b.H.ヒストリア外伝 奈落の花   第七章 蒼穹  水晶宮殿に踏み込んだラセツを待ち受けていたのは――男の亡骸だった。  まるで吹き抜けのように、天井が高い大きな部屋。  水晶の螺旋階段が取り囲む不思議な空間の中央に、彼はいた。 「ハーディアス……」  呻くように、その名を呼んだ。  力なく開かれた眼に光はなく、立派だった角は途中で折れ、左腕は切断されている。全身をどれだけ弄ばれたのか、臓物は狂気のもとに引き摺り出され床は赤く染まっている。目を背けたくなるような凄惨な姿だった。 「…………」  しかし、ラセツは近づいていく。  自分が敵対し、尊敬し、怒りを覚え、時には信じ、しかし嫌いな奴であることに関しては少しのブレもなく、だけど、決して憎んではいなかった――常に超えたいと思っていた男の最期を、しっかりと心に焼き付けていく。その途中、青年は顔を歪める。敗れた服の下から覗くハーディアスの腕は、老人のように細かったのだ。 「……ちっ」  わけもなく、青年の心は苛立った。  ハーディアスはラセツの先祖に当たる鬼王の実弟だという。ならばその歴史は相当古く、寿命という概念からは逃れられない物質世界の住人である以上、この男にも当然ながら必ず限界はやって来る。それは当たり前のことだというのに――こうして目の当たりにしても、信じきれない自分にラセツは戸惑った。  苛立ちだけではない。  様々な感情が渦を巻くように青年の心をかき乱す。  今となっては明確な敵となったはずの男なのに、その死に対してとてもじゃないが喜べない自分がいた。自分自身の感情なのに、持て余してしまう。……ややあって、青年はその正体を自覚する。心を乱すこの感情は――悲しみだ。  怒りと共に、ラセツはハーディアスの死を悲しんでいた。  超えるべき壁だった男。  立場は違えど、フォルトゥーナのことを思っていた男。  いつか――  いつか、自分を認めさせてやると、そう、思っていたのに。 「……なぁ」  ラセツは話しかける。 「お前は、満足かよ」  応えるものはいない。  それでも――話しかけずにはいられなかった。 「あいつを……フォルトゥーナの命を救えたんだろ? お前はお前の方法でさ……俺は、そんなの認められないけど……お前は、やり遂げたんだろ。そんなボロ雑巾みたいになってまで……あいつを思って、さ」  ラセツはかがみこむ。  そっと腕を伸ばし……ハーディアスの瞳を、閉じる。 「やっぱ、すげーよ、お前は」  立ち上がる。  地鳴りが響く。パラパラと水晶の欠片が落ちてきて――青年は天井を睨む。遥かに高い上階で、フォルトゥーナと誰かの戦いは今も続いている。  ……だから。  こんな所で、足を止めてはいられなかった。 「じゃあな、ハーディアス」  ラセツは水晶の螺旋階段へと足をかける。  一段上り、二段上り――……ゆっくりと、振り返った。 「俺は……」  沈黙する。  怒りと悲しみと、それらが混ぜ合わさった奇妙な感情がラセツの心の奥底に沈殿していく。もっと言うべきことがあるはずなのに、それが見つからない。いっそのこと憎みきれたらどんなに楽だっただろう。無残な死を嘲笑えるくらい憎悪をぶつけられたならば…… 「…………」  結局、言うべき言葉は見つからなかった。  だから、その代わりに。  決意だけを伝えていった。 「俺は――あいつを救い出す。その先に、何が待っていたとしても、だ」  ラセツは水晶階段を登っていく。  もう、振り返ることは、なかった。      ■■■  黄金のマナと漆黒のマナ。魔王シヴァと暴王フォルトゥーナの力のぶつかり合いは、激しく空間を歪め――ついには爆発を起こした。 「ぬ……!」 「…………」  爆風に吹き飛ばされシヴァは空を転がる。  すぐさま体勢を立て直し、爆煙を睨み据えた。風の向こう――煙が晴れた先には、やはり平然とした表情でこちらを見つめる暴王の姿があった。先程まで半ば暴走状態で力を放出していた黒い少女は、どうやら今の衝撃で落ち着きを取り戻したらしかった。 「――は!」  その、静かな顔が、癇に障る。  状況は良くなかった。  暴王の黒いマナは何だかんだで押さえ込めたものの、代償として剣の弾丸は底をついた。マナクリスタルにより無限のマナを供給されている魔王とはいえ、それを引き出し操る力は肉体のポテンシャルに左右される。ミサハは相当な実力者であり、シヴァとしても気に入ってはいるが――やはり魔王本来の実力を引き出すには役者不足なのだ。  相手は子供同然の相手だ。  だが――その手には凶器を握り締めている。  甘く見ていた自分の不明を恥じ、魔王シヴァは改めて暴王と対峙した。 「さて……どうしたものか」  実力が出し切れない魔王シヴァと、戦闘経験も足りず力の制御も甘いが、その強大さだけは突き抜けている暴王フォルトゥーナ。両者は互いの腹を探るように火花を散らす。  シヴァの頬を汗が流れた。  と――  再び暴王は腕をかざす。  細い腕が赤く脈動し、黒いマナが集っていく。  魔砲だ。  闇の国を抉り、灼いた――漆黒の光。  親友の体へ宿った姉へと、暴王は力の矛先を向ける。 「……まいったのう」  それを見て――シヴァは、笑った。 「――――舐めるなよ暴王。余は魔王シヴァであるぞ」  刹那。  超高空から稲妻のごとく落下してきた何かに、暴王の体は貫かれていた。 「――――!」  黒いマナが霧散していく。  赤い瞳が、自らの腹を貫いたそれを――ゆっくりと見下ろした。  処刑剣だった。  魔王が、ニヤリと笑った。 「ソードガンナー……――スパイラルシュート」  シヴァが出現させた刀剣の弾丸。彼女はその全てを暴王に向けて放ったわけではなく、こうなることを見越してあらかじめ伏兵を忍ばせておいたのだ。相手の裏を書く不意打ちなど戦闘においては常套句だが、それに対し予測も対処もできなかった暴王は、やはり圧倒的なまでに戦闘経験が不足していた。 「……、……」  黒い少女の口から、血がこぼれ落ちる。 「フハハ」  魔王の意思を受け、黄金のマナが処刑剣より迸る。  それは瞬く間に加熱し、燃え上がり、黒い少女の体を灼いていく――! 「フレア・ブレイク……」  魔王は、吠えた。 「ストライク……エンドッ!!」  灼熱した処刑剣は少女の体内を燃やし尽くし、止めとばかりに爆散した。 「――――」  上げる悲鳴さえなく、暴王フォルトゥーナは虚空より落下していく。  腹部を中心に、全身より血をまき散らしていた。  黒い裸体を切り裂いた剣片。  それは黄金のマナの残り香をまといながら、赤熱し、溶けていく。  光を失った世界において、その爆光は花火のように美しかった。閉ざされた夜空に咲く炎の花。わずか数瞬で散っていく花弁のように、黒い少女は赤い流線を描きながら水晶宮殿へと落下していく。 「これで――」  しかし魔王に油断はない。  確実に息の根を止めるべく、落ちいく暴王へと追撃をかける。 「――最後だ!!」  赤と青、両手の双剣に金色の輝きが宿る。それは魔王のマナではなく、日輪と月光――双剣自体が放つ輝きだ。二本の剣は交差され、融合し、黄金に輝く一本の大剣となる。妖狐ミサハの最終秘剣たるその銘は、日輪月光剣。使用者の闘気を刃として具現化させる斬撃兵装は、シヴァの力を得て魔王剣すら凌ぐ巨大な刃を生み出していた。  紅の幻翼が羽撃く。  空を駆けながら魔王は日輪月光剣を大上段に大きく振りかぶる。  迸るマナが大剣と共鳴し、金色の輝きが世界を引き裂いていく。澱の空を輝かしいまでの光で満たし、魔王の放つ闘気を刃と変えた光の斬撃は、黒い少女へと吸い込まれるように振り下ろされていった。 「翔魔!」  剣の魔王の放つ必殺の斬撃。  多大な痛手を負った暴王に、もはやそれを避わすことなど不可能であった。 「星、王、斬ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんッッッ!!」  必殺の断撃は――  ついに、黒い少女を、捉え、  瞬間、  ――――その一撃を受け止めていたのは、誰であろう魔王シヴァ本人であった。 「え……」  呆けた声がこぼれ落ちた。  肩から胴にかけての見事なまでの袈裟切り。シヴァの――ミサハの体からまるで噴水のように血が吹き出していく。暴王を両断するはずだった必殺の斬撃は、しかし、剣の魔王自身を寸分違わず斬り裂いていた。  鮮烈な痛みと身を灼く熱さに集中が途切れる。  日輪月光剣はパラパラと呪符へと分解され消えていく。  ミサハの体を虚空へと誘っていた紅の幻翼もまた――黄金のマナとなり消えていった。 「……な、ぜ……」  確かに、斬りつけたはずなのに。  フォルトゥーナにあのタイミング、あの瞬間に魔王渾身の斬撃を切り返す戦闘技術があるはずがない。そんなこと、例え稀代の天才剣士であったとしても不可能だ。まして戦闘経験のほぼ皆無な暴王である。絶対に避けられない一撃であったはずなのだ。 (まさ、か)  ならば、導きだされる答えは。 (……余の斬撃を、余自身に転写した……?)  因果律の操作。  黒死将ハルシャギクが似たような技をもっているが、あれはこちらの攻撃よりも必ず先に反撃するという、突き詰めて考えれば異様に手が早いだけのスキルにすぎない。こんな、自身が食らうはずの攻撃をそのまま誰かに身代わりさせるなどという反則的な離れ業を使える相手など、さすがのシヴァもはじめてのことであった。 「……ぐ」  血を吹き出しながら、翼を失ったシヴァは落下していく。  体勢を立て直すこともままならないまま――  水晶の床へと、その身は叩きつけられていた。 「――、かは――!」  骨が軋む。  斬撃の傷に、全身が砕け散るような痛みまで加わり……シヴァの意識は遠のきかけた。 「…………」  全力でマナを巡回させ、癒しの妖術をフル回転させる。  それでも傷の治りは良くはない。  そもそも生きている事自体が嘘のようなものなのだ。シヴァは暴王を殺すつもりで必殺の斬撃を放った。それを転写されて命を繋いでいられたのは、剣の魔王である彼女自身が持つ剣撃耐性のおかげだろう。  ――肉体が死滅しても、その精神と魂が存在している限り復活ができる。  それは魔王と呼ばれる彼女たち姉妹の特徴ではあるが、その力はあくまで魔王の肉体に依存する。新しい器となる肉体が魔王ではなく――例えば妖怪であった場合、肉体の死はそのまま魔王の死へと繋がっていく。  かろうじでつなぎとめた命。  しかし……もう、余力は残ってはいなかった。 「……は――ぬかったわ」  空を見上げる。  シヴァの処刑剣により重傷を負ったはずの暴王は、再び黒髪を翼へと変え体勢を立て直していた。それだけではない。全身に負った傷がみるみるうちに塞がっていく。魔王や精霊王は自己回復能力を有する生命体であるが――それを差し引いてもその回復は異常であり、わずかな間に黒い少女は元の姿へと戻っていた。 「――化物、め」  皮肉げに笑いながら、シヴァは言った。  暴王の体を濡らしていた鮮血が、ゆっくりと彼女の体から離れていく。まるで黒い少女から赤い気泡が泡だっていくかのような異様な光景だ。血は少女の手の中でひとつに集められ、マナで固形され大きな槍となる。  それを、投げた。 「――ちぃ!」  投擲された鮮血の槍は魔王へ向かって落ちていく。周囲の空気を切り裂き巻き込み唸りながら落ちていく。先程の意趣返しのつもりなのか、それは魔王の処刑剣によく似ていた。  だが、剣と槍の違いは大きい。  剣撃耐性のある魔王は刀剣の攻撃では絶対に死なない。どれだけ串刺されようと斬り裂かれようと命までは失われない。しかし槍は違う。今の状態でまともに受ければ、待ち受けるのは確実な死だ。 「……そういう、わけには」  シヴァは両手を掲げる。治療に回していたマナを全て切り上げ、全身全霊でマナの盾を作り上げた。傷が再び悲鳴をあげるが、気合でそれを押し殺す。この場をしのげなければ癒しの術など何の意味もないのだ。 「いかないのじゃ!!」  マナの盾と鮮血の槍が激突し――火花を散らす。  瀕死の魔王と、技術はないものの力だけは溢れている暴王。両者がまともに力をぶつけ合えば、どちらが劣勢かなどもはや言うまでもない。シヴァの――否、ミサハの体は衝撃の余波を受けさらなる傷を負っていく。巫女服が赤く染まり続ける。 「ぬ、ぐ――!!」  奥歯をかみしめ、必死にこらえ続ける。  余力がない? (は――ふざけるなよ、余を誰だと思っておるのじゃ、シヴァ!!)  死ぬわけにはいかない。シヴァ自身、まだまだこの世界を謳歌していたいし、何よりも今の体は親友のものなのだ。魔王の敗北は九尾の妖狐の敗北にも繋がる。冗談ではなかった。シヴァは、ミサハを殺すために顕現したわけではないのだ。 「ぐ、う――、ぅあ……あああああ――!!」  叫ぶ。  咆哮する!  マナクリスタルをフル回転させ、今の体で引きずり出せるだけのマナを引きずり出す。今にも穿たれそうなマナの盾を二層、三層に重ね強化する。一層目が破られれば、すぐさま四層目を形成し、二層目が貫かれたのならば五層目を用意する。迫り来る鮮血の牙を収め込むべく魔王は力の全てをぶつけていく。  思考回路が過熱する。  マナクリスタルの不可に肉体が軋みを上げていく。骨が赤熱し溶けていくような感覚。脳が沸騰するような感覚。内蔵が回転するような感覚。もはや傷の痛みなどとうに感じない。あるのはただ、全身を燃やし尽くすマナの熱さだけだ。 「ミサハよ……耐えろ! ……耐えろおおおおおおおおおおおおお!!!!」  もう何層目になるか分からないマナの盾を形成する。  それをさらに鮮血の槍が打ち貫き――  刹那。  槍は燃え、爆発した。 「……う、がは――!!」  爆風にシヴァは吹き飛ばされる。  最後に燃えて爆散するところまで、鮮血の槍は処刑剣を再現していた。 (おのれ……憎たらしいマネを……)  シヴァは立ち上がろうとして……しかし、思うように体が動かなかった。身も心も激しく消耗している。本当に、紙一重で生きているのが不思議を通り越し、不自然だとすら思えてくるほどだった。自分が想像している以上に、大妖怪というのはタフな生き物なのかもしれない。  もっとも――  それが分かったからと言って、これ以上の状況の好転は望めそうもないのだが。 「――く」  先程の衝突で無理をしすぎたのか、マナクリスタルからのマナの供給に障害が出ていた。思うようにマナを引き出せず、これでは攻撃や回復にマナを回すことさえ出来そうもない。かろうじで残っていたマナを癒しの妖術に振り当て、今度という今度こそ、本当に、シヴァの中は空っぽになってしまった。 「は――」  黒い髪をなびかせ……空に佇む暴王は、血色の瞳でこちらを見下ろしている。  深く、昏く沈み込んだ真紅の瞳。  魔王に死の裁きを下すだろう少女の顔は――まるで虚無そのものであり、静かだった。 「はは――」  シヴァは笑う。  嘲るように、笑う。 「――……姉を殺し、友を殺そうというのに……顔色ひとつ変えない、か」 「――――」 「随分とつまらない女に成り下がったな、フォルトゥーナよ」  かつて創世戦争で戦うことを、血を流し合うことを拒絶した白い少女。実にくだらないことで悩み、苦しんでいた少女の成れの果てを――黄金の瞳で、シヴァは見据えた。 「余は……結構好きだったぞ」  我ながら情けないとは思うが、最期くらい――捨て台詞を言うのも悪くはないだろう。 「余は……つまらない女より、くだらない女の方が、好みだった」 「――――」  暴王に変化はない。  シヴァの言葉が耳に届いたのかも不明だ。 (ほんと……可愛げのない奴じゃ)  イラッとくる無表情。  せめてもう一度くらいそれを歪ませてやりたかったが―― (すまぬな、ミサハ。余の力のなさを、許してくれ)  と――  暴王の無表情に、わずかな揺らぎが現れる。  気のせいとしか思えない一瞬の変化は、すぐさま氷のような表情に覆われ見えなくなる。 (何じゃ……?)  黒い少女の顔が、ふいに、動いた。  つられてシヴァも、見た。  視線の先にあるひとつの扉。  戦闘の衝撃で歪んでしまったその扉が、何者かに蹴破られた。  ふたりの少女が見つめる先。  ついに、鬼人の青年は少女の元へとたどり着いた―――― 「これは……」  開口一番、ラセツは驚きの声を上げる。  たどり着いた水晶宮殿の最上階は、戦闘の衝撃か、柱や壁が砕け大きな傷跡をあちらこちらに刻んでいる。特に酷いのは天井だろう。大きく裂け、瓦解し、澱の空をまざまざと見せつけるように開いていた。  その、空に――少女はいた。  漆黒の髪をたなびかせ、無機質な表情でこちらを見下ろしている。  色のない瞳。  血色に濁った瞳。  それは青年の知るどの少女とも、一致しない姿だった。 「……フォル……トゥーナ……」  声が、うまく出なかった。  予想も覚悟もしていたはずなのに、少女の変質はラセツに大きな衝撃を与えていた。 「――――」  表情ひとつ変えないまま、フォルトゥーナは水晶宮殿へと降り立った。  無言でラセツを見つめ続ける。  その無表情からは何も読み取れない。  喜びや楽しさはもちろん、怒りや悲しみでさえ感じられない。今までかろうじで感じとれていた少女の心の叫び――漏れ出していた慟哭でさえ、深く閉ざされてしまったかのようであった。 「……フォルトゥーナ」  挫けそうな心を奮い立たせる。  ――ここに来た理由を思い出せ。  奈落の闇に堕ちてしまった少女を救い出す。  そのために、ここまで踏んだってきたんじゃないのか。  そのために、自分は戦うと――そう決意したんじゃなかったのか。 「…………」  ラセツは頷く。  意を決し、声をかけようと、少女へ向けて一歩を踏み出した。  その瞬間―― 「――――ぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああッ!!」  それを遮るように、少女は咆哮を上げた。  全身からマナが吹き荒れ、衝撃波となり水晶宮殿中を荒れ狂う。柱が、壁が、さらなる破壊の力に崩されていく。ラセツもまた衝撃波に吹き飛ばされた。壁に背中を打ち付け、息が詰まる。それでもなんとか立ち上がると、崩れた柱と壁の影に身を潜めた。  黒い少女を見る。  破壊の渦の中心で、少女はただ、大声を上げ叫んでいた。 「あいつ……」  先程までの無感情が嘘のような、極端な感情の爆発だった。 「ふん……まるで癇癪じゃな」  横合いから急に声がかかり、ラセツは振り向いた。  かなりの傷を負っているらしき黒髪の女性がそこにはいた。彼女が、フォルトゥーナと次元を超えた力のぶつけ合いを演じていた戦士だろうか? 「お前、記憶を探ったときに見た顔じゃな。そう……確かフォルトゥーナの情夫だったか。お前のことも此奴は心配しておったからな。無事で何よりじゃな」 「……?」  ラセツは首を傾げる。  はて。この女、どこかで見たような、見なかったような……? 「――あ」  頭部から生えた狐耳と、黒髪、それと巫女服。  仮面はないし、尻尾は増えているし、外見年齢も上がっているが、この特徴は…… 「お前……ミサハか!?」 「残念。半分正解じゃ。ちなみに、力を開放し大人化したミサハにさらに取り憑いた美女幽霊が正解じゃ」 「なんだそれは」 「安心せい。ミサハは無事じゃ。今は眠りについておるだけじゃからな」 「お、おう」  よく分からないが、とりあえずミサハは無事であるらしい。  それにしても…… 「…………」 「貴様。今余の胸を見て残念そうな顔したじゃろ」 「いや別に」 「ふん。これだから馬鹿な男は困る。あのような脂肪肉などあっても邪魔なだけじゃ。冥帝を見てみるが良い。あれでは剣を振るのも一苦労じゃろうて」 「はぁ……」  何が悲しくて、この状況で乳についての講釈を聞かされなければならないのだろう。  そのことに気がついたのか、ミサハ(に取り憑いた誰か)は咳払いをして仕切り直す。 「とにかく、じゃ」  黒い少女から吹き荒れる衝撃波はおさまらない。  ラセツたちが隠れている柱と壁もまた、刻一刻と亀裂が刻まれていく。 「余はこの場から撤退することを強く進めよう」 「何を馬鹿な……!」 「仕方なかろう? 今の余ではあの女に勝つことは無理じゃ。ましてお前の力など焼け石に水もいいところ。今出来る最良の選択は、戦略的撤退しかあり得ないじゃろう」  黄金の瞳が悔しそうに細められた。 「しかし、これで終わりではない。必ずや力をつけ、いかなる策をも弄し、あの女を倒す。倒してみせる。……そのための撤退じゃ」  自称美女幽霊は、本当に口惜しそうであった。  屈辱なのだろう。  背を向けて逃げなければならないことが悔しくてたまらないのだろう。  それでもなお、勝つために逃げることを迷わず選べるのだから――きっと強いヒトなのだろう。戦闘の経験も、戦争の経験も、勝利も敗北も、おそらくはラセツ以上に味わってきたはずだ。偉そうな口と態度はそれに裏打ちされたものであり、そんな彼女が言うのだから、ここは撤退するのが賢い選択なのだろうとラセツは思った。  だが。  一番大事なことを、この女は間違っていた。 「あいつを……倒す?」 「そうじゃ。それが――」 「――それは、ミサハの意思でもあるのか?」 「……なんじゃと?」 「違うよな。ああ、違うはずだ。……なぁ、ミサハに憑いてる誰かさんよ、お前は正しいのかもしれないけど――間違ってるんだ。あいつを助けるって一点においては――絶対に、間違ってる」  言うと、ラセツは衝撃の嵐の中へと踏み込んでいく。 「お、おい……!?」  幽霊女は止めようとするが、無視してラセツは歩いて行く。その先には破壊の渦の中心――フォルトゥーナの姿があった。衝撃波がラセツを襲い、肌が裂け、血が飛び散る。塞がったはずの傷口が再び痛みを上げはじめた。それでも、衝撃波の嵐の中を、一歩一歩、確実に進んでいく。  衝撃波がより一層力を増す。  水晶宮殿はさらに破壊が進んでいく。  しかしラセツの歩みは止まらない。全てを破壊するような衝撃波も、どういうわけか青年には大きな痛手を与えられはしなかった。無意識にか、意図的にか。まるで威嚇するかのような衝撃波の渦は、直接触れことを避けるかのように青年の体に浅い傷を刻み続けていく。 「――――!」  いつの間にか、黒い少女の咆哮も、少女から放たれていた衝撃波も、静まっていた。  歯を噛み締めるようにしながら、赤い瞳は青年を見据えている。  その瞳はもはや無色ではない。激しく揺れる混沌とした感情が、少女の顔を歪めていた。  ラセツが一歩近づく。  少女は一歩、遠ざかる。  さらに近づく。  遠ざかる…… 「…………」  少女の背中が壁に当たる。  これ以上は退がれなかった。  ラセツは構わず近づいた。 「――あ、……ぁぁぁあああああ!!」  悲鳴を上げ黒い髪を乱しながら、フォルトゥーナは魔砲を放つ。直撃を受けるラセツだが、不安定な力はかつての魔砲には程遠い。立ち上がると、再び近づいていく。 「――っ」  フォルトゥーナは再び魔砲を放とうと手を向ける。  集まるのは確かな力。  人ひとりなど軽く消し飛ばすだろう破滅の光。  それを向けられて――なお、ラセツに躊躇はない。 「……何故、だ」  乾いた唇からか細い声が漏れる。  それは黒い少女がはじめて発する――意思を形となした言葉であった。 「何故、避けようとしない。分かっているだろう……これを受ければお前は死ぬ。だというのに、何故――向かってくる」 「…………」 「――しょせん、私には撃てぬと馬鹿にしているのか? 甘くみるなよ。私はあのハーディアスでさえ――葬った、女なのだ。人ひとりくらい、消すこと、なんて――」 「撃てないさ」 「――なにを!」 「だから……お前は、泣いてるんだろ」  言われて暴王は気がついた。  左目から溢れてくる――止めどなく流れ続けている、涙に。 「わ、私、は――」 「もう、無理するなよ。お前は誰かを本気で憎むことなんて出来ねぇよ。自分を嫌って、許せなくて、それで――誰かに、止めてもらいたがってるだけだ」 「私は――」  赤い瞳が潤む。  それを吹き飛ばすように、力強く頭を振った。 「違う。ふざけるな。お前に私の何が分かるというのだ! 私の、私を、……そうだ、いつもそうやって、人の心をかき回して……あなたはいつも、それだけじゃない! そんなあなたに、私の何が分かるって……!」 「確かにな……」  ラセツは深く、瞳を閉じた。 「俺はきっと、お前のことなんてよく分かってないだろうさ。自信を持って理解してるなんて言えない。だけど、そんな俺でもこれだけは分かる。……今、お前が苦しんでるってことだけはな」  言って――青年は一歩、踏み込んでいく。  少女は震えている。  集められた魔砲の光が、霧散した。 「……く」 「…………」 「来るな……」 「…………」 「こ……来ないで……」  いつの間にか、すぐ手の届く距離にまでラセツは近づいていた。  少女が見上げてくる。  赤い瞳が揺れている。  不安。  憎悪。  恐怖。  悲しみ――――そして、 「…………」  ラセツは腕を伸ばす。  フォルトゥーナは目をつぶり、ビクリと身を震わせた。  と――  次の瞬間、少女の頭を暖かい感触が包み込んでいた。 「あ――」  思わず声を漏らす。  大きな手が、乱暴に、だけど、とても優しい気持ちで――少女の頭を撫でていた。 「……私は……」 「お前の苦しみなら、俺が一緒に背負ってやる。ひとりじゃ無理でも、ふたりでなら立ち上がれる。乗り越えていける。だから、そう自棄になるな。言いたいことがあるならいくらでも愚痴ればいい。泣きたいなら、いつでも胸を貸してやる」 「……私、は……」  少女の中を満たしていた昏い気持ちが溶けていく。  溶けて――それは、少女の精神と合一されていく。自分という存在を受け入れていく。  でも、それはひとりでは無理だ。  少女の心はあまりに脆く、弱く、儚い。  もはやひとりでは立つことも出来ない。顔を上げることさえも出来ない。誰かに手を引いてもらわなければ――自分という存在と向かい合う強さを、少女は持つことが出来なかった。 「私は……」  俯くフォルトゥーナ。  ラセツはそっと少女の肩に手を置くと、優しく、力強く、抱き寄せた。 「安心しろ。俺がずっと――側にいてやるから」 「ラセツ……」  フォルトゥーナは涙で潤んだ瞳で青年を見上げる。  そんな少女に、ラセツは顔を近づけ、ゆっくりと唇を重ね合わせた。  水晶宮殿が淡い光に包まれる。  光の中で、水晶の壁は、床は、溶けて消えていく。  歪んだ世界は矯正され、世界は元の姿を――大宮殿の姿を取り戻していく。  水晶の破片が舞う。  砕けて散ったその欠片は――淡い光と共に白い花へと変わっていった。  大宮殿を中心に、白い花は世界中へ降り注いでいく――…… 「………………………………なんじゃ、これは」  ポカンとした顔でシヴァは言う。  大宮殿の頂上――  少女と青年の姿は、重なりあったまま動かない。  …………なんだか、シヴァは自分まで顔が熱くなってくるの感じてしまった。 「こ、こほん」  誰にともなく咳払いする。 「まったく……この余がいくら斬り伏せようとも届かなかった相手だというのに……大したものじゃ」  あるいは、それが愛というものなのかもしれない。  シヴァは愛を知らない。  人間たちが、精霊たちが、事あるごとに謳歌する愛というものを、魔王は知らない。  だが…… 「お前は……手に入れたのじゃな、フォルトゥーナ」  羨ましいとは思わない。  その感情を必要だとも、彼女は思わない。  それでも――  その強さを、確かな奇跡を、刻んでいこうと思う。 「さて……余の夢も、ここまでじゃ」  肉体の傷は完治には程遠いものの、命に別状はない程度には癒し終わった。後は友たる大妖怪に任せても大丈夫だろう。結局大した力にはなれなかったが――ともあれ、親友の願いは無事、叶ったのだ。 (――ミサハよ)  魂の奥深く――未だに深い眠りの中にいる少女へと、シヴァは語りかける。 (約束は果たされた。お前に預けた余の力は返還されるが――友の絆もまた、愛に負けず劣らず深いものだと余は思いたい。……だから、また、いつか。どこかで出会える日がくると、そう信じておるぞ)  眠り続ける少女からの返事はない。  しかしシヴァは、今まで感じたことのない、不思議な高揚感に満たされていた。 「む……」  ……視界が白く染まりはじめる。  急速に、手足の感覚がなくなっていく。 「……そろそろ、か」  最後にもう一度だけ、――シヴァはフォルトゥーナを見上げる。  愛を掴んだ妹の姿を。 「愚かな妹よ」  薄れいく現実感の中で、魔王は柔らかく微笑んだ。 「……幸せに、な」  それはまさしく――――妹を愛する、姉の顔であった。  白い花が舞う大宮殿の上で、フォルトゥーナは青年の腕の中に顔を埋める。  静かに泣き続ける少女を、ラセツはしっかりと抱きしめ続けた。 「……私、ね」 「ああ」 「ハーディアスを……殺しちゃった、の……」 「……そうか」 「……ハーディアスのこと、尊敬してたのに。大好きだったのに。でも、きっと、それよりも大きく、彼のことを……疎んでたんだと、思う。……だから、私は……」  少女の肩が震える。  声を殺し、涙を流しながら――嗚咽を漏らす。 「……私……私、本当に、取り返しの付かないことを……」  ラセツは少女を力強く抱きしめる。  黒く変色した髪や肌はそのままに――以前と同じく、いや、以前よりもなおか細くなったように思えるその体を、強く、優しく、支え続ける。  少女の嘆きに青年は応える言葉を持ち得ない。  励ますことも、慰めることも、それはフォルトゥーナの心をなじり、ハーディアスの覚悟を貶めることのように感じられたからだ。だから、ラセツはただ、少女を抱きしめ続ける。安心して心の中の闇を吐き出せるように、少女の気持ちを受け止め、支え続けられるように、その体を抱きしめ続ける。  こんな時に気の利いた言葉のひとつも返せない自分が、青年は情けなかった。  どれくらい、そうしていただろうか。 「……ラセツ」  おずおずと少女が声をかけてくる。 「なんだ?」  穏やかな声で、青年は答えた。 「ラセツの中……あったかいね」 「そうか? ……まぁ、今のお前の姿は寒そうだしな。正直目のやり場に困る」 「……?」  少女は小首を傾げる。  ややあって、何かに気づいたように頷いた。 「そっか――。うん、そうだね」 「フォルトゥーナ?」  ラセツが違和感を覚えた、その時――  澱の空にヒビが入る。  パラリパラリと崩れ、溶けるようにして消えていく。  光が指す。  いつの間にか、朝になっていた。 「――――」  ラセツは息を飲む。  消えていく空の蓋から覗くのは――――蒼穹。  青い空。  魔界では見ることが叶わないはずの、青い空。 「嘘だろ……?」  思わず自分の目を疑ってしまう。  だが、この光景は嘘偽りのない真実だ。  澱の空は消えていく。  闇が晴れて、朝が来る。  青い、青い――空が来る。 「はは――これは、どんな奇跡なんだ?」 「ラセツ?」 「見ろよ。おい。この空を、さ」 「空……」  ふたりは空を見上げる。  澱はすっかり晴れ渡り、青い空と白い雲が広がっていた。  そう――  少女が夢見た青い空。  だと、いうのに…… 「……フォルトゥーナ?」  少女の表情に変化はない。  赤い瞳は、ただ淡々と空を見上げ続けている。 「……お前……!」 「……うん」  こくりと、フォルトゥーナは頷いた。 「……見えない、のか」 「うん」  小さく頷いた。 「……そっか」  ラセツは少女の肩を抱きしめた。 「空が……どうかしたの?」 「ああ、どうかしてる」  青年は青い空を見上げる。  どこまでも続いていくような――澄んだ大空を。 「空が、青いんだ。まるで地上みたいにさ。……悔しいな。こんなに綺麗だってのに、…………お前に見せることも、出来ない、なんて」  声が、つまる。  堪えきれず、頬を涙が伝っていく。  それを自らの頬で受け止めながら――フォルトゥーナは首を振った。 「……でも、ラセツは見てくれるんでしょ?」 「フォルトゥーナ……?」 「私の代わりに、あなたが見てくれるなら――私はそれで、満たされる」  見えない瞳で空を見上げ、少女は言う。 「辛いこと、悲しいことを、一緒に背負ってくれるってラセツは言ってくれた。でも、それだけじゃダメだよ。……苦しいことを分け合えるなら、嬉しいことも、楽しいことも分け合える。みんなで分け合えれば、それってきっと、嫌なこととは違って……ずっと、何倍も楽しくなれる。幸せに、なれると思うの」 「――――」 「……ダメ、かな?」 「……馬鹿」  ラセツは腕の中の温もりを感じながら、照れくさそうにそう答えた。 「……うん」  少女は瞳を閉じる。  優しい抱擁に、身を任せていく――――……  少女の頭を撫でながら、ラセツは思う。  何よりも大事な腕の中の少女。  これからずっと、一緒に歩んでいくことを誓い合った少女。  安らぎに身をゆだねる少女。  その穏やかな顔を見守りながら――青年は誓う。  強くなろう。  誰にも負けないように強くなろう。  脳裏に浮かぶのは、青年にとって超えるべき壁だった男の姿だ。  だけど、それはもう過去の話。  少女のために命を捨てるなんてことは、ラセツには出来ない。してはいけない。  この愛しい少女を、二度と悲しみの涙で濡らしてはいけない。  だから――  もっと、強くなろう。  少女を支えていけるように、肉体的にも、精神的にも、ラセツは強くならなければならない。フォルトゥーナが笑って暮らせるように――悪夢に怯えず、安心して眠っていられるように、もっと頼れる男にならなければいけない。  青年は顔を上げる。  大きく広がる青い空。輝く太陽の眩しさに、目を細めた。 「――――テトラグラマトン」  瞬間だった。  天から降り注ぐ光の洪水が、青年と少女を飲み込んでいく。 「な……」  突然の事態に理解が追いつかないまま、ラセツは、見た。  青い空に誰かが佇んでいるのを。  女性だ。  光り輝く白銀の鎧に身を包み、黄金の髪をなびかせた――美しい女性だった。  女性はこちらへ手をかざすと、少しの躊躇も逡巡もなく破滅の閃光を放っていく。何度も、何度も、何度も何度も、まるで憎むべき何かを殲滅し消し去ろうとするかのように、破壊の光を幾度となく大宮殿へと叩き込んでいく。  灼熱と光の中。  ラセツは理解した。  それの正体を。  それが、何をしに、現れたのかを。  爆音が響く。  大宮殿が、崩落していく。  ラセツは叫んだ。  叫ばずには、いられなかった。 「光浄蝶――ソフィアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」  叫びは光の中へと飲み込まれていく。  止めとばかりに打ち込まれた閃光の一撃は、大宮殿だけではなく迷いの森をも衝撃で薙ぎ倒していった。朝日に照らされた大宮殿にいくつもの火柱が上がる。  光の裁きを受け……クリスタルファンタジアは崩壊した。      ■■■ 「――――」  任務の達成を見届けると、まるで蝶のような巨大な羽を羽撃かせ、世界最後の神霊たる女は次元の狭間へと消えていく。  世界に混沌と破滅をもたらす新たな魔王は、必滅の呪いで始末した。  これで、世界は当面の危機から救われたのだ。 「――結界、展開」  魔界とルネシウスの次元の狭間。  打ち砕かれた光の結界を、光浄蝶は再び展開していく。  その顔は事務的で、感情というものを覗かせない。  美しい顔を冷徹に凍てつかせたまま――彼女が思うのはこれからのことだ。  光の結界とて、もはや万能ではない。薄壁の刻という光浄蝶ですら修復不可能な歪みも発生しているというのに、こうしてその破壊と再生の瞬間をまざまざと見せつけてしまったのだ。これを機に、魔王たちが結界を打ち破る方法を見つけ出すかもしれない。そうなった時、果たして地上の力で魔王たちを抑えきれるのか……  かつて共に過ごした姉妹に手を下したばかりだというのに、光浄蝶の精神には少しの陰りも動揺もなかった。彼女にしてみればフォルトゥーナは敵以外の何者でもなく、世界を破滅へと導く最悪の因子だった。だから、それを取り除いただけ。世界を守護する神霊として至極当たり前のことを、彼女は行っただけに過ぎなかった。  袂を分かった姉妹に向ける情愛など、完全生命体である神霊には存在しない。  そのようなものを向ける輩が存在しているとしたら、それはすでに不完全生命体と称していいだろう。世界の守護者たる資格などはなく、魔王と同等の、世界の安定を脅かしかねない不穏因子でしかなかった。  完全生命体にブレはない。  光浄蝶は無表情のまま妹を殺し、姉妹を封じる檻を再構築していく。 「――展開、完了」  淡々と結界の再展開を終える。  全ての任務を終えた光浄蝶は、地上世界ルネシウス――その上に存在する、自分の世界である天界へと還っていく。  最後まで――  彼女は、何の感慨も残すことなかった。      ■■■  クリスタルファンタジアの地下深く――  深い深い最下層に、少女と青年の姿はあった。  容赦なく大宮殿を貫き破壊した神霊の光弾は、もちろんこの最下層にまで及んでおり、崩落した上階の柱や壁も合わさり多数の瓦礫の山が出来上がっている。光源は、はるかな天井から差し込んでくる僅かな光だけ。光浄蝶の攻撃により天井は砕け開けているというのに、それでもなお、地下は薄暗い闇の中だった。  差し込んでくる淡い光の中を埃が舞う。  攻撃は止んだのか――辺りはただ、静かだ。 「――――」  フォルトゥーナは異変の最中もずっと青年の手を握り締めていた。視力を失っても分かってしまう、意識に直に訴えてくる圧倒的な光量と熱量、足場が崩れる感覚と、浮遊感。耳をつんざく轟音――  不安だった。  怖かった。  それでも、少女は青年から離れなかった。  どれだけ不安で、怖くても――だからこそ、少女は青年から離れなかった。  その選択は正しかった。  あれほどの攻撃の嵐だったというのに、少女には大きな怪我はない。さすがに擦り傷や打ち身は数多くあるが、命に別状もないし、動こうと思えばすぐにでも動けるだろう。  ラセツはフォルトゥーナを守った。  守って、くれたのだ。 「…………」  それが、どうしようもなく嬉しかった。  いったい何が起こったのか分からないが…それらの疑問を全て吹き飛ばしてしまうほど、少女にとって青年の存在は心強かった。彼さえいれば何が起こっても大丈夫だと、少女はそう信じきっていた。 「……ねぇ、ラセツ」 「……おう」  ぶっきらぼうだけど優しい声が返ってくる。  それだけで、少女の心は温かくなった。 「……前に、夢幻街に出かけたよね」 「ああ」 「……今度、また、遊びに行こうよ。スズカさんやカグヤちゃんにも会いたいし……ネフティース、きっと今の私みたら、驚くんじゃないかな」 「……ビックリするだろうなあ」 「だよね。……それに、ハルシャギクたちにも、会いたいな。創世戦争の時に会ってから、それっきりだし……また、みんなでお茶飲んだり、遊んだり……ああ、ハルシャギクは私の耳、嫌うかも。邪魔して髪型が制限されちゃうから……」 「そっか」 「ハルシャギク、私の髪型をいじるの好きだったし……今もそうなのかは、分からないけど……。……ううん。堕ちちゃっても、私はこうして私になれたんだもの。きっとハルシャギクだって、そうなんだよね」 「……かもな」 「ヘルは……相変わらずニコニコして、みんなを見守ってそう。だって、頼りになるお姉ちゃんだもの……。あー、でも……ラセツにだけは会わせたくないかな。……大きい胸、好きだものね。きっと鼻の下、伸ばすでしょ」 「……努力する」 「むー……。……それと、魔の国にも、行きたいな。シヴァのお墓、あるだろうから……。私、シヴァには迷惑をかけてばっかりだから、ちゃんと謝らないと。謝って、ありがとうって、お礼を言わないと……」 「そうだな……」 「ねぇ、ラセツ」 「ん?」 「私……行けるよね?」 「ああ。病気だって、もう治ったんだ。お前は……どこへだって、行けるさ」 「……うん」  少女は夢をみる。  どこまでも、翼を広げて舞い続ける――――  そんな、夢を。 「私、精霊王のみんなとも、また会いたいな。今は敵対しちゃってるけど……でも、きっと、またみんなで、笑い合える日が来るはずだから……」 「…………」 「フリールや、ルー、サナキエールに……ソフィア。マイミィールにも、ちゃんと挨拶しないと……地上は、大地のほとんどがなくなっちゃったけど……お墓、あるといいなぁ」 「…………」 「みんなで、仲良く手を取り合えたら……きっと、お父様も世界を滅ぼそうなんて考え、改めてくれる。私、そう思うんだ。だから……」 「…………」 「……ラセツ?」  青年からの返事はない。  代わりに、繋いだ手から――急速に、暖かさが失われていった。 「ラセツ……?」 「…………」 「ねぇ……ラセツ?」 「――――」 「ねぇ、答えて……いつもみたいに、適当な相槌うってよ……」 「――――」 「ねぇ……」 「――――」 「ラセツ……!」  少女の声が、地下に反響する。  青年は応えない。  もう、二度と……応えることは、ない。 「…………」  光を失った瞳から、涙が流れた。  流れて、溢れて、……止まらなかった。 「嘘つき」  トクンと――  少女の体が鳴動する。 「一緒に、いてくれるって、いった、のに……」  トクン。  トクン――  黒い体を青い光が脈動し、全身を膨大なマナが駆け抜けていく。  ――死なせない。  少女はマナクリスタルを解放する。  フォルトゥーナとラセツを中心に、圧倒的なまでのマナが渦を巻き、ふたりを光に包んでいく。手順は、そう。固有兵装を形作るあの感覚。固有兵装とは魔王の心の現れだ。ならば、やってやれないことはない。それに世界を創世した時の感覚を乗せていく。無茶を押し通し、道理と摂理を因果線によって強引にねじ曲げていく。  力が溢れる。  疎ましいとさえ思っていた神の左腕の力。  その全ては、今この時のためにあったのだと、フォルトゥーナは確信し、感謝した。  ――死なせない。  ――ラセツは、絶対に、死なせない。  意識が白く混濁していく。  まるで全身が溶けて消えて行くような、そんな感覚。  少女の全てが、白く染まっていく――――――――  ――――どこまでも限りのない白い世界。  ひとり、先を行こうとする青年の手を――白い少女が、そっと、握った。  ふたりは連理の枝。  ふたりは比翼の鳥。  どちらか欠けることなど――――絶対に、あり得ない。  少女は微笑む。  青年も、微笑み返した。  光が、世界の全てを覆っていった。      □□□  崩落した大宮殿の地下に、ひとりの少女が降り立った。  白い髪に赤い瞳を持つ――小柄な少女。  シュリアだった。  水晶宮殿の消滅と共に泥人形たちも消滅した。その後、大宮殿を謎の砲撃が襲った。ただごとではないと急いで駆けつけてみれば、すでに大宮殿は跡形もなくなっていて、剥き出しになった地下への大穴が空いているだけであった。  地下は薄暗い。  陽の光だけがわずかに降り注ぎ、まるで爆撃されたかのような凄惨な地下の有り様をほのかに映し出している。  シュリアは瓦礫に気をつけながら、歩き出す。  ヒトを捜していた。  大宮殿に向かった彼と、大宮殿にいたはずの彼女。  これだけ凄惨な現場だというのに、少女の直感は告げていた。  ここに、いるはずだと。  ふいに……  空から白い何かが落ちてくる。  ひらひら、ふわふわと――それは、水晶が変化した白い花であった。  白い花は舞っていく。  風もないのに、まるで導かれるようにふわふわと宙を舞っていく。  シュリアは追いかけた。  薄暗い中、白い花を見失わないよう必死に目を凝らし、足場に気をつけ、走っていく。  しかし努力のかいもなく、白い花はどこかへと落ちて、見失ってしまった。  シュリアは瞑目する。  仕方なく、踵を返そうとした――――その時だった。  声だ。  誰かの、泣き声が、聞こえる。  シュリアは再び走りだす。  泣き声を頼りに、走りだす。  そして――  少女は、見つけた。  赤ん坊だ。  生まれて間もないと思われる赤ん坊が、大きな声で泣いていた。  その側には、小さな白い花が落ちている。  シュリアはそっと、赤ん坊を抱き上げた。  終章  夢幻街にそびえる夜姫の居城――幻影魔々殿。  その一室で、部屋の主たる少女がふんぞり返りながら水晶球と向かい合っていた。水晶球はヨモツヒラサカを通しマナを送受信し、遠く離れた魔界の誰かとも会話できるという便利な装置だ。  今、その水晶球には冥帝ヘルが映しだされていた。 「――それで、闇の国は今はどうなってるのかしら?」 「相変わらず荒れてるみたいね」  肩をすくめて部屋の主は――夜姫は言った。  闇の国の革命事件から十年が経つ。激しい戦いの末、惡兎臣フォルトゥーナはついに討たれたのだが、同時に革命軍も総帥であるエーデルをはじめ多くの将軍を失った。結果として革命軍にフォルトゥーナ亡き後の闇の国を統治する力は残っておらず、野心たぎる貴族たちや旧国軍、革命軍残党らが群雄割拠する動乱の時代を闇の国は迎えていた。  本来なら、ここまでグダグダになってしまった以上、他の魔界が統治に乗り出してもおかしくはないのだが――惡兎臣の意向により長い間他国との関わり合いを避けていた闇の国である。いてもいなくても各魔界には特に大きな問題はなく、進んで厄介ごとに関わろうとする国は残念ながら存在しなかった。  唯一例外があるとすれば、夜の国――夢幻街だろう。  ハーディアスとラセツ、闇の国の幹部ふたりは夜の国の出身である。夜姫としても積極的に動乱に関わろうという気はないものの、彼ら亡き後の闇の国がどのような道を進むのか、少なからず興味はあった。 「お姉さまたちが、統治に乗り出すのが一番手っ取り早い解決策なんだけど――」 「無理よ。ハルちゃんは地上侵略の準備を虎視眈々と進めてるみたいだし、魔の国もいつぞやの侵略失敗からはまだ立ち直れていないもの。私たちには荷が重いわ」 「あら、ヘル姉さまはお暇でしょう?」 「うふふ」  ヘルはほがらかな笑みを浮かべる。  背筋がちょっとだけ寒くなって、夜姫は話題を先へと進めた。 「ええと、今の闇の国の状況だけど……」  十年近い動乱の時代を経て、闇の国はほぼ三つに勢力にまとまろうとしていた。  ガロウ将軍の息子であろロウガを筆頭とした旧国軍残党。  革命の闘士マルコをリーダーとして再結成された革命軍残党。  そして、降魔王サタナイルの息子であるベッサイム率いる降魔軍である。 「お姉さまが気にしてるのは、降魔たちでしょう?」 「ええ。魔界統一の時に確かに殲滅したはずだったのに……まだ生き残りがいたなんて。お姉さん、ショックだわ」  全然ショックじゃなさそうな口調と顔で冥帝は言う。  夜姫は不敵な笑みで応えた。 「これから闇の国がどうなっていくか、それは分からないけれど――仮に降魔に支配されるようだったら、また私たちで叩き潰せばいいだけでしょう?」 「あらあら、ずいぶんと勇ましいのね」 「ちょっと暴れたい気分なの。新しく手に入れた力も使ってみたいわ」  夜姫は懐から小瓶を取り出す。  中には液体に浸かった眼球がふたつ、入っていた。 「あら、それって……」 「魔眼よ。それも七虹(しちこう)のね。七つの色彩を組み合わせ、様々な奇跡を行使する最上級魔眼。しかもほとんど未使用の新品同然。いいでしょー?」  嬉しそうに自慢する。 「すごいわね……それ、どこで手に入れたの?」 「ほじくってやったわ」  ニヤリと夜姫は笑う。  それは、無垢な少女の姿からは想像もできないような――とても邪悪な笑顔だった。 「いいわねえ、とっても楽しそう」 「……思い出した。お姉さま、今度こっちへ来るのでしょう? よかったら一個だけ上げましょうか? もちろん、これは貸しだけど」 「考えておくわ」 「期待してるんだから」  ふたりの魔王は、ふふふと意味深に笑いあった。 「――――夜姫様」  その時、声がかかる。  振り返ると、そこにいたのは綺麗な黒髪をおかっぱにした鬼人の女性だ。美人なのだろうが、喪服のような黒い和服と両目に巻かれた包帯、なによりも全身から放っている負の波動とでも言える陰気な何かのせいで、女性をとても近づきづらいものへと変えていた。 「なに?」  不機嫌そうに、夜姫は答える。 「お客様が、そろそろお帰りになるそうですが」 「勝手に帰らせればいいじゃない。わざわざ私が見送る必要もないわ」 「ですが――」 「……ああ、もう。わかったわよ! わかったから、とっととここから出ていってくれないかしら。あなたを見てるとこっちまで気が滅入ってくるわ」 「……失礼します」  頭を下げ、女性は部屋から退室した。 「……はぁ。まったく」 「誰か来てたの?」 「ちょっとね。それじゃあ、私は見送りに行ってくるわ。うるさいのがいるし」 「なら、私もこれで失礼するわ。やらなければいけないこともあるもの」 「また輪廻の輪の探索?」 「ええ」  冥帝ヘルの額の第三の目が、怪しく輝いた。 「大変ね、お姉さまも。――それじゃ、またいつか」 「ええ、また……」  水晶球に映っていたヘルの姿が霞んで見えなくなる。  それを見届けると、夜姫は席を立ち部屋を出た。  向かうのは幻影魔々殿の裏庭にある井戸だ。  そこに、ひとりの少女がいた。  青い髪と瞳に、アザラシの被り物と背負った甲羅が特徴的な少女――水の精霊王フリールである。フリールはやって来た夜姫に気がつくと、ちょっとだけ驚いたように眠そうな目を見開いた。 「……驚いたわ。あなたが見送りに来るなんて」 「好きで来たわけじゃないけどね」  不満そうに口を尖らせる。 「それにしても、あなたも大概暇なのね、フリール。わざわざ闇の国の動向を知るためだけに、敵地でもあるここまで足を運ぶなんて。まぁ、自分の対になる姉妹が遺した世界だもの。気になるのは無理もないんでしょうけれど……良かったら水晶球を貸しましょうか? 遠くの誰かと話せるって、なかなか便利で楽しいものよ」 「いらない……」 「そう? 暇つぶしに便利なのに」 「……私は、あなたと違って暇ではないもの」 「私だって結構忙しいのよ。最近だって妖界が騒がしいし。妖怪仙人とかいう胡散臭いお爺ちゃんが死んだらしくて、八岐大蛇と白面九尾の勢力が緊張状態で爆発寸前。……いっそのこと爆発させてみようかしら」 「……いいわね、それは」 「よくないわよ。あいつら、強いんだから。特に九尾の娘。ないと思うけど、あの娘と八岐大蛇が束になってかかってきたら、精霊王なんか一捻りなんじゃない?」 「一捻りされるのはあなたも同じでしょう? だから妖界に手出しはできない……」 「……言ってくれるわね」 「…………」  静かな瞳でフリールは夜姫を見つめる。  これでも水亀臣とはそれなりに仲良く接してこれたつもりだったのだが――どうも最近は、彼女からのあからさまな敵意を感じてしまう、敵意、とは少し違うのかもしれない。どちらかといえば嫌悪の感情に類するものだろう。  心当たりはあった。  存分にありすぎた。  だが、そのことでフリールにとやかく言われる筋合いはない。誰かを犠牲にして自分という存在を保ったという意味では、夜姫と彼女に違いなどないのだから。 「……帰るわ」 「そう」  フリールは井戸へとぴょんとジャンプし飛び込んでいく。  ボチャンと音がした。 「――あ。忘れてたわ」  慌てて井戸へと駆け寄ると、小さな体を乗り出して井戸の中を覗き込んだ。すでにフリールの姿は見えなかったが、夜姫は気にせず言葉を投げかける。 「ねぇ、フリール。ソフィアに伝えてちょうだい」  声が反響する。  自分の声が静まるのを待って、光浄蝶への言伝を、井戸の中の水の精霊王へと伝えた。 「――――あなた、絶対にろくな死に方しないわよって」  言うだけ言って満足したのか、夜姫は井戸から離れる。  そのタイミングを見計らったかのように、 「……その言葉、そっくりそのままあなたに返すわ……」  井戸の中からフリールの声が届いてきた。 「……むむ」  夜姫はしばし顎に手を当て考え込む。  銀色の髪がそよ風になびいた。 「それもそうね」  赤い瞳を瞬かせ、妙に納得した顔で――夜姫カグヤは頷いたのだった。      ■■■  闇の国の辺境にある小さな町。  町の片隅にある広大な草原の中を、ひとりの少年が駆けていく。  少年の頭には二本の角が生えており、鬼人と呼ばれる魔族であることを表している。  広々とした草原。  見上げた空は、どこまでも続いていくような青い空。  少年は、楽しそうに笑っていた。  と――  草原にやって来た新たな人影を見つけると、少年は手を振りながら駆け寄っていく。 「お母さーん」 「ラセフォール」  母と呼ばれた獣人の少女が、駆け寄ってきた少年を抱きとめた。  少年は笑っている。  その顔は屈託なく、とても幸せそうであった。  さわさわと草原がざわめく。  風が吹く。  吹き抜けていく。  少女の白い髪と、少年の黒い髪をゆらしていく。  いつからか、国中に咲き誇るようになった白い花が、ふわりと蒼穹を舞っていった。                b.H.ヒストリア外伝「奈落の花」  ― 完 ―