まえがき  ペンタブ買ってくるぞおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!  …………。  ええと、今回は「まえがき」で。  何か前回「三月半ばまでには仕上げる(キリッ」とかほざいてた気がするけどもう五月ですよ、と。いや色々あったけどさー…もしも待ってた人がいたならマジごめんなさい><  そんなわけで、前回のあらすじ、および軽くキャラ紹介でもやってみるわさ。  ■あらすじ■  へっぽこ魔王フォルトゥーナの治世に嫌気がさした革命軍がついに大暴れ。  でもラセツたちの活躍でなんとか倒したと思ったらそんなことはなかったぜ!  黒幕ハーディアスの手によりフォルトゥーナの身に危機が迫る!  あれ、三行で終わった。  ■キャラ紹介■  惡兎臣フォルトゥーナ  主人公。  病が悪化して前回ずーーーーっと寝てた。  起きたらいきなりハーディアスに襲われた。  ラセツ。  それなりに主人公。  革命軍倒したと思ったらシュリアにグサッとやられてボロボロに。  現在死にかけだけど大宮殿に向かってる最中。  ミサハ  九尾の狐。ぶっちゃけめっちゃくちゃ強い。  対ハーディアス戦において大人ミサハになったけど残念負けちゃった。  現在生死不明。  闇元帥ハーディアス  フォルトゥーナの腹心。  実は革命軍の黒幕だった。ミサハとの戦いでボロボロになったけどまだ元気。  寝起きのフォルトゥーナを襲う。こう書くとロリコンみたいだ。  ガロウ  フォルトゥーナに忠誠を誓う狼将軍。  ハーディアスと戦い死亡。  当初は上のメンツ含めてメイン五人だったのにどうしてこうなった。  ロウガ  ガロウの息子。  親父と名前がまぎらわしい。  へたれ。  シュリア  ラセツの部下。  色々思うところがあって、裏切っちゃった、てへ☆  てへ☆  革命軍  総帥エーデルと愉快な仲間たち。  前回でメインキャラほとんど死んでる。  ニャンポコー  はい、キャラ紹介でした!!  せっかくだから三行にまとめてみたけど意外とむつかしいですね!!!!  後は…ああ、そうそう。冥帝ヘル関係の設定が、RPG編とのすり合わせもあって一部変更されてます。後で第二幕と第三幕修正しなくっちゃなぁー…><  というわけで「まえがき」終わりです。  ではでは、いよいよ完結を迎えるb.H.H外伝「奈落の花」、どうぞー  ハーディアスに老いが訪れたのは、今から十五年ほど前のことだ。  魔族の寿命は物質生命体の中でも特に長い。しかもそれは個人の力量によっても変動し、大魔族と呼ばれる強者ならば軽く数千年の時を生きることさえ可能となる。ハーディアスはその大魔族であり、彼の起源は女神マリアがルネシウスを創世するよりも前――旧世界の時代にまで遡る。  彼と同じ時代に生まれ、今も生きているものは少数だ。  老いとは無縁な若々しい肉体を維持しているものとなればさらに少なく、ハーディアスが知る限りは冥帝ヘルに仕える地獄大公デイモンドくらいだろう。  物質生命体である以上、老いは避けられない。  老いの先にある――死という結末すらも、来るべき必然としてハーディアスはごく自然に受け入れていた。そこに恐怖はなかった。何故なら、ハーディアスという男が死を迎えるのは、これがはじめてではないのだから。  ただ、心残りは、あった。  不協和音が限界に達しており、もはや先の見えない闇の国の情勢……  そして、それを治める少女の未来。  暗く……どこまでも深い闇の底へと沈んでいくしかない、少女の未来。  彼女の環境はここ百年で劇的に変わった。  今ままでの気が遠くなるような人生の中で得ることがなかった、恋や友情といった様々な感情を、わずか百年で得てしまった。きっとさぞや楽しい時間だったことだろう。それが精神面での彼女の補強へとつながり、奈落の呪いから彼女を遠ざけていた。  だけど。  言うならばそれは、燃え尽きる前の蝋燭の――最後の輝きに過ぎない。  輝き終えれば、後はただ、燃え尽きるのみだ。  そう。  フォルトゥーナに先はない。  このままでは……白い少女に、未来はないのだ。  ならば――闇元帥ハーディアスのやることは、ただひとつだけであった。  枯れ木のように老い衰えた右腕にマナを収束させていく。  ただのマナではない。魔術を介し、魔界の闇を――奈落の悪意を練り固めた鮮血の炎だ。  自らの身に起こる惨劇を察してか少女の顔が恐怖に歪む。  涙が流れていた。  それは、どのような涙なのだろうか。  死を前にしての恐怖の涙か。  あるいは……信じていた男に裏切られた悲しみの涙なのか。  どちらでもいい。  どちらでも……かまわない。  何故なら、フォルトゥーナは――目の前の白い少女は、死を迎えるのだから。消えいくものに何を思われようと構わない。ハーディアスはただ自分のなすべきことに全力を尽くすだけだ。  最後に、一度だけ視界を閉じる。  暗い世界。  そこにはもう――白い少女の姿は、ない。  幻影はすでに飛散している。  だから、青年――いや、青年の姿をした老人に、もはや迷いは欠片もなかった。  ずぶり……と。  何の気負いもなく。  ごくごく自然に。  闇元帥ハーディアスは、惡兎臣フォルトゥーナの心臓を貫いていた。  b.H.ヒストリア外伝 奈落の花   第六章 オーバーロード  昔話をしよう。  遠い遠い――――大昔の話だ。  それはまだ世界が大十字界(エクスワールド)と呼ばれていた時代。  ハーディアスは左の第五世界フィズルーナ・エルルを管理する神霊ネフティースに仕える大精霊の兄弟、その弟として生を受けた。  兄は偉大だった。  忠臣として主君たるネフティースをよく支え、フィズルーナで起こる様々な問題を見事に解決して回った。その活躍たるやまさに獅子奮迅、弟である自分から見ても誇らしいほどに彼は清廉潔白であり、弱きを助け強きを挫く、質実剛健を地で行く武人であった。  主君もまた、偉大であった。  十の世界より構成される大十字界のひとつを超越神より任された神霊ネフティース。そんな大層な肩書きとは裏腹に、彼女は気さくで奇策で愉快に素敵にフィズルーナでろくでもない騒動を起こし続けた。それを悪戦苦闘しながら解決するのが兄の役目であり、それを楽しそうに眺めているのが主君の主君たる所以であった。おそろしいのは――彼女の起こす騒動のほとんどが、この世界を豊かな方向へと導き育てていくきっかけとなっていたことだろう。ネフティースはお遊び半分の軽い気持ちで、しかし自らの世界を正しく育て上げていた。  フィズルーナ・エルルは決して他世界より豊かではない。  各世界をどのような方向で育てていくかは神が決める。神霊とはその大命に従い世界を実際に育んでいく管理者だ。フィズルーナに与えられた役割は忠義による支配であり、主君と部下の強固な絆により育てられる剣の世界だ。そんな不鮮明かつ不明瞭な大命の押し付けに、主君と兄は時には真正面から、時には歪みながらも応え続けた。  世界は豊かになり――  ネフティースは月黄泉という名で現地の人々より崇め奉られた。兄もまた、別の名と形で数々の伝説を築き上げた。  そんなふたりの背中をハーディアスは追い続けた。  尊敬する主君と兄の力になるために。  ハーディアスもまた、フィズルーナを導く大精霊らしく、その心は忠義の念で満ちていたのだ。  転機は唐突に訪れた。  世界が分かたれたのだ。  後に女神と呼ばれることになる少女、マリアによるルネシウス創世。それにより大十字界は寸断され、その半数は奈落へと堕ちた。フィズルーナ・エルルもまたその悲劇には抗えず、だが、その全てを失ったわけではなかった。  夢幻街。  寸断されたフィズルーナ・エルルの片割れは、ひとつの国として新世界へと組み込まれたのだ。  その地にハーディアスはいた。  変質する世界。  奈落へと堕ちていく主君と兄を助けることも出来ずに、ハーディアスは、そこにいた。  無念だった。  許せなかった。  だから、主君と兄が奈落にて――魔界にて、生きていることを知ったとき、ハーディアスは新世界創世の混乱に惑う夢幻街を部下たちに託し、ひとり敬愛する彼らのもとへと駆けつけたのだ。  奈落に堕ちた各世界は、魔界として新生していた。  もちろんフィズルーナ・エルルも例外ではなく、夜の国と呼ばれる魔界を構成する一世界へと成り果てていた。忠義の志はそのままに、何かが確定的に変質している夜の国。そのどうしようもない違和感が、大精霊であるハーディアスにとっては不愉快で仕方がなかった。  黒い空が、ただひたすらに、気持ち悪い。  再会した主君と兄は、魔王とその腹心になっていた。  鬼人――  奈落に堕ちる前は存在しなかった巨大な角を頭部に生やし、主君と兄は夜姫ネフティースとその腹心たる鬼王へと変質していた。衝撃はそれだけではなく、堕ちた神たる邪神の大命に従い、地上世界ルネシウスの滅亡をふたりは企んでいた。ハーディアスには理解出来ない思考だったが、彼らにとってはそこに疑問の余地などはなかったらしい。ふたりはただ当たり前のこととして、世界の滅亡を望んでいた。  何故、こんなことになってしまったのか。  答えが出ないまま、それでも忠義の大精霊はネフティースに従った。  夜の国の一軍を与えられ、魔界連合軍の将軍のひとりとしてルネシウスへと侵攻した。だが……実際に戦闘となったとき、彼はその力を振るえなかった。地上を、ルネシウスを、かつて大十字界として存在していたこの世界を破壊するなど、到底容認できることではなかったのだ。  だから、ハーディアスたちは敗れた。  戦意のない指揮官の元で勝てるほど、火霊帝の力は脆弱ではない。対峙した炎の精霊たちとの戦いでは一方的に敗戦を繰り返し、それでも、ハーディアスは部下たちに戦えとは命じられなかった。  燃える戦場で……  満足に戦うことさえ出来ず焼死していった部下たちの、恨めしそうな顔と言葉が、ハーディアスの胸を引き裂いた。  慟哭した。  どうして、このようなことになってしまったのだろう。  忠誠とは何だったのか。  世界を滅ぼす片棒を担ぐことがそうだとでもいうのか。  違う。  違うはずだ!!  狂っている。  悪いのは――――魔王たちだ。 「――ネフティース様!!」  夜の国の居城――幻影魔殿。  地上で大敗を喫したハーディアスは、ある決意を込めてネフティースとの謁見に望んだ。それは主の目を覚まさせることだ。このような戦いを繰り返してはいけない。今一度、ネフティースに神霊としての誇りを取り戻させる。それこそが、彼女の剣としての彼が示す絶対の忠誠であった。 「……ハーディアス」  夜姫は帰還した腹心を胡乱な眼差しで見つめる。  淡い蝋燭の炎で照らされただけの闇のはびこる玉座の間。腹心であるハーディアスの兄、鬼王を侍らせながら、ネフティースは大きく胸のはだけた黒い和装に身を包み深く玉座に腰掛けている。黒い髪は艶やかに伸び――気だるげに頬杖をつくその姿は、どこか退廃的な妖しさがあった。 「ネフティース様! どうか、地上より軍を引いてください!! このような戦に、いったい何の意味があるというのですか。ただ相手を、そして自分たちの首を締めるだけの戦、貴女はそのような破滅の道を選ぶお方ではなかったはずです!!」 「――――」  青年は説得を続ける。  自分の思いを必死にぶつけようとする。そうすればきっと、ネフティースは分かってくれるはずだと信じていた。そう確信できるだけの時間と思い出を、青年と青年の兄と主君である女性は、共有してきたのだから。  だから気付かなかった。  赤い瞳が――冷たく暗んでいくことに。 「ですから、どうか――」 「ねぇ、ハーディアス」 「――は……」  どこまでも凍えるような淡々とした感情のない声。しかしどこまでも優しく包みこむような微笑を浮かべて、夜姫ネフティースは腹心のひとりへと語りかけた。 「やっぱり、こちら側へと引き込まないとダメだったみたい。ごめんなさいね、無理させちゃったみたいで」 「ネフティース様……?」  ハーディアスの影がうねる。現れたのは黒い触腕。まさにあっと言う間であった。次の瞬間、ハーディアスは自らの影から生え出した黒い腕に体を押さえつけられていた。床に引きずり倒される。夜姫の固有技能、夜影戦手だ。 「な、なにを……!」 「お仕置き」  口角を歪ませ――おぞましい微笑を端正な顔に張り付かせネフティースは言う。 「この私に意見しようだなんて――あなた、いったい何様のつもりなのかしら?」 「な――」 「私は私を遮るものが大嫌い。特に、あなた程度の泡沫にうろちょろされると目障りでしょうがないの。最悪な気分ね」  夜姫は立ち上がる。  その右の手に黒い炎が灯る。それは邪悪なマナの集合体だ。まるで奈落の闇を収束させたかのような、あまりにも混沌とした悪意の坩堝。そんなものを、敬愛する主が平然と生み出したことが、ハーディアスにはひどく、悲しかった。 「だから……ね?」  黒い炎をまとった腕が、青年の顔へとすぅ……っと伸ばされる。  闇が、触れた。 「あ――――が、ギぃ――――ぁガ――――」  熱い。  灼けるように熱い何かが、夜姫の腕を通して青年の中へと侵入(はい)ってくる。神経に毒素を混ぜ込まれ、脳の中へ熱湯を注ぎこまれたかのような理解不明な激痛。背骨を蟲が這い上がってくる。手足の爪を剥がされていく。代わりに懇切丁寧に釘を打ち込まれた。カツーン、カツーンとハンマーの下ろされる音がする。視界が狂う。右と左が逆しまになり、次の瞬間には無様に倒れ伏す自分自身を見下ろしていた。目玉を抉り出されたのだと理解したとき、ハーディアスは絶叫を上げ―― 「――ぁ、ぁ、グギ――――、――っ――――」  それらが全て錯覚であることを思い出した。  全部、悪意だ。  この身を侵そうとする――奈落の呪い。  ネフティースの腕が離れていく。  大きく息を吐こうとして、むせ返る。血がこぼれた。 「ネフ、ティース……様……」 「頑張るのね、ハーディアス。さすがは大精霊と言ったところかしら」 「いったい……なに、を」 「うん。奈落の呪いを直に注ぎこんでみたらどうなるのかなって思って。簡単に言えば――そうね、人体実験みたいなものかしら」 「な、が――――、ぁジぅ、――、……ぅ――――」  再び闇の腕が青年を犯す。  気が――――狂いそうに、なる。  涙を、涎を、鼻水を、みっともなく垂れ流しながらハーディアスは助けを乞う。静かに自分を見下ろしている兄へと助けを求める。しかし兄は表情ひとつ変えることはない。共に多くの苦難を乗り越えてきた兄弟だと言うのに、兄は冷酷な眼差しを弟へと向けるだけであった。  ――お前が悪い、と、兄は言外に語っていた。  奈落の悪意が全身を蝕んでいく。  見上げても闇。見下ろしても闇。闇という名の悪意の渦。どこまでも黒い海に、さらに暗い満月がユラユラと漂っている。空は高い。高く高く――その果ては青黒く燃えていた。どこかで誰かが泣いている。声を聞いただけでその頭を踏みにじりたくなる悲鳴。それは赤ん坊だ。子犬だ。子猫だ。あるいは小鳥であり、その羽をむしり取るのが快楽。落ちていく。踵で踏み潰した。ぐちゃりとした感覚に涙する。  主君も兄も……変わってしまった。  ネフティースはいたずら好きで、周りに苦労ばかりかけるとんでもない女性ではあったが、このような残虐性などはなかった。表面上はメチャクチャでも心の奥底では静かに仲間たちのことを思いやっている、そんな月のようなヒトであり、そんな彼女の腹心である兄はまさに太陽のような強さと暖かさをもつ偉大な武人だった。  それが…… 「――――ギィ。っぁ、――――」  それが……  それが……こんな、もの、に……―――― 「まだ耐えるのね。大したものよ、褒めてあげる。でも――そう、これはなかなか興味深いわ。大精霊であるあなたと奈落の呪いに犯されたあなたが拮抗してるみたい。打ち消し合ってるわ。私たちが奈落に堕ちた時はあっという間だったから気付かなかったっけど……これが変質する、ということなのかしら」 「……――ぅ、ふ――――ぁう――」 「ねぇ、聞こえてる?」  痙攣している青年の耳元で、夜姫はささやく。 「あなた――このままだと、死んじゃうわよ?」  薄く嗤う。  ネフティースはハーディアスの命など少しも心配してはいない。ただもがき苦しむ様を嘲笑っているだけだ。そこには腹心に向けるべき情など欠片もなく、実験動物がどのような末路を辿るのか、その結末に対する興味だけしか存在していなかった。 「―――――、ぁ」  それが全てだ。  青年に抗うすべなど残されてはいない。  死。  死ぬ――……?  このままでは……死ぬ。  イヤだ。死にたくはない。どうして死ななければならないのか。自分がいったい何をしたというのか。何故、どうして、どのような理由でこのような責め苦を味わわされているのか。何が原因だったのか。思い出せない。理由もないというのに、殺される。いや、違う。思い出せ。理由は確かにあった。地上世界への侵攻の否定。戦うべきではないと意見して――そもそも、何故戦ってはいけないのか。あの世界は偽りの世界だ。平和な世界を引き裂いて無理やり生み出された欠陥品の世界だ。神はそんな世界を嘆き悲しんでいる。人々はそのような腐った世界の犠牲にされた事を恨んでいる。だというのに、何を迷う必要があるというのか。  それは本当に――――  自分の命を犠牲にしてまで、守る価値のあるものだったのか?  踏みつぶした先。  待ち受けているのは無残に引き裂かれた大量の肉片と血の海だ。  歩いて行く。  黒く淀んだ世界を彩る鮮血の美しさ。血生臭い空気。  それらを身一杯に浴びてなお――  歩いて逝く。  青年は、堕ちていった。  反転していく――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――…………  美しい空が広がっていた。  なんという、心が晴れ渡るような清々しい黒い空。  大きく深呼吸をする。  肺を満たす赤い空気が、青年の心を隅々まで癒していく。 「……やることは分かっているな?」  兄が問いかけてくる。  ハーディアスは振り返り――笑顔を浮かべて、言った。 「もちろん――兄さん。我らが宿願はただひとつ」 「世界を終焉へと導くこと」  それは遠い昔の話。  ひとりの青年の死と新生の――……むかしむかしの昔話。      ■■■  ハーディアスに胸を貫かれたフォルトゥーナは、そのまま力なくくずおれた。 「――――、ぁ―――げ―――」  だが、それでも少女は生きている。  本来なら即死してもおかしくはないほどの傷を負いながらも、少女は未だに生きていた。目を見開き、端正な顔を苦悶に歪めながらも、その命の炎は燃え尽きてはいない。それどころか貫かれたはずの胸からは血さえ流れることはなく、代わりに黒い炎が煌々と燃え盛っていた。 「――、――っ――……ぁ――」  胸を押さえながら少女はのた打ち回る。全身を灼き尽くすような激痛に気が狂いそうになる。まともに呼吸すらできなくなり、ゼェゼェと小刻みに喉を痙攣させる。胃の中のものがせり上がってくる不快感。しかし長い眠りに落ちていた少女に吐き出せるものはなく、ただ胃液が搾り出されるだけだ。それも長くは続かず、器官を傷つけたのか、気がつけは少女は血を吐き出していた。 「ぐご――ぉ、ぁ――――、はぁ――――ぁ」  視界が涙で霞む。  熱くて、寒くて、苦しくて、痛くて―――― 「――ぁ、ぁはぁ――――」  ……足が見える。  ずっと一緒だった……自分を支え続けてくれた青年の足。  だけど、自分を殺そうとしている……  青年の、足。 「ぐ、ぅぁ――――、は――……、―――――」  無様に、床に這いつくばりながら、フォルトゥーナは見上げる。  溢れ続ける涙の向こうで、青年は淡々と自分を見下ろしていた。  吐き出した血が白い髪を汚していく。  少女の薄い裸体に残る、痛々しい火傷の痕が蠢いていた。  息を吐き出すようなか細い声で。  それでも、少女は青年の名を呼んだ。 「――――ぁ、ハー……――ディ……ア……ス――――」  ――――結論から言えば、ハーディアスはフォルトゥーナを殺す気など微塵もなかった。  彼の目的はフォルトゥーナの命を救うことにある。  元々体が弱く原因不明の謎の病を患っていたフォルトゥーナであるが、その実、病の原因については解明されていた。それこそが奈落の呪いであり、白い少女が衰弱していた理由はそこにある。  奈落の呪いに逆らい続けることは、まさに魂を燃やし続けるような苦行だ。  その果てに待ち受ける結末はふたつ。  ひとつは、身も心も奈落の底へと堕ち、白が黒になるように反転するか。  もうひとつは……最後まで呪いに抗い続け、魂を燃やし尽くすか。  前者は少女の姉妹たちがすでに実践している。いや、実際は呪いに抗する時間も力もなかっただけで実践も何もあったものではないが――ルネシウス創世の結果、奈落へと突き堕とされることとなった姉妹たちは神霊から魔王へと変質してしまった。その外見は異質に変化し、ある者は翼が生え、ある者は角が生え、フォルトゥーナ自身もケモノの耳と尾を手に入れてしまった。変化は外見だけではなく性格にも及び、心優しく穏やかだったハルシャギクは冷酷非情な黒死将となり、もはや神霊時代の面影はない。  だが――それでも、生きている。  例えどのように変質しようとその命までは失われることはない。  しかし、後者の結末は違う。  最後まで奈落の呪いを拒み続けてもその先に待ち受けるものは死だ。奈落の呪いは病とは違う。決して治ることはないし、解放されることもない。対象が屈服し反転するまで永遠とその魂を犯しつくそうとする。対抗するだけ苦痛を長引かせ、その末路は逃れられない死。死。死だ。  闇元帥ハーディアスは、その結末を認めない。  彼女が魔王へと完全に堕ちることを拒んでいるのは分かっている。  もしかしたら、魔王になるくらいならば死を選ぶかもしれない。  だが、それをハーディアスは許さない。  全ては、国のため。  全ては、民のため。  全ては、陛下のため。  その言葉に嘘偽りはない。嘘偽りで友を斬るほど、ハーディアスという男は卑劣ではない。右の角をへし折られ、左腕を失って――全身を血に塗れさせながらも、彼はただひとつの願いのために行動を起こしたのだ。 「――――」  少女を貫いた右手が痛む。  ズキズキと……少女の血を吸った腕が悲鳴を上げている。  フォルトゥーナをこちら側へと引きずり込む。どっちつかずでたゆたっていた惡兎臣フォルトゥーナという天秤を傾ける。少女の命を救うため、ハーディアスは暗躍した。白い少女が長い眠りに落ちるようになると、エーデルたちの動きに同調して反体制派の貴族たちをまとめあげ、エーデルという光を旗頭にあくまで自分は表に出ず、革命軍を影から支配し操った。同時に闇の軍団も掌握していく。こうして、闇の国を舞台にした壮大な茶番劇の準備が整った。  彼らはよく働いてくれた。ハーディアスの願いを成就させるための最大の障壁であったフォルトゥーナの剣と盾――ラセツとミサハを存分に引っかき回してくれた。もしも決戦の場にミサハだけでなくラセツまでいたのならハーディアスは敗れていただろう。 「――――」  説得する、という方法も考えなかったわけではない。彼女の剣たちは本当にフォルトゥーナのことが大好きだ。ならば、彼女を救命するこの計画に協力してくれるのではないかと――そう考えなかったわけではない。だが彼らは賛成しないだろう。何故ならフォルトゥーナは堕ちることを望まない。気が遠くなるような歳月を、自分が自分であるために戦い続けてきた少女が、どうして今さら醜い生を受け入れるというのか。  それを分かっているから、少女の剣と盾とは相容れない。  フォルトゥーナ自身が反転してでも生に執着しない限り、両者の意思が交わることは絶対にない。フォルトゥーナは死にたいわけではないが、反転してまで生きることを望まない。だからこそ今回のことは完全にハーディアスの独断だ。もはや少女の心身は限界であり、一刻の猶予もままならなかった。  このままではフォルトゥーナに先はない。  それだけは嫌だった。  どんなに醜くて、歪でもいいから、生きていて欲しいと――そう願ってしまった。  それは友情であり、忠義であり、愛情であり、信頼であり……まぁ、腐れ縁でもある。有り体に言ってしまえば、闇元帥ハーディアスはフォルトゥーナのことが大好きであった。ラセツたちとは方向性が違うだろうが、その気持ちの強さに嘘偽りはないと、胸をはって誇ることが出来る。  馬鹿で愚鈍で決断力もない癖に頑固者で、そのくせ、奈落の悪意とずっと戦い続けてきた純白の魔王。この少女に仕えることが出来て本当に良かったと――自分は果報者だと、そう断言できる。それだけの思いを、ハーディアスは抱いていた。  だから…… 「……陛下」  少女ははいつくばり嗚咽を漏らしている。手足を痙攣させ、奈落の闇へと侵されていく。その魂が支配されていく。その苦しみはいかほどのことであろう。しかしハーディアスには彼女を助けるすべはない。だから、祈るしかない。フォルトゥーナが無事にこの試練を乗り越えてくれることを。乗り越えた先の――――命を掴んでくれることを。 「――――ぐ、ぁ――……げ、がッ――――……、ぁ――――」  フォルトゥーナの震えがより酷くなる。  反転していく心と体に、その魂は織り込まれていく。  やがて、ひときわ大きな血の塊を吐き出すと――――  白い裸身を抱えたまま、少女はピクリとも動かなくなった。  火傷の痕が黒く変色し、赤い脈動が走っている。 「陛下――!」  急いで駆け寄るハーディアス。  その体を支えようと、右腕を伸ばし――――  臓腑を灼き尽くす痛みに襲われた。 「――…………あ」  げふり、と吐血する。  鉄の味がじわじわと広がっていく。  自分の体を見る。  少女の腕に握られた黒い刃。マナで作られた魔術の剣は、深々と、ハーディアスを貫いていた。 「へい……」  フォルトゥーナがゆっくりと身を起こす。  顔を……上げる。  見開かれたのは真紅の瞳。赤い赤い――――鮮血の色。 「――あ」  小さな口が邪悪に歪む。  それは今までハーディアスが見たこともない、悦楽と快楽に堕ちた醜悪な笑みであった。  少女が哂う。  哂う。  哂う―――― 「――――ァァォォォアアアォァオオオォォァアアォォォオアァオアオォォ!!!!」  両手に生み出された黒い刃。  怒りとも悲しみともとれない奇声と共に振り下ろされるそれを、ハーディアスはただ淡々と見つめていた。少女は狂ってしまった。最後まで奈落に抗い続け――その過程も虚しく、結末は闇に堕ちての醜い生だ。刃が刺さる。魔術の刃はただの刃ではなく、青年の傷だらけの体をさらに内側から汚染、破壊していく呪殺の刃だ。刺されて、抜かれて、また刺されて、抜かれて、その度に血が流れていく。少女を赤く染めていく。それでも少女は哂っている。狂ったように金切り声を上げて、それ以外の表情を忘れてしまったかのように、哂っている。  これが少女の迎えた未来。  奈落の呪いと戦い続けた少女が迎えたひとつの終劇。  変わり果てた――  ハーディアスの大好きだったフォルトゥーナ。  でも。 「ああ――――……だが、これでいい」  目的は達成された。  自分が死んで少女は生きる。  それは考えうる限りで、最高級の結末のはずだ。  どのみちハーディアスに先はない。この先も続かない命ならば、ここで散っていこうと誰が困ろうか。むしろ少女の反転を――真の魔王としての覚醒を助けることが出来たのならば僥倖だ。最高の命の使い方だろう。  だから、これでいい。  これで、いいのだ。 「……、ぅ」  立っている力すらなくなって、ハーディアスは力なく仰向けに倒れこんだ。  ――――空が見える。  四角く切り取られた、赤い紅い朱い夜空。  それのなんと――――…………醜いことか。  自分に振り下ろされる黒い刃。  もはや面影すらなくなった少女の顔。  最後に、少女の顔を思い出そうとして――心臓を貫く前の恐怖に歪んだ顔が思い出された。ずっと一緒にいたというのに……夜の国を出てから、ずっと仕え続けてきたというのに、気がつけばハーディアスは少女の顔を思い出せなくなっていた。笑った顔も、泣いた顔も、いっぱい見てきたというのに――その全ては、最後の顔に塗りつぶされてしまった。 「……く、は――はは」  今まさに自分の命を刈り取るだろう呪殺の刃。それが、ひどくゆっくり落ちてくるような錯覚を感じながら、ハーディアスは微笑みを浮かべる。自分自身への自嘲と、新たな魔王の誕生への祝福とが混じった笑みだった。  これから先、この国はどうなるのだろうか。  陛下は、ちゃんとひとりでやっていけるのだろうか。  ――きっと、大丈夫だ。  魔王としての真の覚醒を果たした今ならば――もう、民を迷わすこともないだろう。  だから、  安心して…… 「――――陛下」  ハーディアスは瞳を閉じる。  白い少女の姿。  長年連れ添ってきた主の姿は、もう、遥か遠くに霞んで見えなかった。  ――ぴちょん。  小さな水滴が落ちる音が聞こえた。 「――、あ―――――」  手の中にあるものの重みが、いつになく、神経を揺さぶる。 「はぁ――、はぁ――、――」  ――息が、あらい。  ――体が、震える。  視界が歪み、  軋み、何もかもが、朧に見える。  ――ぴちょん。  再び、雫が落ちた。  両手に握りしめた、漆黒の――――赤い紅い、刃を伝って。 「――あ」  辺りは一面の血の海で。  彼女の足元にはひとりの男が倒れていた。その服は溢れかえる血で赤く染まり、彼がもはやただの肉塊と成り果てていることを物語っている。そして、そんな男を見下ろす彼女のボロボロに破れた服も、大きく覗いた裸身も、やはり赤く染まっていた。  男の――返り血で。  それを認識した瞬間。 「あ、ああぁぁああ……あああああああああああああ!?」  魔術の刃が溶けて消え、声帯をあらんかぎりに震わせて、悲鳴を上げる。  ――いったい、何に対しての悲鳴なのか?  男が死んだことに対してなのか、自身が血色に染まっていることに対してなのか、それとも、自らの手で男の命を奪ったことに対してなのか。  それは誰にもわからない。彼女自身も、わかっていない。  わからないまま悲鳴を上げ、目の前の現実から逃げるように、両手で視界を覆い隠そうとする。  ……両手が血で染まっていた。 「――あ、」  がたがたと小刻みに震える己の手。  たった今、ひとりの生命を奪い去った、己の手。  ――全てを、鮮明に覚えている。  ナイフを突き立てた時の感触。  ヒトの肉を引き裂いた時の感触。  何度も何度も突き立て、引き裂き、狂ったように血を撒き散らした。  その全てを、鮮明に覚えている。  ――あぁ、そうだ。  私は、この手で、このヒトを――  理解した。  そう、理解した。  私は、この手で、このヒトを―― 「――――はは、あはは、――あははははははははははははははははははは……!!」  全てが終わり。  血に染まった両手の黒い傷跡が脈動する。半身に刻まれた罪の証が少女を深い闇の底へと誘っていく。視界が赤く染まる。思考回路は焼き切れていく。精神は枯れる。心は折れる。魂は霧散する。その後に覗くのは―――邪悪なる悦楽に堕ちた自分自身の醜悪な姿。  全てが狂い。  涙が止まらない。何故、どうして自分はこの男を手にかけてしまったのだろうか。意見がぶつかることは多かったが――それもこの国を、自分を思ってのことだと分かっていた。そんな彼を手にかける権利など自分にはないのに。逆はあっても――それだけは、許されないことだったのに。  そして、全てを失う――――……  どうして。どうして。どうして。どうしてこんなにも、自分は愚かなのだろうか。自分は誰も導けない。魔王としても。神霊としても。精霊王としても。姉妹たちはそれぞれの形でそれぞれの役目を全うしているというのに、自分は何も出来ない。行えない。決められない。  彼が必要だったのに。  もう、彼はいない。  少女を支えてくれた彼はもういない。  自分で――――殺したのだ。  彼を……  彼を引き裂くその感触。  心を揺さぶられる魂の声。快楽。悦楽。忌々しい男。認めるはずがないと知りながら、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も懲りもせず何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度もくだらない提案を続けてきた嫌な奴。その最期のなんと惨めなことか。丹念に手入れしていたご立派な角もへし折れ、片腕をもがれ、自分のような小娘に斬り刻まれた。ぐちゃぐちゃにかき回さればらまかれてぶちまけられて、とてもじゃないが見ていられない最期を迎えた。迎えさせてしまった。  なんと無様。  そのあまりの醜態に、笑いが止まらなかった。  哄笑を上げる。  視界が暗い。  涙が流れた。  涙が、止まらなかった。  ――――ごめんなさい、ごめんなさい……ハーディアス。  そうして、  少女の意識は、闇へと溶けた。  ――――世界が、割れる。      ■■■  その衝撃は世界をつんざいた。  時空の壁を突き破り――光の檻すら無へと還し、全ての世界を激しく揺るがしていく。  ルネシウスの精霊たちがざわめく。  天界の幻想たちが、瞠目する。  それは異変のお膝元である、魔界とて同じことであった。  死の国の魔王城、黒鵬城・孔雀アスター。  五大魔王最強の武闘派とまで称される黒死将ハルシャギクの居城であるこの城の地下には、意外なことに魔界でも屈指の巨大な科学研究施設がある。死の国は冥帝ヘルの治める冥界と共にマナ科学を蘇らせるべく日夜研究を行っており、科学、化学、各種術式などなど、ありとあらゆる分野における最先端研究設備がここには整っていた。  そんな地下研究施設は――超現象を前に騒ぎに揺れていた。  刻一刻と変化する情勢。  マナの流れの変化。  光の結界の監視。  アストラル・レコード――輪廻の輪の歪み。  天才的な頭脳の持ち主が一同に介しているというのに、事態の急激な変化に一向に追いつけないでいた。  その時だった。  自動扉が開き、白衣をまとった茶髪の女性が研究室へと入ってくる。深夜に叩き起された不快感からか眼鏡の奥の瞳はひどく不機嫌にすわっていたが――事態を理解したのか次第に好奇の色を強くしていく。 「し、室長!」 「どいてろ」  美人には似合わない、まるでどこぞの裏街道の荒くれ者みたいな口調で、室長と呼ばれた女性は駆け寄ってきた部下を制し自分の椅子へとどかっと腰を下ろした。懐から煙草を取り出し火をつけると、煙をくゆらせる。ちなみに研究室は禁煙だ。  彼女の目の前に設置されているのは、研究室の中でも一際大きい巨大なスーパーマナコンピューターだ。これ一台で研究施設の全てを統括・制御することも可能であり、そのスペックは他の研究員たちが使っている超高性能マナコンピューターですら比較にならない。もちろん、室長の自作であった。  ナノマチタカハ。  この地下研究施設を束ねるリーダーこそが、彼女であった。 「……ったく。ボンクラどもめ」 「す、すいません……」  部下たちがしょぼんと頭をさげる。  研究施設にはマナ科学の復活のために、国と世界を超えて様々な天才たちが集められている。翼人や魔人といった魔界の同胞はもとより、能力さえあれば地上からも人材の引き抜きを行っているこの研究施設において、種族の違いなど何の意味も持たず、優秀な者ほど尊く、偉く、崇拝された。ナノマチタカハもその例にもれず、かつては地上で生きる人間であった、という。断言できないのは簡単な理由だ。彼女を知る誰もが、もはやナノマチタカハを人間として――少なくとも、普通の人間として――扱ってはいないからだ。  それもそうだろう。  千年以上も生きてまったく齢を取らない普通の人間など、存在するはずがないのだから。  そういう意味でも、やはり種族の違いなど些細なことでしかないのだろう。  とにもかくにも、彼女の才覚はずば抜けていた。  魔界に降りて早々、天才的な頭脳を駆使し降魔王との決戦で失われていた黒死将の固有兵装を――マナクリスタルを再生させた。これにより弱体化していた黒死将は元の強さを取り戻すことに成功し、さらにマナ科学の復興に多大なる寄与をした彼女は、人間でありながら今や黒死将の腹心という地位にまで上り詰めていた。だがそれを妬むものはいない。研究施設を一歩でも出てしまえば、力こそがすべてである大魔族たちの領域だというのに、彼らですらナノマチタカハを受け入れざるをえないほどの恩恵をこの天才科学者は死の国にもたらしていた。 「――――ちっ」  そのナノマチタカハはと言うと、煙草をふかしながら事態の解析に当たっていた。施設の全コンピューターを統括し、超高速のタイピングでそれぞれに適したコマンドを送り続ける。秒単位で劇的に変化する事態に対応するため、一瞬たりとも目を離すことは許されない。さすがの天才もこれには骨が折れるのか、メガネの奥の瞳は疲労の色に揺れていた。 「室長――!」 「ふん。黙ってろ」  部下の悲痛な叫び声に余裕綽々でナノマチタカハは応えた。事実、それはすぐに完成した。この不測の事態に各種マナコンピューターを対応させるためのアルゴリズムの構築。世界を席巻した黒い異変も、これで逐次観測することが可能となった。 「ま……こんなもんさ」  ふぅ、と大きく紫煙を吐き出す。  彼女の迅速な対応に研究室は歓声に包まれる。先程までの混乱はどこへやら、部下たちは憧憬と敬愛の眼差しをこの天才マナ科学者へと向けていた。 「すごい、さすが室長!」 「何をどうやったらこんなのをあんな時間で作れるんだ……つーかこれだけのことが出来るならもっと働いてくださいよ」 「いつも寝てばっかりですしね」 「ほら、室長ももう歳だから……」 「ハハハ、よーしお前ら全員命はないと思え」  ほがらかに笑うナノマチタカハ。  そこへ彼女たちの主が事態の確認のためにやって来る。桃色がかった銀髪をなびかせながら、小柄な魔王は息せき切って現れた。魔王最強の武闘派と恐れられる少女――黒死将ハルシャギクだ。 「――何が起こっている!」  ハルシャギクの表情は、鉄面皮な彼女にしては珍しく驚愕の色を強く出していた。まぁ、元から根は意外と表情豊かな娘ではあるのだが――それを表に出してくるのはなかなか稀な事態なのだ。普段は冷静沈着、冷酷とまで称される魔王のそんな顔を見られただけでも、このワケのワカラナイ事態にそれなりの意味はあったのだとナノマチタカハは思った。 「よぉ」 「ナノマチ――! いったい何が起こったというのだ!?」 「まぁ、少し落ち着け」 「う、む――」  近場の椅子へとハルシャギクを座らせる。自身もその隣へと腰をおろし、紫煙を吐き出すとナノマチタカハは簡潔にこの異常事態の説明をはじめた。 「光の結界が破壊された」 「な――!?」  光の結界。  光浄蝶ソフィアが魔界の大魔族たちを封じ込めるために地上世界と魔界との狭間に張り巡らせた次元遮断結界。この忌まわしい光の檻のおかげで、ハルシャギクたち魔王は長いことルネシウスへと干渉するすべを失っていたのだ。  それがあろうことか――破壊、された!? 「いいから。落ち着いて聞け」 「しかし……」  なおも落ち着きのないこの国の魔王へと、ナノマチタカハは思いっきり煙を吐きかける。 あわれ副流煙の餌食となったハルシャギクは、ケホケホとむせると涙目になりながら訴えかけてきた。 「こ、ここは禁煙のはずだぞ馬鹿者!」 「少しは落ち着いたか?」  しれっと煙草をふかしながら天才マナ科学者は言う。  なおも何か言いたげであったが、おとなしく黒死将は椅子へと座りなおした。ムスッとしたまま不機嫌そうにこちらを睨んでくる魔王を尻目に、ナノマチタカハはわしゃわしゃと自分の頭をかきながら、この事態をどう説明したらいいかと考えをまとめようとし――そんなことは不可能だということに早々に気がついた。 「何が起こっているのかは分からないが――光浄蝶の光の結界は今はもうない。だがそれを放置し続ける神霊様ではないだろう。すぐに再展開を行うはずだ。だから、俺たちはそれをしっかりと観測する」 「……観測?」 「そうだ。光の結界の正体を見抜き――必ずやその突破口を見出してやる。鍵さえ作れれば、お前を魔界に閉じ込めている檻も開け放題ってわけだ。わざわざ夜姫に頭を下げてヨモツヒラサカを使わせてもらう必要もなくなるぞ」 「そうか。それは、素晴らしい」  夜姫を出し抜ける――そのことがよほど気に入ったのか、一転して上機嫌になるハルシャギク。だが、なにか思うところがあるのか、すぐにその顔はいつもの面白みのない冷徹な魔王のものへと変わっていった。 「……しかし、これは――」 「ん?」 「さっき感じた……あの波動は――」 「どうした。なにか気づいたことがあるなら言ってくれ。参考になる」 「……いや、な」  顎に手を当て――どこか自信なさそうに、しかし確実な言葉でもって、黒死将ハルシャギクは告げた。  この、世界を震撼させる事態を引き起こしたものの名を―― 「……あの黒い波動は――我が妹の……惡兎臣フォルトゥーナの、ものだ」      ■■■  革命軍の現在の拠点となっているカルベダ要塞。  闇の国最大の要塞と言われるこの大要塞の軍議室で、革命軍の残された幹部たちは緊急会議を開いていた。早馬によりもたらされた報せは彼らにとって予想以上に深刻で、今後の革命の趨勢を大きく左右しうるものだったからだ。  ひとつ目は、オーヅカ要塞群の攻略の成功。  ふたつ目は、選りすぐりの強者により結成されたはずの首都攻略部隊の音信不通。  最後に、総帥エーデルの戦死。  ひどい事態であった。  せっかく首都攻略への王手をかけたというのに、そこから先へと進む手段を見失ってしまった。エーデルや幹部たちといった革命のカリスマをはじめ、多くの将兵を失った今の革命軍には大宮殿を攻略できるだけの戦力はないに等しく、このままでは遠くないうちに瓦解してしまうことも考えられた。  そんな重大な会議の最中、それは起こった。  突如として要塞を大きな揺れが襲う。  地震――誰もがそう思った直後、彼らの意識は名状しがたい悪寒に苛まれ、霧散した。 「…………っぅ」  それは二十年生きてきた人生の中で、間違いなく最悪の目覚めであった。  マルコはよく夢をみる。  それも、悪夢ばかりだ。  予知夢に兆した危機回避能力などがあるわけでもなく、ならば何故悪夢ばかりを見るのかというと、単純に自身が小心者の臆病者だからだろうとマルコは分析している。  常に悪夢と付き合い続けてきた。  性悪貴族の悪政に耐えていた時も、仲間と共にお上に反旗を翻した時も、戦い敗れ当てもなくさまよっていた時も、エーデルに拾われ、夢物語だと諦めていた革命への確かな手応えを得られた時も――どんな時だって悪夢と共にあった人生であったが、今までのソレと今のコレとは明らかに次元が異なっていた。  夢見がどうという問題ではないのだ。  例えるならば、熟睡していたらいきなり顔に油をぶっかけられて火を放たれ、全身を火箸で串刺しにされた――そんな感じだろうか。  とにかく、最悪としか言いようのない目覚めであった。 「…………」  ぼやけた視界の中で、見知った顔が何人も倒れている。倒れているのに、だらしなく床に四肢を投げ出しているというのに、しかし自分は彼らと同じ目線で立っていた。……いや、それはそもそも大きな勘違いだ。単に自分も彼らと同じように、みっともなく床に這いつくばって倒れていただけのこと。 「……、――……」  息を吐く。  視界に映る彼らは、みな一様に苦しそうな顔をしていた。きっと自分もそんな面構えをしているのだろうと思って、すぐさまそれを否定する。こうして意識を取り戻せた自分が彼らよりもひどい惨状だったとは到底思えなかったからだ。 「……ぐ、げ、ほ……――ぁ――はぁ――つぅ……」  痛む頭を抑え、マルコは力なく立ち上がる。  見ると、軍議に出ていた同僚たちはひとり残らず昏倒し、口から泡を吐き、血を吐き、白目を向き、全身を痙攣させ――酷いものは、きっと、おそらく、死んでいた。 「なに、が……」  記憶を反芻する。  先のオーヅカ要塞攻略戦ではかろうじで勝利を得たものの、革命軍はその旗頭である総帥のエーデルを失った。それだけではなく、大宮殿の攻略に向かった革命軍の主戦力も音信不通になっている。すでに全滅しているとの情報もあり、残された革命軍の将軍たちは急遽今後の対応について協議していた。  そう……  そうだ。  彼らの目的は惡兎臣フォルトゥーナを倒し、新たな秩序の元にこの国を正しく導いていくことにある。オーヅカ要塞攻略はもちろんのこと、フォルトゥーナを打倒しただけでも終わりではないのだ。新たな政権を、新たな魔王を、新たな統治を行ってこそ、革命軍はやっとその長い道程を終えることが出来る。現政権を破壊しただけでは、ただ大きな混乱を闇の国にもたらしただけに過ぎない。そんな結末は、エーデルも望んではいないはずなのだ。  自分たちは、エーデルの遺志を継ぎ、この国を導いていかなければならない。  だというのに…… 「これは――」  マルコは深く絶望する。  残された革命軍の幹部たちがこの軍議には集まっていた。なのに、彼らは謎の攻撃によりそのほとんどが心を壊され、体を壊され、死に瀕している。活動可能なのは自分くらいだ。  これでは――もはや革命軍は頭をもがれたも同然だった。 「……く」  苦渋に顔を歪める。  いったい何が起こったのか。  最初に考えたのは、国軍の大規模呪術兵装による攻撃の可能性だ。軍議中に突如として駆け抜けた黒い衝撃。それは人々の精神を犯し、さらには衝撃波となって要塞を揺さぶった。ここに集まっているのはみなそれなりの力を持った将軍たちである。そんな彼らを一瞬で昏倒させ、場合によっては死へと至らしめるなど、普通の方法では考えられなかった。 「……くそ」  本人に自覚はないが、マルコは優秀な人材だった。  若干二十歳の若者だというのに、少なくとも現在カルベダ要塞に集まっている将軍たちの間では、誰よりも優秀だった。優秀であるから次に自分が取るべき行動も迷うことなく決められた。マルコはコートをまとい帯剣すると、軍議室を出た。外の状況の確認をはじめる。兵士たちが倒れている。すでに死んでいる者も多いだろう。悔しさと怒りに、拳に力がこもる。だいぶ体が動くようになってきた。  マルコは城壁の上へと出る。  空を見た。 「……なんだ、あれは」  遠く――クリスタルファンタジアの方向。  大宮殿から、黒く輝く光の柱が天を裂くように立ち上がっている。黒い柱は空に溶け込み、世界を深い闇へと閉ざしていく。その侵食は瞬く間に赤い空を喰らっていき、カルベダ要塞の空もまた闇へと塗りつぶされていった。  月を、星の灯りを遮られ、世界は闇に沈んでいく。  まるで、澱。  世界に蓋をされたかのような……それは、闇の国の空をどこまでも侵食していく澱の空だった。 「あ……」  ドクン――と。  鼓動が高鳴る。  心が昂ぶる。まるで種の本能に根ざしたかのような抑えられない歓喜と、見知った世界が別のものへと変質していく恐ろしさ――黒光の柱への恐怖に、身がすくんでいく。  そうこうするうちに、黒い柱は消えた。  直後。 「――――」  マルコは息を飲む。  荘厳なる白亜の大宮殿クリスタルファンタジア。白く美しいその城から……闇が這い出していく。それは黒い霧として城にまとわりつき、やがて凝固し歪なる輝きを内包する漆黒のクリスタルとなる。  気がつけば、白亜の大宮殿は完全に黒い水晶に覆われていた。  黒い水晶が淡く輝いていく。  それはまさしく異様であり威容だ。  光を閉ざされた世界の中で――水晶宮殿のみが、ただひとつの光源となっていた。  それだけではない。  黒い水晶は迷いの森すら侵食していく。広大な森に鈍い輝きを発する巨大なクリスタルが生えていくさまは、この異常事態にあってなお非現実的で、美しかった。 「…………」  理解出来ない事態に、マルコは力なく頭を振る。  本当に国軍の兵器なのだろうか。違うとマルコの本能は告げている。アレはそのような尺度で図れるものではない。兵器だ呪いだなどとそのような小さな括りなど何の意味もない。 「…………」  エーデルは死に、アトルたちは音信不通。残された将兵たちは黒い波動に蝕まれ、天は澱に閉ざされ世界は闇に沈んだ。そして今――クリスタルファンタジアは漆黒の水晶をまとい美しく邪悪な要塞と化した。 「……これでは」  戦いに勝利したはずなのに。  あとはフォルトゥーナを倒し、新たな秩序の元に国を統治していくだけなのに。  それが何よりも難しいように感じられて。  ――――まるで、革命軍の落日のようだと、マルコは思った。 「……将軍!」  声に振り返る。自分と同じようにこの異変に耐え切った騎士たちが、そこにはいた。 「将軍、いったい、何が起こって――」 「退却だ」 「――は?」 「退却の、準備だ」  血がにじむほど両手を強く握り締めながら、マルコは生存者へと撤退命令を下す。 「誠に遺憾ながら、我が軍はカルベダ要塞を放棄する。生存者の救出を急げ。半刻後には……ここを、撤収する」 「……りょ、了解しました」  どこか戸惑いながらも、この尋常ならざる事態に不安を抱えていた騎士たちは、素直に命令に従い撤収作業を開始する。生存者は……どれほど残っているのだろうか。事切れているものは残念ながら置いていくしかないだろう。勝利を目の前にしての、これは間違いなく、敗北の味であった。 「…………」  マルコは黒い水晶に覆われたクリスタルファンタジアを睨み据える。  ぽたり、ぽたりと。  握り拳から、赤い血がこぼれ落ちた。 「……必ずだ」  その口から、小さく、言葉が漏れる。 「次こそは……必ずだ」  コートを翻すと、マルコもまた、撤退のための準備へととりかかった。      ■■■ 「……っ、う…………ぁ――――」  小さな唇からか細い声が漏れる。  ゆらり、ゆらりと水面に舞う月の光り。どこまでもたゆたうソレを不鮮明な意識のまま、それでもしっかりと捕まえて―――― 「――、は、ぁ……っ」  九尾の妖狐、ミサハは死の淵より生還した。 「…………」  立ち上がろうとして全身が痛みを上げる。いったい何が起こったのか思い出そうとして、戦慄する。ミサハは迫り来るハーディアスに力の一端を開放し九尾となり、これを向かい打って――敗れた。相手にも相当の深手を与えられはしたが、それを上回る致命傷を受けて力尽きたのだ。  思い返して――――吐き気がした。  体を幾度となく斬り刻まれるような体験は、さすがの大妖怪と言えどもはじめてのことであり、その感想を端的に表すならば「死ぬかと思った」に尽きるだろう。此度の戦がはじまる前、万が一に備えて巫女服の裏側に大量の癒しの呪符を貼りつけていたためなんとか一命を取り留めることが出来たが……それはまさに奇跡的な可能性の結果であり、できれば瀕死体験だけは二度とごめんこうむりたかった。 「……、――――、……」  大きく深呼吸をする。  ……大丈夫。傷の大部分はふさがっている。致命傷を与えただけで完全に殺すことをしなかったハーディアスの甘さが功を奏した形だ。もっとも、ふさがっているだけで傷の回復はまだ微々たるものだ。無理をすれば再び死の淵を彷徨ってしまうかもしれない。  それでも、動くことは出来る。 「…………」  ふらりと立ち上がる。  辺りはまるで暗室のように暗い。夜目が効く妖狐だけにこの程度の暗さなどどうということはないが――拭いきれない漠然とした不安が心を蝕んでいく。 「ここ、は」  周囲はまるで見知らぬ場所へと変貌していた。おそらくハーディアスと戦った大宮殿の通路であるのだろうが――戦いの余波か、あるいはそれ以上の衝撃をどこからか受けたのか、通路は完全に崩落していた。壁も床も天井もひび割れ崩れ、目の前に広がるのは瓦礫の山と砕けた天井から覗く黒い夜空だ。 「…………」  その違和感に、息を飲む。  黒い――  黒い、夜空が、広がっていた。  魔界の夜空は赤い。まるで戦火に燃えたあの炎獄の空のように――赤黒い。だというのに、ミサハの見上げた夜空は黒く染まっていた。……いや、正確には違う。ミサハは気づく。空には月も星も雲もない。ただ暗く昏く、漆黒のペンキを空にぶち撒けたかのように、ひたすらに黒く塗りつぶされているだけなのだと。  どうりで暗いわけだ。  気を失っている間に、闇の国は夜空を失っていたのだから。 「…………」  それだけでも、ミサハの理解を超えた異変が起きたのだと理解できた。  だが、それは間違いだ。  何故なら異変は起きたのではなく――現在進行形で、続いているのだから。 「――うッ!」  どこからか耳をつんざくような怪音が鳴り響く。それは黒板を爪で引っ掻いたような不快な音だ。おそらく人間の可聴域ではほとんど聞き取れないだろう異音であるが、人外の者である九尾の妖狐には嫌というほどしっかりと耳へと届いてくる。腕で顔の横に生えた尖った人の耳を、手で頭頂に生えた狐の耳を抑え、ミサハはうずくまる。  まるで世界と世界がぶつかり合っていくような不愉快な交響曲。  そして、ミサハは見た。  白面に隠れた両の眼差しで、しっかりと、見てしまった。  崩落した天井より覗く澱の空――  それが、塞がれていく。  不愉快な音を立てながら、何処からか現れた黒い霧――それが変質したクリスタルにより、塞がれていく。 「…………」  不快音の正体はこの黒水晶であるとミサハは直感する。崩れた壁、失せた天井、それらを修復するように黒いクリスタルは大宮殿を覆っていく。まるで元からひとつだったかのようにクリスタルファンタジアは黒い水晶と同化し、白亜の大宮殿は漆黒の水晶へと包まれていった。  水晶が輝く。  赤い闇を内包しながら――暗く輝いていく。  半ば崩れひび割れていた壁が、まるでかさぶたのようにポロリと剥がれ落ちる。その中には、赤く脈動する黒い水晶がびっしりと敷き詰められていた。鈍く黒く輝くクリスタルは精神を汚染する醜悪な泥のようで、見ているだけで気持ちが挫かれていく。 「――――」  軽く頭を振り、弱気を追い出す。  この異変がどういう原理で起こっているのか――隔離結界を敷いて、いったい何を企んでいるのか――その全てが検討もつかないが、自分のやるべきことは理解していた。 「…………」  おぼつかない足取りで歩きはじめる。  向かうはフォルトゥーナの寝室だ。自分を倒した後、ハーディアスはそこへ向かったはずだ。だから、追いかけなければならない。彼を止めなければならない。何もかも、もう手遅れだと――頭の片隅で警鐘が鳴らされるが、そんなことは認めない。ミサハは何も知らない。気を失っている間にクリスタルファンタジアに起きた異変の詳細なんて知りようもない。だから、向かう。無事だと信じて。大好きな少女を守るため、ミサハはフォルトゥーナの元へと向かっていく。  その道先を、阻むものがいた。 「――――」  黒い水晶から、どろり……と泥が溢れてくる。  異形だ。  泥は徐々に人型を取りはじめ、不恰好ながらも手を、足を、頭を形作っていく。瞳に当たる部分には赤い光。まるで子供が作った粘土細工のような姿ながらも、それは確かに生きていた。心臓を持ち、鼓動を鳴らし、手足に生気をみなぎらせ、赤い双眸で世界を見据え――しかしその心は、壊れていた。 「……■■■ッッッ!!」  泥人形は吠える。  口などない顔で、怒りと嘆きに満ちた咆哮を轟かす。  その手にはいつの間にか武器が握られていた。  本体と同じく泥で出来てはいるものの、確かな硬さと切れ味をもつ剣だ。泥の剣士はゆらりとその切っ先をミサハへと向ける。 「…………」  この異形が何者なのかはミサハには分からない。知ったことでもなかった。ただ、邪魔をするならば力づくででも排除するしかない。それだけのことだ。 「■■■……!!」  声にならない声を上げ、泥の剣士は襲いかかってくる。  ――予想以上に速い。  鈍重そうな見た目とは裏腹に泥の剣士の動きは熟練された剣士のそれだ。大妖怪と言えど身体能力は普通の少女と大差がなく、さらに傷まで負っている今のミサハではとてもじゃないが避わせそうもない。……だが九尾の妖狐には呪符の自動防御がある。ハーディアスの必殺剣ですら防ぎきった防御壁を泥人形ごときが破れるはずもなく――  否。  泥の剣が一閃される。 「……っ!」  瞬間、ミサハは体を横に投げ出した。  その直感は正しい。仮にも大妖怪に列せられるほどの存在である九尾の妖狐は、傷ついてなお、自らの死への感覚には敏感であった。  からりと、白面が割れて……落ちた。  九尾の妖狐のどこか人間離れした――精霊や魔族とも違う、極上の美貌があらわになる。絶世の美女と謳われても過言ではないその素顔は、しかし、今は激しい悔恨と苦痛に塗り固められている。黒と金のオッドアイが悲壮な色を宿した。  自動防御が働いていない。  おそらくハーディアスとの決戦の最後、彼に断ち切られたのだろうが……その詳細をミサハは覚えてはいなかった。そも、自動防御を破られたからこそハーディアスの刃を何度となくその身で受け止めるはめになり彼に敗れたのだろう。  今のミサハには敵の攻撃を防ぐ手段はない。  ならば先手を取るしかないが―― 「……っ」  妖術を起動させようとして、全身を痛みが襲う。  一命こそ取り留めたものの、負った傷は深く、酷い。特にマナの枯渇は深刻であり、妖術を使うことすら困難を極めていた。回復も攻撃も手詰まりであり、九尾の大妖怪はとてもまともに戦える状態ではなかったのだ。 「――――」  痛む体を支えながら泥人形と再び対峙する。  今のままでは殺されるだけだ。  ならば、もう一段階――  九尾の妖狐としての真の力を解放するならば……? 「――――」  それは人としての姿形を失うものだ。九本の尾を持つ巨大な化け狐としてのミサハの真の姿は、しかしそれ故に力の制限はなく、もしもその姿でハーディアスと一戦を交えていたのならばまず負けることはなかったと断言できる。もちろん代償は大きい。真の姿に戻った後は、ほどなくして全ての力を失い少女は長い眠りへと落ちていく。再び力を蓄えるまで覚めることのない、数十年――いや、数百年はかかるだろう長い眠りの時が訪れるのだ。  そうなってしまえばフォルトゥーナの側にはいられない。だからこそ少女はその力の行使をためらった。ためらった結果が、これだ。ハーディアスに敗れ、気がついたときには大宮殿は黒い水晶に彩られ、挙句の果てには泥人形なんて異形までもが湧き出してきた。 「…………」  ミサハは首を振る。  九尾の化け狐となれば確かにこの窮地を脱せるだろう。だが今さらそんなことは不可能だ。マナが枯渇してしまった今の状況では、これ以上の覚醒を行うことなど出来やしない。  結局、ハーディアスとの決戦に全力でもって挑まなかったミサハの判断の甘さが、白い少女への情愛が、こんな事態を招いてしまったのだ。 「……フォルトゥーナ」  彼女は無事なのだろうか。  思い出すのは、炎獄の世界。  赤い。  紅い  朱い。  あかい。  アカイ。  炎獄の―――― 「…………」  力なく伸ばされた小さな腕。  それを握り返してくれた、確かなあたたかさ。  ただそれだけで救われた。  ――彼女がいたから、ミサハは救われた。  なのに…… 「――――、ぁっ………、……」  視界が、ぐらつく。  無様にミサハは倒れこむ。  全身に力が入らない。  黒と金の瞳から……涙が流れた。 「…………」  もっとフォルトゥーナと一緒にいたいと、そんな自分勝手な感情で勝てた戦いを逃してしまった。それはハーディアスという男をフォルトゥーナの元へと招き入れる行為であり、何があろうと絶対に許してはいけないと理解していたはずなのに。  なんという大馬鹿なのだろう。  どうして……全力を尽くさなかったのだろう。  これでは、救えたのに――救うことを躊躇ってしまったのと同じではないか。 「……ぅ、ぁ――」  ミサハは嗚咽を漏らす。  もはやミサハにはフォルトゥーナを助ける力はない。  それどころか、眼前の異形に立ち向かう力さえ残ってはいないのだ。 「――――」  どろり……と。  黒水晶から、さらに泥人形が何体も湧き出してくる。  手には剣や斧、槍といった、それぞれがそれぞれの武器を手にし、血のような赤い双眸を不気味に輝かせ、力なく倒れ伏したミサハへと迫ってくる。その様は、まるで死を待つしかない力なき草食獣に迫り来る、肉食獣の群れのようであった。 「く……」  泥人形たちはミサハへと迫ってくる。  刻一刻と――  死が。  だが――本当に恐れるべきは、泥人形ではなかったのだ。 「――――ぁ」  びくり、とミサハは体を反応させる。  倒れた少女を闇に引きずり込むように――いつの間にか、黒水晶から泥の触手が無数に這いずり出ていた。精神を腐敗させかねない汚水の固まりは、ミサハの手を、足を、九本の尻尾を、体を、狐耳を、それぞれ締め上げながら黒水晶へと引きずり込んでいく。 「……ぅ、ぁ――」  弱々しい抵抗も虚しく、ずりずりと引きずられていくミサハ。  足の先がクリスタルへと触れる。さっきまでは硬質だったはずのその表面は、まるで水面のように怪しく揺らぎ、あっさりと少女の体を受け入れていった。融け込むようにしてミサハを飲み込んでいく。 「く……ぅ……!」  苦悶の表情を少女は浮かべる。  黒水晶に吸い込まれた自らの体から、抗いようもない諦念が這いずってくる。頭を揺さぶられるような鈍痛がする。眼の奥で黒い炎が燃えているような――まるで血流に毒素を注ぎこまれたかのような気分。気が触れそうになる。 「――、はぁ――、ぁ――――」  少女の心は絶望に塗り固められていく。  深く。  暗く。  どこまでも堕ちていく。  それと呼応するように、より強く、より太く、より凄絶に、黒い触手はミサハを絡めとり己が体内へと取り込んでいく。非力な抵抗は徐々に力を失い、少女の黒と金の瞳は虚ろに霞んでいった。  最後に―― 「……ぁ」  か細い声を残して。  九尾の少女は、無残にも、黒いクリスタルの中へと埋没していった。  黒い世界。  空も大地も右も左も全てが曖昧であやふやな……例えるならば、海の中。  少女の意識は沈んでいく。  ゆっくりと……  溺死していく。  ……助けて。  溶けて消え入りそうな意識の中で、少女は――それでも、願い続ける。  誰とも知らない誰かに、祈り続ける。  助けて――……  誰でもいいから――  お願いだから……  フォルトゥーナを――――……助けて!!  泥の海の中。  沈んでいく少女の腕を、誰かがしっかりと、握りしめた。  ――――ギチリ。  何かが打ち合うような音がした。  ギリギリ、ギチギチと――刃金が打ち合い響き合うような不協和音。まるで壁を中から抉り取っていくかのような不気味な音。水晶に満たされた黒い通路に異音は反響していく。  ガチャリ、ギリギリギリ、グチャ――  まるで刃金蟲が蠢いているような錯覚。  鋼鉄を噛み斬り、異形の存在が顕現するかのような……ふざけた妄想。 「■■■……!?」  漠然とした不安を払拭するかのように、泥人形たちは瓦礫を押しのけ謎の音の出処を探しはじめる。しかし出処は見つからない。一方で音だけは徐々に、確実に大きくなっていく。  ――――ギチャリ。  はたしてそれは、泥の騎士たちの予想を裏切る場所より現れた。  ミサハを吸い込んでいった黒い水晶が、突然砕け散る。同時にひとりの少女が転がり出てきた。衝撃で髪留めが外れたのか、結えられていた黒髪は大きく広がり波打っている。  どのような手品を使ったのか。  九尾の妖狐ミサハは、黒い海からの生還をはたしていた。 「……■■■!」  泥の騎士の反応は早かった。  少女の無事を悟ると泥の剣を構え突撃していく。その判断は正しい。少女は死に体なのだ。最後の力を振り絞り泥の海より脱出したのだろうが――先程まで立つことすら出来なかった娘に何が出来るというのだろうか。恐れることなどなにもない。そう、泥の騎士の判断は正しい。怖いくらいに、正しかった。  あるいはそれは――本能の奥で鳴り響く警鐘が告げていたのかもしれない。  危険だと。  この女は……危険過ぎると。  恐怖に――錯乱していたのかも、しれなかった。 「……――■■■!!」  声なき音が響き渡る。  泥の騎士の斬撃はまるで断頭台の刃のように九尾の妖狐へと落ちていき――そのすべてを、しかしミサハは不可視の刃で受け止めていた。 「……くく」  不敵な笑みを浮かべ……ミサハは立ち上がる。  同時に不可視の刃がマナの暴風とかし、泥の騎士を、さらには後に控える泥人形たちを吹き飛ばした。それは金色のマナだ。マナを枯渇させたはずの少女は、無尽蔵に湧き出る黄金のマナを盾とし、武器とし、危機をたやすく乗り越えていた。 「■■■……!」  泥人形たちが威嚇の声を発する。  しかしそんなものは全く聞こえていないように、ミサハは大きく伸びをした。膨大なマナが循環をはじめたことにより治癒の術も高速回転で発動し、見る間に九尾の体を癒していく。 「……はぁ」  少女は熱い吐息を漏らす。  それはどこか淫靡な艶やかさを醸しだしており、大人の姿になってなお、ミサハという少女には不釣合いであった。  事実、今のミサハはミサハであってミサハではない。仮面の下の素顔――かつて左目だけが黄金に染まっていた少女の瞳は、今や両の目が金色に輝いている。不敵で艶やかな表情はミサハの性格では決して浮かべられるものではなく、まとっている気配のあまりの違いにまるで別人のようにすら見えた。  しかし、確かにそれはミサハ自身でもあった。 「……■■■、■■■!!」 「……ん?」  何事か叫ぶ泥人形だが、少女に彼らの言葉などわかるわけもない。 「これは珍しい……屍(かばね)たちか?」  しかし、その正体に心当たりはあるようであった。 「屍人形ということは、冥帝の強制転生か……? しかし奴の気配は感じぬな……それにこのようなブサイクな肉(うつわ)を用意するほど美醜に無頓着な奴でもあるまい。ならば骸……いや両者の混合秘技か? ……ふぅむ。しかし、ならば……奴に匹敵するほどのアストラル・レコードへの干渉力を持つものがいるということに……」 「……■■■!!」 「うるさいぞ、貴様」  意味不明の叫び声に思考を邪魔された腹いせか、ミサハは腕の呪符を一枚はがすとマナを通わせ妖術を発動する。狐火の弾丸は泥人形を燃え上がらせたやすく灰にする。塵ひとつどころか影も形も残さず、泥の剣士は一瞬で消滅した。 「ほう……よく燃える……」  ミサハが一歩踏み出す。  数で勝る泥人形たちは――されど後退した。泥人形たちも決して弱くはない。だが今のミサハに立ち向かうことは、どうしてかはばかられた。ちらつくのは「死」という結末。消されると分かっていて蛮勇を奮う気概など、しょせん受肉した怨霊である彼らには望むべくもなかったのだ。  簡単に言えば、すっかりミサハに気圧されていた。 「これは妖術とやらの力が期待以上なのか、それともこいつらが想像以上にか弱いのか……さて、どちらであろうか?」  吹き抜ける風にミサハの長い黒髪がたなびいていく。その全身からは黄金のマナが吹き出しており、まるで少女の体が金色の輝きに包まれているかのようだ。  もっとも、その黄金は黒。  輝きは清廉潔白な純白ではなく、黒く暗い沈み込んだ黄金だ。  そんな黄金の双眸が愉快そうに細まった。  皮肉げに口元を歪める。 「どうした。今一度(いまひとたび)の生を与えられた死生者が――この期に及んで、死を恐れるというのか?」  くくく、とミサハは笑う。 「……■■■!」  挑発に泥の騎士たちは意を決し、ミサハへと迫る。  剣が、斧が、槍が、九尾の少女を狙い打つ。 「ああ、そうだとも」  黄金の少女は薄く笑うと、腕を掲げる。 「汝らは他に道などない。戦え。死してなお、騎士としての誇りを胸に戦うがいい。それが汝らを黄泉帰らせた主の意志であろう。敵わぬ戦争に身を投じ、霧散して、死ね」 「■■■■■■――!!!!」  泥の騎士たちが鬨の声を上げる。  ミサハは満足そうに頷いた。 「冥土の土産だ。しかと魂に刻むがよい」  掲げられた腕の先――その虚空に突如として目玉が出現する。目玉を中心とした空間に赤い構築線が展開し、ひとつの形を描いていく。それは巨大な剣だ。ミサハの体長よりもさらに長く大きな、禍々しいまでの巨大な剣。  魔王剣。  世界最強の斬撃兵装を手に、ミサハは――いや、ミサハの体を介してこの世に顕現した黄金の魔王は声高らかに宣言する。 「よく聴くが良い、屍人形。朽ちた騎士たちの成れの果てよ。我が名はシヴァ。天翼を統べる者――魔王シヴァなり!!」 「■■■――!!」  泥の騎士たちは止まらない。彼らにまともな思考回路はなく、あるのは怨念に従って破壊を繰り返す本能だけだ。だからこそ余計な感情は抜きに、より深く目の前の絶望を感じ取れただろうに、彼らは少しの躊躇もなく進撃の手を緩めなかった。 「魔王剣よ」  魔王は愛剣を掲げる。  その象徴たる最強の斬撃兵装は黒く輝いて――………… 「その力、つわものたちに、そして、主たる余に――今一度、魅せつけろ!!」  覇道一閃。  黒い閃光と共に闇を孕んだ斬撃が打ち下ろされる。轟音と共に空間は捻れ、うねり、斬撃は黒い衝撃波となり泥の騎士たちをまるで豆腐のようにやすやすと斬り裂いていく。それだけではとどまらず、衝撃波は黒い水晶ごとクリスタルファンタジアの城壁を破壊していった。 「くく……」  閃光が収まる。  斬撃の前には何も残ってはいない。そこにあったはずの城壁はなく、ただ、黒く塗りつぶされた澱の空が見えるだけだ。  まさに規格外。  大宮殿の壁も、黒いクリスタルも、そのすべてを飲み込み滅し――……魔王剣は、たったの一振りで泥の騎士ごと水晶宮殿の一部を抉り取っていた。 「見事であったぞ、屍の騎士どもよ」  役目を終えた魔王剣は溶けるようにして消えていく。 「この魔王シヴァと剣を交える機会を得られたことを、誇りに思うがよい」  徒手空拳になったシヴァは、満足そうに微笑を浮かべた。  黄金の瞳が細まる。  ぐぅ〜。  お腹がなった。 「……むむ……やはりこの体では燃費が悪いのじゃ。別にミサハに不満があるわけではないのじゃが……むむう……」  ミサハとシヴァの腐れ縁のはじまりは、結構な前までさかのぼる。  創世戦争で肉体を失ったシヴァは、ふらふらと精神世界を中心に適当に各地をさ迷いながら、ダラダラノビノビと余生(?)を謳歌していたのだが――そんなある時、次元の狭間にて拘束されていた少女を見つけたのだ。  相手からは結構ウザがられていたみたいだが――それでも、その大妖怪の少女はシヴァの興味を強く引いた。その理由はひどく邪なものであり、ミサハという少女の肉体がシヴァを受け入れられるだけの容量があったからこそ、魔王は少女の篭絡をはじめたといってもいいだろう。  相応しい肉体を器とすれば、肉体を失った魔王は再び物質世界へと顕現できる。  そんなことを知ったのは、創世戦争から何千年も経った後――ナノマチなにがしとかいうマナ科学者が提言し、そのための研究やら何やらが色々はじまってからだ。いつものようにブラブラしていたシヴァは、自らの魂を呼び戻そうとする声を聞きつけ、様子を見に行き、そこではじめて己の復活方法を知ることとなった。  本当ならそこで新たな器を得ることも可能だったのだが……しかしシヴァはそれを拒絶した。理由は簡単で、用意された器が気に入らなかったからだ。生前にシヴァが残した体組織を元に、彼女の部下であった三魔卿のハディース家の当代の当主であったルシアの細胞をかけ合わせ生まれた複製体。  それは彼女のコピーであると同時に、娘とも言える存在であった。  ……三魔卿は、あるいはナノなんとかは、馬鹿なのではないかとシヴァは思う。  いったいどこの世界に、こんな乳の大きなげふん、じゃなかった、自らの娘とも言える存在を塗りつぶし、その魂を侵食してまで蘇ろうという「母」がいるというのだろうか。  頭に来たものだから、シヴァはそこら辺の適当な悪霊やら何やらを自分の代わりに器となった娘にぶち込んで、後は知らぬと去っていった。  それはともかく。  そういう意味では、シヴァがミサハに行った篭絡は、まったくの逆効果であった。  長い時をかけ様々な会話を交わしているうちに――魔王シヴァはこの大妖怪の少女をえらく気に入ってしまったのだ。  いつの間にやら友と――そう呼べる間柄にまでなっていたのである。  友人を生贄に自らの復活を望むようなやり方を、シヴァは望まない。それどころか、楽しい時を過ごさせてくれた友人への謝礼をしたいとすら思ったのだ。  だからこそ――別れ際に、魔王は妖狐と契りを結んだ。  必要なときはいつでも自分を呼べと。いつでも、どんな状況でも、駆けつけて力になると約束し、その証として少女に力の一端を預けた。ミサハに宿った黄金の左目こそが誓いの証だ。彼女が本当に誰かに助けを求めたとき、世界を、次元すら超越し、魔王を彼女の体へと呼びこむ誘導術式こそが、黄金の左目の正体である。  友人の魂の叫びに応え、魔王シヴァはその力を顕現させる。  魔王シヴァは復活する。  だが……それは一時的なものだ。  ミサハの目的さえ果たされれば、魔王は再び精神世界へと帰っていく。  友の願いを叶え、消えていくだけの魔王シヴァ。  それはきっと、一刻の夢。  あさきゆめみし――魔王の夢だ。 「さて……と」  シヴァは静かに瞳を閉じる。  意識の奥の奥――深い深い底へともぐりこんでいく。  そこに眠るのは、傷つき弱ったミサハの魂だ。シヴァへと助けを求めた少女は、今は魔王へと自身の肉体を明け渡し、傷を癒すための眠りへと落ちている。 (……悪いが)  そんな友人へとシヴァは手を伸ばし、触れた。 (……記憶を少しだけ探らせてもらうのじゃ、許せ)  少女の呼びかけに応え駆けつけたものの、シヴァには状況が全く分からない。ここがどこなのか、あの屍人形たちはなんなのか、そもそもミサハはいったいどういう状況に陥り、いったい何を望んでいるのか――  その記憶を、探る。 「――――」  しばしの後、魔王シヴァは目を開いた。 「そうか……」  両手を広げる。 「ここは……お前の世界であったか、フォルトゥーナ……」  最後に彼女と交わした言葉を思い出す。  何も選択せぬまま、流されるように創世戦争へと参加し、心身に深い傷を負った惡兎臣フォルトゥーナ。その身には神霊すら凌駕する力を秘めながら、しかし戦いにはとことん不向きであった白い少女。  だからこそ、だろうか。  フォルトゥーナは愚かな妹であるが故に、愛しい妹でもあったのだ。 「……まったく……手間のかかる奴じゃな」  どこか諦めたようにそう言うと、魔王シヴァは微笑んだ。  顔を上げる。  魔王剣の斬撃波で破壊した城の一角より、黒塗りの空が見える。  手繰るようにして感じる力の源は――遥かな頂きだ。 「――――」  シヴァはマナを練り上げ、ミサハという器に決定的に欠けていた魔王の象徴を作り上げていく。長い黒髪をかき分けて吹き出した黄金のマナが幻想を描き出し、それは紅の翼へと凝固していった。 「ふ――こんなものか」  どこか誇らしげに笑う。  黄金のマナをまとった九尾の妖狐は、背中より紅の幻翼(つばさ)を生やしていた。 「では……行くとするか」  力強く羽撃いて――魔王シヴァは大空へと飛翔する。  まるで、雷光。  天へと落ちていく黄金の稲妻であった。 「ほう」  眼下に大宮殿を見据え、シヴァは感嘆の声を上げる。  水晶宮殿と化したクリスタルファンタジア。  それは美しく、醜かった。  大宮殿を中心に黒い水晶は歪に絡みあい巨大なオブジェを作り出していた。全体を測れない地上からでは分かりにくいだろうが――――空から見下ろせばよくわかる。光を失った世界の中で、淡く黒く輝き、そして、黒く昏く咲き誇るそれは、例えるならば巨大な花であった。 「――む」  その中心に巨大な水晶塔がそびえている。一際大きく、暗く、赤く鳴動する漆黒のクリスタル。花柱に当たるだろうそこにシヴァははっきりと目的のものを感知した。 「……見つけたぞ」  そこには、つぼみがあった。  人ひとりがすっぽりと収まれる大きさの――巨大な黒いつぼみだ。 「……やれやれ」  幻翼を羽撃かせシヴァはつぼみの前までやって来る。  虚空に立つと、困ったようにため息をつき腕を組んだ。 「久方ぶりの再会じゃというのに……相も変わらずヒキコモリ中とは失礼な奴じゃ」  言うと、少しの遠慮もなく思いっきりつぼみを蹴り飛ばした。 「ほれ、出てこい。出てこーい」  ゲシゲシと無遠慮に蹴り続ける魔王。  やがて――  観念したかのように黒いつぼみに亀裂が走る。それは瞬く間につぼみ全体へと広がっていく。はらりと舞い落ちるように黒い皮が剥けていき、まるで花咲くように――あるいは花散るように、つぼみは開花していく。  シヴァは不敵に微笑んだ。 「――――助けに来たぞ。我が愛しき愚妹(いもうと)よ」  はらりと、全ての花が舞い落ちて――  フォルトゥーナは、現れた。 「……ほう」  シヴァの口から漏れたのは感嘆の溜息だ。  よく見知ったはずの彼女は……その姿を大きく歪ませていた。  少女の姿形は以前のフォルトゥーナと大差はない。だというのに、彼女から受けとる印象は何もかもが反転していた。白く豊かだった髪は黒く変色し、それ自体が生きているかのような不自然な形でまとまって翼の形を成している。漆黒に染まった体に衣服は少しもなく、細い裸体が生まれたままの姿で晒されている。全身にはまるで血管のように赤い脈動が走り、少女の体を禍々しく色付けしていた。  そして、――その瞳。  赤。  血に濁ったかのような、澱んだ、赤色。  美しい顔に虚ろな表情を浮かばせ――綺麗な青い瞳は血色に染まり果てていた。 「は――やはりな」  くつくつとシヴァは笑う。 「小僧の目的は、フォルトゥーナ。お前を堕とすことであったか。しかし、さて――これはどうしたものか。我が心の友は愚妹の救出を望んでおるが……この状況、いったい何をどうするればいいものやら」 「――――」  フォルトゥーナは答えない。  ただ虚ろな瞳で、親友に宿った姉を見つめ続けている。 「……まずは自己紹介といくべきか」  胸に手を当て、心持ちふんぞり返り、声高らかにシヴァは言う。 「久方ぶりだな。今はお前の友の体を借りてはいるが――余は魔王シヴァだ。どうやらお前は余が死んだと思っていたようだが……ところがどっこい、実はまだ生きていたのだ」 「――――」 「……反応悪いのじゃ」  小さな声で愚痴る。  実に創世戦争以来、数千年の時を越えての再会である。なにかこう、もっと涙涙の感動のシチュエーションでもバチは当たらないだろうに、フォルトゥーナの様子は一向に変化は見えない。虚ろな顔でボケっとしているだけだ。 「……よもや寝ているのではあるまいな?」 「――――」 「……ふん。まぁ、いい。……とりあえず、これだけは言わせてもらうぞ。……フォルトゥーナ」 「――――」 「――――服を着ろ」 「…………」 「お前はいつから露出狂になったのだ。ましてそのような貧相な姿を見せびらかしおって。余は姉として恥ずかしいぞ。そういうプレイは、最低でも冥帝くらいに育ってからやるものだ」  肩をすくめながら、どこか哀れんだ眼差しで黄金の魔王は告げる。 「――――」  しかし、黒い少女に反応はない。  黒く染め上げた裸体を惜しげもなく晒しながら――淡々と、姉を見つめている。 「…………」  いや、違う。  シヴァは気づく。黒い少女の血色の瞳には自分など映ってはいない。それどころか景色すら映ってはいないのではないだろうか。おそらくはシヴァの声も届いてはいないだろう。フォルトゥーナの意識はあまりにも低い次元で混濁している。  それはすなわち姉と妹が――同じ次元で存在してはいないということだ。  有り体に言えば―― 「……フォルトゥーナ」  黒い少女はゆっくりと腕を伸ばしていく。  親友の体へと顕現した姉へと向かい、その手はかざされた。  かつては白かった少女の腕もいまは漆黒に染め上げられ、手のひらに刻まれていた痛々しい火傷の後も消え去っている。細い体と同じように、赤い脈動が黒い腕の上を走っていた。  その赤い脈動が――鳴動する。  怪しい光を放ち――手のひらの先に淡く輝く黒い球体が出現する。 「――お前!!」  シヴァがその身を翻らせたのと黒い閃光が世界を焼いたのとは同時であった。  直後。  はるか遠くで――――大気を揺るがす爆音が響く。迷いの森を、オーヅカ要塞群を、平原を、カルベダ要塞を、山脈を、草原を、森林を、海を瞬く間に超えた黒炎の熱線は闇に塗りつぶされたはずの世界を灼熱に燃え上がらせた。  彼方の地で、もうもうと巨大なきのこ雲が立ち上る。  大地は溶け、空は燃えていた。 「――――」  フォルトゥーナに変化はない。  自らが愛し、育んできた世界を炎に染め上げて――それでもなお、虚ろな表情は微動だにしなかった。 「……っ」  かろうじで魔砲の一撃を避けたシヴァは、そのあまりの強大さに息を飲む。  あの、黒い球体。  フォルトゥーナが何事もないかのようにあっさりと作り出したマナの塊は、少女の手のひらでさえ握りつぶせそうな小さなマナの塊であった。それがまず、異常だ。これほどの破壊の力を何をどうやればあそこまで過密に圧縮できるのかシヴァには想像がつかない。マナの扱いに長けた冥帝ヘルならば理解できるのかもしれないが――残念ながらシヴァにそこまでの能力はない。  ただ、あまりにも非常識な魔術であったことだけは、分かる。  例えるならば無限大に膨らんでいく重力をその一点に集中させたかのような――闇の国の全てを、魔界の全ての質量を小さな小瓶の中に圧縮したかのような無茶苦茶さだ。  そして、そのような力をフォルトゥーナが振るったこと。  あまつさえ……姉である自分に、親友の体へと宿った魔王シヴァへと、何の遠慮もなく振るったこと。  それがただただ――信じられなかった。 「…………」  違う。  信じられないのはそのことではない。  黒い少女にとって、今のシヴァは、ミサハは、闇の国は、同じ次元に存在しないものだ。有り体に言えば、道端の石ころにも等しい存在でしかない。今の一撃とて彼女にしてみれば、邪魔な石ころを蹴っ飛ばした程度の認識でしかないのだろう。  信じられないのは、彼女の変貌だ。  確かに奈落の毒に犯され性格が豹変してしまう者はいた。シヴァの妹でありフォルトゥーナの姉である黒死将ハルシャギクなどはその典型だろう。彼女は神霊だった頃と魔王に堕ちた後とで性格が大きく変わった。だがそれでもハルシャギクはハルシャギクだ。その根底には変わらぬ何かが残っているとシヴァは思っているし、他の姉妹にしても同じ思いだろう。  だが、コレは違う。  目の前のコレは――――フォルトゥーナでは、ない。  見た目が同じだけの、もはや別の存在に成り果てている。どうして彼女だけがこのような反転を経てしまったのかは分からない。あまりにも長い間、奈落と戦い続けていた反動なのか、それともその身に宿す神の腕の影響なのか……。どちらにしろ、分かっていることは、確定していることは、ひとつだ。  彼女はフォルトゥーナであってフォルトゥーナではない。  言葉も通じず、ただ己の気分のままに破壊の力を暴発させる最恐最悪の大魔王。 「……暴王」  小さくシヴァはつぶやく。 「……暴王(オーバーロード)、フォルトゥーナ……!!」 「――――」  黒い少女は無言で翼を広げる。  髪と一体化したそれは大きく羽撃くと、小柄な体を宙へと浮かばせた。 「は――!」  シヴァは気を吐いた。 「……我が友ミサハよ。お前の願い――どうやら叶える道筋が見つかったようだ」  言って、両手を広げる。 「大神羅万象――」  呪符がはらりと数枚舞う。シヴァの祝詞により力を得たそれは、赤と青の双剣となりそれぞれ右手と左手に握られた。  赤い剣である日輪剣と、青い剣である月光剣。  妖術で作られたミサハの近接武装だ。 「――――フォルトゥーナよ」  右手の日輪剣を黒い少女へと突きつける。 「余が今から、お前をその呪縛から解き放ってやろう――!! だから……、だから」  瞑目する。  何かに耐えるように眉根を寄せ、苦渋をにじませ―― 「だから、安心して――逝くがいい」  黄金の双眸でしっかりとフォルトゥーナを見据え、シヴァは言った。  それは宣戦布告だ。  暴王となった妹へと下される、姉からの無慈悲な死の宣告であった。  だが…… 「――――」  黒い少女は微動だにしない。  相変わらず色のない表情のまま、魔王シヴァの存在など塵芥のごとく気にかけることはなく空にたたずみ続けている。風が流れ、綺麗な黒髪がふわりとたなびいた。 「……ふ」  魔王のこめかみに青筋が浮かんだ。 「……いいだろう。そっちがその気だと言うのなら――――」  黄金のマナがたゆたっていく。  日輪剣と月光剣に力が宿り、魔王は赤い幻翼を羽撃かせた。 「遠慮はしない。呆けたまま、死ね」  双剣が閃く。  赤と青の軌跡を残しながら暴王の首を刎ねるために迫っていく。  日輪剣と月光剣。  ミサハの妖術で作られたこの双刀は魔王剣に比べれば遥かに細く、一見すると頼りない。身の丈以上もある大剣を軽々と振り回す魔王からすれば、このような双剣などさぞや物足りない武装に思えるが――それは杞憂であった。  魔王シヴァは剣を支配する魔王だ。  刀剣類であるならば彼女の支配からは絶対に逃れられない。彼女の手にある限りは限界以上の性能を確実に引き出され、どのようなナマクラでも名剣に成り得てしまう。名剣であるならば聖剣や魔剣と言った伝説の斬撃兵装に迫ることすら可能であろう。そしてミサハの双剣は後者に価する。  僥倖であった。  ミサハは剣術を不得手としているため、なかなか使う機会に恵まれない妖術の双剣であるが……しかし剣の魔王にとって、これほど馴染む武器は他にはないのだから。 「はっはっはっはっはっ!!」  魔王は笑う。  双剣が熱い。  力が湧き出してくる。  これならば――今宵限りの魔王の得物としては文句なしに及第点だろう。 「――――」  どこか虚ろだった暴王の表情に、はじめて色が宿る。  それはひどくか細く、不確かで、ともすれば見逃してしまいそうな小さな変化であったが、同時に大きな変化でもあった。道端の有象無象に等しい存在であるはずのシヴァへと、黒い少女の意識は確かに向けられているのだから。  例えそれが、ブンブン飛び回るうるさい蝿に向けられるような感情だとしても、だ。 「は――そうだ、それで、いい!!」  振るわれた双剣を、暴王は両手に黒いマナの剣を作り出し受け止める。  赤と青と、黒と黒。  黄金のマナと黒いマナ。  魔王と暴王の剣劇が幕を開ける。 「――――」  黒い剣の破壊力はすさまじかった。並の騎士程度ならば受け止めることも出来ず、鎧ごと両断されたであろう重い一撃。そんな重撃を双剣で、間髪入れずに連続で打ち込んでくるのだ。それも、すさまじい速度で、だ。  ――しかし。 「情けないな。なんだ、そのへっぴり腰は!!」  地の利はあまりにもシヴァにありすぎた。暴王は空を舞う。だが、魔王は空を駆けるのだ。翼人と呼ばれる魔族たちの頂点に君臨する少女は、ミサハという役者不足の出力装置を以てしても剣撃戦闘で暴王に遅れを取るほど甘くはなかった。 (……やはり、な)  シヴァは思う。  マナクリスタルより無尽蔵に供給されるマナにより、妖狐の肉体は極限まで強化され、不完全な器ながらも本来の魔王の動きを可能なかぎり再現してくれている。とはいえ、シヴァの感覚からすれば水の中で運動をしているような不自由さだ。だというのに黒い少女は押されていた。闇の国を抉り取る大魔砲をこともなげに放った暴王は、力を出し切れない魔王相手に苦戦を強いられているのだ。  暴王は強い。  おそらく――魔王や精霊王を凌駕し、神霊でさえも抗えないほどの強さだろう。  だが、同時にフォルトゥーナは弱かった。  溢れ出る力を制御する意志の強さもなく、戦闘の経験も、知識も、才覚もない。いうなれば凶器を子供に持たせているようなものだ。わけもわからず振るうしか能はなく、極稀に恐ろしい結果を生み出すものの、真正面からの技と技のぶつかり合いとなれば、熟練した戦士であるシヴァに子供同然であるフォルトゥーナが勝てる道理など微塵もなかった。  魔王が暴王に負けることなどあり得ないのだ。 「はあっ!!」  青い剣が、ついに暴王を捉えた。  すぐさま大きく後退した黒い少女の頬を――赤い血が、伝っていく。 「悪いが――決めさせてもらうぞ」  シヴァはゆっくりと、力強く……両手を広げた。 「――――剣乱舞刀祭(エクスキューショナーズ)」  彼女の背後の空間が揺らいでいく。まるで水面のように景色がたゆたい――その中から剣が現れる。刀が現れる。現れる。現れる。次々と刀剣は虚空よりその姿を顕現させる。その数はおよそ三百。気がつけば、魔王の背後には大量の刀剣がまるで弾丸のように敷き詰められていた。  その切っ先は全て暴王へと向けられている。  剣乱舞刀祭。  虚空より処刑剣を呼び出し対象を射殺す剣の魔王たるシヴァの秘技だ。一度に展開できる刀剣の数は最大で三百本。シヴァの空間認識能力により最大十二通りの軌道を同時に描き相手を襲う全空間方位攻撃である。 「心せよ。我が舞踏祭――……気を抜けばいかに暴王と言えど、瞬時て串刺され哀れな血肉の塊と成り果てようぞ」 「――――」  暴王は動かない。  静かに宙に浮いたまま、赤い瞳でシヴァを見つめている。  そんな少女へと、魔王は左手の月光剣を掲げ―― 「余の力……」  勢いよく切っ先を振り下ろした! 「特と味合うがいい!!」 「――――ソードアサルト! マシンガンズ・マキシマム、ファイア――――!!!!」  目にも留まらぬ速さとはまさにこのことだろう。  命令一下、背後の刀剣たちは次々と暴王へと射出されていく。空を裂き、風をまとい、敵を穿つ弾丸と化した処刑剣は、大気を震わせ標的を仕留める閃光となり黒い少女へと迫っていく。もしも直撃を受けたならば、待ち受ける結末は串刺しなどという生やさしいものではないだろう。肉を、骨を粉砕し、髪の毛ひとつ残ることはない――まさに必滅の連撃であった。 「――――」  その、死の弾丸を黒い少女は見つめている。  赤い瞳で……  静かに、見つめ続けていた。  ――ドクリ、と。  黒い裸体が鳴動する。  少女の中を赤い脈動が走り抜けていく。  それは恐怖か。  それは嘆きか。  それとも――――…… 「……ぁ」  小さく。  本当に小さく、暴王フォルトゥーナは――……はじめて、口を開いた。  その声は白い少女となにひとつ変わらない。  惡兎臣フォルトゥーナの、声だった。 「……ぁ、ぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああッッッッ!!!!」  小さな声は瞬く間に絶叫へと変わる。  刹那。  黒いマナが少女の体から放出されていく。空間を圧縮し、粉砕し、爆砕し、破砕し、呑み込んでいく。月と星を閉ざされた黒い夜にあってなお、それは底知れぬ闇であった。  闇が広がっていく。  統制されることなく荒れ狂う黒い力は眼下の水晶宮殿すら破壊していく。空を軋ませ、大気を揺るがし、大地を震撼させ――処刑剣もその黒に飲み込まれていく。 「ち……面倒な!」  舌打ちしつつも、しかしシヴァの猛攻は終わらない。 「いいだろう。その闇を――我が剣乱舞刀が打ち払ってくれよう!!」  剣弾は加速する。  加速し、赤熱し、光の流星剣となって黒のマナを穿っていく。最初こそ荒れ狂う力に飲み込まれていくだけだった剣の連弾は、速度と力と数の増加に伴い、徐々に脹れ上がろうとする黒いマナを押さえ込んでいく。  両者の力がせめぎ合う。  漆黒の空が鳴動する。  破壊の衝撃波は水晶宮殿を、迷いの森を、さらには遠く――海の彼方までもを揺るがしていく。  まるで世界が悲鳴を上げているかのようであった。 「あああああああああああああああああああああああああああッッ!!!!」 「ははははは!!」  黄金の魔王の放つ剣の流星群。  堕ちた暴王の放つ黒いマナ。  ふたつの力は激しくぶつかり合い――――空を、焼いた。      ■■■  黒い水晶の支配は迷いの森にも及んでいる。  地面から直接――あるいは大樹を取り込んで――もしくはその間を縫うようにして――鈍い輝きを放つクリスタルがあちこちから生えている。黒い水晶の輝きは人の心を犯す毒素ではあるが、それは同時にどこか神秘的でもあり、澱の空のもと暗く沈んだ世界において、どこか退廃的な美しさを醸し出していた。  だが。  泥人形を生み出し続けるそれは、やはり生きとし生けるものにとっては許容しがたい邪悪でしかない。 「■■■!!」 「ちぃ――!」  泥の騎士の攻撃をラセツは紙一重で避わし拳を放つ。直撃を受けた泥の騎士は、しかし、数歩後退っただけで再び襲いかかってきた。ラセツは思わず舌打ちをする。こんな雑魚にまで苦戦する、今の自分の非力さが情けなかった。  だがそれも仕方がないことだろう。  今のラセツは満身創痍だ。  エーデルという強敵と戦い消耗し、さらに腹心の裏切りにより深い傷を負った。本来ならいつ倒れてもおかしくはない。だというのに、彼を奮い立たせ、泥人形と戦うだけの底力を与えているのは、ひとえにフォルトゥーナへの情愛の気持ちにほかならない。  天を割いた黒い光。  閉ざされた空。  沈んだ世界。  その後に現れた黒いクリスタル。  こぼれるように湧いてきた、泥の騎士たち。  すべてが尋常ではない。いったい大宮殿で何が起こっているのか。フォルトゥーナは無事なのか。彼女のことを思うと気が気でなかった。 「このッ!」  両の拳に残り少ないマナを込め、痛む体に鞭を打ち、ラセツは泥人形と向かい合う。剣と拳が何度となく交差し、やっとの思いで鬼将軍と呼ばれた青年は最初の泥人形を打ち倒した。  そう――最初の、一体を。 「く……」  続いて別の泥人形が突撃してくる。獲物は槍。その向こうには剣を、杖を、武器を構えた泥の騎士たちが控えている。黒い水晶から生み出される異形の魔物は、ラセツが苦戦している間に次々とその数を増やしていた。 「このままじゃ――!」  にっちもさっちもいかなくなる。  かと言って今のラセツに泥人形を掃討する力はなく、逃げようにもすでに周囲は取り囲まれていた。そもそも逃げるなんて選択肢は存在しない。とるべき道は前進のみ。大宮殿へと一刻も早く駆けつけねばならないのだから。 「――■■■!!」  槍の騎士が咆哮と共にラセツへと突撃してくる。 「む……」  だがその動きは緩慢だ。まるで戦場に出たての新兵のような――いや、それ以前のまるで素人同然の動き。軍学校のヘタレ学生にも勝るとも劣らないその軟弱さは、今のラセツであっても簡単にあしらえるものであった。 「こいつら……」  二体目の泥人形を屠ると、ラセツは注意深く敵群を観察する。  獲物もそれぞれならば、動きもそれぞれだ。なかなかいい動きをするものもいれば、今のように素人同然のもの、さらに言うと素人同然どころか素人としか思えない動きをするものまでいる。人形の大きさも個体差が大きく、体躯の大きいものから小さいものまでひと通り揃っている。なかには子供としか思えないものまでいた。 「…………」  実際、子供なのかもしれない。  その得物は玩具の短剣。動きは緩慢だが子供特有の快活さがあり、このような姿をしているというのにどこか愛らしささえ感じてしまった。 「……ちっ」  泥人形たちの正体について嫌な予測が頭をよぎる。  だが、今はそんなことを気にしてはいられない。彼らの正体が何であろうと敵は敵だ。フォルトゥーナへの道を塞ぐ障害である以上は粉砕していくだけだ。そう。例え彼らが、無念と悔恨を残し惨死した人々の怨念の塊だとしても――その清算には付き合ってはいられない。 「推して通る……!」  決意を新たにした、その時。  ――――ォォォォォオオオオオオオオオオオオオォォォォォォ…………!!  耳を引き裂くような轟音と共に、強烈な閃光が視界を焼く。  しばしの後。  はるか、どこか遠くで――爆音と共に空が燃えた。 「な、なんだ……!?」  光源は大宮殿の方角だ。  黒い水晶に覆われたクリスタルファンタジアの頂点辺りから、強烈なマナの砲撃が放たれるのをラセツは見た。似たような輝きをどこかで見たと――そう思ったラセツは、それが魔術大砲にそっくりであることにしばらくは気が付かなかった。当然だろう。マナを砲撃として放つという意味では大宮殿のそれは確かに魔術大砲ではあるが、その総量、破壊力、口径、すべてが魔術大砲を軽く凌駕していた。比べることすらおこがましい。  問題は、その正体。  クリスタルファンタジアにあのような兵装の類は存在しない。ならば、この異変があれを引き起こしたと考えるべきだろう。いったい大宮殿の内部はどうなってしまったのか。姿の見えないミサハや、大宮殿内部にて指揮をとっていたガロウ将軍、そして、フォルトゥーナの安否……  焦燥感だけが募っていく。  それは、傷だらけの青年に致命的なまでのスキを与えていた。 「■■■!」  刀を抜き放ち、泥の剣士のひとりがラセツへと迫る。速い。素人同然とか、そこそこ腕が立つというレベルではない。この動きは――達人のものだ。 「く!」  ラセツはなんとか初太刀を凌ぐ。  しかし続いて繰り出された剣閃は受け止めることも避わすこともできず、死に体の肉体にさらに傷を負ってしまう。鮮烈な痛みが走り、意識が遠くなりかける。倒れかけた体をなんとか気力で踏ん張って、かろうじで体勢を立て直す。  だが、そこまでだ。  それで終わり。  霞む視界に映るのは、首を刎ねようと迫り来る泥の剣士の姿。その両手に握られた泥の刀の一撃を――三太刀目を防ぐ手段など、もはやラセツには存在しなかった。 「――――っ」  死の淵に立っても、しかし青年の闘志は折れることはない。  助けたいヒトがいる。  守りたいヒトがいる。  だから死ぬわけにはいかない。  大切なヒトがいるのなら――こんなところで、死んでいる場合ではないのだ。 「こ、のおおおおおおッッ!!」  拳にマナを込め、泥の剣士を迎え撃つ。  刃が閃く。  胴体から切り離された頭部が、まるで壊れたオモチャのように、宙を舞った。  ……ゴロリと頭部が転がる。  赤い瞳が数度瞬いて……消える。泥の頭部は溶けるようにして霧散していく。続いて泥人形の胴体も、数度の痙攣を繰り返した後、頭部の後を追うかのように消えていった。  ラセツと泥の剣士。  ふたりが激突するよりも前に――何者かが乱入し、泥人形の首を容赦なく狩りとっていったのだ。 「ふふ……」  闖入者は鬼人の青年へと振り返る。 「まーったく。何をこんな相手にぷぎゃ!?」  ゴズン。  気をつけろ、拳は急には、止まれない。  あまりにも気持ちのいい撲殺音を立てて、ラセツ渾身の一撃は闖入者の顔面へと吸い込まれるようにしてクリティカルヒットを決めていた。闖入者はゴロゴロと軽快に地面を転がっていく。そのまま大木へとぶつかると、ピクピクと痙攣し……パタリと動かなくなった。 「…………」  ラセツは目をぱちくりとさせ――とても不思議な顔で、闖入者を見る。  声も出ないとは、まさにこのことだろう。 「お……おやおや」  ふらりと闖入者は立ち上がる。  それはラセツのよく知った少女の声だ。よく知ってはいるが、同時に何を考えているのかまったく理解出来ない腹心の声。もう二度と聞くことはないと思っていた声。なにより、自分と袂を分かったはずの彼女がこうしてここにいることが――ラセツには不思議でならなかった。 「どうして――」  声を絞り出す。 「どうして? 決まってるじゃないですか」  微笑さえ浮かべ、少女は言う。 「かわいいかわいい側近ちゃんが、ご主人様の大ピンチに助けに来てあげただけですよ――ししょー♪」  大鎌を一閃させ、かっこ良く決めポーズを決めながら――シュリアは言った。 「……鼻血、出てるぞ」 「はわ!?」  シュリアは顔を赤くすると、ちょっと待ってと手のひらをラセツへ向ける。  木陰に隠れ、鼻血を丁寧に拭い終わると――少女は再び顔を出した。 「お、お待たふぇしまひた」 「鼻にテッシュ詰めてるなよ。馬鹿みたいだぞ」 「――もう、注文が多いですねー。せっかくの登場シーンが台無しじゃないですかー」  ふん、と鼻息を荒くすると、鼻からテッシュがスポンと落ちた。どうやら鼻血はすでに止まっていたらしい。だったらテッシュを詰める必要もないと思うのだが――きっとツッコミ待ちだったのだろうと勝手に納得しておくことにする。どうせ深い意味はないのだろうし――それよりも、今は。 「…………」  ラセツは痛む体で、それでもシュリアへと身構えた。  彼女だけは、本当に何を考えているのか理解出来ない。助けに来たと言ってはいるが、腹心だったはずのこの少女に突然裏切られたのはわずか数時間前の出来事なのだ。それをあっさりと信用し直すほど、ラセツはお人好しではない。 「……シュリア」 「…………」  少女はラセツの数歩前で歩みを止める。大鎌でいつでも首を刎ねられる位置だ。今の体でシュリアの攻撃を避わせるか考えて、到底無理だと結論づけた。ならば受け止める――あるいは先に攻撃を――その全てが意味のない行動だと、考えるまでもなく分かっていた。  今のラセツでは、シュリアに太刀打ち出来ない。 「…………」  息を飲む。  目の前の少女の気分次第で、ラセツの命の灯火は――あっさりと、消える。  たらりと汗が流れる。  痛みに全身が悲鳴を上げるが、集中を途切れさすわけにはいかない。例え無駄な抵抗だとしても、それでも、おとなしく殺されてやるつもりはなかった。 「――――」  ジロジロと遠慮のない視線で、シュリアは青年の観察を続ける。 「…………」 「――ふ」  薄く笑う。  そして―― 「うっひゃあー……ボッロボロ……ししょー、マジだっさーい」 「だ……! だ、誰のせいだ、誰の!」 「えーと……三丁目のワッフルさん?」 「徹頭徹尾、お前のせいだ!!」  てか誰だ、ワッフルさんって。 「はぁ〜〜……情けなや情けなや……」  やれやれと、非常にムカつく表情でシュリアは首を振る。  チッチッチッと指を振った。 「いーですか、この私がわざわざ師事されてあげてるんですからー、ししょーがそんな無様なことじゃ困りますー」 「は?」 「私が恥ずかしい」  ははーんと肩をすくめ、皮肉げな笑みを浮かべシュリアは言った。 「お前なぁ……」  その表情のイラッとくること、筆舌に尽くしがたし。  ラセツはこんな時だというのに、こめかみに青筋を立てることを抑えられなかった。  そう。  こんな時だと、いうのに。 「…………」 「? ししょー?」 「…………はぁ」  ラセツは大きくため息をつくと、頭を振った。 「――いったい、どういう風の吹き回しだ……?」 「…………。ですから。私、別にボスの味方になったわけじゃありませんよー」 「それは分かってる。だが……どうして、俺を助けたんだ?」  ハーディアスに与したわけでもなく、フォルトゥーナに味方するわけでもない。  ならば、この少女の真意はどこにあるのか。  それは確かめなくてはならないことだ。 「……理由、ですか」  視線を伏せて、再びラセツを見て、その後またそらして――シュリアは言う。どこか、か細い声だった。 「……わかりませんか? ししょー」 「わからん。お前、俺をぶった斬るほど、嫌ってるんじゃなかったのか……?」 「…………」 「……な、なんだよ」 「…………………………………………………………………………はぁ」 「む……?」  シュリアのワケのワカラナイ反応にラセツは困惑する。  彼女は絶対零度の眼差しでラセツを見つめた後、額を押さえながら、深い深い、それはもう、ものすっごく深いため息をこぼした。 「ですよねー。私、今、すっっっっごく、ししょーの首を刎ねたくなりましたから」  物騒なことを言う。  声のトーンは相変わらず気楽なものだが――場の空気が、どことなく、変わる。  凍えるような――  そんな、空気。 「……シュリア」  少女の瞳が細まっていく。  凍てつく空気は、まるで首を刎ねる氷の刃のようで……それは間違いなく、目の前の少女の殺気であった。 「……お前」 「――――!」  シュリアは疾駆する。  次の瞬間、息つく暇もなく接近してきた裏切りの少女は――青年を抱きしめるとそのまま押し倒した。視界が流れる。困惑するラセツの頭上を魔術の光が過ぎ去っていった。 「……っ!」  首を回して確かめる。  森の奥――いつの間に投擲したのか、シュリアの大鎌にその身を切断された泥の魔術師が力なく倒れ、霧散していく様が見えた。 「――――」  シュリアが助けてくれなければ、あの魔術の一撃で力尽きていたかもしれない。  ラセツは肝が冷えるのを自覚した。 「……すまん。助かった」 「…………」 「…………」 「…………」 「……シュリア?」  胸の上の少女は――静かな顔で青年を見下ろしていた。その瞳には青年の血まみれの傷跡が写り込んでおり、赤い瞳がより怪しくゆらいで見えた。  少女は腕を伸ばす。  傷口を、撫で上げた。 「――ッ」  痛みが走る。 「……無様ですね、ししょー」  自身が血に濡れるのも構わず、少女は青年の傷を何度となく、なぞっていく。 「ぐっ……」 「覚えてます? 出会ったときのこと。あの時ししょーは左手一本で私をのしちゃったのに……今はその私の下で、こんな無様に喘いでいるだけなんて」 「おま、え……!」 「……っ」  シュリアはラセツの体へと顔を近づけると、ふぅ、と傷口へ吐息を吹きかける。痛いのか、苦しいのか、こそばゆいのか――もだえるラセツを力で抑えつけながら、少女は赤い舌をちろりと出して、傷口を舐めた。ぺろり、と。丹念に舌を這わせ舐め上げていく。綺麗な顔と髪が血に濡れていく。 「……、しゅり――」 「――――」 「――、ぁ……」 「――――ん、ぅ」  ひとしきり舐め終わると、顔を上げる。  青年と目が合う。  困惑した顔で自分を見つめてくる師へと――血濡れの少女は薄い笑みを返した。  シュリアはラセツを解放すると、大鎌のもとへと歩いて行く。 「…………お前」  ゆっくりと体を起こすと、どう反応を返したらいいのか分からず、ラセツは言葉を探す。しかしそれが見つかるよりも先に、大鎌を担ぎ上げた少女は背中を向けたまま、ラセツへと言葉を投げかけてきた。 「ししょー」 「あ、ああ」 「気持よかったですか?」 「…………はぁ?」 「ふーむ。そうでもなかったですか。これでも自信あったんですけどねー」 「お前な……」  ラセツは額を押さえると頭を振る。  ズキリと鈍痛が走っている。  無闇に鼓動がはやい。  傷口が熱く――――それがどうしようもなく、イライラさせた。 「いい加減にしろ」 「…………」 「さっきから、わけがわからねぇ。お前はいったい、何を考えてるんだ」 「――は」  帰ってきたのは、……どこか嘲笑じみた自虐的な笑いだった。 「……シュリア?」 「忘れちゃいましたか、ししょー」 「……何がだ」 「忘れてるようですから。改めて、教えて差し上げますけど……」  大鎌を構えた。  くるりと軽い足取りで振り返る。  狂気と暗気を孕んでいながらも、少女はどこかさっぱりとした笑顔を浮かべて―― 「――私、すっごく、気まぐれなんですよ♪」  そんな分かりきったことを、言っていた。 「――――」  少女の顔はひどかった。  血に濡れた顔。  自分の手で傷つけた青年を、愛撫し、舐め上げ、――血に濡れた、少女の顔。  だというのに。 「――――」  それは――――とても、綺麗だったのだ。 「――…………」  そんな彼女を見て…… 「……ちっ」  ラセツもまた、呆れたような微笑を浮かべた。 「ああ、まったくだ。お前は本当に、扱いにくい部下だったよ!」 「どうもですー」  言うと、シュリアは様子を伺っていた泥人形の群れへと突撃していく。それはまさに電光石火。速度を武器にする大鎌の少女は、その得物でもって泥人形たちの首を次々と刎ねていく。泥の騎士も、泥の剣士も、泥の戦士も、泥の闘士も、泥の弓兵も、泥の槍兵も、泥の魔術師も、兵士ですらない泥の子供たちも――みな等しく、シュリアによってその仮初めの生を終わらせていく。  決着は数分でついた。  数十人はいただろう泥人形の群れはすべて、シュリアによって倒されていた。 「ま、ざっとこんなものですかねー」  ふふんと満足気に鼻を鳴らすと、意気揚々とシュリアは引き上げてくる。  そんな彼女に、ラセツは再度問いかける。  これだけは、どうしても……確かめなければならなかった。 「で……どうするつもりなんだ」 「はい?」 「お前が、俺や……フォルトゥーナに対して、なにやら思うところがあるのは分かった。それで……お前は、これからどうするつもりなんだ」 「…………。そーですねー……」  シュリアは大宮殿を見る。  黒いクリスタルに包まれた――鈍く輝く水晶宮殿を。 「……逆に聞きますけど。ししょーは、どーしたいんですか?」 「……ん?」 「さっき言ってましたよね。ししょーは、へーかを守るって。でも、それはきっと、もう手遅れです」 「なんだと……!?」 「怒らないでくださいよ。別に、へーかが亡くなったとか、そういう意味じゃありませんから。ただ、ボスがその目的を果たしたのだとしたら――」 「……あいつは、いったい何を企んでるんだ」 「さぁ? 私だってそんなことは知りませんよ。ただ、推測はできます。そして今のこの状況を鑑みれば、それは正解していたとしか思えない」  シュリアは振り返る。  ラセツの目を、しっかりと見つめた。 「へーかは……フォルトゥーナは、もう以前の彼女じゃありません」 「…………」 「見てくださいよ、この空。城を包んで、森にもニョキニョキ生えてきてるクリスタル。そして泥人形。これって全部、へーかの仕業なんですよ」 「そんなこと、どうして分かるんだ」 「だって、私とへーかの仲ですから」 「…………」  意味が分からない。  だが――その自信がどこから来るのか不明ではあるが――シュリアは確かな確信のもと、この異常事態の原因をフォルトゥーナであると、そう断じていることだけは理解できた。  こういう時のシュリアの判断は正しい。  正しい、はずだが…… 「……あいつが、こんなことを出来るはずがないだろう」  ラセツは否定する。  実力的にも、性格的にも、惡兎臣フォルトゥーナにこのような大魔術を行使することは出来ない。それはラセツがよく分かっていた。  まして……  ラセツの脳裏に泥人形として蘇った子供の姿がよぎる。  まして、命を弄ぶようなことを――あいつが望むはずなど、絶対になかった。 「だから言ったでしょう」  シュリアは淡々と告げる。 「変わってしまったんですよ。へーかは」  指を掲げ、それをくるりと地面へと向ける。 「堕ちたんですよ。簡単に言えば」 「…………」  昔、大宮殿の図書館でフォルトゥーナと交わした会話を思い出す。  かつて得た強大な力のために、惡兎臣フォルトゥーナは魔王へと堕ち切れていないのではないかと――肉体は変質しても、その心までは屈することはなかったのではないかと、そういう推測を交わしたことがある。その結果として彼女は何千年も奈落の呪いに苦しめられ、消耗し続けることとなっているのではないかと……  それが、フォルトゥーナの命を削っているのだとしたら。  彼女を助けたいと思うのならば―― 「……ハーディアス」  奥歯を噛み締める。  考えたことがないといえば嘘になる。  助けるならば――延命するならば、それしか道はないのだとも、心の何処かでは理解していた。だが、それを選ばなかったのは彼女がそれを望んでいないからだ。  ――私が私でいられたから――みんなと出会えたんだよね。  そう言った彼女の顔が忘れられない。  フォルトゥーナは、フォルトゥーナであるからフォルトゥーナなのだ。それがずれてしまえばそれは、フォルトゥーナの姿をした別の何かにほかならない。そんなことは誰も望んではいなかった。ラセツもミサハも、フォルトゥーナ自身も、自分で在り続けることを望んでいたというのに……  いや。  少なくともハーディアスは彼女が奈落に堕ちることを望んだ。  だから、その背中を押したのだろう。  だとしたら、今のフォルトゥーナは―― 「…………」  思考が暗く沈んでいく。  いったい自分がどうするべきなのか。  堕ちてしまった少女に、自分が何をしてやれるというのか。 「こうなっちゃったら」  ささやくように、シュリアは言う。 「眠らせてあげることが――へーかの幸せかもしれませんよ?」 「眠らせるって……」 「殺すって、ことですよ」  醒めた目と顔で、まるでそれが当然であるかのように、少女は言った。  その時だ。  水晶宮殿の上空で――火花が散る。  いくつも、いくつも輝いて、瞬いて、暗く閉ざされた世界を金と黒で照らし出していく。 「あれは――」 「誰かが……戦ってるようですね。堕ちちゃったへーかと」  ここからでも容易に感じ取れる強大なマナのせめぎ合い。その片方は確かに、どこかフォルトゥーナの気配を滲ませていた。それがどうしようもなく、悲しい。この暗い力を放っているのがフォルトゥーナだとしたら、彼女は本当に変わり果てている。もはやラセツの知る少女はどこにもいないのだと……そう思うと、胸が痛く、苦しかった。  力の激突は収まらない。  黄金のマナに押されているように見えた黒いマナは、再びその力を膨らませていた。  同時だった。 「――――」 「ししょー?」  ラセツは顔を上げる。  どこか諦念が漂いはじめていたその瞳は、しっかりと金と黒のマナの激突を見つめていた。聞いていた。感じていた。それはひどく小さな声で、たよりなくて、まるで雑音の中から消え入りそうな子供の声を拾い上げるに等しい苦行だった。 「……聞こえる」  だが、確かにラセツは聞き取っていた。  黒いマナをまき散らしながら戦っているだろう、堕ちた少女。その波動に載せられた……小さな悲鳴を。 「聞こえるって……何を」 「シュリア」  首を傾げるシュリアに、ラセツは面と向かい……自分が成すべきことを告げる。 「俺はあいつを殺さない」 「…………」 「どんなになったって、あいつはあいつなんだよ。苦しんで、もがいて――振り回されて、それでも、あいつは戦ってる。奈落に染まっても、自分が自分であろうと戦ってる。だったら、俺のやるべきことは――ひとつだけだ」  拳を握りしめる。  その瞳は、新たな決意に燃えていた。 「俺はあいつを助けだす」  熱く、たぎっていた。 「苦しくて、辛くて、もがいて暴れてるってんなら――俺がそれを止めてやる」 「ししょー……」 「絶対に、俺がこっちに連れ戻してやる!!」  それが――  ずっと前から、彼女を守ると心に決めたていた、青年の出した答えだった。 「どうやって?」 「……え?」 「へーかを助けたいのはわかりましたけどー。で、具体的に何をどうするんですかー?」 「…………」 「…………」 「……えーと……」  しばし目を泳がせるラセツだが……ふと、気づく。  シュリアの顔。  うっすらと残る、鼻血の後に……  何か閃いたのか、ぽんと手を打つと自信満々にこう言った。 「……ぶん殴る!」 「馬鹿ですか、あなたは」  にべもなかった。 「壊れた機械じゃないんですから、そんなことでどーにかなったら誰も苦労しませんよー。てか、私のことなんだと思ってるんですか」 「気まぐれ屋のシュリアさんだろ」 「……そーですけどー」  ぷい、とそっぽを向くシュリア。  ラセツは肩をすくめた。 「……それにしても……あいつを助ける方法、か」  闇に堕ち、反転し、狂い、溺れ、それでもわずかに残っているかつてのフォルトゥーナの残滓。それを引っ張り出すことが、ラセツにとっての目的だ。まるで暴風雨の中で針の穴に糸を通すようなものだが――出来なければ、白い少女は二度と帰っては来れないだろう。いずれは完全に闇に飲み込まれ――――消滅するだけだ。  問題は、どうやって彼女の気持ちを引きずり出すか。 「……むぅ」  しかめっ面でラセツは考え込む。  どうすればいいのか本気で分かっていない様子の青年に――シュリアは今日何度目かになる、盛大なため息をつくのだった。 「…………はぁ」 「な、なんだ」 「本当に、分からないんですか?」 「だから考えてるんだろ」 「本当の本当? 本当に、分からない?」 「嘘言ってどうするんだ」 「…………はぁ」  やれやれと肩を落とす。 「……わかりました。だったら、この私が、へーかを連れ戻す秘策、教えてあげますよ」 「そんなのがあるのか!?」 「効き目ばっちりです」  やけに自信たっぷりに少女は頷く。 「……それで、その方法って――」 「――ん」  ちょいちょい、と指を動かし「顔をよこせ」とジェスチャーするシュリア。首をかしげながらもラセツは彼女に耳を寄せる。シュリアは背伸びをすると――彼の耳元で何事かをささやいた。  途端だった。 「な――――」  ラセツの顔が真っ赤に染まる。  パクパクと金魚のように口を動かした後――シュリアから身を離し、思いっきり上ずった、動揺しまくりかつ挙動不審気味の声で叫んだ。 「そ、そそそそそ……そんなこと、できるかぁ!?」 「えー。これなら楽勝なのにー」  ニヤニヤしながらシュリアは言う。 「こ、こいつ――」  完全にからかっていた。 「あのなぁ、俺は真面目に――」 「私だって大真面目ですよ」  と、その時……  黒い水晶が怪しく輝き、泥が湧き出してくる。泥の騎士たちだ。再び現れた彼らは、赤い瞳を憤怒と憎悪と悲しみでちらつかせながら、ラセツたちへと武器を向ける。  うんざりした顔で、シュリアは大鎌を構え直した。 「またですか。キリがないですねー。ウザッ」 「仕方ないだろ。邪魔をするというのなら、倒すだけだ」  ラセツも両拳を構える。  泥の騎士たちとラセツとシュリアは対峙する。お互い間合いを伺うように、じりじりと睨み合う。その一方で、ラセツの心は焦燥する。本当はこんなことに時間を取られている場合ではないというのに――行く手を阻む泥の騎士たちはますます数を増やしていく。その数は今までの比ではなく、例えシュリアと言えどもそう簡単には倒せないだろう。それどころか、数に任せて逆にやられてしまう可能性すらあるように思えた。  黒い顔に輝く赤い双眸が、暗く沈んだ森の中で増え続けていく。  ラセツは息を飲んだ。 「…………」  不意にシュリアが一歩前進する。  まるで気負うことなく踏み出された一歩に、泥の騎士もラセツも呆気にとられ、それを見守るしかなかった。崩された間合いの中、いつでも泥人形たちを狩れる距離で――シュリアは振り返ることなく、屹然と言い放った。 「ししょー」 「なんだ」 「ここは私に任せて、ししょーは先を急いでください!」 「よし、わかった!」 「えっ」  シュリアは驚いた顔で振り返ってくる。 「なんだよ」 「……なんでも、ないです」 「そうか?」  自分から言い出したくせに、何故かぷーっとむくれて不満そうなシュリア。  そんな少女の頭に手を置くと、ラセツは乱暴に撫でてやった。 「シュリア」 「……なんですか」 「ありがとうな」 「…………」 「それじゃ、後は任せたぜ。俺の背中――今一度、お前に預けてやる」 「…………ふん。せいぜい後ろからグッサリされないよう、気を引き締めることですねー。私、厳しいんですから」 「了解した」  頷くと、ラセツは水晶宮殿へと駆け出した。  その行く手を泥の騎士たちが阻もうとするが――シュリアの大鎌が一閃し、泥人形たちは霧散した。  ラセツは駆けていく。  迷うことなく、シュリアの裏切る可能性など少しの心配もしていないかのように、全力で駆けていく。体が軽い。あれほど重く、頼りなく、歯がゆかった自分の体。死の淵を彷徨いかけた程の傷だったというのに、まるで傷を負う前まで時間が巻きどもったかのように、その体にはマナと力が満ちていた。 (これは)  不思議なこともあるものである。  癒しの魔術を使ったわけでもないのに――そもそもラセツもシュリアもそういう魔術は使えない――いつの間に傷は治っていたのだろうか。 (……ミサハの妖術か?)  九尾の妖狐は迷いの森に自身の妖術を展開していた。その中に傷を癒す効果のものがあったとしても、おかしくはない……だろう。それがもっとも可能性の高い答えだとラセツは思った。  遠く――剣戟の音が彼方に流れていく。 (シュリア――)  大量の泥の騎士を相手に、腹心たる少女は戦っている。自分をフォルトゥーナの元へと行かせるために、小さな体で大鎌を振るっている。結局、彼女が何を考えているのかラセツにはさっぱり分からなかったが――口から出た感謝の言葉に、嘘偽りはない。 (――無事でいろよ)  また会えた時には――今度こそ、あいつの言いたいことをしっかりと聞いてやろうと思う。フォルトゥーナとふたりで、いくらでも愚痴に付き合ってやろう。フォルトゥーナはたまったものじゃないだろうが――シュリアがいなければ、きっと助けだすことさえ不可能だったろうから、そこは我慢してもらおう。なぁに、慣れてくればあいつの妄言、甘言も可愛げが出てくるという……もの……でも、ないか。 「――――」  意識が白熱していく。  透き通るような冷静さと、煮えたぎるような熱さが同期していく。 (待ってろよ、フォルトゥーナ!!)  ラセツは駆けていく。  しっかりと前を見据え、――――少女の元へと駆けていく。 「……まったく」  森の中へと消えていく青年を見送りながら、苦笑交じりにシュリアは毒づいた。 「ほんっと、お人好しなんですから」  すぐさま泥人形たちは後を追うとするものの、そんな彼らに少女の大鎌が唸りを上げて襲いかかった。他者に先んじて行動を開始した賢い数体はこれの餌食となり霧散し、彼らに続こうとした後続たちは、少女という驚異に追撃の足を止めざるを得なかった。 「■■■!」  威嚇の唸りらしきものを発する泥人形たち。  しかし当の大鎌の少女は、軽く肩をすくめて見せるだけであった。 「残念ですけどー。ここは通しませんよ。どーも、そういう成り行きみたいですのでー」  軽口を叩く。  とはいえ、決して油断できる相手でもなかった。  個の戦闘力ならば当然シュリアの方が圧倒的に勝っている。だが、それを補うだけの圧倒的な数が泥人形たちの最大の武器なのだ。さらに彼らには個々の強さにもバラつきが見られ、たまに腕のたつ「当たり」も混ざり込んだりしているのだから始末が悪い。  まぁ、そうそう強者を引き当てたりはしないだろうが…… 「さーて。どう料理しましょうか――……って、およ?」 「■■■――!!」  先に動いたのは泥人形の方だった。  泥の魔術師が放った魔術の攻撃。軽くさばけると思ったその一撃は、予想外の破壊力で大地を穿っていく。紙一重で避わしたシュリアの頬を冷や汗が伝っていった。 「……当たり、ですかねー」  泥の魔術師はその黒い体を変質させていく。  異形はさらなる異形へと代わり――半身はまるで巨大な蛇のように膨れ上がった。 「はぁ――――……やれやれ」  生前の能力によるものか、獣化を遂げたらしい泥の魔術師を一瞥しながら、シュリアは情けない声で弱音を吐いた。 「勘弁してほしいんですよねー、割とマジで」  しかし言葉とは裏腹に少女の闘志は損なわれてはいない。  大鎌を構え……強敵と対峙した。 「こんなこと、私のキャラじゃないんです。まったく、ジョーダンの通じない誰かさんには困ったものですよ――――」  少女の頬が桜色に染まる。  口元が不気味に歪む。  頭が熱い。  そこに残る僅かな温もりが、少女の心を燃え上がらせていく。  ――ありがとうな。 「――――ま、役得だとでも思っておきましょーか」  シュリアの体にマナが満ちていく。  両足が、両手が、白い体毛に覆われていく。  獣化だ。  獣の手足を得た少女は、泥の魔術師たちを見渡しながら挑発的な笑みを浮かべる。大鎌を一回転させ、かっこいいポーズを決めながら見栄を切った。 「さぁ、かかってきなさいな三下軍団。この場は私が命にかえても絶対に通しませんから」  少女の後方――  水晶宮殿の空が瞬いていく。  黒く、金色に、せめぎ合うように輝き――衝撃波が大地を揺らした。  旋風に迷いの森がざわめいていく。  しかし少女は揺るがない。  平然としたまま、赤い瞳で泥人形たちを見据えている。 「もっとも」  チロリと舌を出した。 「私の命は24時間366日、いつでもバーゲン大セール中ですけどね」      ■■■  ロウガは命を安いと思ったことなどない。  何故なら命はひとつしかないからだ。そして、そのひとつを失うということは、それまでその命を主観として観てきたこと、やって来たことが途切れてしまうということに他ならない。  例えば、子供の頃に読んだ偉人の物語。  志半ばで力尽きてしまった偉人の姿は、読む者に大きな感動を与えたことだろう。事実、少年も主人公である偉人の生き方に深い感銘を受けたひとりだ。そして、思う。実在の人物とはいえ、物語の登場人物である主人公の死を――自分のことのように、思ってしまう。  ……自分も主人公のように、何も成せずに終わってしまうのではないか、と。  自分にとっては他人事である誰かの死だって、その誰かにしてみれば絶望的な終焉だ。それが幸せな終わり方なのか不幸な閉じ方なのかは別として、主人公という主観の死で幕を閉じるひとつの物語であることに違いはない。  だから、思ってしまう。  命の儚さを――強く思ってしまう。  少年は優しかった。  どうしようもなく、優しすぎた。  それは感受性の高い思春期特有の心の病とも言えるものだ。他者はあくまでも自分にとっては他者であり、決して自分自身には成り得ない。他人の痛みを感じられることは美徳であるが、それに足をとられるようでは愚か者の自己陶酔にしかすぎないのだ。優しさを強さに変えられないならば不幸なだけだ。まして少年は軍人であり、場合によっては誰かの命の幕を自らの手で引き下ろすこともあり得るのだから。  死が、怖かった。  怖くて、恐ろしくて――それと向きあう強さも足りなかった。 「――――」  息が詰まる。  そんな少年にとっては、まさに地獄のような光景が広がっていた。 「…………」  吐き気をかろうじでこらえる。  面影もなく変質してしまった大宮殿の内部。淡く輝く黒水晶だけが光源となった水晶宮殿の中、ロウガは目を疑うようなモノを見てしまった。  水晶宮殿の壁。  黒いクリスタルの中に――ヒトが、いた。  ヒトの、……死体だ。 「…………」  見知ったヒトたちだった。大宮殿クリスタルファンタジアに残っていた同僚の兵士たち。上官である上級軍人や軍師。あるいは、女給さんや使用人。城に残っていたヒトたちが――絶望と恐怖に顔を歪めた無残な姿で、黒水晶に取り込まれ亡骸を晒していた。 「なんで――」  少年はつぶやく。 「何が起こってるんだよ……」  力なく項垂れた。 「――――、……!」  途端、こらえきれず、嘔吐する。 「……くそ」  何が起こっているのか、少年にはさっぱり分からない。  戦いがはじまり、恐怖し、人目を逃れるように隠れていたロウガである。事態を把握するすべなど持ち合わせているはずもなかった。  そんな少年を部屋から引きずり出したのは大宮殿を襲った未曽有の大異変である。大宮殿は黒水晶に犯されその形を変えてしまった。それだけでも常軌を逸した出来事だというのに、さらには泥で作られた化物まで出てきたのだからたまったものではない。襲いかかってくる敵から逃げ出すように――否、逃げ出すために、ロウガは引きこもっていた部屋から慌てて飛び出した。  月明かりも星明かりもない暗い世界。  淡く輝く黒いクリスタルに侵食され、大宮殿は面影すら残してはいなかった。  まるで世界そのものが書き換えられてしまったかのような有様に、ロウガは半ば錯乱状態でガムシャラに逃げていく。目的地なんてなく、背後から迫ってくるだろう泥の驚異から少しでも遠ざかりたくて、無我夢中で足を動かしていた。  やがて彼は違和感に気づく。  いくら走っても、どこにいっても――誰にも出会わなかった。  たまに見かけるドアを開けても、中には誰もいない。  本当に、どこにも、誰も見つからなくて、心は確かな恐怖に塗りつぶされていく。もしかしたら、この世界に自分だけが取り残されてしまったのではないかと――そんな根拠のない確信まで抱くようになってしまった。  しかし、その確信は最悪の形で裏切られる。  水晶宮殿を彷徨った末にロウガがたどり着いたのは地獄のような光景だった。狭い通路の水晶で出来た壁の中に、捜していた誰かたちは、いた。命を失い、苦痛に顔を歪め、黒水晶に取り込まれた姿で……見つかった。 「……くそ……」  吐くものを吐き出し、目尻に涙を浮かべながら、ロウガは先を急ぐ。  水晶の中で眠る彼らに何があったのかは分からない。ただ、いずれも深い恐怖と絶望の表情を浮かべており、ろくな死に方をしていないことだけは明白だった。……ここにいると、気が狂いそうになる。彼らの中に自分が混じっている光景を想像し、再び胃の中の物を吐き出した。  自分はどうして、ここまで弱いのだろう。 「くそ……」  よろよろと、歩いて行く。  逃げ出すために歩いて行く。  仕方がないだろう。こんな異常事態と戦うことが出来るのは、飛び抜けた馬鹿か状況を把握できない愚か者だけだ。普通は逃げ出す――それが当たり前の賢い選択だ。立ち向かおうにもそのためのキッカケさえ掴めないのが現状であり、大体、立ち向かわなければならない理由も存在しない。故にあがきたくてもあがけない。だから逃げる。目を閉ざし耳を塞ぎ、生きるためにただ逃げる。そのことを誰が責められるというのか。そう。だから自分の行いは当然の帰結だ。仲間だった者たちの亡骸が、絶望に暗んだ死者の眼差しが、自分を恨めしそうに見下ろしていたとしても――そんな幻など知らないし、ロウガの責任ではないのだから気にかけることもない。 「くそ……!」  水晶の通路をなんとか通り過ぎ、ロウガは突き当たりの扉を開ける。  泥が、蠢いていた。 「ひっ――」  一瞬腰が引けるロウガだが、すぐにそれが自分を狙ったものではないことに気がついた。泥は部屋の中央で蠢いている。まるで抵抗している何かを取り込もうとしているかのように少年には見えた。 「え、あ……」  蠢く泥の間から、ヒトの手が見える。  それが……自分のよく見知ったヒトの手であることに気がついたとき、ロウガは我知らず駆け寄っていた。側まで行き、ひざを付き、蠢く泥へと手を伸ばす。 「ぐ……!」  素手で触れたそれは焼けつくように熱く、心が腐食していくような気持ちの悪さに吐き気をもよおす。だがすでに吐き出すものなど胃にはなく、お陰さまで少年は正気を保つことが出来た。毒素に耐えながら一心不乱に泥を払いのけていく。  びちゃり。  びちゃり――  払われた泥が部屋中に散っていく。  手のひらが痛い。  皮が向け、血が滲んでいくのが分かった。  それでも、少年は突き動かされる感情のままに手を動かし続け―― 「――――」  蠢く泥の下から出てきた予想通りの誰かに、言葉を失った。  力なく頭を振る。  涙と共にやっと搾り出された言葉には、どこまでも深い悲しみが込められていた。 「……父さん」  そこには、父であるガロウがいた。  傷だらけだった。鋼のように思っていた父の肉体は、あまりにも多くの傷を負っていて……かろうじで人の形を保っているだけの、まるで引き裂かれたぬいぐるみのような姿になっていた。当然ながらすでに事切れており、その事実は、ロウガにあまりにも大きな衝撃を与えていた。  悲しかった。  そして……悔しかった。  戦い終え、眠りについた父の顔は男の顔であった。決して綺麗でも、安らかな顔でもない。目を見開き、力なく開かれた口の端からは大量の血の跡が見て取れ、はたから見ればそれは醜い死に顔であることだろう。だが――それは男の顔であった。誇りに満ちた顔であった。最後まで己の信念に恥じ入ることなく戦い続けた、戦士の顔であった。 「…………」  少年は思う。  自分が助けずとも、泥は父を飲み込むことは出来なかったのではないかと。  自分の生を全うしきって逝った男の亡骸を、この絶望をばら撒く泥は犯すことは出来ないのではないかと。  誰も――  父を冒涜することなど、出来はしない、と。 「――――ぅ……」  ボロボロになった自分の手と、父の亡骸を交互に見つめ――――……ロウガは嗚咽を漏らす。  何が……仕方ないだ。  何が、逃げるのが当然だ。  そんなことは言い訳だ。シュリアに言われるまま、戦いから逃げ出した。嵐が過ぎ去るのを待つように身を潜めた。異変が起きて――それでも、理屈をこねて逃げることしか考えなかった。  自分の非力さを自覚し嘆きながらも――それを嬉々として受け入れていた。 「……、ぁ……ああ――」  本当に自分の無力さを呪うのなら、どうしてそれに立ち向かわなかったのか。こんな自分でも誰かの役に立つことがあったかもしれないというのに。そうしたら――父が死ぬこともなかったかもしれない。仲間たちも助かったかもしれない。この異変も起きなかったかもしれない。  だというのに、自分は少女のささやきに甘え、さっさと逃げ出した。  全ての可能性を否定し――  ありとあらゆることから目をそらして、逃げ出したのだ。  どうして……  どうして自分はこんなにも弱いのだろう。  どうしてこんなにも情けないのだろう。  父の遺体に涙が落ちる。  こんな自分が、父の息子であることが――今は恥ずかしくてたまらなかった。 「……――ぅ、ぁ――」  少年は慟哭する。 「ぁ、あああああああ、あああああああああああああああああ……!!」  溢れ出す感情が吐き出されていく。  涙が止まらなかった。  自らの愚かさに――少年は泣いた。  涙が枯れ果てても、泣き続けた。                         ――――第七章へ続く