Arcanum Saga Episode7 水の巫    第0話 独りぼっちの王子    ※  いくらか温度が上がった小さな部屋の中で、鋭い剣戟の音が響き渡る。  剣と水の王国・ロリザー王国において、身分の高い者同士の間で頻繁に行われている剣術の稽古試合。  手を合わせているのは黒髪の少年・セリンと銀髪の少女・セレス。ロリザー国王の実子である幼い姉弟。つまり王子と王女だ。  姉弟と言っても二人は似ても似つかない。腹違いの姉弟であるゆえに容姿が全然違うと言うのもあるのかもしれないが、それ以上に、身に纏う覇気のようなものが違った。  輝くような生命力を放つ姉に対し、今、剣を振るう体力があるのが不思議なくらいに生命の気配を感じない弟。  唯一の共通点は、深い紫の瞳のみである。 「!!!」  銀髪の少女が一歩踏み込むと同時に、黒髪の少年が体勢を崩した。ぶつかり合った金属から火花が散り、練習用の細剣が弾かれて宙に舞った。セリンの剣だった。 「そこまで――!!」  立会人の男が声を張り上げる。 「勝者――セレス殿下!!!!!」  尻もちをついたセリンにセレスは手を伸ばすが、セリンはその手を振り払い、自力で立ち上がった。 「……」 「何のつもりですか、姉上」 「セリン、どうして貴方がわたくしに勝てないか、わかります?」  またその話か。セリンはうんざりしたようにセレスから視線を外す。 「姉上が強いからです」  会話をするのも面倒だが、黙ったら黙ったでうるさいので適当に反しておく。 「そうじゃありませんわ」  ああ、うるさい。 「でも、本当に姉上は凄い人です。僕なんかじゃなくて姉上が王になれれば良いのに」  セリンはセレスの方を見ないで自嘲するように答える。13歳の幼い少年のものとは思えない達観した表情。こんなに繰り返し模擬戦を行っていれば、所詮この手合わせは姉の評判を上げるデモンストレーションのようなものだと、察しが悪くても分かってしまう。  そんなセリンの気持ちがセレスに伝わるはずもなく、自らの主張を押し付ける。 「貴方がわたくしに勝てないのは、貴方に守りたいものが無いからですわ」 「……」  早く話が終わらないだろうか。そう思いながら聞き流す。いつも、いつも、いつも。セレスの考えはセリンには到底理解できないものであった。 「わたくしは世界を守りたいと思ってますの。皆が幸せで有ればよいと、そう思っていますわ」 「それなら……僕は……」 「…なんですの?」 「いいえ、何でもありません……」  僕は、姉上に勝てる事は永遠にない。  セリンはその言葉を飲み込んだ。世界を守りたいと思える理解しがたい正義感は、セリンには……かけらも存在しない。  守りたいものなんて、きっと、これからも、永遠に、できることはない。  もし、万が一そんなものが出来たのなら……。その先は想像することすら難しく、投げやりに思考を停止した。    ※  セレスとの模擬戦を終え、護衛も従者もつけず、独りで自室へと戻るセリンに貴族の男が声をかけてきた。 「セリン殿下、いやぁ、惜しかったですねぇ」 「……何か?」  セリンが気味の悪い媚びた声を垂れ流す男を見やると、有力貴族の筆頭であるレスティエード家の当主が脂ぎった顔を光らせながらそこにいた。確か、この男の息子は姉の婚約者だったか…。 「僕に話があって声をかけたのでは?」 「いえね、今年で13になったうちの下の子が騎士になりたいと言ってましてね」 「それがどうかしましたか」 「年齢も同じですし、殿下の下で働かせられないかと」  セリンは軽くため息をついた。この狸親父は、セレスとの婚約だけでは飽き足らず、まだ王家との繋がりが欲しいのか。 「僕は、そういったものをつける事は好みません」 「いやいや、それはもちろん存じ上げております。ですが、息子がどうしてもと言っておりましてね」  相手は貴族の中でも最も王家に近い存在だ。あまり邪険にすると父親も、姉も、姉の母親もうるさいだろう。 「……分かりました。会うだけ会いましょう。それでよろしいですか?」 「流石はセリン殿下。実はもう連れて来ているんですよ。オーファン、こっちに来なさい」  セリンの死角になっていた通路の陰から父親とは似ても似つかない紫の髪の美少年が現れた。 「お初にお目に掛かります。オーファン・レスティエードと申します」  セリンに頭を下げる少年は、同い年と聞いたがいくらかセリンより大人びて見える。 「は、はい」  少年は初めてだと言ったが、セリンはその少年に見覚えがあった。1年前、貴族院の有り方に異を唱えてその幼さで投獄されそうになった少年。レスティエード家の顔に泥を塗ったはずの少年であった。  セリンも彼が異を唱えた場に居合わせていたのでよく覚えている。それだけではない。セリンが彼の投獄に反対した事により、彼の罪は許されたのだ。  しかし、今の彼は貴族の次男坊としてのレールに乗っ取り騎士を志して目の前に立っていた。結局は貴族の体制には逆らえなかったという事なのだろうか。 「以前、お会いしていますよね?」  セリンが確認するかのように問うと、オーファンは目を見開いた。 「……!覚えていらっしゃるのですか!?」 「はい。僕はあの時の貴方の行動に心打たれましたから」  オーファンはさらに信じられないと言った様子でセリンを見る。心なしか嬉しそうだ。どうやらあの時の気持ちは完全に消えてはいないらしい。  それに対してオーファンの父親の方はセリンの反応に少し微妙な顔をしていたが、セリンは気にせずに続ける。 「気が変わりました。あの時から貴方の志が変わっていないのなら、僕は貴方を従者としても構いません」  その言葉を聞いたレスティエード家の当主も、今度は目を輝かせて食いついた。 「そ、それは本当ですか!?」  貴方には言ってないんだけど。そう言いたくなるのをぐっとこらえる。 「……僕は彼のような新しい考えを持った貴族がこの国を変えると思っていますから。騎士にするのは勿体ないくらいです」  仕方が無いので、ここぞとばかりにレスティエード家の顔に泥を塗った少年を褒め称えた。自分にごまをすって擦り寄ってくる貴族には正直うんざりとしているのだ。 「場合によっては、僕が貴族院の議員として彼を推薦しても構いません」  オーファンの父親は言葉に詰まったが、目先にある王家との強力な繋がりに釣られるしか無かった。 「ならばお話は早い。お恥ずかしながらオーファンはあの時の主張を忘れてはおりません」 「お父様……!?」  オーファンは思いきり怪訝な顔を見せたが、王族と強固なコネクションを持ちたい狸親父は必死である。 「…もう、レスティエード卿はお下がりください。父上には僕からお話します」  流石にセリンもうんざりしてきたので狸親父を遠ざけようとする。 「はい、身に余る光栄を有難うございます」  別にこいつにとっては光栄でもなんでもないような気がするが、もうどうでもいい。 「有難うございます……」  オーファンはどうも釈然としないような表情をしていたが、セリンに下がれと言われては従うしかない。ひとまず、親子はセリンに一礼をしその場を立ち去った。 「ふぅ……」  後で父に報告をしなくては。自分が従者や護衛をつけない事をよしとしていない父は喜ぶだろう。どうでもいいけど。  それからも何度か次期国王とされているセリンにごまを擦りたい貴族に捕まりながら、適当に相手をし、自室に戻った時には既に半刻以上が経った後だった。いい加減にして欲しかった。    ※  レスティエード家の親子と口約束を交わしてから一週間が経った。既に父にも伝えてある。予想通り父は喜んでいた。どこがいいのかは分からないが、あの人はレスティエード家を気に入っているからなおさらだ。  もちろん、今回の話はセリンも嫌々承知した訳ではない。オーファンなら従者でもいいと思ったから承知したのだ。彼は自分に似ているはずだ。比較対象との圧倒的な差。家族から疎まれる存在。  膿きった政治に対する考え方も同じだった。最悪、理解はできなくても不快にはならないだろう。 「そろそろくるかな……」  セリンは呼び出しが来る前に椅子を立ち、自室を出る。  廊下を歩いていると、貴族連中だけではなく使用人や衛兵までもが信じられないものを見るようにセリンを遠巻きに見ながら、ひそひそと話をしている。  セリンがそちらを見やると、噂話をしていた者は慌てて距離を置き、セリンと目を合わさぬようにしながら仕事に戻る。  王族を軽んじるような視線を向けられ、普通なら怒るべき所なのかもしれない。しかし、セリンはそんな視線を送られても何とも思わない程に感覚が麻痺していた。この不快な視線を幼い頃から浴び続けたせいで、もう反抗する気さえ起きなかった。  王女セレスより劣った王子セリンは、異国の血の混じった無能な王位継承者であり、ただ単に男だから継承権を得ているだけ。多くの者はセリンをそう認識していた。  特に、セリンとは他人の関係にあるセレスの母親は、異国の女性の生き写しであるセリンを目の敵のように扱っていた。  議会にも女王を認める法が提出され、話し合われた事もあった。王弟の息子に継承権を移譲する話が出た事もあった。誰も、セリンに期待などしていないのだ。  何度も見慣れた立派なドアを見上げてセリンはため息をつく。  国民の血税がこんな無意味に使われていていいのだろうか。主人と従者として顔を合わせるのにこの豪奢な部屋を使うなんて、大袈裟すぎる。そう思いながらもオーファンのように意見をした事は無い。  自分の勇気のなさに嫌悪感を覚えながら成金趣味の応接室に足を踏み入れる。  既にオーファンはレスティエード家の当主に連れられ、待っていた。 「セリン殿下、お待ちしておりました」  恭しくレスティエード家の当主が頭を下げる。オーファンもセリンに会釈をした。  セリンの父親は国王と言う職業柄、多忙である。そのため、名前も顔も覚えていないような代理人がなにやら話を進めている。もういいから早く終わらないだろうか。  長ったらしい口上を聞き流しながら待つ。かいつまんで聞くと、オーファンが従騎士として認められるまでセリンの下で働きながら色々な作法を学ぶということらしい。  セリンが従者や護衛をつけたがらない理由の一つとして、こういう手続きが面倒と言うのもあった。こんなに長い話を聞かされて、オーファンは途中で自分の従者ではなくなるなんて割の合わない話である。 「それでは、これからよろしくお願いします」  そう言ってオーファンがセリンに頭を下げた所でようやく終わったのだと理解する。 「……こちらこそ」  セリンがオーファンに笑いかけて手を出す。我ながら気持ち悪い作り笑いである。 「はい。誠心誠意お仕えいたします」  かくして、セリンとオーファンの主従関係が始まる事となった。 「では、早速仕事がありますのでこちらにどうぞ、オーファン」  セリンは自分より背の高いオーファンの手を半ば強引に引くと、レスティエード家の当主や国王の代理人を敢えて無視したまま部屋を後にした。 「セリン様、何処に行くのですか?」 「最初の仕事を頼みます。黙ってついてきて下さい」 「は、はい……」  セリンはオーファンの手を引いたままいつもの不快な視線の中を足早にくぐり、自室に戻る。オーファンを自室に引っ張り入れた後すぐにドアを施錠し、鍵がかかっているかをしっかり確認した。 「あの、セリン様?」 「……暫くはこの部屋から出るのを禁じます」  自分自身はともかく、仕えて一日目のオーファンまで使用人の奇異の目に晒されるのはごめんこうむりたいと感じたセリンは、何とか先手を打とうととんでもない事を言いだした。 「と言っても、この部屋で何をすればいいんですか?」 「僕の遊び相手をしていればいいです」  この生活感を全く感じられない部屋の何処に遊び道具があると言うのか。しりとりでもするつもりなのだろうか。  オーファンは一瞬反応に困って消化不良のような表情を見せたが、セリンのイライラしたような、そして怯えたような様子を見てだんだん心配になってきた。 「セリン様、何かあったんですか?」 「……」  心底心配そうに自分の事を見るオーファンを見て、セリンは徐々に冷静になってきた。自分は何をしているのだろう。 「申し訳ありません。今言った事は忘れて下さい」  度重なるストレスで少しおかしくなっていたのかもしれない。そう思う事にする。 「セリン様、私に対してはそんな畏まった話し方をしなくてもいいと思いますよ」 「……」  それを聞いたセリンが顔を上げてオーファンを見やるが、オーファンにとっては睨みつけられているようにしか見えなかった。 「あ、ええと…別に嫌ならいいんです。差し出がましい事を言ってしまってすみません」 「構わないよ。ただし、君も畏まらなくていい」  久々に砕けた話し方をしたがおかしくなっていないだろうか。セリンがちらりとオーファンを見ると、彼は変なものでも見たかのような表情をしている。やはりおかしかったのだろうか。 「さ、さすがにそれは……」  セリンのその気持ちはありがたいのだが、王族に対してタメ口を聞くだなんて色々と問題があるのではないだろうか。 「僕が許すから。そもそも僕は敬われるような人間じゃないから敬語で話しかけられると気持ち悪い」 「は…はは……」  もう笑うしかない。思った以上にこの王子はトンデモナイ人物だ。この一年間で父や兄に貴族の嗜みとして時には体罰を受けてまで叩きこまれた事が、一気に崩壊していくのを感じる。 「やっぱり、勇気を出してあんたに仕えたいって言って良かった」  思わず口をついて出た言葉は、本心以外の何物でもなかった。 「それは良かった。じゃあ、言った通り僕の遊び相手をしてもらう」  セリンは戸棚を開けると、中から真新しいチェス盤のようなものを取りだし、駒を並べて行く。ちゃんと遊具があった事に少しホッとしたが、今まで全く使われた形跡が無いように見えるのは気のせいだろうか。 「良く兄さんがやってるのは見た事があるけど、ルールが分からないな」 「僕が教える。これも貴族の嗜みだから」 「そう…だったな……」  ルールを説明しながらゲームに興じるセリンはあまり楽しそうには見えなかったが、ピリピリした感情が消えていただけでも良かったと思えた。  これから何年か彼に仕えるのだ。ゆっくり時間を掛けて信頼関係を築いていけばいい。    ※  ………………。  …………。  ……。 「う……」  オーファンが目を覚ましたのは、セリンの部屋の床であった。目の前にはチェスの駒が散らばっている。どうやら時を忘れるほど遊んでそのまま寝てしまっていたようだ。  セリンもまた目の前で静かに寝息を立てている。オーファンはセリンをベッドに運ぼうと抱きかかえる。子供の力でも簡単に持ちあがる軽い身体に少し違和感を覚えたが、天蓋付きの立派なベッドの上に横たえた。 「さて、片付けないとな」  オーファンはそこら中に散らばったチェスの駒を宝石をあしらった豪奢なケースに丁寧にしまって行く。  ふとチェス盤を持ち上げると、裏側にかろうじて解読できるミミズの這った様な文字が書かれている事に気がついた。 【4さいをむかえるあいするセリンへ。おかあさんより】 「字の汚い母親だな……」  そう言えば第一王子の母親は異国の女性だったと聞いた事がある。セリンの柔らかく艶やかな黒髪はロリザー王国では見ないものであり、それが母親譲りである事を示していた。  チェス盤と駒をもとあった戸棚に戻し、カーテンを開けると、明るい日差しが入る。既に大分日は高くなっていた。  日が高い……?意識のはっきりしてきたオーファンから血の気が引いていく。この状況は流石にまず過ぎる。従者をつけた途端に寝坊だなんてかなり笑えない。 「セリン、起きろ。朝……多分朝だ」  オーファンはセリンの肩を揺する。もうすぐ昼だけど。 「う…うーん……」  子供らしくない表情しか見せていなかったセリンが、年相応の寝顔を見せる。その表情はとても穏やかで、起こすのが少し可哀想になったが、そんなわけにもいかない。 「起きろ、こんな時間まで寝こけてたら怒られるんじゃないか?」 「……」  セリンはオーファンの手を押しのけてむくりと起き上がる。 「……寝てた?」 「こんな時間まで寝ていて、大丈夫なのか?」 「それは問題無いと思う。姉上と違って僕は放置されてるから」  まるで他人事のように無感情に言う。セリンのような年頃の子供にする仕打ちとは思えなかったが、オーファンは似たような状況を知っていた。  元々貴族としての生活が恐ろしく適合していなかったオーファンもまた、家では爪弾きにされている事が多かったのだ。 「それなら、俺も似たようなものだ」 「……」  そうは言ってみたものの、セリンは特に反応を見せない。昨日から何となくは感じていたが、会話しにくい事この上ないタイプだ。二日目にして確信してしまった。 「そう言えば、昨日言っていた命令はどこまで本気なんだ?」 「僕はいつも使用人や衛兵に珍獣みたいに見られてる。君もそう見られるかもしれない。それを覚悟できるなら部屋を出てもいい」  脈絡のない行動に成立しない会話。珍獣のように見られるのも仕方ないような気がする。悪い奴じゃないのは分かるが、慣れるまでは相当のエネルギーを消費しそうである。 「大丈夫だ。そんな事は気にしない」  むしろ、そこまで言われると逆に周囲のセリンに対する評判が気になった。もし、セリンの言うように姉を立てる為だけに碌な扱いを受けずに放置されているのだとしたら、何とかしてやりたいとも思った。  そもそも、セリンに対する王宮の者の扱いは王位継承権のある者に対する扱いとは思えない。何か裏があるのではないだろうか。 「そうだな…じゃあ、城内を見て回ってくるよ。今まであまり来た事が無かったから構造は理解しておきたいし」 「本当はオーファンの部屋も別にある」 「そりゃそうだろ。それもちゃんとチェックしてこないとな」 「自分の部屋が気に入ったら無理にここに戻ってこなくてもいい。必要な時に呼びに行く」 「いやいや、戻ってくるから!」 「お構いなく」  そう淡々と言われてしまうと逆に寂しくなってくる。 「別に無理してる訳じゃなくて…ああーもう!俺が勝手にやってる事だからお前は気にするな!」 「それならいいけど」  そこで、有難うとか言って欲しかったなあ。オーファンはなんだか無性に悲しくなりながら脱力する。  ぐうううううううっ。  それとほぼ同時にオーファンの腹の虫が盛大に鳴った。 「う……」 「……?」  セリンが顔を上げ、不思議そうにオーファンの方を見た。先程の事も加えて情けなさが光速を超えた気分である。 「そ、そそそう言えば、昨日の夜からなにも食って無かったな……腹減ったよな?な?」 「ああ、そう言えば」  セリンの方は完全に忘れていたような口調である。オーファンが挙動不審になりつつある事にもまったく動じていない。 「まずは、食堂で何か食わせてもらってくるか……こんな時間だけどあまりものくらいはあるだろう。行こうぜ」  オーファンがフラフラと部屋を出て行こうとしたが、セリンが動く気配は全くない。ドアの前まで来て、オーファンは勢いよく振り向いた。 「って来ないのかよ!」 「???」  どうして行かないといけないのかとでも言いたそうな表情でセリンが首を傾げる。 「はぁ……お前は、食わないのか?」 「食事が運ばれてこないならいらない」  つまり、何日も食事が運ばれてこなければ餓死するつもりなのだろうか。 「お前も腹減ってるだろう?」 「そんなに減ってない」  セリンが本当に人間なのか不安になってきた。あと頼むから会話を発展させてくれ。 「いいから来いよ。一応、お前の健康にも気を使っておかないと従者として駄目だろ」 「お構いなく」 「構うわっ!もう俺が何か食うもの持ってくるからそこで待ってろ!」  従者として認められた以上、健康管理にもちゃんと気を使ってやらないといけない。セリンの様子を見て妙な使命感を胸にオーファンは部屋を後にした。  使用人がせわしなく掃除をしている中、オーファンは食堂と、ついでに自室を探す。  場所の目星も付いていないため、ただ、広い城内を目的もなく歩き回っている状況である。  しかし、人に聞く気にはとてもなれなかった。セリンに忠告された通り、精一杯好意的に見ても気持ちがいいとは言えない視線をあちこちから感じる。  何処の閉鎖的な田舎町だ。オーファンは心の中で毒づいた。  その視線を振り切るように進んでいくと、だんだんと人の気配が減って行った。 「やべえ、完全に迷ったな……」  気がつけば、人気が全くない廊下に立っていた。高級そうな絨毯が敷かれた廊下は無意味に広い。  視線にさらされずにホッとしたのが半分、そして不安な気持ちがもう半分。一体ここはどこなのだろう。  しかし、今更引き返すのも何だか悔しい気だする。生来の負けず嫌いが災いし、オーファンはさらに人気のない廊下を進んだ。  ドンッ!  暫く廊下を直進した所で、オーファンは誰かに突き飛ばされて体勢を崩しそうになる。 「ってぇ……」  誰もいないと思って碌に前も見ずに早歩きをしていた自分も悪いが、避けて通ってくれたっていいだろう。そう思いながら自分に激突してきた奴の顔を見てやろうと顔を上げた。  美しいドレスを身に纏った妙齢の女性。まとめ上げた銀髪に飾られた髪飾りが音も立てずに揺れている。後ろに控えている付き人らしき女性も城で雑用をしている者たちとは違い、オーファンに奇異の目を向けては来ない。 「あら、貴方は確かセリンの……」 「あ…貴女は……」  この女性には見覚えがある。父親に連れられた会食や、パレードで国王の隣に常に陣取っている女性。第一王女セレスの母親である女性。ぶつかるなんてとても恐れ多い女性。彼女は……。 「王妃様!も、申し訳ありませんっ!!」  オーファンは前屈するかの勢いで頭を下げる。思わず声が裏返ってしまったがそれどころではない。やばい。本格的に親父に殺される。  そして、やはり、思いっきり道を間違えているようだ。セリンごめん。 「フフフ……知っているわ。セリンの従者になったのですってね、御苦労様。貴方もあの子に手を焼いているんじゃありません?」 「そんな事はありません。セリン様は偏見を持たずに人と接する事が出来る、王にふさわしい方だと思います」  そこまで言ってオーファンはしまった、と思った。王妃は持っていた羽根扇子を握り折りそうな程に指に力を込め、物凄い形相でオーファンを睨みつけたのだ。  王妃とセリンには血のつながりが無い。セリンは側室の子だが、このまま王妃が男子を産まなければロリザーの法に則れば次の王はセリンとなる。恐らく、彼女は焦っているのだろう。 「あの女…死んでまでわたくしをコケにするって言うのね……」 「死……?」 「あら、貴方何も知らないのね?セリンを産んだ異国の女はもうこの世にはいないのよ」 「あ、いえ……その……」 「……次の王はセリンじゃないわ……させるものですか……」  セリンが置かれている立場は、オーファンが思っていたよりもずっと不安定な所にあった。この王妃の存在がある限り、セリンは愛される権利さえ奪われている。 「王妃様……」  付き人の女が王妃に耳打ちをする。 「そうだったわ……早く神殿に行かなくては」  王妃は自らの用事を思い出したようだ。その場を去る直前に捨て台詞のようにオーファンに告げた。 「貴方には悪いけど、セリンは王位を継げないわ。絶対にね」  オーファンは思わず露骨に王妃から目を逸らしてしまった。しまったと思って王妃に視線を戻すが、幸い王妃は大して気にしている様子も無く、付き人を引き連れオーファンを素通りして歩いていった。 「……」  王妃の後ろ姿が見えなくなるまで待ってから、オーファンは元来た道を引き返した。誰かに、セリンの事をもっと詳しく訊こう。彼を知る誰かに、彼の置かれている状況を訊いておく必要性を強く感じた。  そんな人がいるのだろうかと一瞬不安になったが、セリンの味方が一人もいないなんて事は流石に無いだろうと思い直す。  大丈夫だ。きっと、大丈夫。    ※  考えが甘かった。オーファンは楽観的に考え過ぎていた自分を思わず3年分くらい呪いたい気分になりながらセリンの部屋へと向かう。  食べ物は無事手に入った。早急に自らの腹を満たしても良かったのだが、我慢して二人分の食事を銀製の運搬車に載せて運ぶ。やはり、一人で食べるより二人で食べた方が旨いだろう。  自分の部屋も確認してきた。予想通りと言うか、何と言うべきか、使用人数人で使う大部屋であった。あまり世話にはなりたくない部屋である。  そして、セリンの事を知る人物は…正直諦めた。セリンはこの城において四面楚歌である。以上。 「はぁぁぁぁぁぁ〜っ……」  溜息も付きたくなる。セリンは、曲がりなりにもこの国の第一王位継承者ではないのか。正直、彼の冷遇っぷりは正気の沙汰ではない。  王妃の息が掛かっているにしても、酷いなんて言葉で済ませられる状況ではなかった。  がちゃ。 「……?」  手応えなく開いてしまう扉にオーファンは若干驚く。セリンの部屋に鍵は掛けられていなかった。 「た、ただいま。鍵かけてなかったんだな……」  不思議に思いながらもセリンの部屋の中に運搬車を引っ張り入れる。 「ここで待ってたから」  従者の声に反応して顔をあげたセリンは、オーファンが出て行った時にいた場所と同じ場所に座っていた。まさか、彼の言った「そこで待ってろ」という言葉を完全に言葉通りに受け取って動かずに待っていたのだろうか。  あまり考えないようにしよう……。 「とりあえず、飯、持ってきたぞ」  そう言いながらオーファンはセリンの部屋の一人用と思わしきテーブルに食事を並べて行く。 「嫌いなものとかないか?」 「特には」 「……じゃあ、好きなものは?」 「特には」  ある程度予想はしていたが、食事を楽しんだ事が無いのだろうかこの王子様は。そう心の底で愚痴りたくなったが、すぐにその思いを振り払う。楽しくなかったに決まっているのだ。 「ほら」 「……」  セリンに食器を手渡しながら、ふとセリンの左手首に巻かれた包帯に目が行く。昨日は袖に隠れていて気がつかなかったが、セリンの白く細い手首に巻き付けられている包帯を見ると痛々しい。 「それ、どうしたんだ?怪我でもしてたのか?」 「大丈夫」  その一言で片付けられてしまう。痛みを訴える様子も無いし、本当に大したものではないのだろうと思う事にする。 「よし、じゃあ食うか。我が国の繁栄をもたらす水神アクエリ様に感謝を」 「……感謝を」  並べられたテーブルを前に手を合わせたセリンが微かに微笑んだように見えた。オーファンは一瞬セリンの表情に気をとられ、スプーンを肉に突き立ててしまったが、笑ってごまかした。  小さなテーブルに向かい合って二人で食事をとる。オーファンがちらりとセリンを見ると、一口一口ゆっくりと料理を口に運んでいる。食べるのはかなり遅い。 「やっぱり二人で食べると旨いよな」 「普通」  セリンとの会話が続かないのはオーファンにとって想定の範囲内になりつつある。 「ここの部屋って、お前一人で使ってるのか?」  こういう時は気にせずに次の話題を出す事にする。 「向こうの部屋は、オーファンの部屋にしてもいい」  あまり使われていなさそうなコネクションルームを指さしてセリンが言う。有難い申し出だ。 「そうか、俺の部屋って大部屋だったからそう言ってくれて凄く有難いよ」  オーファンの反応を見てセリンはスプーンを口に入れたままこくこくと頷く。 「お前ってさ、今まで世話になった奴とかいないのか?」 「母上以外にはいない」 「え……」  王妃からセリンの母親がもう死んでいる事を聞いていた為、オーファンとしては実に返答に困る答えである。 「やっぱり、俺しかいないのか……」  味方が一人もいない事に、セリンがどれ程苦しめられていたのかはオーファンの想像の域を超えていた。自分なんかが何とかできる状況ではなかったと言うのが現実である。  そんな中で自分にできる事と言えば、セリンに全面的に味方してやることくらいしか無い。 「??」  オーファンの独り言に、セリンが首を傾げる。 「いや、何でもない」  そうだ。俺だけはこいつの味方でいよう。セリンがどう思ってるかなんてどうでもいい。例え、成長して従騎士になってセリンの傍から離れても、見捨てたりなんかするものか。 「俺は、お前とずっと仲良くできればと思ってる」 「軽々しくそう言う事は言わない方がいい。人の気持ちは変わってしまうものだから」 「それでも、だよ。これから長い付き合いになるんだから上手くやれた方がいいだろう?」  セリンは少し考えた後、こくりと首を縦に振る。 「じゃあ、これからも仲良くしようぜ」 「努力はする」  無表情で答えるセリンを見て、それくらいの答えの方がセリンらしいとオーファンは苦笑した。 ■後書きと補足のようなもの。 ネタバレがある気がするけどもう絵茶で言ってるような気もするよ。 自分は思いついた所から埋めていく書き方するんでたまにありえん抜けが起きる事があります。ごめんなさい。 ・第0話ってなんだよ 起承転結の「起」よりも前のお話です。前日編と言う事で以降のお話と比べて短めになると思いますです。 まだ、みんな大好き(?)カエルヒロインの姿が影も形も出ていませんね。 時間軸はセリンがアクエリと出会う2年前の話で、この時セリンは13歳、セレスは15歳です。 ・セリンについて 無気力・無関心・無感動と三拍子揃った主人公。 主人公なのに全然動いてくれませんが、アクエリが出ればきっと変わるだろう。頼むから変わってくれ。 セリンの母親に対する嫉妬に狂った王妃に物凄い嫌がらせを受けており、王位継承者として扱われていない可哀想な人。 ・オーファンについて セリンとは対極に位置するアクティブで真直ぐな性格でありながら、置かれてきた立場はセリンに割と近い少年。 なかなか動いてくれないセリンを引っ張ってくれる、作者的には大変都合のいいキャラ。 余談ですが、ロリザー人は人種的に彼のような赤目の人は結構多いです。アリスもそうね。