挿絵画像や縦書きwordの入ったファイルは こちら → http://rsp.x0.to/sai/moe/src/sn1255.zip  ※ ただしwordファイルは入稿時のまんまです。    リュウミンフォントを使っているので表示がバグるかもしれません。    なので、読むのならばこのテキストファイルを推奨しますー  ■ 夢の月 ■  全ては幻。  これは…………少女が見た、ただの夢だ。      □□□  赤く赤く、濁る夜。  そのはるか頂には、まるでそこだけまぁるく切り取ったかのような、青い月。  いつも通りのその月夜に、彼は突然現れた。 「う、痛てて……ここ、ドコだ?」  頭をさすりながら、陽月(ひづき)つかさは状況を整理する。  遠くから、相も変わらず警報の音が聞こえてくる。どうやら未だに魔王城の中らしい。結局脱出には失敗してしまったワケだが、ヘタをすればあのまま次元の狭間とやらに囚われていたかもしれないことを思うと、幸運だったとしか思えない。  それはともかく。  月の輝きだけが頼りとなる、暗い部屋。  天井は、高かった。とても高かった。その天井には、ステンドグラスで美しい物語が描かれている――ようだが、青い月が雲に隠れてしまったのか、一段と薄暗くなった室内ではあまりはっきりと見えなかった。  辺りを見回すと、質素だが、美しい調度品の数々が設置されている。  まるで、神殿。  とても魔王城の中とは思えないほど――どこか、神気のようなものさえ感じさせてしまう部屋であった。 (いや、神気なんて知らないけどさ)  と――  ギシ……  ふいに、物音がする。  それと同時に少年は、人の気配があることに気がついた。 (ち――!)  追われていた立場なのを忘れ、呆けてしまうなんて……!  つかさは自分の迂闊さを呪いながらも、振り返り身構える。  そこには、外の景色がよく見える大きな窓があった。窓から見える空の景色は、地上(ルネシウス)の夜とは似ても似つかない赤い夜空。血のように淀んだ、赤い夜だ。分厚い雲がかかっており、青い月は見えない。  その窓を背にするように、小柄な人影がいた。  雲が流れ、月明かりが室内を照らし出した時――――  陽月つかさは、目を見張った。  そこにいたのは、ひとりの少女だった。  年の頃なら十五歳くらい。黒いドレスを身にまとった、長い黒髪に、どこか虚ろな印象を受ける赤い瞳―― 「――――」  月明かりに照らし出された、美しい少女。  儚げな、まるで月の光に溶けてしまいそうな、美しい少女。  その存在に、――――心を奪われる。 「え……と、その――」  ……なんでこんな所に、女の子が?  ここは魔王城だ。  ルネシウスと表裏一体の世界である、魔界を支配する魔王の居城。屈強な戦士や魔術師がひしめくまさに魔窟だ。様々な不運と偶然が重なり、こんな所に迷いこんでしまったつかさも、先程までは逃げ出すために様々な死線を潜り抜けていた。  だと、言うのに…… 「あ……」  そうか、と納得する。 「君も……」 「…………」 「君も、えと……ここに、捕まってる、のか……?」 「…………」  黒い髪の少女は答えない。  赤い瞳で、ただ少年を見つめ続けている。  いや――  その虚ろな輝きは、本当にこっちを見ているのかすら、疑わしかった。 「……え……と」  つかさは困ったように、頬をかいた。  無言の時間が続く。  しかし、警報音が静寂を許さない。  このままここにいれば、いずれ追っ手がやってくるかもしれない。 (……よし)  少年は覚悟を決める。  どうしてこんな所に女の子がいるのかよく分からない。だが、ここは魔王城なのだ。捕らわれの女の子がいてもなんら不思議ではないだろう。  だから。  少年は、少女の手を、とった。 「――行こう!」  神殿みたいな部屋を出る。 「あ……」  瞬間――  はじめて少女は、言葉を口にした。  通路を走り抜けながら、しっかりと少女の手を握り、つかさは思考を巡らせる。  一体どうやって逃げ出すのか。  ……何か良策があるわけではない。だが、何とかして逃げ切らなくてはいけない。魔王城に捕らわれていた女の子。彼女を何とか、助け出して上げたかった。  だが、その前に現れたのは…… 「見つけたぞ、人間」 「げ――」  大勢の部下を引き連れた、青年将校が立ちふさがる。  彼の名は、ファージニア。  弱冠二十歳にして魔王軍の上級将校を務める騎士にして、魔王城に迷い込んだ陽月つかさを一度は叩きのめした仇敵である。 「くそ……しつこいな、お前は!」  壁際に追い詰められながらも、少女をかばうようにつかさは一歩前へと進み出る。  魔族の騎士が放つ闘気が、少年の肌をピリピリと焼いていく。 「もう逃げられんぞ、覚悟、し……ろ…………」  ファージニアの声が尻すぼみに小さくなる。その顔は驚愕に染められていた。見開かれた瞳の先は、寸分違わず、黒髪の少女へと注がれている。 (な、なんだ……?)  いぶかしみながらも、つかさは少女を背後にかばう。  その少女を見て、ファージニアだけではなく、彼に従う魔王軍全員が硬直していた。ある者は怒りに、ある者は屈辱に、そしてある者は恐怖に、身体(からだ)を震わせている。 (こいつら……)  そんな魔王軍の様子を、さすがに不審がりはじめた時――  鬼の形相でファージニアは吐き捨てた。 「貴様……おのれ、人間! 人質をとろうとは――この、下衆め!!」 「は……?」  一体何を言っているのであろうか? 「人質だって!? ふざけるな! 俺はそんな非道なまねは絶対にしない!!」 「ならば、貴様の後ろにおられるお方を、どう説明するというのだ!!」 「え――」  つかさの後ろにいるのは、……囚われの闇より助けだした、ひとりの少女。 「彼女が、何だって言うんだ!!」 「とぼけるな! そのお方こそ、我らが魔の国の王、天翼の主たる魔王シヴァ様ではないか!!」  ……………………。 「―――――――――――――――――――――――は?」  この男はいま、何を言ったのであろうか? 「え……魔王?」 「そうだ!」 「魔王……なの?」 「…………」  こくりと、少女は――魔王シヴァは頷いた。 「な――!?」  つかさの頭はぐるぐるとこんがらがる。  だが、事態は少年が落ち着くのを呑気に待っていてはくれなかった。  シヴァを助けるべく、魔王軍はジリジリと包囲網を狭めてくる。 「……く」  ――どうする!?  前門にはファージニアとその配下。  後門には魔王シヴァと呼ばれた黒い少女。 (どうすんだよ、この状況……!)  内心舌打ちをするつかさ。  だがその時。  そっと――――彼の服が、引っ張られた。 「……え」  少女へと振り返る。  シヴァが、きゅっ……と、彼の服を握っていた。全身を小刻みに震わせながら、怯えたような眼差しで、少女は魔王軍を――ファージニアを見つめていた。 (馬鹿、だな)  本当に、馬鹿だと思う。  一瞬でもこの少女を疑った。  一瞬でもこの少女を敵だと思ってしまった。 (俺は……)  なんという――大馬鹿者なのだろう。 「……あ」  つかさはシヴァの手を、しっかりと握る。 (――お願いだから、力を貸してくれよ……精霊王!)  瞳を閉じる。  暗い視界。  そこに――わずかな光が灯った。 「……これは!?」  ファージニアはいち早く異変に気がつく。  目の前の人間の少年に、尋常じゃないマナが流れこんでいく……!  無風のはずの通路に、一陣の風が吹く。 「風の、精霊術……!」  勇者を介して精霊王と交感する――聖騎士としての、陽月つかさの真の力が咆哮する。 「――風天鎧、ファイナルマテリアル!」  つかさは少女を抱きかかえると、風の精霊術を発動させる。  それは、風の鎧。  触れるもの全てを切り裂いていく、風の刃で出来た鎧だった。 「待て――!」 「おおおおおおおおおおああああああああああああああああああ!!」  風の翼が生え、少年はふわりと宙に浮く。  そのまま背後の壁を無理やりぶち破ると、まるで鳥のように夜空へと飛翔した。  少年と共に、空を舞う。  その胸の中から、少女は空を見上げる。  数年ぶりに鳥籠の外から見上げた夜空。  青い月は、幻想的に輝いていて――――まるで、夢の中のようだった。  広大な山と、深い森の中……  陽月つかさと魔王シヴァは、洞窟の中にて焚き火を囲む。 (これから、どうしたもんかなぁ)  魔王城を脱出した、あの後――  限界を無視した全速力の飛翔の果て、つかさは力尽き、どこともしれない山の中に墜落してしまった。怪我こそなかったものの、しばらく深夜の森をさまよい続け、やっとのことでこの洞窟を発見したのだ。 (追っ手はとりあえず振り切ったみたいだけど……)  ちらりと黒髪の少女を見る。  赤い瞳は、静かに炎を見つめ続けている。  その無表情からは何を考えているのか読み取ることは困難だった。 (……まいったな)  暗い洞窟の中にふたりっきり。  焚き火の炎が、少年と少女の顔を照らし出す。 「……あのさ」 「…………」 「……えと」 「…………」  黒髪の少女は喋らない。無口だ。  しかも、こっちから話題を振ってみても何の反応も返さない。 「…………」 「…………」  沈黙が痛かった。 (むぅ……)  つかさは改めて、シヴァを観察する。  顔も服も汚れてボロボロになってはいたが、それでも、彼女本来の美しさは損なわれてはいない。綺麗な黒髪はさらさらかつ柔らかそうだし、白い肌と相まって、まるでモノトーンでまとめられた人形のようだ。赤い瞳が紅玉(ルビー)のように輝いている。 (……かわいいよな)  そんなことを考えていると―― 「――――!」  少女と視線が絡み合う。  気恥ずかしくなり、つかさは目を逸らした。顔が赤くなっているのがわかる。  だがそれでも、少女はつかさをじー……っと見つめ続けてくる。 「あ……な、何……かな?」  言うと、シヴァはぷいっと顔を逸らす。 「…………」 「…………」  再び痛い沈黙が降りる。  それに耐え切れなくなったつかさは、何か話題はないかと探しはじめ、 (あ……)  もっとも基本的で、かつ、大事な話を忘れていることに気がついた。 「あ、あのさ……自己紹介、まだだったよね」 「…………」 「……俺はつかさ。陽月つかさだ。地球――サンガイアって所で生まれて、ルネシウスには色々あって顔を出してる感じ。一応、勇者の聖騎士ってのをやらせてもらってるけど……」 「…………」 「あー……えっと、それでその……年齢は十六歳、趣味は……」 「………」 「あー……」  シヴァは無言だ。  しかも、顔を合わそうとすらしてくれない。  ――痛すぎる、沈黙。 (う……)  あまり考えたくはないが、魔王である少女と勇者の従者である自分とでは、マトモなコミュニケーションなど成立し得ないのかもしれない。なにせ、本来は敵同士なのだ。こちらがどれだけ好意的であろうと、少女からすれば陽月つかさは人間で、聖騎士で、自分を殺すかも知れない危険人物と思われていても仕方がない。  寂しいことだけど…… (出来れば、もっと仲良くしたいんだけどな)  つかさは密かにため息をつくと、黙って火を見つめる。  パチリと、薪が爆ぜた。 「――シヴァ」  ぽつりと、声が聞こえた。  まるで蚊の鳴くような、か細い声。感情希薄気味なせいで、その瞳と同じく、どこか虚ろな印象さえ受ける。  顔を上げる。  こちらを見ないまま、うつむき気味に――少女は、自らの名前を名乗っていた。 「え、あ――」  一瞬、思考が真っ白に染まる。  しばらくして。  少女が拙いながらも、自分の思いに応えてくれたことが理解できると――つかさは、嬉しそうに微笑んだ。 「そっか……ありがとう」 「…………」  少女は小さく頷いた。――ように、少年には見えた。 「……あれ?」  歓喜をひと通り噛みしめると、ちょっとした疑問が脳裏に浮かんでくる。  魔王シヴァ。  それは確か、神話の時代――創世戦争とやらで倒されたはずではなかったのか? 「ひとつ聞いても良いかな?」 「…………」 「……あの、さ、君は本当に、シヴァ――なのかな。いや、疑うとかそういうんじゃなくて、本当に大昔の戦争で暴れたって言う、あの魔王シヴァ、なのか?」  伝説に聞く邪悪の権化。  剣の魔王と称される破壊者のイメージと、目の前の少女が、どうしても重ならなかった。 「…………」  シヴァは目を伏せ、答えない。  心なしか、彼女の頬に赤みがさしたような気がした。 「――――」  そんなシヴァを見て、つかさは何とはなしに視線を泳がす。頬をポリポリとかいた。  と、その時。  ぐ〜っ。 「…………」 「…………」  ぐ〜っ。  少女のお腹が、かわいらしく鳴った。 「――――」  見る見る間に、顔を赤らめる黒い髪の少女。つかさは苦笑すると、懐から保存食を取り出した。見た目は細長い、ちょっとサバサバした食感のするお菓子みたいな食べ物だ。 「はい、これ。あんまり美味くないけど、少しくらいはお腹の足しになるから……」  シヴァに保存食をわたす。  すると少女は、少しずつ、かじるようにして食べはじめた。  何度目かになる、沈黙が訪れる。  だがそれは、先ほどまでとはちょっと違う、心地よい、穏やかな沈黙であった。  食事を終えると、ぽつり、ぽつり、と音がしてくる。  嫌な予感に、つかさは洞窟の外の様子を見に行くが…… 「マジか……」  赤い夜は分厚い雨雲に覆われ、辺りは闇に閉ざされていた。雨はあっという間にその強さを増していき、すぐに土砂降りへと変わってしまう。 「……雨か。まいったな、これじゃ足止めをくっちまう……」  魔王をさらって来たのだ。  確実に、魔王軍の追っ手がかかっているだろう。 「――いや、逆に幸運だったのか」  もしもこの洞窟で休まずに、あのまま山歩きを強行していたなら、今ごろこの大雨の下にいたことになる。自分ひとりならともかく、少女を連れて無事に山を下りられたとは思えなかった。 「まぁ……あっちもこの雨じゃ動けないだろうし」  つかさは焚き火の場所へと戻ってくる。 (偶然にしろ何にしろ、この子に助けられたな……)  ――と、冷たい風が吹いてきた。  焚き火の炎が揺れた。 「もう少し奥へ行ってみよう。ここじゃちょっと寒いしさ」  シヴァは返事こそしないものの、静かに立ち上がった。つかさは焚き火の炎でたいまつを作ると、火の後始末をする。 「よし、それじゃいこう」  たいまつで奥を照らしながら歩き出す。  しばらくして、シヴァが遅れはじめた。  見ると、右足を引きずっている。 「だ、大丈夫?」 「…………」 「……ちょっと、座って」  大人しく従う少女。  つかさはドレスの裾を持ち上げる。こんな時だというのに、ドキドキしてしまう自分が嫌だった。  ブーツを脱がせると、白い足が露出する。  捻挫でもしたのか、青く腫れあがり、痛々しかった。 「……ごめん。俺……全然気がつかなかった……」 「……………」 「傷薬とか……は……」  あるわけもなかった。  ならば精霊術は、と考え、四大属性の中では大地と水の属性のみが癒しの奇跡を起こせることを思い出す。残念ながら風属性の術しか使えないつかさには無理な話だった。 (……ええと。捻挫の応急処置ってどうするんだ……?)  こんなことなら、もっと真面目に保険の授業を受けておくんだったと後悔する。 「……ごめん」 「――――」  シヴァは小さく、首を振る。 「………?」  両手を患部へとかざす。  すると、傷口が淡く輝き――――見る間に、腫れがひいていく。 「これは……」  魔術――!  魔族と、魔族と交感した魔術師のみが使用できる、人類が忌み嫌うべき奇跡の技。  属性に縛られる精霊術と違い、魔術は万能の力だという。たったひとりの魔術師が、炎を吐き、水を生み、大地を割って、風と共に舞う。さらに癒しの術なども使用できると聞いてはいたが―― 「すごいんだな……君は」  心底感心した風に言うつかさ。  シヴァは顔を赤らめ、こくりと頷いた。 「…………」 「…………」  再び焚き火を囲みながら、沈黙が続く。 「……あの、さ」 「……?」 「さっきの傷のことだけどさ。……俺、馬鹿だから、やっぱり気づかないこと多いかもしれない。だからさ……その、何でもいいから、出来れば教えて欲しいんだ」 「……?」 「言われなくちゃ……わからないこともあるし」  ……なんだか、言ってて自分が惨めになってくるつかさであった。  とにもかくにも、この少女とはもっとコミュニケーションを取らなければいけない。魔王城の出会いからここまで、まともな会話をした記憶もないのだ。言葉は通じているようだが、これから先のあてのない逃亡生活を思うとこのままでいいはずもなかった。 「ホント、何でもいいからさ。お腹が空いたとか、眠くなってきたとか、疲れたとか、この際何でもいい。もっと、君と色々話してみたい」 「…………」 「うんとかすんとか、そんなのでもいいから――」 「すん……?」 「すん?」 「……すん」 「すん???」  わけがわからなくなった。  まぁ、少女の方もコミュニケーションをとろうという意図があると分かっただけでも十分だ。あとは、どのように会話をリードしていくか。男の見せどころだろう。 「あ、あの……さ」  つかさは努めて自然に話を振る。  どことなく、気恥ずかしい。 「……えーと……。……――――雨、止まないね……」 「…………」  返事は、ない。 「はやく、晴れるといいよね」  やはり返事は、ない。 「……まぁ、うん」 「…………」 「…………う、う〜ん……」  話題が見つからない。  自分の会話能力の低さに愕然としつつ、何とかして会話を弾ませようと必死に知恵を巡らせる。 「……そ、そういえば、シヴァは魔王だったんだろ? 魔王城での生活ってさ、その……どうだった?」  ――瞬間――  少女の気配が強張った。  まるで心臓にナイフを突きつけられた幼い子供のように。 「……シヴァ?」  少女の異変に気がついたのか、つかさは恐る恐る声をかける。 「――――」  様子がおかしい。  耳を塞ぎ、頭を振りながら、全身を小刻みに震わせている。  まるで、何かの苦痛に耐えているかのように―― 「シヴァ!?」  少女の名を呼ぶ。だが、少女はぶんぶんと頭を振り続けるだけだ。 「――シヴァ!!」 「………――――ッ!!」  ついには駆け出し、大雨の中、洞窟の外へと飛び出していった。 「……な――くそ!」  すぐに後を追うつかさだが、初動の遅れがあまりにも致命的だった。  大雨、夜、森の中――  すでに少女の姿は見えなくなっていた。  駆ける。  駆ける。  森の中を全力で駆ける――  魔王城。  魔王城での生活。  ファージニア。  ――裏切られた信頼。  つかさ。  つかさはシヴァと自分を呼ぶ。  彼も呼ぶ。そう呼ぶ。私をそう呼ぶ。  彼も――ファージニアと同じなのか?  ――でも、他になんて呼べばいい?  自分は選ばれたのだ。  選ばれた魔王なのだ。  ならば――  わたしなんて、いらないのに――…………  ならば何故、自分は今こうやって駆けているのであろうか。  土砂降りの中、月明かりさえ届かない山道を、どうして、逃げているのだろう。  いったい、何を恐れているのだろう――?  空に、雷鳴が轟く。嵐だ。  強い風が吹き付ける。  慣れない山道ということもあり、シヴァは足をもつれさせ、泥だらけの地面へと倒れた。 「はぁ……はぁ……」  少女は荒い息を吐く。そもそも、そんなに体力がある方ではないのだ。  疲労感によりしびれる体に鞭を打ち、ゆっくりと身を起こす――と、右足にズキリとした痛みが走った。実のところを言えば、少女は魔術が得意ではない。先程の癒しの力も見せかけだけで完治には程遠かった。  大人しくしていないと、また悪化するかもしれない。  それでも。  痛む足を引きずりながら、シヴァは歩いて行く。  長い黒髪が雨に濡れて、まるで自身を縛り付ける鎖のように重かった。 「……なん、で」  夢を見ていたのかもしれない。  あの部屋から出れてしまった。  これは、そんなあり得ない現実が見せた、気の迷いで見た夢なのだ。  だから――  嵐の夜。  月はどこにも見えない。  見えるはずも……なかった。  少女は、再び歩きはじめる。  その手を――――少年が、強く握った。  結局、つかさによって少女は助けられた。  風の勇者たちの尽力もあり、なんとかルネシウスに帰還して――……シヴァは身元不明の少女として、シルヴィア城で生活することとなる。  魔族――しかも魔王という身分を隠して話を進めなければならなかった陽月つかさの苦労は有り余るものがあったが、その努力のかいもあり、少女の新生活は順調であった。  そんなある日のことだ。  風の都を案内すると、つかさは少女を街へと連れ出した。  後に少女は思う。  これはもしかして、はじめてのでーと、というものだったのではないかと。 「風の聖堂には精霊教会シンフォニアの聖女のひとり、シルフィード様がいらして――」 「ゼファードさんはアレでなかなか話が分かる人で――」 「ここは通称貴族街区。……まぁ、あんまり近寄らない方が――」 「精霊学院アカデミア。シルヴィアが通ってる学校だな――」 「こっから先は商店街。色々な店があるんだぜ」  他愛のない雑談を交わしながら、つかさは色々な場所を案内する。  少女にとって、風の都どころかルネシウス自体がはじめての環境で、見るもの触れる物、全てが新鮮で興味深かった。  その中で、一番興味を惹かれたのが…… 「ケーキか……やっぱ女の子だなぁ」 「???」  首を傾げる。  苦笑するつかさに連れられるまま、ケーキ屋さんへと足を踏み入れる。  魔王城の生活では味わったことのない、美味しい香りがいっぱいだった。 「……何か食べてく?」 「……!」  そして…… 「おいしい……」  少女は瞳を輝かせながら、ゆっくり味わうようにケーキを食べていく。  悩んだ末に注文したのは、シフォンケーキだった。 「……気に入った?」 「……!」  すごい勢いで頷く少女。  その妙に真剣な面持ちに、思わず吹き出してしまうつかさだった。 「???」 「いや、なんでもない。美味しかったんなら、よかったよ」 「……すごく、おいしい」 「そっか」  不意に、少女はフォークを置くと、背筋を整えつかさへと向き直る。 「……?」 「つかさ」  ちょっとだけ――白い頬に、赤みがさした。 「……ありがとう」  少女は、微笑んだ。 「え? ――……あ、ああ……。うん、どういたし、まして」  しばしきょとん、としていたつかさだが……  徐々に顔を真っ赤にさせていくと、照れ隠しか、あらぬ方向に視線をそらすのだった。  店を出て。  夕暮れの街を、ふたり並んで歩いていく。  黒い影が長く長く伸びていく。 「そうだ。君の名前」 「……名前?」 「……うん。いつまでもシヴァじゃ色々と不便だし……さ」 「――――」 「それで、さっき、思いついたんだけど……シフォン、というのはどうかな?」 「――シフォン」 「あ、安直かな、やっぱり。さっき、お店で幸せそうにシフォンケーキを食べてたから……それで、響きもいいし、どうかなって思ったんだけど……」 「――幸せそう……」 「……やっぱ、ないよなぁ」 「……ううん」 「え――」  つかさは立ち止まって、――少女を見る。 「私は……シフォン」  満面の、笑顔でもって、 「私の名前は――シフォンがいい」  少女は、シフォンという名を受け入れた。  ここ数日で様々な出来事があった。  偶然から、鳥籠の外へ飛び立って。  知らなかった世界を知って。  たくさんの人と、出会って。  そして、自分を、対等の――ひとりの少女として見てくれる人がいて。  いつの頃からか、全身に絡み付いていた重い鎖。  それが、バラバラにちぎれていくのを、シフォンは感じていた。 「さぁ、家に帰ろうか。あんまり遅くなると、シルヴィアたちに怒られるし」 「――うん」  だけど……  幸せな時間は、長くは続かなかった。  魔王城。  再び神殿に監禁された少女の元に、その張本人たる青年――ファージニアが訪れた。 「……シヴァ様、お食事の時間です……」 「――――」  シヴァは、答えない。  もはや生気を失ったとしか思えない、焦点の合わない虚ろな眼差しで、ただ淡々と、どことも知れない場所を見つめ続けている。  まるで、抜け殻のように……  そんな少女を見て、ファージニアはかつてのシヴァへと――幼馴染の少女へと思いを馳せる……  魔国の貴族であるミストラル家の城で、守備隊として働いていたファージニアは、自分の仕えるべき主の娘――ミスティの護衛役として、よく彼女と行動を共にしていた。  ミスティには何かと制限が多かった。  基本的に部屋から出ることを禁じられており、外出を許されたわずかな時間でさえ行動制限が設けられていた。限られた時間と場所では城の中庭で遊ぶ程度しかやることがなく、その遊び相手として選ばれたのが幼馴染でもあったファージニアなのだ。  八年前の、そんなある日のことだ。  ミスティと共に遊びから帰ってくると――血の海が、ふたりを出迎えた。  敵は、魔王軍だった。  半狂乱のミスティを守ろうと、ファージニアは必死に剣を振るったが、到底太刀打ち出来る相手ではなかった。ミスティは連れ去られ、少年もまた魔王軍に連行され――そこでミストラル家が襲われた理由と、魔王軍がミスティを求めた理由を知った。  魔王の器。  かつて創世戦争で肉体を失った魔王シヴァの魂を受け入れるための新たなる肉体。  ミスティには、その適性があるというのだ。  魔王の器は全ての世俗との係わりを絶ち、一切のヒトとの接触を絶たれる。唯一、魔王と接触を許されるのは枢密院の老人たちと、器の世話を任された従者のみ。  それはつまり、まだ七歳の少女を、魔王城という巨大な監獄に閉じ込めることを意味していた。 「……失礼します」  数週間後、ファージニアはミスティとの再会を許された。  暗い部屋。  魔王の器を育成するための神殿で、かつて優しい微笑みを浮かべていた少女は――面影もなく塞ぎこんでいた。無理もない。まだ七歳の少女が、家族を惨殺された上に、魔王城から一生出られない運命を、背負えるはずがない。 「……ミスティ様」 「――ファー……」  幼馴染の少年に気づき、ミスティは泣きはらした瞳で、こちらを見た。  ろくに食事も取っていないとは聞いてはいたが……痩せこけた少女の姿はあまりにも痛ましく、少年の心を挫くには十分すぎた。 「ねぇ……ファー……」 「はい……」 「……どうして私が、魔王様にならなければいけないの……?」 「――それは……」 「……私、そんなの嫌……なんで、私が……どうしてパパとママが……、……恐いよ……みんなと離れたくない……ひとりぼっちなんて、そんなの、嫌だよぉぉぉぉ……!」 「ミスティ様」  泣きじゃくる彼女の前に、ファージニアは静かにひざまずく。 「――ならば、どうかこの私をお側においてください」 「……ファー?」 「このファージニア、ミスティ様の従者として――必ず、あなたをお守りいたします」  少女を襲う外敵。  少女を襲う孤独。  少女に危害を加えようとする、ありとあらゆる存在。  その、全てから―― 「必ず、あなたを――」  ――例え、世界の全てを敵に回したとしても……!! 「ファージニア……」  少年の誓い。  それに、少女は…… 「……うん」  ――はにかみながら、頷いた。  あの時、確かに少女の笑顔に誓ったハズのこの思いは――……  一体、ドコへと向かってしまったのだろう。  魔王城の生活において、少女は日に日に表情をなくしていき、ついにはまるで人形のようになってしまった。なのに自分は、彼女の心を守ることさえできず、あまつさえ、枢密院の意思通りに少女と接してきてしまい……  ミスティはもう、笑顔を忘れてしまったものだと思っていた。  なのに。  ――風の都で、ミスティを見たときの……何年ぶりかに見た、あのまぶしい笑顔が網膜に焼き付いて離れない。  彼女は笑顔を忘れてはいなかった。  忘れていたのは、自分なのだ。  そして今……  神殿へと戻された少女は、以前とは比べものにならないくらい傷つき、心を蝕まれている。まるで、本当に表情を失ってしまったかのようだ。 「シヴァ様……」 「――――」  少女は応えない。  虚ろな赤い瞳は、変わることなく宙を眺めつづけている。  ファージニアは、かける言葉もなく――  静かに神殿を後にした。  ――――――――ついに、その日は訪れる。  夢      を      み           る        。  ――――あたりは黒一色の世界。  上も下も右も左も前も後も、すべてが黒く塗りつぶされている世界。  自分の体さえ曖昧な世界。  自分の精神さえ曖昧な世界。  自分の魂さえうつろう、そこは生命としての深い深い深い深い深い深い深い最深部。  確かな個があるのに。  その個はどこまでも不確かであった。 ?のなこどはここ――――   さまよい、歩く……  と。  ――誰かが少女の足をつかむ。  引きずり込んでいく。  少女の感情が塗りつぶされていく。魂が侵されていく。体が崩れていく。深くて、寒くて、暗くて、悲しくて―――― ?れだ、はたなあ――――   あまりにも大きな、山のような黄金の影。  その巨大なあぎとが、少女をボリボリと咀嚼していった。  シフォンがさらわれた後、地上の動向は激変した。  魔王復活を阻止すべく、犬猿の仲だった聖堂騎士団と王国騎士団が手を結び、魔王軍との決戦の準備が整えられる。  そんな中、つかさは主人であり大切な人でもあったシルヴィアに対抗してまで、少女を助け出すべく行動を開始した。彼に同調してくれた友人たちの協力を得て、魔王城へと潜入して……ファージニアとの戦いを制して。  傷だらけになっても、目的の場所へと進み続けた。  魔王城にある儀式の間。  息せき切って突入した陽月つかさとゼファード・グラスの目に飛び込んできたのは、巨大な魔法陣の中で倒れこんでいる黒い少女の姿だった。 「――――シフォン!!」  自らの身体を気遣うことさえ忘れ、つかさは一目散に少女の元へと駆け寄った。 「シフォン、しっかりしろ!」 「……う……」  うっすらと、目を開ける。 「シフォン!」  喜びに笑みを浮かべるつかさ。  それを――枢密院の老人たちは笑みすらたたえ傍観していた。  まるで、喜劇を観覧しているかのような……そんな、異様な雰囲気であった。 (こいつは――!?)  ゼファードは息を飲む。  最悪の結末に……気がついたのだ。 「坊主ッ!!」  すかさず風の衝撃波を放ちつかさを少女の側から弾き飛ばす。  次の瞬間。  ――――ギィィン!!  紙一重で、彼がさっきまでいた場所へと黒い大剣が振り下ろされていた。  その持ち主は――黒い髪の、少女。 「……シ、フォン……?」  つかさの乾いた声が、小さく零れた。 「は……」  悠然と立ち上がった黒い少女。  その全身から、あまりにも濃密で邪悪なマナが立ちのぼっていく。  それは光り輝く黄金色。  だというのに、どこまでも深く暗い、冷たい闇であった。 「はは……」  少女の唇が、動く。 「はは……はははは、はははははははははははははははははははははは――――!!」  シフォンの声で――それは、哂った。 「…………」  つかさは、呆然とそんな少女を見つめていた。  邪悪に歪んだ狂気の笑顔。  同じ顔、同じ声、同じ体だというのに――もはや在りし日のシフォンの面影は、微塵もなくなっていた。  こいつは……  こいつは――!! 「――いかがですかな、数千年ぶりのお体は?」 「ああ……悪くない」  枢密院の老人たちが、少女へと恭しく頭を下げる。 「いや――最高の、器だ!」  少女の真紅の瞳は、立ちのぼるマナと同じく邪悪なる黄金へと変色していた。  後背より血色の翼が展開される。  金色の少女より、巨大な血翼が広がっていく―――― 「お前は……」  苦々しく、ゼファードはハルバードを構えた。 「ふん――これも何かの縁であろう。よく聞くが良い、人間どもよ」  少女もまた、大剣を構える。  漆黒の――魔王剣を。 「我が名はシヴァ。天翼を統べし覇者……魔王シヴァなり――――!!」  瞬間。  吹きつけるのは絶対的な力と悪意。  人間など軽く消し飛ばしてしまうほどの、――――圧倒的に隔絶し、断絶した力あるマナの嵐であった。 「ぐぁ――!」  ゼファードは、つかさは、黄金の嵐の前に膝を屈するしかない。  吹き飛ばされないようにするだけで精一杯であった。 「クソッ……ここまで来たってのに……!」  絶望にゼファードの心は塗りつぶされていく。  震えが止まらなかった。 「ははは。ははははははははは。ははははははははははははははははは……!」  笑う。  哂う。  魔王は、わらう――――!  シフォンを器とした魔王復活計画。  それを阻むため、勇者シルヴィアや聖堂騎士団長ジョシュア、彼の部下たち……大勢の人間が、精霊が、必死に戦ってきたというのに。  全ては……手遅れだったのだ。 「……どうですかな? 新たな器の使い心地は……」  名乗りを上げたシヴァのもとに、高貴な装束をまとった老齢の魔族が歩み寄ってくる。  彼こそは枢密院の現筆頭、魔王亡き後の魔の国をまとめてきた大魔族のひとり、エレクトゥスであった。 「――素晴らしい。かつての余の肉体に勝るとも劣らない、圧倒的な潜在能力だ。――ふふ、これならば、かの光浄蝶にすら、打ち勝つ事ができようぞ」 「……では」 「うむ。いよいよルネシウスを崩落へ導く時が来た。大命を成就させるのは冥帝でも夜姫でもない。この魔王シヴァなのだ。――はは、ははははははははははは……!!」  シヴァが笑う。  その、シフォンとは似ても似つかない、邪悪な、悪意のみを宿した笑み―― 「……ざけんな」  自然と、言葉が出た。 「……――あの子の体で、あの子の顔で――」  魔王の悪意がマナとして、力をもって吹きつけてくる。  だが、それがどうしたというのか。  例えどのような悪意であろうと――少女を侵される痛みに比べれば、そよ風にも等しかった。 「――そんな、下衆な笑いをするんじゃねぇ……!」  陽月つかさは立ち上がる。  全身に力がみなぎってくる。 「ほう」  刃向かってくる少年を、シヴァは面白そうに一瞥した。 「これは――サナキエールか? ではお前が……勇者、という奴か」  す……と。  シヴァは少年へと手を向けると、無造作に魔術を放つ。  黄金の閃光が走り、為す術も無く、陽月つかさは倒れ伏した。 「……なんだ」  つまらなそうに、魔王はため息をついた。 「これは――勇者ではないな。サナキエールの力がほとんど感じられない……又貸しか?」  どちらにしろ、少年では魔王の相手は務まらない。  余興にもならないことを悟ると、シヴァは今度こそつかさの息の根をとめようと、魔王剣を振りかぶった。 「させるか、よ――!」  震える体に活を入れ、今度はゼファードが立ち上がる。  勇者から力を与えられた聖騎士といえど、戦闘に関しては初心者同然のつかさが魔王相手にあそこまで啖呵を切ったのだ。聖堂騎士団の副団長たる自分が怯えてブルっているなどと――そんな無様な真似は許されない。 「こ、の――!」  ハルバードを構え、魔王へと突貫を仕掛けるゼファードだが…… 「……ふん」  気にした風もなく、魔王は魔王剣を振り下ろした。  ――――一瞬の、静寂。  直後。  閃光と轟音が、世界の全てを満たしていた。  空間さえ軋ませる魔王の斬撃は――少年の想いも、青年の決意も、枢密院の老人や魔王城すら巻き込んで――その全てを、消し飛ばしていった。 「…………あ、――……」  意識を取り戻したつかさが最初に思ったことは、まだ生きていることへの絶望と喜びであった。  そんなことは関係ない。 「か、ぁ――……」  生きられたことは幸運だろう。  だが、再び魔王と対峙しなければならないと思うと――死ですら圧倒的な救いとしか思えなかった。  そんなことは関係ない。 「……、ぐ――」  起き上がろうとして、半身が瓦礫に埋もれていることに気がついた。もはや動くことすら出来そうにない。これでは死を待つだけの格好の的だろう。  そんなことは関係ない。  少年にはやらなければならないことがあるのだ。  その前には、どのような恐怖や絶望だろうと、踏み越えていくだけの対象でしかなかった。  だから…… 「シ、フォン……!」  瓦礫の中で、もがき続ける。  魔王の器にされてしまった少女を助けようと――もがき続ける。  と…… 「――――あがくのう、人間」  闇にまみれた少女の声。  動く顔をめぐらせて、声の主を、つかさは睨む。  半ば吹き飛ばされた魔王城。  赤い夜と青い月を背に――――魔王シヴァは、愉快そうにつかさを見下ろしていた。 「……シフォンを、返せ」 「……分からぬ。何故そこまで、この娘に執着する」  人間にとって魔族は相いれぬ存在であるはずだ。  憎み、嫌悪し、殺し合う関係であるはずなのだ。  なのに何故――この少年は、この少女をここまで求めるというのか。 「……当たり前だろ」  魔王を睨みつけながら、つかさは言う。 「大切な人を助けたいって思うことの――――何が、おかしいってんだ!」  ――――あるいは、それが 「貴様……」  ――――その強さを、確かな奇跡を、刻んでいこうと――――…… 「……!!」  シヴァの顔色が変わる。  先程までの余裕は消え失せ、その表情には焦りと――恐怖の色さえ、浮かんでいた。 「茶番は終わりだ」  魔王が腕をかざすと、空間が軋みを上げる。  刹那の後、つかさは魔術で生み出された黒い球体の中へと捕らえられていた。 「――死ね」  かざした手を握る。  すると、黒い球体があっという間に軋みを上げて縮んでいく。  空間ごと、存在を爆砕する。  それは一瞬の出来事で。  次の瞬間には、陽月つかさは髪の毛一本残さず、この世界から消滅する――――  ――――ハズ、だった。 「…………な……!?」  魔王は絶句する。  陽月つかさを捕らえたまま、――――黒い球体に、変化はなかった。 「こんな、ことが――!!」  驚愕に黄金の瞳を見開きながら、魔王シヴァは魔力球を握りつぶさんと、よりいっそうの力を込める。  だが、陽月つかさは潰れない。  それどころか、魔力球にすら変化を与えることが出来なかった。 「馬鹿、な……」  魔王は呆然と呟く。 「これが――これが、愛だと言うのか……? ――否。認めぬ。余は、認めぬぞ!」  少女の体から黄金のマナがほとばしっていく。  紅の翼が、大きく開かれた。 「貴様ら人間の愛など――余は、絶対に、認めはせぬ!!」  殺す。  魔王シヴァの殺意が力となり、さらなる圧力となって魔力球へと注がれていく。  殺す。  黄金のマナが魔力球に絡みつくように展開していく。  殺す!  魔力球が、ついに圧縮を開始する。  空間ごとつかさを抹殺すべく、全身全霊をもって魔王はマナを注ぎ込み続ける。  こいつは――  殺さないと、駄目だ!  そう。  死だ。  死んでしまえ。人間など、全て消えてなくなってしまえ。それが真理。それこそが世界のあるべき姿。神の大命は正しかったのだ。人間などという存在を産み出してしまったことが、この世界の最大最悪の過ちなのだ!  だからこそ、陽月つかさを殺す。  殺す。  殺す殺す。  殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺?す殺す殺す殺す殺す殺す?殺す殺す殺?す?殺?す殺す殺す殺す?殺す殺す殺す殺す??殺す殺す殺す殺す?殺す?殺?す?殺?す?殺、す――?  ――それはイヤだ。私は陽月つかさを殺したくない。  人間は殺す。敵対するものは殺す。  彼は、私をあの部屋から連れ出してくれた。温かな手で、しっかりと私の手を握り、あの閉ざされた世界から、外の世界に――  人間どもは勝手だ。世界を犯し、破滅させ、だというのに偽りの愛を歌い、世界に毒をばら撒き、異質なるものを恐れ、恐怖し、排除する。  外の世界は、知らないことばかりだった。青い空の下で見る太陽は、大きくて眩しくて、それだけで心を奪われた。  だから殺す。  初めて出会う人々は、みんな優しくて……優しく、私に接してくれて……  殺すだけでは飽き足らない。敵は滅ぼすものだ。破壊し、蹂躙し、もう二度と立ち上がる気などおきなくなるくらい――  だから、恐かった。  これは報復。神聖なる領域を犯した愚者たちへの、歪んでしまった世界への……正当なる裁き。  また裏切られてしまうんじゃないかと。あの、私を守ると誓ってくれた少年の様に。  だから、世界はこの私があるべき姿へと戻す。  彼は私を守ってはくれなかった。彼が守ると誓ったのは私のハズなのに――彼が守ろうとしていたのは、私ではなく、魔王の器としての私だった。  そのための、破壊、殺戮、蹂躙、滅殺――!!  だから、私は私を捨てた。私を見てくれる人がいないのだったら、もう、私なんていても意味はないじゃない――!  殺す。  殺した。  私に逆らうものは、全て、殺す――!  私は自分というものを、全て、殺した――  殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。  なのに。彼は私に近づいてくる。  殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。  全てを捨てたはずの私の心に、ある感情が蘇えってくる。  殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。  それは――楽しい、という心。  殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。  それは――嬉しいという心。  殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。  私を外へと連れ出してくれた彼。私の名前を真剣に考えてくれた彼。  殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。  もっと、彼を知りたい。  殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。  だから。  殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺――  つかさを殺すなんて、できるはず、ない――! 「……――なん、だ!?」  意識を取り戻したゼファードは、見た。  シフォンの体より、黄金の影が溢れ出す。それは、強大なマナの嵐。吹き荒ぶ嵐は、儀式の間を破壊し、天井を穿ち、魔王城を呑み込んでいく。  崩落する壁。  紙のように飛んでいく瓦礫。  魔王剣により斬り裂かれた魔王の居城は、さらなる力の衝撃にその姿を瞬く間に醜く歪ませていく。  ――全てが落ち着いたときには。  少女と、少女の側で倒れている少年――そして、黄金のマナとして虚空に漂う魔王の姿があった。 『……なんだ、何が……起こったのだ』  かろうじで人型と分かる巨大なマナは、戸惑うように周囲を確認する。 『――まさか……余が、追い出された、のか……!?』  ありえなかった。  魔王に比べれば、魔族の精神と魂など貧弱なものだ。まして、此度の器は万全を期し、心を破砕し抜け殻になっていたはずなのだ。それが、何故―― 『……そこの、人間か』  少女は、少年と出会った。  シヴァは知っている。  愛という名の奇跡が起こす、無限の可能性を。  だが、しかし…… 『魔族と人間との愛……だと……!』  認めない。  そんなものを、今さら、絶対に認めるわけにはいかなかった……!! 「……つか、さ」  シフォンは手を伸ばす。  地面に倒れ、もはや微動だにしなくなった少年へと、手を伸ばす。 「つかさ……つかさ!」  いくら揺さぶろうとも、少年は起きない。  あの優しい笑顔を向けてくれることもないし、もう二度と――あの声で、自分の名前を呼んでくれることも、ない…… 「つかさ……」  涙が流れる。  それは、悲しみという名の涙で。 「――なんで? どうして……つかさが死ななくちゃいけないの……? 悪いのは、全部、私なのに……」 『は、はは――そうか、死んだか人間! そいつはいい!! はは、ははははは――――』  ――笑い声が、癇に障る。  涙が流れる。  それは、憎しみという名の涙だった…… 「…………」  シフォンは、魔王を睨みつける。  その反逆的な瞳。  ――言いしれぬ、恐怖。 『……なんだ、その目は。貴様、器の分際で余に刃向かうのか……!?』  力強い言葉も、ただの虚勢に過ぎなかった。  ――魔王である余が、たかだか小娘ごときに臆する……だと!? 『ふざけるな……ふざけるな!』  怒りに黄金の影がゆらめいていく。 『器よ! 貴様のうちに置き去られた余の魂、、そして新たな肉――返してもらうぞ!!』  魔王は自らを構成するマナを黄金の弾丸と化し、シフォンを貫くべく撃ち出した。  ――直撃を受けるシフォン。  だが。 『……なん、だと……』  黄金の殺意は、少女から立ちのぼる赤黒いマナにより阻まれてしまう。 「あ――」  少女はゆっくりと立ち上がる。  その全身から、陽炎のように黒い稲妻がほとばしる。  赤黒い、雷光。  それは瞬く間に――――黄金のマナへと襲いかかり、その意識を貪っていく……! 『バカな!?』  黄金のマナが。  魔王の精神が。  仮初の命が、身を削られる苦痛に声を荒らげていく。 『おのれ……おのれえええええええええええええええええええええ!!』 「あ、ああ、ああああああああああああああああああああああああ!!」  シフォンは泣き叫ぶ。  思いの限りを込めて――泣き叫ぶ。  ――私を鳥籠の中から、外の世界へと連れ出してくれたつかさ。  ――ちゃんと私を見てくれたつかさ。  ――優しかったつかさ。  ――大好きだったつかさ。  ――――それを。コイツは、殺した!! 『娘ええええええええええええええええええええええええええええええええ!!』 「あああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」  そして――  魔王は、見る。  あたりは黒一色の世界。  上も下も右も左も前も後も、すべてが黒く塗りつぶされている世界。  自分の体さえ曖昧な世界。  自分の精神さえ曖昧な世界。  自分の魂さえうつろう、そこは生命としての深い深い深い深い深い深い深い最深部。  確かな個があるのに。  その個はどこまでも不確かな世界。  ――は   そこに――それはいた。  ――かたっあ……でとこういうそ   金色の山すら凌駕する、漆黒の世界。  比べることすらおこがましい――  あまりにも巨大な、腕。足。体。  あまりにも巨大な――――それは、黒い女性だった。  黒い腕が伸ばされる。  まるで虫けらを捻り潰すかのように……黄金を侵食していく。  黒く。黒く。  全てが黒(しろ)く染まっていく。  ……たまも宵今   あ さ き ゆ め で あ っ た か ――…… ……――――  ――――……  もはや黄金のマナはヒトの形を留めてはいなかった。  霧散し、空に溶けて、無残な残滓をさらしているだけだ。  だが、シフォンは止まらない。 「ああああ……!!」  咆哮と共に、膨大かつ強大な力が溢れ出す。溢れ出し続ける。  雷光が轟く。  取り込んでしまった魔王の力。  高ぶる感情のまま解き放たれたそれは――廃墟寸前と化した魔王城に、さらなる破壊の跡を刻んでいった。  ――逃がさない。 「あああああああああ!!」  ――魔王の一欠片とも逃がしてなるものか。 「あああああああああああああああああああああ!!」  ――許さない。 「ああああああああああああああああああああああああああああ!!」  ――その存在の全てを、 「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」  ――抹消して、やる……!! 「ああああああああああああ!! があああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」 「――もうやめとけよ、シフォン」  後ろから、温かな声がかけられて。  ――体を、抱きしめられる。 「……!」  ――シフォン。  そう自分を呼んでくれる声が、何よりも今は、心地よい――…… 「……あ」  涙が溢れる。  先ほどまでの怒りと悲しみの涙とは違う、――――喜びの、涙が。 「そんなモン食ったら……腹、壊すぞ」  黒と赤の雷が収まっていく。  戒めを解かれた黄金のマナが、霧散していく。  だが、もはやそんな瑣末事はどうでもよかった。  少女は振り返る。  ……その視界に、映るのは…… 「……つか……さ……」 「おう」 「……つかさ」 「おはよー、シフォン」 「……つかさ!」  感極まったのか、少年の胸にすがりつき、少女は泣きむせぶ。  その勢いを支えきれず、少年はしりもちをついてしまう。  だが、それでも。  胸の中の少女は、離さない。 「シフォン」 「うん……」  少年は愛しそうに――少女の頭を、そっとなでた。 「……迎えに来たよ、シフォン」 「うん……」  少女は小さくはにかんで―― 「……うん!」  ひまわりのような、笑みを浮かべた。      □□□  ――――深い、深い追憶と追想。  激しくも優しく、懐かしい思い出を胸に――――少女は、目を醒ました。 「…………ん」  眠気を払おうと、軽く頭を振る。  くらりとし、目を細める。  開け放たれた窓から強い日差しが差し込んでいた。 「…………」  ここは……そう、とある山荘の中。  長い旅路の果てに――――少女がたどり着いた、終着点だった。 「……私は」  手元には、思い出を綴った書きかけのノート。 「……そっか」  どうやら作業中に、テーブルに突っ伏したまま眠ってしまったらしい。  懐かしい思い出を夢見たのもそのせいかもしれない。  少女は椅子から立ち上がると、窓をあける。  夏の暑さを吹き飛ばすような、涼やかな風が吹きこんでくる。  長い黒髪が広がる。  白いワンピースが、ふわりとはためいた。  と―― 「おはよー、シフォン」  畑仕事を終えた青年が帰ってくる。 「……お帰りなさい、つかさ」  少女は微笑み、青年を出迎えた。  昔のことを夢見たせいだろうか――少年から青年へと成長し、日焼けもし、幾分たくましくなった愛しき人の姿が、なんだか微笑ましかった。 「な、なんだよ?」 「ううん、なんでもない」 「???」  首を傾げる青年に、少女はくすくすと微笑んだ。  ――――あれから、様々な出会いと別れがあった。  自分のせいで魔術師となってしまった少女、エレオノーラ。  具現化した幻想たるドラゴン種族と、彼らに仕える竜人(ドラグーン)たち。  自らの妹を名乗る、夜姫カグヤ。  同じく妹である黒死将ハルシャギク。  取り込んだはずの魔王シヴァの復活と、彼女との魂の和解。  結果として――  魔王の力を武器に、世界を守るために戦って――シフォンは絶命した。  だけど……  シヴァのおかげで、少女は今、人として存命している。  長年少女を縛り続けてきた魔王という名の鎖。  しかしそれは――最後の最後に、少女に希望という未来を与えて、消えていったのだ。  少女は願わずにはいられない。  魔王シヴァ。  少女の半身。  魂の分身。  私の、大切な……友達。  輪廻転生の輪へと還っていった彼女に、どうか、今度こそ幸多き人生を―――― 「そういえばさ。丘の向こうに、綺麗な湖を見つけたんだ」 「湖?」 「ああ。せっかくだし、今から見に行かないか?」 「……うん」  頷くと、少女は大きな帽子を被り、青年と共に外へと出る。  空を見上げる。  雲ひとつない、よく晴れた青空が広がっていた。  さんさんと輝く太陽が、目に眩しい。 「大丈夫?」 「……つかさがいるから、大丈夫」  言うと、照れくさそうに、青年は頬をかいた。  それを見て、少女はまた、幸せそうに微笑んだ。 「さぁ――シフォン」 「――――」  青年は手を伸ばす。  いつかと同じように――力強くて優しい、大好きな青年の手。  少女はおずおずと、その手を握り返した。  何回やっても。  何年経っても。  一緒に手をつなぐ――たったそれだけのことが、少女にとって、とても気恥ずかしかった。 「行こう」 「うん」  どこまでも……  どこまでも。  ふたり、一緒に歩いて行く。 あとがき  はじめまして、またはこんにちは、最萌系駄文書きのチラ裏です。  拙い本ですが楽しんでいただけると幸いです。  ……わぉう! 二行で終わった!!  ええと、それもどうかと思いますので、短編集らしく解説でもしていきたいと思います。 『風の勇者の割と平凡な一日』  b.H.H最初の短編でもある『勇者と魔王を同じ部屋に閉じ込めてみた』の改訂版です。改訂版というか、超絶水増し版です。お陰さまで勇者と魔王に焦点を当てる話でも何でもなくなりました。まぁいいかー。 『夢の月』  水増し版が様々なキャラにスポットを当てた結果、ダブルヒロインの片割れであるシフォンの影がなおのこと薄くなってしまって、こりゃいかんーと思い、シフォンにスポットを当てる話として七年前に書いた話を引っ張り出し、設定調整を行いこうしてお披露目することになりましたとさ。  そしたらシルヴィアさんのヒロインとしての立場が音を立てて崩れました。  そりゃあ、シフォンがガチヒロインだった頃の話を引っ張り出せばそうなりますよねー……  ちなみに他に想定してた話としては、 『魔王と魔術師タイムスリップするの巻き』 『魔術師たちの座談会』  とかありましたが乗りきれなかったので没りました。二度と陽の目は浴びないと思われます。  そんなこんなで。  この本の制作に関わった全ての方々に感謝を。  お手に取っていただいた全ての方々に感謝を。  ありがとうございました!!                                   2011. 08 チラ裏