそれに――アンジェリカは総毛だった。 「さて、と」  シュリアの両腕両足が瞬く間に獣のものへと変化していく。  鍛えた獣人のみが行える肉体強化――獣化だ。 「およそ十年ぶりの全力戦闘ですかねー。腕が鈍ってないといいですけど……」  ペロリと唇を舐める。  膨れ上がる殺気に、降魔たちもそれぞれに構えを取る。どうも一番最初に突撃してきた降魔は下の下だったらしい。残る二匹から感じる気配は最初の雑魚の比ではなかった。  殺気がぶつかり合う。  空気が、一瞬で重く歪み―― 「ぁ……」  そして全てはアンジェリカの理解を凌駕する。  目の前の異形が怪物?  ではその怪物をあっさりと引き裂き、あまつさえ数の不利をものともせず渡り合おうとしているこの少女は――何だというのか。 「は――」  考えるまでもなかった。  怪物を倒すこの少女もまた――――怪物なのだ。 「――後は、任せた」  聞こえているのかどうかは分からない。きっとすでにシュリアは自分の存在など見えてはいない。だから何の迷いもなくアンジェリカは踵を返した。ここにいても自分に出来ることは何もなく、足手まといになるのは嫌だった。 (私は、なんで……)  なんで、こんなに弱いのだろうか。  自分ひとりの力では大切な故郷すら守れない、プライドだけは大きな卑屈な女。  改めて、そんな当然を実感してしまう。 (くそっ……)  悔しさと情けなさに胸を痛めながら、翼を羽撃かせ夜空を飛翔していく。  ふと……気づく。  自身の両手が小刻みに震えている。抑えようとしても不可能なそれは、彼女の心の奥底から湧いてくるある感情によるものだ。もはや悔しささえ湧いてこない隔絶された地力の差。自分では垣間見ることさえできない究極の世界。だからこそアンジェリカは望む。 (帰ってこいよ……シュリア)  打算や黒い感情なんてどうでもいい。  アンジェリカは、ただただ、友人を失うかもしれないという恐怖に震えていた―――― 「……?」  と――  それは、幻想だったのか。 (なん、だ……?)  月が陰る。  ほんの一瞬だけ、揺らめくように抱いた小さな違和感。  遠い空に浮かぶ月を、アンジェリカは夜空に立ち止まりながら注視する。それは本当に小さな、気がついたのが不思議なくらいの、あまりにも自然な違和感で―― (空に、誰か、いる?)  だから、それに気づいてしまったこと自体がアンジェリカにとっての不幸であった。  青い何か。  翼を広げて佇むそれは――――  アンジェリカ程度が、絶対に見てはいけないモノだったのだから。  ――――死。  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――…………気がつけば、アンジェリカは無様に地べたへと這いつくばっていた。  体が痛い。  まるで全身の血管が内部で破裂したかのような、嫌な痛み。  外傷など全くない。誰に攻撃を受けたわけでも、まして自分で自分を傷つけたわけでもない。だが彼女は落ちた。見てはいけないものを見てしまったために、それと同じ空にいることを彼女の全てが全力で拒絶したのだ。 「…………」  ふらりと、立ち上がる。  息をするたびに肺が痛んだ。 「ぁ、ぅ」  何もなくなった。  心が折れるとかそんな次元の話ではない。それを直視した一瞬で、アンジェリカの精神は闘志ごと蝕まれ矜持も信念も何もかもが失われた。町を守る? 命がけて戦う? ふざけた話だ。そこまで尽くして自分に何の得があるというのか。故郷を捨ててでも生きていたいと思うことに、何の罪があるというのか。 「……この、まま……じゃ……」  まるで深い水底にいるかのように体は重い。しかし、無我夢中でアンジェリカは手足を動かしていく。  シュリアは死ぬだろう。  自分も死ぬだろう。  みんな――――死んでしまうだろう。  逃げよう。  逃げよう。  逃げよう。  逃げよう!  なのに。 「…………なん、で」  どうして、こんな所に来てしまったのか。  アンジェリカは呆然と顔を上げる。  町の外れの外れにぽつんと立つ小さな一軒家。  シュリアとラセフォールの家が、そこにあった。 「…………」  家からは灯りが漏れている。  もう夜も更けているというのにラセフォールはまだ起きているのであろうか。この町が危機を迎えるたびにアンジェリカは少年の母を利用した。少年を爪弾きにし、その母を夜中だというのに危険な仕事に連れ出した。 「……ラセフォール」  いつもこうして待っていたのだろうか。  得体の知れない仕事に出かけた母の帰りを、夜遅くまで――少年は待ち続けていたのだろうか。 「――冷たい、か」  シュリアを糾弾できる身分ではなかった。  この母子に対して自分の行ってきたことは、あまりにも酷く、残酷だった。  ……扉を開ける。  つい半日ほど前にもお邪魔した母子の家。  だというのに――その様相は様変わりしていた。  倒れたタンス。  へし折れたテーブル。  破れたカーテン。  まるで、誰かが誰かと争いあったような――荒れ果ててしまった見慣れた景色。 「ラセフォール……?」  アンジェリカの胸を得体の知れない不安感が、強い焦燥が焦がしていく。 「ラセフォール!」  必死で声を張り上げる。  だが、相変わらず返事は、ない。  答えるものは、誰もいない。  いないのだ……!  怪物。  その評価はアンジェリカには正しく、しかしシュリアにとっては不適切であった。  例えば、トカゲ。  地を走ることしかできないトカゲにとって、空を自由に飛び回る鳥は理解出来ない領域にいることだろう。それはトカゲには翼がないからだ。空を舞えないものに空を舞うものを理解するなど出来るはずもない。  例えば、魚。  水中を生活の場としている彼らは、土中で生きるミミズの気持ちを理解することはかなわない。理解しようと努力しても、住む場所も生き方も何もかも違う彼らが、互いの領域を飲み込めるはずもない。無駄な努力だ。  それと同じことなのだ。  アンジェリカにとってはシュリアも降魔も理解出来ない超人だ。  だが―― 「これで、」  結論から言ってしまえば、やる気を出したシュリアにとって降魔など敵ではなかった。 「おーしまいっと」  大鎌が一閃して最後の降魔の首が飛ぶ。  それで終わり。  打ち合いにすらならず、少女の大鎌はやすやすと降魔二匹の首をはねとばした。時間にして一分にも満たないあっけない決着であった。 「で――」  しかしシュリアの殺気は収まらない。  今のはまるで準備運動とでも言うように――挑発的な言葉を誰かへと投げかける。 「いつまでそこで見てるつもりですかー? いい加減、降りてきたらどうです?」 「――――」  シュリアは夜空を見上げる。  そこに、それはいた。  ほとんど気配を感じさせないほどに圧縮された、まるで空気のような気配。しかし、一度それに気づけばあまりの濃密さに常人ならば気が狂ってしまうだろう。陽炎のように揺らめきながら、それは実体として夜空からシュリアを睥睨していた。  それは青かった。  降魔でありながらヒトとほぼ変わらぬ容姿をした女性の降魔だ。大きな翼と尻尾をもち、艶めかしい体をまるで下着のような甲殻が覆っている。夜風になびく青い髪が美しかった。  上級降魔。  降魔の生態に詳しくないシュリアでも聞いたことがある。軍学校で習った知識だが――上級降魔はヒトに近しい姿をしており、その戦闘力も下級とは比較にならないとかなんとか。かつて存在した降魔王にいたっては魔王クラスとも互角に張り合えたうんぬんかんぬん。その話が正しいのならば、青い降魔は先程の三匹とは別次元ということになる。  そして、その話は事実だろう。  何故なら――粘りつくような暗い殺意と共に、シュリアをして底が見えないほどの力をあの上級降魔からは感じるのだから――! 「は――!」  不敵に笑うと、シュリアは跳躍する。  一瞬で青い降魔の上をとると、そのまま大鎌を振り下ろす! 「――――」  向かい打つように降魔の両腕を覆う甲殻が変質する。メキメキと腕から剥がれ、裂けて、内部から濃緑色の粘液にまみれた鋭利で長大な刃が現出する。徒手空拳だった降魔は、あっという間に自らの体内より武器を生み出していた。  黒い夜空に火花が咲く。  打ち合いは空を舞う手段を持たない少女の動きを止めた。その隙を狙い鋼の尻尾が叩き込まれるが、大鎌を起点にくるりと空中で回転するとシュリアは攻撃を躱した。勢いのまま上級降魔の整った顔面へと蹴りを入れ――ようとするが、青い女は羽撃きと共にシュリアとの距離を取る。跳べても飛べないシュリアに追撃の手はなく、舌打ちすると素直に重力に従い着地した。 「――■●△※■□◯∴●□■■■」  すかさず上級降魔が理解不能の何かを唱えはじめる。  古の高速圧縮呪詛は雷槌として顕現し、着地した直後のシュリアへと襲いかかった。 「うっざ!」  叫びながら、雷槌から逃げるように後方へと大きく跳ねる。後を追うように雷光が走り、シュリアはマナを込めた斬撃でそれを斬り払う。――と、聞こえてくるのは再び高速圧縮呪詛。次に放たれたのは……火炎だ。速い。避けきることが出来ず――シュリアの右腕は焼き尽くされる。 「が――、――っぅ!」 「ふふ……」  青い降魔が薄く笑ったのを――シュリアは見た。  直後――  鋼の翼は、上空から迫っていた大鎌により根元から切断されていた。 「……!?」  わけがわからない。  しかしそれも一瞬。上級降魔は理解する。腕を焼かれる寸前、獣人の少女は大鎌にマナを込めて空高く放ったのだ。マナにより鉄すら斬り裂く鋭さを得た大鎌は運良く上級降魔へと降下していき、見事に鋼の翼を斬り裂いた―― 「くっ!」  そんな都合よくいくはずがないではないか。  全部狙い通りだ。  この獣人の小娘は腕一本を犠牲に自分の油断を誘った。そして、おそらくマナにより大鎌を操作し鋼の翼を切断したのだ。  なんという胆力。  素直に敵を賞賛したいと思ったのは随分と久しぶりであった。  しかし。 「…………」  ふらふらと地上に着地した上級降魔は腕を失った少女を睨みつける。空を飛べないものがまずやるべきことは相手を地へと引きずり下ろすことだ。それに成功したことは褒めてやろう。だが無意味なのだ。片腕になってまで少女の行った奇策は全てが水泡と帰す。 「ふ――」  青い降魔は小さく呻く。  次の瞬間、ぐびゃりという生々しい異音と共に、失われた青い翼は再生していた。  降魔には再生能力がある。  ちょっとやそっとの傷ならばマナを循環させることで再生させることが可能なのだ。まして上級降魔なら尚更だ。首をはねられない限りは、例え胴を切断されても問題ないだろう。……さすがに試したことはないが。  だから、無意味。  先ほどの戦いで下級降魔を瞬殺してしまったことが仇になった形だ。もしも彼女が雑兵共と打ち合いを演じられるほどに弱かったのなら再生能力にも気がつけたことだろう。上級降魔と戦うことの無意味さも瞬時に理解できたに違いない。  滑稽だった。  なまじ半端に強いが故に――少女は腕を焼き払う代償を支払ってまで、道化を演じてしまったのだから。  いっそ哀れみすら覚えてしまうほどだ。  そしてそれこそが。  そんな感情を少しでも抱いてしまった上級降魔こそが、滑稽の極みであった。 「……!?」  上級降魔は瞠目する。  シュリアがすぅ……と右腕を上げた。  失われたはずのその腕は、確かにそこに、綺麗なままで、存在して、いた―― 「……そんな」  マナに誘導された大鎌が再びシュリアの元へと戻ってくる。右腕でしっかりとそれを受け止めると、少女は不敵な笑みを浮かべた。  ふたりは無言で睨み合う。  渦巻く殺意が、大気をピリピリと引き裂いていく。 「あなた」  先に口を開いたのは、上級降魔であった。 「……あなた――……魔族では、ないわね」 「へぇ」  ニヤリとシュリアは微笑んだ。  悪意が滲みでた、いやらしい笑みであった。 「上級降魔って喋れたんですかー。ずっと黙ってるもんですからー、てっきり魔獣みたいに喋れないと思ってました。――あ、違いましたね。雷と炎の時に変な言葉使ってました。ごめんなさい。あれってどこの方言なんですかー? 後学のために教えてくださいよー」 「奈落の方言よ」 「あ、そ。どうもですー」  軽口を叩き合いながら、シュリアは考える。  ……どうやってこの降魔を叩き斬るか。  空を飛ばれて雷ドカーンや炎ぶわ〜ははっきり言って厄介だ。とある事情でシュリア自身はいくらやられても困らないが、相手を倒せないのでは意味がない。多分、さすがに、頭を切り落とせば死ぬのだろうけど(一応生命体なのだから、それくらいの常識はあってほしい)、そこまでがかなり遠かった。  と――  青い降魔の周辺に巨大な魔法陣が浮かび上がる。ひとつ、ふたつ、……あっという間に展開された六つの魔法陣。そのひとつひとつに膨大な量のマナが集積されていく。  聞こえてくるのは三度目の高速圧縮呪詛。  舌打ちすると、シュリアは魔法陣の展開を止めようと突撃を試みるが――遅かった。 「これは……」  ――世界が開かれる。  魔法陣の中から黒く邪悪な粘液が這いずり出てくる。それは瞬く間に歪な命となり、本来の姿を取り戻した。そう、現れたのは下級降魔たちだ。空間を超越した降魔の連続召喚。上級の――それも特別な血を継ぐ降魔だけが行えるその常識はずれの神秘に、さしものシュリアも呆れ果てるしかなかった。 「うわぁ……めんどくさー」  あの上級降魔の相手をしながら雑魚共を切り伏せていくのはシュリアといえどもかなりの重労働だ。ただでさえ実力は拮抗しているのに、これではあっさりと戦力の天秤は傾いてしまう。もちろん、悪い方向にだ。 「――――」  上級降魔が腕を上げる。  甲殻に包まれた青い腕が――シュリアへと振り下ろされた。 「焼き払いなさい」  あまりにも単純な命令。  それ故に知能の低い降魔たちでも、何の迷いもなく即座に己が使命を理解出来た。  降魔たちが口を開く。  牙が並んだ巨大なアギトの中に熱が集まって――――解き放たれた。  ――――その場の誰もが、自分が屠るべき相手にだけ意識を集中していた。  当然だろう。そうしなければ勝つことができないほど、相手は得体が知れず、恐ろしく強かった。余計なことを考えている隙など欠片もなかったのだ。  だから。 「きゅぴー」 「――待ってよ、ちょっと!」  だからこそ――――……それは、ひとつの奇跡であったのだろう。 「え……」  夕食の準備をしていたラセフォールは……言葉を失った。  成り行きで助け、連れ帰ってしまった魔獣。それに…………手足が生えていたのだ。 「…………」 「――――きゅ」  顔面が全てだった魔獣。それに手足が生えたくらいなら別に驚かないだろう。驚くには驚くかもしれないが、今感じているほどの驚愕はなかったに違いない。それくらい魔獣の変化はラセフォールにとって理解しがたいものであった。 「きゅっきゅっきゅ〜」  魔獣は踊る。  手足を振り乱し、名状しがたい謎の踊りを、それはもう楽しそうに踊っている。 「…………」  やはり魔獣の顔は顔面でよかったらしい。  何故ならスライム状の顔の下に、首が、肩が、腕が胸が腹が股間が足が――それはもう、綺麗で華奢な少年の体が、いつの間にか生えていたのだから。 「…………」  それがせめて顔面と同じく真っ青とかならまだよかった。しかし突然の体はヒトとまったく同じ色と形をしていた。いや、むしろ少女と見間違うような色白の肌とあまりにも整いすぎた繊細な体は、まるでこの世のモノとは思えない美しさだ。その先に――頭部には酔っ払ったエロ親父みたいなスライム頭が乗っかっているのだから、怪奇を通り越して全生命体に対する冒涜なのではないかとすら少年には思えた。 「きゅるっきゅー」  どうやら興奮状態らしい魔獣は謎のテンションのままに家中で暴れはじめる。タンスを倒すわテーブルの上に飛び乗るわ跳ねるわ蹴るわ殴るわの無軌道な大暴れだ。意外と力はあるらしく、魔獣がきゅぴっと鳴くたびに家は破壊されていく。 「――は!?」  やっとのことで衝撃から立ち直ったラセフォールは、急いで魔獣を止めようとする。  これ以上暴れられたらたまったものではないし、なにより―― 「きゅぴいいいいいいいいいい!!」 「こらー!! パンツを、はけええええええ!!」  酔っ払ったエロ親父顔と綺麗な少年の全裸の組み合わせは、ただそれだけで変態的なナニかを極めており、とてもじゃないが直視するのに耐えられなかった。このままでは変なトラウマになりかねない。即急にパンツをはかせる必要があった。 「きゅっぴー」  やがて魔獣は外へと飛び出していく。  慌ててラセフォールは後を追った。  どこをどう走っていったのか。  追いかけっこの末、ふたりは森の中にいた。落ち着きを取り戻した魔獣と手をつなぎラセフォールは闇の中をかき分けていく。アイザックが言うには今この町は魔獣が出るらしい。はやく森を抜けて自分の家まで戻りたかった。 (魔獣といえば、これもそうなんだけど)  頭部時代に受けた傷は回復したらしく、股間のソレがなければ少女と見間違ってもおかしくない綺麗な裸体をすっぽんぽん魔獣は遠慮なくさらけ出していた。鳴くこともなく無言でぷるぷると震えている様は、ちょっとだけ元気がなさそうにも見える。反省しているのかもしれない。ラセフォールもパンツをもって追いかけなかったことを深く反省した。 「…………」  同時に、やたらと空虚な脱力感に襲われる。  ある日、森の中、すっぽんぽん魔獣と、お手てつないで…… 「……はぁ」  今の状態を客観的に見ると――  もしかしなくても、無茶苦茶シュールなのではないだろうか……? (――何をしてるんだろ、僕は)  あまりの自分の迷走っぷりに少年は肩を落とす。  直後だった。 「きゅ……!?」  魔獣が一鳴きして顔を上げる。  そして少年の手を振りほどくと、実に良い姿勢で森の中を全力で駆け抜けだしたのだ。夜中にこんなの見たら絶対にトラウマになる。夜中じゃなくても普通は泣く。それくらい思い切りの良い、迷いのないキビキビとした全裸魔獣ダッシュであった。 「あ、こら――!」  落ち着きがないやつだな、と心のなかで毒づきながら、ラセフォールは後を追いかける。 「きゅぴー」 「――待ってよ、ちょっと!」  そうして、森を飛び出して――――  視界に入ってきたのは、異形の怪物たち。  まるで心を挫いていくような強烈な悪寒が、少年を蝕んでいく。  だが、それよりも。  少年は――少女を、見た。  はじめてみる姿だった。  全身からみなぎるのは凍てつくような殺気。その手には命を刈り取る死神の大鎌。いつもの雰囲気を下敷きに、戦士としてのいくつもの鎧を重ねあわせたような気配。戦場に立ち戦うが故の――少女の姿。  でも、それ以上に少年の心に焼き付いたのは……  世界が白く染まる。  身を焼くような熱が全てを溶かしていく。  その一瞬。  少年の心に焼き付いたのは、今まで見たこともない、母の表情であった。  …………煙が晴れる。  後には、何も残らなかった。  焼け溶けた地面が無残に露出しているだけで……そこにはヒトがいた痕跡すら残っていない。  だが。  戦場の端――ちょうど爆心地を挟むようにして、それらは、いた。  少女と少年と。  降魔と魔獣と。  閃光の一瞬。  ふたりは反射的に熱線の砲火へと飛び出し――それぞれ少年と魔獣を助け出していた。お互いがお互いしか意識していなかった戦場で、なのに、お互いがお互い以外のものに即座に反応できたのは、まさに奇跡としか言いようがないだろう。  ……あるいは。  奇跡などとは程遠い、至極当然の結果だったのかもしれないが。 「……え」 「きゅ?」  少年と魔獣は事態を飲み込めずに呆けている。  それを見て―― 「お母さん……え、なんで……」 「きゅるっきゅ〜」  ――ふたりは安堵と共に、何とも言えない怒りがこみ上げてくる。 「どうして……!」  気がつくと、全く同じ台詞を叫んでいた。 「どうしてこんな所に!?」 「子供は寝ている時間でしょ! それが、こんな時間にうろうろと!」 「ご、ごめんなさい」 「私たちがいくら探したと思ってるのです! それを、勝手に進化までして!」 「きゅぴぴ……」 「まったく、心配させないで!!」  ……と。 「……む?」 「く……」  シュリアと上級降魔はお互いに顔を見合わせる。  半眼で睨み合い、鼻を鳴らすと、それぞれの救助対象をかばうようにして再び対峙した。 「――なんですか、そのぷるんぷるんしてる生き物は」 「そちらこそ。それはなんです。愛人ですか?」 「せめて恋人でお願いしますー! ……まぁー、実際は全然違いますけどー」 「でしょうね。あなたのような性格の悪そうな娘に、そのような相手など出来るはずもありませんから」 「オバサンの若さへの嫉妬が心地いい!」 「死ね」 「それに愛人どうのなら、ソッチの方がよっぽどいかがわしい雰囲気ですよー」  シュリアはちらりと、全裸のなにかの、それをガン見する。 「……パンツくらいはかせましょうよ、えっち」 「ふふ。自分たちの尺度でしか物事を測れないとは――魔族とは実に矮小な存在ね」  小馬鹿にしたように上級降魔は胸を張る。 「いいこと? 我等降魔の文化に――――服などという代物は存在しないわ!!」  ババーン。  威風堂々と言いはる女降魔。 「…………」 「ほう」  言葉もなく青い降魔をジロジロ見る息子の頭をゲンコツで小突きながら、シュリアはどうでもいい感じの相槌を打った。  実際、降魔の文化などマジでどうでもよかった。  くだらない罵り合いも、もちろん思考時間を確保するための引き伸ばしだ。 (本当に……どうしたものでしょーかね)  シュリアは状況を打開する手段を知恵を振り絞って考える。  しかし結論は変わらず、たったひとつの解しか導き出せないでいた。  ラセフォールをかばってこの局面を切り抜けるのは難しい、というか間違いなく無理だ。ただでさえ戦況はこちらに不利だったのに、息子という大きな弱点まで抱えていては完全に勝利の目はないだろう。弱点を抱えているという点では降魔側も同じだが、あっちには先ほど召喚した下級降魔たちがいる。単純な手数の増加は、守るべきものがいる戦いにおいて必勝であり、対峙した相手にとっては致命的であった。  つまりこうなってしまった時点で手遅れであり、完全に詰んでしまっている。 「…………」  では、切り捨てるのならば?  背後にかばっているこの少年のことを全く考慮しないのなら、それは逆に勝機につながるだろう。なにせ上級降魔はあの変な生物をかばったのだ。それほどまでに大切な存在だというのなら、すなわち彼女の弱点となりうるということだ。シュリアの勝率は大きく跳ね上がり、確実に勝利を得られるだろう。 「――――」  ため息をつく。  それは――それは、何か嫌だ。  こう、ものすごく負けたような気がしてくる。誰に、何を、どうやって負けたのかさっぱり分からないが……その選択だけは、何故か嫌だった。 「…………」 「…………」  舌戦から一転……  睨み合いと沈黙が続く。  それぞれがそれぞれの状況を正確に把握し、先を知っているからこその静かな空気。  ピリピリと――  痛む空気は、まるで大罪人を待ち受ける処刑場のようだ。 (私は……)  シュリアは思う。  もしも――この戦いが再開し、想定通りの結末を迎えたとして。  自分は……どうするのだろうか。  背後で固唾を飲んで見守っているこの少年の仇を討とうと……そう思えるのだろうか。 (……私は……) 「きゅー」  冷たい空気を打ち砕いたのは、ある意味もっともその場で浮いた存在である全裸魔獣――いや全裸降魔だった。 「きゅきゅ」  全裸降魔は大げさな身振り手振りで何度となく青い上級降魔へと訴えかけている。言葉は通じているのかいないのか、青い女は最初こそ無視を決め込んでいたものの、 「きゅー」 「…………」 「きゅきゅきゅきゅきゅきゅきゅきゅ」 「…………」 「きゅーきゅーきゅきゅ!」 「――」 「きゅー!!」 「ああー、もう! 何ですか!?」  根負けしたように、全裸降魔へと耳を傾けた。 「きゅぴー」 「は……?」 「きゅぴっぴ、ぴっきゅー」 「な、しかし――」 「きゅっぴぃ」 「ですが、それでは!?」 「きゅっぴぃ」 「…………わかり、ました」  口惜しそうに、降魔の女は唇を噛んだ。 「……?」  降魔たちから戦意が急速に消えて行くのをシュリアは感じる。  最初は何かの罠だと思い警戒したのだが――そんなそぶりをちっとも見せず、青い降魔の命令に従い下級降魔たちはあっさりと飛び去っていく。  立つ鳥跡を濁さず。  そんな場違いな言葉を思い出した。 「……ふぅん」  勝てた戦いだったはずだ。  正確にはシュリアが力尽きることは有り得ないので、そういう意味での敗北など存在しないのだが――それを知らない降魔側からすれば絶好の勝機だったはずなのだ。  それを捨て去った理由。  今、ここで撤退する理由。  青い降魔に守られた、ぷわぷわした全裸生物。  理由は――それしかないだろう。 「逃げるんですか?」  いらん挑発をかますシュリア。  だがそれを冷笑で返すと、青い上級降魔はバサリと翼を展開した。 「きゅ」  全裸降魔が一歩前へ進み出ると、少年に向けてぺこりと頭を下げた。 「きゅきゅ」 「な――ですが……!」 「きゅ〜」 「わかり……ました……」  ものすご〜く屈辱的な顔をしながら、青い降魔もラセフォールへと頭を下げた。  一礼が終わると全裸降魔は青い降魔の体へと抱きつき密着する。はたから見ると、パッと見すっぽんぽんの怪物人間同士の危険な抱擁だけに、なんとも言えない卑猥さがあった。 「……いて」  とりあえず息子の頭を小突いておく。  全裸降魔がしっかり自分へ抱きついたことを確認すると、これまたすんごい形相で上級降魔の女はシュリアへとガンを飛ばしてきた。嫌な予感に肩をすくめてみせる。 「……この屈辱は、忘れません」 「やめてくださいよ、変なフラグを立てるのは」 「私の名は――アブル。降魔の姫、デュ・ドゥ=アブル」 「いやだから変なフラグは」 「あなたの名は?」 「ヒトの話を――」 「あなたの名前を、覚えておきましょう」 「……はぁ」  肩を落とすと、力なくため息をつく。  そして――胸を張って、シュリアは名乗った。 「リカオ」 「リカオ?」 「私の名前は――アンジェ・リカオ・バサンです」 「わかりました。それではリカオ。次に会う時が――あなたの最期です」  言うと、デュ・ドゥ=アブルは力強く羽撃いた。  あっという間にその姿は遠ざかり、夜の闇へと溶けていく。  後には、何事もなかったかのような、高い空。  黒い夜。  星々と月が、とても綺麗で―――― 「いや〜、いったい誰と戦うつもりなんですかね、あの青いヒト」 「……色々台無しだよ、お母さん」    □□□  夜が明けた。  朝焼けの中を、少女と少年が、ふたり並んで歩いて行く。  ひとりはうさ耳の少女。  もうひとりは、闇の国では珍しい鬼人の少年だ。  種族どころか血の繋がりすらないふたりの関係を一言で表すのならば、それはやはり、母子であった。 「……ふぁ」 「眠そうですねー」  あくびを噛み殺し切れないラセフォールに、シュリアはのほほんと声をかける。息子と違って、見た目は子供、実際は――な母は相変わらず元気だ。 「そりゃあ……ね」  昇りはじめた太陽を少年は見上げる。 「……子供は寝てる時間に寝てなくて、こんなにずーっと起きてたのは、はじめてだもん」 「大人の階段を登ったんですね、えっちです!」 「……そーだね」 「……。……なんだか、ホントに眠そうですねー」 「だからそうだって」  母のおふざけも軽く流すほどお疲れらしい息子であった。  戦いの後――  シュリアたちはラセフォールを捜して町をさまよっていたアンジェリカと合流した。再会したアンジェリカは母子に抱きつくと何故かわんわんと泣いていたが、細かいことを聞いてしまうと鬱陶しくて面倒なことになりそうだったので、黙って抱きつかれてやることにした。  普段の気丈な仮面が外れ、子供のように泣きじゃくるアンジェリカ。  胸の中で――シュリアは思う。 「……意外と乳でけぇー」  何故かアンジェリカに殴られた。  そんなこんなで、ひとしきり泣き終わったアンジェリカに事の顛末を報告する。  魔獣の死。  そして、新たな脅威――降魔。  歴史の流れにおいて淘汰されたはずの生きとし生ける者の敵。  負の想念より生まれし邪悪生命体。  その復活を――ふたりは隠蔽することで合意した。  いつか領主やこの地を支配する魔王軍残党に報告するにしても、それは今ではない。ただでさえ魔獣騒ぎで町は疲弊していたのに、伝説の怪物が生きていたと知られてしまえば、こんなの小さな町など瞬く間にパニックに陥ってしまうだろう。  そんなことは、アンジェリカもシュリアも望んではいなかった。 「降魔の存在は――今は危険過ぎる。いつか折を見て、魔王軍に報告に行くつもりだ」 「えー。メンドクサイから放置プレイってことでいーじゃないですかー」 「……」 「なんですかー、その目付き?」  というわけで、降魔の屍肉は早々に自警団が土葬することとなった。屍体になってしまえば降魔も魔獣も関係ないし、命を失った降魔からは生命の本能を脅かす悪意や恐怖は感じ取れない。きっと「珍しい魔獣だった」で押し通せるだろう。  魔獣の亡骸も降魔と一緒に埋葬された。シュリアとしては燃やしてしまえば骨以外は跡形も残らないし手っ取り早いと思うのだが、森の近くで火を使うのはあまりよろしくないらしい。まぁ、魔獣や降魔のでっかい屍体を燃やせるような火力はどこにもなかったので、どのみち無理な選択肢だったのだが。  自警団員がせっせと穴を掘り、亡骸を埋めていく。  人数が多いだけに作業の効率はいいが、それでも時間は掛かりそうだった。 「私、思うんですけど」 「……なんだ」 「魔獣と降魔が地中で悪魔合体して蘇ったら軽くホラーですよねー」 「――――」 「……あれ?」  場を和ませようとしただけなのに、何故かその場にいたみんなから冷たい目を向けられた。理不尽なことである。  ちなみに魔獣の頭部は埋葬せず、町へと持ち帰り討伐成功の証として見世物になるらしい。散々暴れまわった結果の自業自得とはいえ、こうなると魔獣も哀れである。もっとも、シュリアは魔獣と矛を交えることはなかったので感慨も糞もないのだが――アンジェリカは、悔しいような、嬉しいような、悲しいような、複雑な顔をしていた。  そして―― 「あふ……」 「またあくびー。だらしないですよー」  朝までかかった一連の処理の間、ずっと起きて待たされていたのが十歳の少年である。 「やっぱり先に帰った方がよかったんじゃないですかー?」 「ううん……別に」 「……ふーん」  あんな戦いに巻き込まれたばかりなのである。ひとりで夜道を歩くのが怖くてもおかしくはないだろうし、ラセフォールをひとりで帰すことについてはアンジェリカも猛反発していた。「母親ならこんな時くらい側にいてやれよ」と無駄に悟った顔で語りかけてくるのがひたすらウザかったが、気になることもあったので結局、シュリアは息子の側についていることを選択した。 「これから……どうなっちゃうんだろうね」 「ふむん?」 「降魔とか、さ……」 「――時間の問題でしょーねー」  騒ぎになると面倒なので隠蔽工作には賛同したが、実の所、これについては無意味だろうとシュリアは思っていた。  降魔はいた。  滅亡などせず、再び世界に覇を唱えるため力を蓄え続けてきた。  きっと――  そう遠くない未来に、彼らは沈黙を破り表の世界へと蘇ってくるだろう。  闇の国を巡る騒乱は、魔王軍残党と旧革命軍に加え、新たに降魔が名乗りを上げる。そうなった時、各々の陣営はどう動くのだろうか―― 「――――」  そこまで考え、シュリアは頭を振る。  この世界がこれから先どのような結末を迎えようと、自分の知ったことではなかった。  そう……  どうせ、もう二度と国の存亡をかけて戦うことなど、ないのだから。 「ま、なるようにしかなりませんよー」 「……本当に、戦うしかないのかな」  寂しそうにラセフォールは呟く。  息子があの全裸降魔とどういう経緯でで知り合い、友誼を結んだのかは知るところではないが――降魔との和解など夢のまた夢の甘い幻想だ。相容れないから降魔は降魔なのであり、もしも彼らと和解できるとしたら、それはもう自分たちが降魔のレベルにまで堕ちてしまったということである。  そして、そんなことはヒトがヒトである限りはありえない。  彼らと手を取り合う未来など、絶対に来ないのだ。  だからこそ、言ってやる。 「……あなた次第ですよー」 「お母さん……」 「仲良くしたいって思うなら、ちゃんと向き合って、ぶつかり合って、気持ちを伝えないと。そうすれば――奇跡だって、起きるかもしれませんよ?」  ちなみにこの前読んだ漫画の受け売りである。 「僕次第……か――」 「そそ。がんばってくださいねー。未来は若人の手にかかってるんです!」  心にもないことをとびきりの笑顔で言うシュリアだった。 「……ねぇ。お母さん」 「なんです?」 「――お母さんって、すごいんだね」 「そーですか?」 「降魔と戦えるなんて……すごく、すごい」 「前に言ったでしょ。私、前は軍の将軍でしたから」 「信じてなかったよ」 「それは残念。でも、ラセフォールだってすごいですよ。よく降魔たちと向かい合っても平気でした。どこかの誰かなんてマジビビリしちゃってたのに」  それが、シュリアの気になることであった。  降魔の邪悪な気配は戦士であるアンジェリカでさえその心を挫かれたほどだ。なのに戦場の心得さえないラセフォールは屈することなく耐え切ったのだ。あの、青い上級降魔を前にしても正気を保ち続けていた。 (――ふむん)  息子との出会いを思い出す。  あの、特別な日の、特別な状況で出会ってしまったラセフォール。  彼が消えて、  彼女が消えて、  世界は変わり、  そして、残されたのは―――― 「……もしかして、ラセフォールは戦士としてすごい才能があるのかもですねー。男の子なら強くアレってもんですしー、鍛えてみるのもいいかもしれません」 「……違うよ」  どこか虚ろに響く、小さな子。 「……僕は、…………強く、にゃんか……」  見ると、少年は軽く船をこいでいる。足元もおぼつかなく、かなり眠そうだった。 「……仕方ないですねぇ」 「うん……?」 「ほら」  シュリアは息子へ背中を向けてしゃがみ込む。 「…………」  ラセフォールは不思議なものを見るような目で、母を見た。 「ほーら!」 「え……でも……」 「ほーらほら」 「……お、お母さん」 「もう、あんまり女に恥をかかせるものじゃないですよー」 「こっちの方が恥ずかしいよ……」  ぶつぶつ文句を言いつつも、ラセフォールは母の背におぶさった。 「よっと」 「わ」  体格的にはほとんど差がないというのに、シュリアは息子を軽々とおんぶした。 「どーしました?」 「ううん、なんでもない。……なんでもない」 「そーですか」  言うと、シュリアは朝焼けの中を歩いて行く。  最初はどこか照れくさそうにもぞもぞしていたラセフォールも、開き直れたのか、それとも眠気に逆らえなくなったのか、しばらくしておとなしくなった。 (そういえば――)  思えば、息子をこうやって背負うのは何年ぶりだろうか。  以前に背負った時とは比べものにならないくらいに息子は成長していた。きっと、こんなことが出来るのも残り僅かだろう。少年は成長していく。今に自分より背も高くなって、筋肉もついて、見違えるようなたくましい大人の男になってしまうのだ。 (だから、これが、最後ですよー……)  背中の温かい重みに、無意識に頬が緩むのをシュリアは感じる。 「――――」  同時に、思い出すのはアンジェリカの言葉だ。  ――……前から思ってはいたんだが……お前って少し冷たくないか?  事実だろう。  シュリアという母は、息子に対して冷たかった。  それは今も昔も、そして未来でも、きっと変わらない。  何故ならシュリアは他者を愛するすべを持たない。見えない壁があるのは事実で、それはどれだけ親しいヒトであっても別け隔てなく展開される心の距離感だ。相手とどれだけ密接につながっても、気分次第で少女は敵にも味方にも変じてしまう。そしてそれを悪いことだとシュリアは欠片も思ってはいなかった。  ただ、自分の心の思うがままに走り、飛び、生きる。  それこそがシュリアがシュリアでいられる理由なのだから。 (……それが、今やお母さん、ですか)  背中に感じる重みは、そのままシュリアを縛り付ける重しだ。  これがある限りシュリアは本来の自分に戻ることは叶わない。世界の中心は常に自分であったはずなのに、焦点はぶれ、迷走する。行き着く先は大事な息子の存在だ。  最初は成り行きだった。  面白半分だったと言い換えてもいい。  それが、何をどう間違ったのか――いつの間にか、自分と並び立つまでの存在になっている。ろくな生き方をしてこなかったシュリアという女にも、母性本能というものが備わっていたということだろうか?  それとも、行き場を失った――  彼と彼女への、鬱屈した心がある故なのか。 「…………」  シュリアという母は冷たい。  自分でそれを矯正しようとも思わない。  この世に誕生した時から続けてきたひとつの生き方。その結果がシュリアという母であるし、自分を意図して捻じ曲げてまで息子と接することに意味はないだろう。そんな偽りの関係などヘドが出る。  自分という世界を歪ませるほど大切な存在だと言うのなら。  歪んだ世界のまま、シュリアはシュリアなりに息子と接していくだけなのだから。 「――――」  だから、いつか。  少年が青年になり、偽りの母など不要になったなら、その時は―― 「――あ」  不意に視線を落とした先に、白い花が咲いている。  綺麗な、白い花だ。 「…………ねぇ、ラセフォール」 「……ん……なぁに?」  眠ってしまったと思った息子は、まだかろうじで起きているようだった。  シュリアは朝焼けの空を見上げる。  息子もつられて見上げたのが気配でわかった。 「今度……そーですね、今度、ふたりで遊びに行きましょう」 「……?」 「ピクニックとか、楽しいですよ、きっと」 「……ん」  眠気にさらわれたのか、返事は曖昧だ。  それでも、背中越しに息子の喜びは伝わってくる。 「……お、母さん……」 「なんです?」  ほとんど寝言とかした息子の言葉に、苦笑しながらシュリアは答える。 「……、――――、……」  そっと耳に届く、小さな声。  それにちょっとだけ足が止まり――しかし応じることはなく、何事もなかったかのようにシュリアは家路を急ぐのだった。 「…………」  母の背中で少年はまどろむ。  今日は本当に色々なことがあって――人生初の徹夜を終えた少年の意識は、今にも沈みこみそうな闇の中をたゆたっている。  ――違うのに。  脳裏に浮かんでは消える、降魔の影。  魔獣さえ実際に見たことがなかった平和な少年に、これらの体験は何もかもが衝撃すぎた。それはもう、本当ならしっかりと心の奥底深く、一生涯癒えることのないトラウマを負ってしかるべきなのだ。  ――僕は、  だけど、それはない。  ――僕は、強くなんか……ない。  何故なら少年の心は恐怖に震えるより先に、よるべき大切なものを――大切なヒトの本当の想いを、垣間見てしまったからだ。それだけで何もかもが十分すぎた。少年のちっぽけな不安は霧散し、後に残るのは子供が抱く親への無償の愛だけだ。  ――怖かったけど  ――だけど……  ――お母さんがいたから――  ――お母さんがいたから……僕は、怖くなかったんだよ――  あの、閃光の一瞬――  少年は確かに見たのだ。  無我夢中で、自分を助けてくれた――――母の姿を。  それはどんなものよりも明確で、分かりやすく、力強い、母の愛であった。  ……やがて夢は白く塗りつぶされる。  黒い恐怖は溶けて消え、訪れるのは白い未来だ。  広々とした草原。  見上げた空は、どこまでも続いていくような青い空。  少年は駆けていく。  振り返ると――母がいるのだ。 「お母さん」  ぐーたらで。  てきとーで。  ひっちゃかめっちゃかなことばっかりで。  本当に、弁護しようもないほどに、どうしようもない母だけど。  それでも……少年は胸をはって言える。 「大好きだよ」  はにかみながら、少年は言う。  すると母は――どこか照れたように視線を泳がして、悪態を返す。  白い肌は、ほんのりと赤かった。                                おわり  あとがき  ……………………(;^ω^)なにこれきもい。  そんなわけでシュリアフターです。  内容的には『奈落の花いってんご』、時系列的には『第ななてんご章』って感じです。あと正式なタイトル思いつかない件。シュリアフターとか言ってるけど実質無題デス。  とりあえずものすげーーーーー難産でした。  これリクもらったのいつよ? どんだけ延期しまくったのよ?  ……ええと、すいませんごめんなさい。  さらに多分LOM(仮)氏的に色々不満出る予感だけど、自分の中のシュリアたちはこれ以上は動きませんでした。ごめんねこんな母子で>< もともと漠然としか考えてなかったものに肉をつけるってすごい大変なんだなーと痛いほど実感。精進しろ自分。  閑話休題。  オンデマ本完全版は雲行きがあやしい感じ。二本増築から一本に減らすかも><  奈落(上)は冬に出したいけど、誰も冬コミで出すなんていってないよね! とかやりそうで我ながらガクブル。あと漫画最萌新聞にローゼンの自作絵広告出すんだった。そしていい加減ホウメイさん描きたい。  またしばらく自己中生活送りそうだなぁ……さようならお祭り。楽しかった   よ。  というわけで、今更ですがおたおめでしたー!