闇の国では、古から数多くの反乱が起こってきた。  そのほとんどが民たちの国の在り方への不満からくる暴動、その果ての争乱であり、たいていは地方の軍や警官隊がこれを鎮圧して終わりを迎える。  もちろん例外もあった。  時には貴族が背後で糸を引き、ただの暴動では終わらず明確なる反逆となって闇の国全土を巻き込む大事件へと発展することもあったのだ。そこまでの規模となると、もはや地方軍や警官隊ではどうしようもない。反乱に便乗する暴徒も続発し、全てを飲み込む濁流のように荒れ狂い続けるのみだ。  しかし、それでも闇の国の首脳陣からすれば瑣末なことであった。  暴動は暴動であり、所詮力なき者たちがただ無軌道に暴れまわっているだけに過ぎない。精鋭ぞろいの闇の軍団の前では反乱軍などただの烏合の衆でしかなく、まるで赤子の手をひねるかのように闇の軍団はそれを鎮圧し続けてきた。  荒れ狂う濁流も、闇の軍団という強固な堤防を撃ち貫く力はなかったのだ。  そう。  長い間、国情が不安定なこの世界を守り抜いてきたのは闇の軍団だ。軍人たちもまた闇の国の民である以上、魔王フォルトゥーナへの不平不満は持ち合わせている。だがその程度で揺らぐほど国家への忠誠心は薄くはないし、また一般人ごときの反乱に揺らぐような精神の脆弱さは持ちあわせてはいなかった。  言ってしまえば。  民が懲りずに起こしている反乱の類は、全て無駄な血を流しているだけなのだ。  いや。  だけであった、と言い換えるべきなのだろう。  風が吹いていた。  堤防を決壊させるほどの――大きく強い風が。  惡兎臣フォルトゥーナが病に倒れてから、すでに三年の月日が経つ。  その三年の間に再び反乱は加速した。だがそれもいつものこと。何の問題もなく闇の軍団の前に踏みにじられるはずだった彼らの意志は、しかしひとりの女性のもとに束ねられ巨大な槍となり、ついには闇の軍団の牙城を打ち崩すまでに成長を遂げていたのだ。  彼女の名前はエーデル。  赤い髪をポニーテールで結わえ、白銀の鎧をまとい、戦馬をまるで手足のように操る人馬一体の女性騎士。かつてフォルトゥーナに仕え、近衛隊クリスタルナイツの隊長も務めたエリート軍人。そして、今は反乱軍を率いる総帥だ。  彼女の半生は、希望と理想と、厳しい現実の狭間にあった。  エーデルは貴族の出身だ。当然のように幼少児から貴族社会に投げ出され、その腐敗っぷりを見て育った彼女は、しかしとても聡明な子でもあった。闇の国の腐敗を断ち切るべく同じ志をもつ仲間を集め、その根を張り巡らせることに注力した。同時に彼女自身も己を鍛え上げ、上級軍人の地位を手に入れクリスタルナイツの長にまで上り詰めた。  その目的のひとつは魔王であるフォルトゥーナとの接触だ。  貴族たちに担がれているフォルトゥーナ。意志を表に出すことのない飾りだけの魔王。なのに全てを支配し、全てを思い通りに動かすことの出来る少女。彼女がその気になれば貴族たちの腐敗を正し、この国の未来をもっと輝ける、素晴らしいものにすることも可能なのに、その力を行使しない病床の魔王。  彼女の意志を変えることが出来れば、きっとこの国はよくなる。  そのためなら、身と骨を砕いて陛下の力となろう。  並々ならぬ決意を持ってフォルトゥーナと接触したエーデルであったが――結局、手応えはなかった。クリスタルナイツとして、彼女の側に仕える女性のひとりとして、幾度となくフォルトゥーナの説得を行ったのだが彼女の答えはいつも曖昧だ。曖昧というのは、エーデルの主張が考慮されてのものではない。最初から考慮外、言ってしまえば聞き流しているだけなのだ。まるで面倒事から目をそむけるように、彼女は現状の破壊を拒絶していた。  民の不平不満がいくら蓄積されようと、フォルトゥーナは動かない。その声に耳をかたむけることはない。ただ自分の意志を押し付け続けるだけだ。そのために必要だから貴族たちとの馴れ合いも続け、魔王という地位と力でもって軍をも抑えつけている。  何のことはない。  この世界の歪みの中心は、魔王フォルトゥーナそのヒトだったわけだ。  それを理解したとき、エーデルは軍人をやめた。  彼女にとって大事なのは民の暮らしであり、民の意志が尊重される世界であり、民の声を聞くことはない現政権への思い入れなど欠片もなかったのだ。むしろ歪みの源であると知った以上、憎しみの対象ですらある。  そういう意味ではエーデルは革新的な女性であった。魔界は魔王という絶対者による独裁政権だ。それは闇の国だけではなく、他の魔界諸国にしても同じだ。もっといえば、地上世界とて変わらない。神聖帝国、聖王国、夢幻街。全て力ある者により統治され、民はそれに不満があれど従っている。それが当然なのだ。逆を言えば――独裁制でありながら、その力を正しく行使しようとしないフォルトゥーナの生み出した闇の国の歪みが、エーデルという女性を生み出したのかもしれなかった。  退役したエーデルは、根を張り続けた仲間たちと共にまずは貴族を抱き込んだ。彼らの多くは既得利権を手放すことを極端に恐れる。その結果、改革などへ消極的になりこの国の腐敗構造はいつまでも続いていくこととなる。しかしその一方で、新たな利益をちらつかせればそれに飛びつく狡猾さも持ち合わせているのが貴族という生き物だ。  手順は簡単だ。  かつて反乱を企てた貴族がいたように、今もフォルトゥーナへ弓引くことを諦めていない貴族も水面下では存在する。彼らのその気持ちは愛国心から来るものではなくただの野心、権力欲からくるものであるが、現政権打倒という過程はエーデルたちと同じであり、協力する価値は十二分以上にあった。野心滾る貴族たちを背景に、続いて既得利権にすがる不抜けた貴族たちをたぶらかしていく。目の前に『新たな魔王』という餌をぶら下げてやれば、彼らは面白いように釣られてくれた。  もっとも、いくらエーデルが元近衛隊長であり、幼少児から構築してきた優れたパイプラインをもっていたとしても、ここまで話を持っていくのには相当の苦労があった。貴族というのは本当に狡猾なのだ。下手に動き、軍へと報告されたら一連の計画はすべてオシャカになってしまう。事の運びは慎重に慎重を重ねて行われねばならない。最近になって坂を転がるように順調に計画が進みだしたのは、ひとえにフォルトゥーナが病に倒れたせいだろう。  いつもは倒れても回復していたフォルトゥーナだが、今回だけは様子が違ったのだ。いつまで経っても回復の兆しが見えない。それどころか日々悪化し続けてすらいる。その情報が貴族たちを、さらには民たちを駆け抜けると――反乱の機運が一気に高まったのだ。それも、今までにない過度と勢いで。  そうして、多数の貴族をパトロンに新たに結成された反乱軍の中核を担うのは、エーデルとその友人たちが鍛えあげてきた独自の戦士たちだ。彼らはただの暴徒ではない。エーデルたちが軍学校や実戦で学んだ様々な知識をもとに徹底的に鍛えあげてきた、いわば闇の軍団を倒すためだけの戦闘部隊であった。  それだけではない。  彼らを中心に、新たに集まってきた反乱への参加者たちへも、まずは様々な訓練を課し戦い方の基礎を教えた。また、在野から優秀な人材が集まってくるようにもなり、彼らを適材適所、その活躍に見合った地位へと登用した。それにより全体的な戦力の増強が行われ、ついには闇の軍団と戦えるまでに反乱軍は成長していたのだ。  巨象と蟻だった両者の関係は、ここにきてついに対等と言えるまでになったのだ。  反乱軍の快進撃は続いた。  堤防を撃ち貫いた槍を止める手立ては闇の国にはもはやなかった。気の遠くなるほどの歳月、たまりにたまった魔王への鬱憤が吹き出すように民の多くは反乱軍へと加担する。軍はその勢いに恐れをなし、手のひらを返すように反乱軍へと身を寄せる者まで現れる始末だった。  風が吹いていた。  この世界を大きく変えようとする――風が。  首都クリスタルファンタジアを臨む位置にある要塞――カルベダ要塞。  魔王城を防衛するための最大の盾と称されているこの大要塞が陥落したのはつい先日のことだ。長く厳しい戦いだったが、反乱軍は見事にこの難攻不落と謳われた大要塞を攻略し、ついに魔王城――大宮殿クリスタルファンタジアへ王手をかけることとなった。  今は補給を兼ねた兵の休養の時であり、大宮殿攻略のための準備を着々と進めているが、エーデルにはひとつの懸念があった。確かにカルベダ要塞は闇の国最大の要塞である。ここを落としてしまえば、残るは首都を守る城壁を構築するオーヅカ要塞群と、首都そのものである大規模な森林、そして中央にそびえる大宮殿だけだ。  標的は目の前である。  だがそれだけに、相手は全力で挑んでくることだろう。将軍級の魔族はほんとうに強い。一騎当千の化物揃いであり、いくら訓練を積んだとして力なき民が敵う相手ではない。彼らの相手をするのは自分たち反乱軍を束ねる主力戦士の役目となるだろう。  それはいい。  もしかしたら死ぬことになるかもしれないが、例え自分が志半ばに散ったとしても、この改革の波はとめられまい。必ず遺志をついでこの国を変えてくれるはずだ。  問題なのは……大宮殿の前に立ちふさがる最後の盾である。大宮殿に仕えたことのある上級軍人ならば知っていることだが、それはオーヅカ要塞群ではない。確かにオーヅカ要塞さえ攻略してしまえば残るは森と魔王の居城だけとなるが、それはいわゆる罠であり、勢い込んで大宮殿に突撃を仕掛ければ必ず惨めな敗北を喫するようになっていた。  そう、最後の盾とは首都クリスタルファンタジアを形成する大森林そのものなのだ。  大宮殿を中心に広がる広大な森には迷いの呪いがかけられている。意気込んで突撃したが最後、その呪いにかどわかされ永遠と森をさまよい続けることとなってしまう。例え何を目印に進もうと、空を飛ぼうと、正しいルートを進まない限りは二度と抜け出ることはかなわない。それこそが迷いの森の呪いなのだ。  その、正しいルートが分からない。  迷いの呪いは時と場合により変質する。平時の抜け道ならばエーデルとて知ってはいるのだが、首都防衛用の抜け道となるとさっぱりなのだ。そんな状態で反乱軍を突撃させればどのような惨事が待っているか――考えるだけで恐ろしい。  しかし…… 「…………」 「なにか?」 「いや……」  要塞の司令室。そこでエーデルはひとりの男と密会を交わしていた。別にいやらしい意味ではない。そういう意味ではこの青年はエーデルの趣味とは限りなく正反対だし、なによりその心根には反吐が出そうになるほどであった。  男が秘密裏に反乱軍へと接触を図ってきたのが数時間前のことだ。  王を支える軍幹部の突然の来訪にエーデルは身を硬くしこれと向かい合った。罠の可能性は依然として存在し、本当なら一対一など願い下げなのだが……相手はどうしてもそこを譲らなかった。面会を拒絶することも考えたが、それを実行するには相手の持ってきた情報があまりにも稀有にすぎたのだ。 「不服かね? 今の君達にはこれ以上にない情報だと自負しているのだが」 「…………」 「必要なのだろう? 迷いの森の抜け道の情報が……」 「――それを、素直に信用するとでも?」 「私が信じられないと?」 「信用する理由がない」  じろりとエーデルは男を睨めつける。  男とは既知の間柄だ。かつてエーデルが近衛隊長を担っていた時期に散々顔を付き合わせてきた。その当時の彼の印象は良くも悪くも実直な男であり、エーデルの評価も高かったのだが……それゆえに、この男がフォルトゥーナを裏切るとは信じられなかった。 「時代が変わろうとしている」 「…………」 「もうフォルトゥーナは長くはないだろう。もしそうなったとき、訪れるのは出口の見えない混乱だ。私はそれを回避したい」 「混乱? 笑わせるな。お前さえいれば、そんな無様な事態にはならないだろう」 「…………」  男は瞑目する。  そして、自らの腕を掲げると――その裾をまくった。 「――――!」 「……そういうわけだよ」 「………解せんな」  唸るようにエーデルは言う。 「貴様は……フォルトゥーナを支えるため、その身を投げ打ってきたはずだ。我らがなそうとすることは、その魔王の排斥だ。……ことがなった暁には……彼女に関わる全てが憎悪の対象として処罰を受け、この国は新生を迎えるだろう」 「それが?」 「フォルトゥーナを支え続けることを……後継者の育成すらせず、何故、放棄したのだ」  男は優秀だ。彼がその気でいたならば、後継者を育て上げることなど造作もなかったはずなのだ。それに、彼が今のような事態が訪れることを予期していなかったとは考えられない。これではまるで―― 「飽きたからだよ」 「…………」 「私はもう飽きた。そもそも彼女を支えること事態が私にとってはひとつのゲームだ。それを次代に引き継がせようとは思わない。だが、混沌としていくだろうこの国を置いていくことも許容は出来ない。私の責任でもあるからな」  言葉を切ると、男はまっすぐにエーデルを見つめる。  迷いのない、強い意志を宿した瞳だった。 「だからこそ、私は君に託そうと思う」  ……ふざけたことを、とエーデルは思う。つまりは今まで遊戯のためにこの国を弄んでいたというのか、この男は。そしてその後始末を自分たちに押し付けようというわけだ。なんという傲慢さ。なんという自己中心的な考えだろうか。  だが―― 「……いいだろう。少なくとも……信じてみる価値はありそうだ」  彼の言葉に嘘偽りがないことだけは、事実であろう。  彼は本気で反乱軍の肩を持とうとしている。事後を託そうとしている。ならばその情報に嘘はないはずだ。エーデルは決してお人好しな女ではないため、念には念を込めて本当に彼の情報が正しいのか検証は徹底して行うが――今この時は、目の前の青年を素直に同胞として迎え入れてもいいと、そう思った。 「ありがとう」 「……こちらこそ」  ふたりは握手を交わす。 「それで、今後のことだが――」 「そのことなら、私は私で勝手にやらせてもらえないだろうか」 「……なんだと」  冷たい目で青年を見据えるエーデル。 「君も知ってのとおり、私の立場は非常に目立つものだ。今日もこうやって人目を偲んで君たちと接触をはかったわけだが、それにも相当の苦労をしているのだよ。だから、君たちと定期的な連絡をとることなど不可能だし――まして、このまま反乱軍に身を置くわけにもいかない」 「――私たちの動きと同期する気か?」 「話がはやくて助かるよ」  男は微笑む。  迷いの森の攻略法を得た反乱軍は、要塞を出て首都攻略に乗り出すだろう。もちろん闇の軍団は反乱軍を迎え撃つために出撃する。迷いの森はあくまで最終防衛ラインでありそれに頼った戦略などもっての外だ。おそらく森の前に築かれたオーヅカ要塞群を舞台に最大の決戦が行われることになるだろう。男はそれに乗じて反乱を起こすというのだ。もしそうなれば闇の軍団は致命的な痛手を受けることとなり――反乱軍の勝利は揺るがないものとなる。  えげつない話だ。  エーデルとしては、この作戦は王に仕えるものとしての誇りを踏みにじる外道な行為であり、実に不愉快なのだが……背に腹は代えられまい。……いや、反乱などを起こしている時点で、自分に彼を非難する資格などはないのだろう。 「それにしても……」 「なんだ?」 「今までお前が見せてきた忠誠の結末が裏切りとはな。大した風見鶏だよ。失望したと言い換えてもいい。フォルトゥーナも、お前を信じているだろう多くの軍人たちも、このことを知ったら同じ気持を抱くことだろうな」 「ふ……」  男はただ微笑む。  エーデルの挑発に対する対応は、それだけであった。 「……ふん」  この程度の挑発で揺れるほど、安易な気持ちでこの要塞の門を叩いたわけではないらしい。 「期待しているぞ」 「ええ。お互いに」  季節は、冬――  春の足音が聞こえはじめた、冬の終わり。      ■■■ 「ああ、もう……!」  荒く息を吐き、肩を怒らせながら早歩きで少年は大宮殿を歩いて行く。急いでいるのに走らないのは彼が『通路は走るな』というルールに真面目で几帳面だからではなく――いや確かにそういう性格ではあるのだが――この場合は単に走り疲れ、息切れしているだけに過ぎない。  少年の名は、ロウガ。  闇元帥ハーディアスの他に惡兎臣フォルトゥーナの腹心はふたり存在するが、そのうちのひとりである狼将軍ガロウの息子である。年老いてからできた子供だけに随分と可愛がりという名の修練をつまされたらしく、なかなかに才気溢れる若者だ。その主な才能は武ではなく文。今年の春、軍学校を主席で卒業したばかりの少年の主な仕事は、軍師たちの補佐である。まだまだ手緩く青臭いところも多いが、鍛えていけばいずれはよい軍略家にもなれるだろう。  そんな彼は、ここ数日は仕事に忙殺されていた。  ろくに睡眠も食事もとっておらず――先ほどなどは軽い目眩さえした。体が資本の兵士や常に最適な思考を求められる軍師たちと違い、ロウガのようなていのいい小間使いは、こういう時には雑用その他を一手に引き受けることとなり、まさに寝る暇もないほどの仕事量をこなすこととなる。  だが、文句など言ってはいられない。  カルベダ要塞が落とされて一週間――偵察隊よりついにその一報が届いたのだ。  ――敵、進軍ヲ開始セリ。  ついに、この国の命運を左右するだろう一大決戦が、その幕を落とそうとしているのだから。 「こんな時こそ、僕達が頑張らないと」  軍学校を主席で卒業したロウガであるが、彼は決して天才ではなく、言うなれば努力家の秀才だ。貴族という特権に溺れ堕落していく同級生たちを尻目に、日夜己を磨き上げるための研鑽の日々を送ってきた。庶民出身でありながら将軍にまで上り詰めた父を持つが故の、それは意地と義務と――誇りであった。  それは大宮殿に勤めはじめてからも変わってはいない。  ここには天才が多すぎた。  闇元帥ハーディアスは言うに及ばす、鬼将軍ラセツや自分の父である狼将軍ガロウもまた天才だ。ずっと見続けてきた父の背中はどこまでも大きく遠く、とても自分では追いつけるとは思えなかった。  時々、不安になる。  ちょっとやそっとの肉体酷使で息切れしているような自分が、果たしてこの先、この天才たちの間でやっていけるのだろうか。自分がいかに小者なのかは痛いほど知っている。体力の無さは生まれついてのものだし――そもそも同世代の魔族と比べればロウガの体力はずば抜けている。凡人の中では明らかに優秀すぎるほど優秀なのだ――鍛えられるだけは鍛え尽くした。あとは自慢の頭脳で着いて行くしかないが、それすらも心もとない。  昨今の情勢で合わさって――ロウガは、未来が深い闇の底へ沈んでいるような気さえしてしまう。 「なにを、馬鹿な」  弱気になってどうするというのだ。  こういう時こそ気をしっかり持たなくてはいけない。  ない頭ならひっくり返せ。底の底まで搾り出せ。残りカスですら貴重な財産だ。今自分にできるありとあらゆる力を総動員し不可能を可能にしてみせろ――!  誰かがそう言っていたことを思い出す。  さしあたっては―― 「近道を、していこう」  なにも馬鹿正直に通路を歩いて行く必要はない。ロウガは自分の脳内にしっかりと刻まれている大宮殿の地図を俯瞰する。今の自分の体力で行動可能な目的地までの最短距離を弾きだす。 「よし――」  脇道にそれる。  普段はあまり使われることのない大宮殿の区画のひとつを通る。あまり手入れがされていないために少々埃臭いがそんなことはどうでもいい。今は一刻も早く目的地に着くことが重要なのだ。 (…………)  そうだ。例えばこの区画、こっそりと犯罪者の処刑場になっているだとか、夜にはお化けが出るだとか――それらの噂のせいで人気がないのを利用して、男女がしっぽりやるには好都合だとか、そんなろくでもない噂が多くとも、今のロウガにとっては関係ない。関係ないったらないのだ。  そんなことを、考えていた時―――――だった。 「――……――よ」 「……そう――――な――……」  どこかから、声が聞こえてくる。  とても、とても小さな、声……  反射的に足を止めてしまうロウガ。獣人としての彼の特徴のひとつである犬の耳がぴくりと反応し、思わず聞き耳を立ててしまう。 (ゆ……ゆーれいがでるには、まだ早い……ぞ……)  冷や汗を流すロウガだが、聞こえていた声が男女のものだと理解した瞬間、今度は顔が赤面した。尻尾が激しく揺れる。 「いや……いやいやいや、いやいやいや――いや――」  けしからん想像を払うように顔をぶるんぶるんと振る。  そ、そうだ。自分は急いでいたのだ。こんな所でのんきに足を止めている暇はないとっとと移動しようよっこらしょ――  とりあえず脳内でグチャグチャになった思考を整理し、足を動かそうとする。  そのタイミングを見計らったかのように、  ガチャリと、  視界にあるドアのひとつが音を立てて開いた。 「ぎゃあ!!」 「む――なんだ?」  思わずスットンキョウな叫び声を上げたロウガを、部屋から出てきた青年がいぶかしむように見つめる。 「は……ハーディアス、様!?」 「君は……ロウガ君だったか」 「は、はいっ。な、なんでしょうか!?」  ビクリと肩を震わせ声を上ずらせる少年の姿に、ハーディアスは内心ため息をつく。確かにロウガは春に軍学校を出たばかりの、経験も浅い素人文官であり、自分は闇元帥と呼ばれるこの国の筆頭将軍だ。その地位の差は驚くほどに隔絶している。だがしかし、もっと肩の力を抜いてもいいと思うのだが。こんなに気が小さくては、いつか胃を痛めながらハゲ散らかしそうで心配である。  もっとも、ロウガがここまで動揺しているのにはそれなりにワケがあるのだが――そんなことにはちっとも気が回らないハーディアスであった。 「こんな所で、君は何をしているのかね?」 「あ、は、はい――! その、ラセツ将軍を探しているのですが……」 「ラセツ将軍?」 「は、はい。出陣の準備が整うまで、用事があるとかで行方が分からなくなりまして。おそらく陛下のところに顔を出しているだろうから、それで、探してくるようにと」 「なるほど――まったく。手間のかかる奴だ」 「ハーディアス様も、出陣の時間のはずですが……」 「…………」 「あ、す、すいません! 失礼しました!!」 「いや……言うじゃないか」  ハーディアスはニヤリと笑った。 「君はもっと自分に自信を持ったほうがいい。それだけの実力を君は持っているのだからな。――では、私はそろそろ行くとしよう。これからも期待しているぞ、ガロウ君」 「ロウガです」 「…………」  ハーディアスはつくづく思う。  どうしてこう――紛らわしい名前をつけたのだろうか、あの親父殿は。 「……ロウガ君。はやくラセツの所へ行くといい」 「は、はい」 「では、な――」  かっこ良く決めたつもりが大きく滑ったのが気落ちしたのか、ションボリと肩を落として闇元帥と呼ばれる男は去っていった。これが原因で戦に負けるようなら、歴史を変えた男として自分の名前は刻まれるのかなー、でもそれが何故かガロウと書かれてたりするのかなーとか、最高に不幸な想像をしてしまったロウガであった。  と―― 「あれー、ボンボンじゃないですかー」  聞き覚えのある少女の声に、ロウガは振り返る。  ハーディアスが出てきた部屋の中から、ひとりの少女が現れる。意地の悪そうな顔をした小柄なウサギ獣人の少女が、やはり意地の悪そうな表情で少年をなめくさった瞳で見つめていた。 「……ボンボンはやめてください」 「それじゃ、これからは親しみを込めてコロコロと呼んであげますよー」 「…………」  意味がわからなかった。  少女の名前はシュリア。ラセツ将軍の副官を務める上級軍人の少女にして、ロウガにとっては軍学校の元同級生である。とはいえ別に親しかったわけでもない。ロウガはただの秀才だが、シュリアは掛け値なしの天才であった。父が庶民出身であり、なおかつ軍の幹部という立場であるために軍学校では不安定な立ち位置にいることを余儀なくされたロウガと違い、この少女は圧倒的な実力でもって孤高の地位を築き上げ、全てを寄せ付けることがなかったのだ。いや――誰も寄ることが出来なかったのか。  彼女は彼女だけのルールで、自分のためだけに動いている。  ロウガはそう感じていた。  事実――シュリアはあっさりと軍学校から去ってしまった。とある事件により療養していたロウガが復学すると、彼女の存在はまるで陽炎のように軍学校から消えていたのだ。  きっと、軍学校での生活よりも魅力的な何かを見つけたのだろう。  だからあっさりと、それまでの生活を捨ててしまった。  素直に、すごいと……そう思う。  家の、父の束縛に抗うことも出来ない自分自身が嫌になるくらい……羨ましかった。  そうして――――天才少女はロウガの前から姿を消した。  消したはず、だったのだが。 「…………」 「なに見てるんです? 殺しますよ」  まさか軍で再会するとは思ってもみなかった。  しかも相手は級友のことを欠片も記憶していなかったというのだから――なんというか、始末に悪いと思う。  と、いうか。 「…………なんでそこから、あなたが出てくるんですか?」  部屋は密室だ。つまりつい先程まで、ハーディアスとこの少女は密室でふたりきりだったことになる。まぁ、その。なんだ。この区画はそういうことに使われたりもするらしいそうだし、一大決戦を前に気分が盛り上がっちゃってそういうコトになってもおかしくはない……のだろう、多分。そうなるとつまりアレか。このふたりってそういう関係なのだろうか。  いやでも―――― 「きゃー、いやんもう、そういうこと聞かないでほしいなぁー。えっち」  頬に手を当ててくねくねするシュリア。 「……見なかったことにしよう」 「どういう意味ですか、それ」 「僕はハーディアス様をロリコンにしたくない」 「んまっ! 失礼な!」 「だって……」  シュリアの実年齢はともかく(と言ってもロウガと同級生だったのだから一歳若いか年上かだろう)、その見た目は完全に子供だ。魔族は一定の年齢まで歳を重ねると成長が止まり長い青年期に突入するが――それには個人差が大きい。二十代後半で青年期を迎える者もいれば、目の前の少女のように十代前半でそれを迎える者もいるということだろう。 「だって、なんです?」 「……なんでもない」  シュリアから目を離す。元同級生のこの小さな少女が先程までしっぽりやってたかと思うと……ものすごく居心地が悪い。というか怖い。こんなんでもやることやってるんだなーとか、やるとしたらどんなことをやってるのかなーとか、そういうことをしてる時はどんな顔をしているのかとか、その服の下はどうなってるのかとか、まぁ、そんな目でこの少女を見てしまう自分自身にも、嫌気がさしそうだった。 「……まったく。ハーディアス様も何を考えて――こんな……」 「この国のことに決まってるじゃないですかー」  少年の毒づきに、少女はあっさりと答えてみせた。 「ボスの脳みその中は、いつだってこの国のことしか入ってないですよー、くくく」 「…………」  なんでそこで、そんな邪悪な笑い方をするのだろうか……? 「国、か」  反乱が多発し、それはついに大きな内乱にまで成長し、ついには魔王の喉元にまでその刃先を突きつけている。決戦の時は近い。もしかしたら――明日にでも、死んでしまうかも、しれないのだ。  背筋が、震えた。  仕事に忙殺されることで、あえて忘れようとしていた感情だった。  それは軍人として……いや、男として絶対にいだいてはいけない、情けない心の叫びであった。 「……シュリア将軍」 「シュリア様って呼べよモヤシ」 「…………真面目な、話なんです」 「……んー」  ちょっとだけ、シュリアの道化じみた態度が直ったような気がした。  震える声で……ロウガは、気持ちを吐露する。  この情けない気持ちを、誰かに聞いてもらいたくて仕方がなかった。聞いてもらい、楽になりたかった。この震えを抑え――再び直面した危機と向かい合う力を取り戻したかった。 「……シュリア将軍は……怖く、ないんですか?」  だから、吐き出した。  男としてあるまじき弱音を、少女の前で吐き出した。 「もしかしたら……死んでしまうかもしれないんですよ?」  それはロウガよりも目の前の少女こそがより深刻な問題のはずだった。ラセツの副官として活躍している彼女は、当然、血と刃が舞う戦場こそがそのステージだ。後方で雑務をこなすのが仕事であるロウガよりもよっぽどその命を散らしやすい。いくらシュリアが突き抜けた戦闘の天才とはいえ死ぬときは死ぬ。それがわからないシュリアでもないだろう。  故に――聞きたかった。  彼女が戦場をどう思っているのかを。  どのようにして――自らを鼓舞しているのかを。  なのに。 「怖くないですよー」 「え……」 「他の人はどうか知りませんが、私は怖くなんかありません。戦場で死ぬ? 結構じゃないですかー。世の中起伏があるから面白いんです。それぐらいのイベントがあった方が盛り上がるってものじゃないですかー」 「――――」  絶句した。  シュリアの言葉に、ではない。確かに彼女の返答は予想外ではあったが、同時に想定内でもあったのだ。なぜなら、彼女は学生時代から隔絶していたから。彼女の行動を理解できるものは軍学校にはひとりもおらず、それはロウガとて同じだった。そんな少女に自分の望む答えを期待してしまったのは――単に少年の甘えだろう。はからずも少女を女としてみてしまったが故の、みっともない自慰行為でしかない。  少年が絶句したのは――少女のその表情だ。  死んでもいいと、戦争なんて怖くないと語る彼女の顔には微笑みすら浮かんでいたのだ。その表情にロウガは背筋が氷るような気分を味わった。それは無邪気でありながら狂気であり、この国の行く末なぞ微塵も気にかけていない、まるで傍観者のような微笑であったのだから。  例えるなら、まるで適当な雑誌を読んでいるような無関心さ。 「本当に……わかって、いるんですか?」 「んー?」 「これが命をかけた戦いだって――本当に分かっているんですか、あなたは! 物語でもなければゲームでもない! 斬られれば血が出るし、殺されれば死ぬんです! なのに、そんな―――」  言葉は最後まで続けられなかった。  ひやりと――  ロウガの首筋に、少女の手刀が突きつけられていた。マナを込められたそれは文字通り手で作られた刀であり、彼女がちょっと力をいれれば少年の首などコロリと落ちていくことだろう。 「……試してみます?」 「――――」 「ヒトの命なんて何の価値もないってこと。試してみますか?」 「――しゅ、り……」 「ポロっと落ちるんですよ。そしてコロコロと転がっていくんです。血が噴水みたいに吹き出すんですが、あれはあまり綺麗じゃないから私は嫌い。でも落ちた頭は好き。蹴っ飛ばすとボールみたい。そういえば学生時代、玉蹴りの授業がありましたよね」 「しゅり、あ……」  背伸びをすると――ロウガの耳元で、ささやくように、シュリアは言った。 「――――玉役、やってみますか……?」  瞬間、少年の中で何かが切れた。  目が回る。胃が痛い。目がチカチカする。喉がひきつる。世界は黒々と闇の渦へと巻き込まれていき――正常な思考などあっという間に打ち砕かれた。その後に残ったのは本能だけ。生きていたいと願う――純粋な、生存本能だけだ。 「ひ、あ――――」  情けない声を出し、ロウガはストンと腰を着く。力が入らない。立ち上がれない。手足は震え、両眼からは涙だけが流れつづける。まるで全身の血が霧散したかのように体が寒い。震えが収まらない。  こわい。  こわい。  こわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい――――こわい。  目眩がする。  吐き気がする。  これが悪意なのか。これが殺意なのか。こんなものが戦場では垂れ流されているというのか。こんなものの中を、この小さな少女は平然と駆け回っているというのか。こんなものを、この少女は――戦場で発しているというのか。  これが戦士。  天才とまで称される戦士。自分と同年代で、なのに自分よりもはやく軍学校を抜けだして、何度となく戦場に立ってきた少女。その手で数多の命を狩ってきた闇の国の戦乙女。  それはこんなにも……自分と違う生き物なのか。  ロウガは恐怖する。  これから起こるであろう決戦の時。それに向き合い立ち向かうだけの心の柱はすでに跡形もない。小さく矮小な、ロウガという無力な少年の姿だけがそこには残されていた。  こわい。  こわい。  こわい―――― 「ぷ」 「え――」  そんな少年の醜態に――少女は、思わず吹き出した。 「ふ――ふふ、ぷぷぷ……なぁに、マジな顔してるんですかー?」 「――――」 「そんな真剣にならないでくださいよー。ちょっとしたジョークじゃないですかー。それともなんですか、おしっこちびっちゃうほど恐かったんですか?」 「え、あ――――」  言われて、みる。  見事なまでに、……………………失禁していた。 「――――ッ!!」 「くくく……まぁ、恐かったら隠れてればいいんですよー。どーせあなたなんかいた所でツマヨウジの方がまだ役に立ちますから。ことが終わるまで隅っこで小さく丸くなって震えてる。それが賢い生き方ですよー」 「…………。――――……そう……ですね……」  静かに、うなずく。 「こんな僕に出来ることなんて――なにも、ないんだ……」  何を自惚れていたのだろうか。  ガロウの息子としての意地や誇り、軍学校を主席で卒業した努力。そんなものは戦場では何の意味もない。必要なのは純粋な実力だけだ。非力で弱い心しか持たないような男が戦場にいた所で味方の足をひっぱるだけで、それは後方支援を主な仕事とする文官とて変わらないだろう。  無能な味方など――ゴミにすら等しい。 「僕に……は……」  うつむき唇を噛み締める。  こんな自分を悔しいと、情け無いと、そう思える心が未だに残っているのが不思議だった。 「凹むのは勝手ですけどー。ちゃんと仕事はやってくださいよー」 「え……」 「ししょーのこと。呼びに行く途中」 「あ……」 「ほーら。とっとと行ってください」  少年の手を取り立ち上がらせる。先程まで腰を抜かしていたロウガだが、なんとか回復したのか、かろうじで己の足で立って見せた。 「で、でも……」  自分の股間を見下ろす。失禁の後がはっきりと見て取れた。 「そんなの誰も気にしませんよー。気にしたとしても恥をかくのはあなたですからー、何の問題もありません」 「僕には大問題だよ!?」  それに、である。 「……シュリア将軍の方が足はずっと速いでしょう。僕の代わりに、ラセツ将軍を呼んできてください。お二人は一緒の部隊ですから、そのまま兵と合流して出陣して頂ければそれで大丈夫です」 「えー。でもししょーって今フォルトゥーナの所にいるんでしょー。行きたくないなー」 「フォルトゥーナって――呼び捨てですか」 「誰も聞いていないし問題ないでしょ。私、あいつ嫌いだしぃー」 「嫌いって……」 「だってさー」  シュリアはウサギ耳をピコピコさせると、不満そうに言った。 「キャラかぶってるじゃん」 「…………」  それはない、と思ったけど突っ込むのも面倒なのでスルーしたロウガであった。 「……将軍。発言には気をつけてください。今はこんなご時世なんです。反逆罪で処罰されても文句は言えませんよ……」 「りょーかーい」  絶対に了解していないだろうなめくさった声と態度で、シュリアは了解した。 「とりあえず私はイヤですから。てかー、自分の仕事をヒトに押し付けないでください。面倒ですから。なのでー。ほら、さっさと働けよモヤシ」  ゴス。  言い捨てると、乱暴にシュリアはロウガの背中を蹴り飛ばした。 「ゲホ――げほ、げほ」 「ひょろっちぃ……もう少し鍛えてくれないとつまらない……」 「な、なんなんですかあなたは!?」  本当に、意味が分からない。  何から何まで、ロウガの常識では理解出来ない少女であった。 「わかりました。ラセツ将軍へはちゃんと僕が知らせに行くので――シュリア将軍は兵たちと先に合流していてください」 「おまかせあれ」  シュビッと軽く手を挙げると、スキップするような軽い足取りで、シュリアは去っていったのだった。 「……………」  まるで気負ったような様子が見えないその背中。  小さな背中は、だけど、まるで父の背のような――戦場を生き抜いてきた戦士特有の偉大さを感じてしまう。 「……畜生」  つぶやき、ロウガも歩き出す。  まだ体の震えが収まらないのか、一歩一歩が、ひどく、重い。  自分はどうしてこんなにも小さいのだろうか。  どうして――こんなにも、弱いのだろうか。 「…………」  世界が滲む。  拭っても拭っても、滲み続ける。  やがて少年は拭うのをやめた。  ――――今はただ、足を動かそう。  自分に与えられた任務を――ちゃんと、こなしていこう。  そこから先は……また後で、考えよう。 「……――ふ、ぅ」  噛み締めた唇から声が漏れる。  しばらく――滲んだ世界は、元に戻りそうもなかった。  よれよれと不安定な歩き方をしながら去っていく後ろ姿。  それを見て、シュリアは。 「……つまらない男」  吐き捨てるように、つぶやいた。  それが最後。  それっきり、この少女が少年のことを思い出すことは、二度となかった。      ■■■  ベッドの上で、フォルトゥーナは静かに眠っていた。  大宮殿クリスタルファンタジアの最奥――城主たる魔王、惡兎臣フォルトゥーナの寝室にある豪華なベッド。持ち主の趣味が色濃く反映され、魔王というよりはお姫様といった方が相応しい可愛らしい装飾が施されたベッドに眠る小さな少女の姿は、どこか眠り姫を連想させた。  今、世界を揺るがす大動乱を前にして、その憎しみを一身に浴びるだろう小さな少女は、何よりも深い眠りの中にいた。反乱軍も闇の軍団もそれぞれがそれぞれの立場で決戦に息を荒げる中、外の喧騒を隔離したかのように寝室はただ静かで――まるで、主を守るゆりかごのようですらあった。  もしかしたら命を失うかもしれない……  そんな一大決戦を前にフォルトゥーナが眠りこけているのは、彼女が世の動きを知らない無知者だからでも、まして魔王の名に相応しい剛胆者だからでもない。 「…………」  眠り姫のようにどこまでも深い眠りに落ちている少女を、ラセツは静かに見下ろしている。少女の顔色は青い。もともと色白であったが、今となっては病的な白さであり、それは死者の顔とどれほどの違いがあるというのだろうか。小さな呼吸だけが、彼女がまだこちら側にいることを主張していた。  小さく、本当に小さく……寝息を立てている。 「……フォルトゥーナ」  死んだように眠りについている少女の頭を、青年は優しく撫でる。こうされるのが彼女は好きだった。頭を撫でてやるたびに、少女は様々な表情を青年に返してくれて――それは密かに、青年の楽しみでもあったのだ。  だが、少女はもう笑わない。  ただ静かに、規則正しい寝息を立てるだけだ。 「…………」  少女が倒れてから三年。  フォルトゥーナはもともと原因不明の病を患ってはいた。どんなに元気に見えても、その体調は健常ではなく――例えるなら、常に微熱と気怠さがついてまわるような状態であったらしい。だが、それだけだったのだ。稀に彼女の精神が揺らぐことにより極端な悪化を見せることがあったものの、あくまで一時的な体調不良に過ぎず、発作さえおさまれば体調は回復に向かっていた。  病がぶり返した当初は、みんな――それこそフォルトゥーナ本人でさえ、一時的なものだと思っていた。少し休めばまたいつも通りの日常が戻ってくるのだと、何の根拠も確信もないのに信じて疑わなかった。  本当に、愚かだったと思う。  意味のない楽観などしないで、ちゃんと最初から病と向き合っていたならばこうまで悪化することはなかったかもしれないのだ。もちろん、おそらく奈落の呪いからきているだろう彼女の病を治せるものなど世界中どこをひっくり返しても存在するはずはなく、ラセツたちがいくら足掻いたところで結果は変わらなかっただろう。理性はそう結論づけている。だが、理性は騙せても感情までは騙せない。拭いようのない後悔は今も変わらずラセツの胸を締め付けている。  フォルトゥーナの病は今までと違っていた。  何日、何週間、何ヶ月経っても回復の兆しは見えず、それどころか日を追うごとに悪化していく。食欲がなくなり、発熱が続いた。頑張って飲み食いしても、それを消化できず吐き出してしまうようになった。仕方なく点滴で栄養を補うようになり――みるみるうちに少女はやつれていった。眠りが長く深く続くようになったかと思えば、まったく眠れない日々が続くこともあった。十日間眠り続けたかと思えば、次の日から一週間以上起き続けた。それも一年が経つ頃には落ち着いた。少女の一年は、ほぼ眠りに付くことで過ぎていくようになった。そんな日々の果てに――体力は極限まで削ぎ落とされ、もはや彼女はひとりで歩くことさえできなくなっていた。  まるでフォルトゥーナという存在を改変されていくような――そんな錯覚さえ、覚えた。 「フォルトゥーナ……」  ラセツの目は、暗い。  その奥に燃えている感情がなんであるのか――それは本人ですらわからない。。  彼女の笑顔はいつだって思い出せた。笑顔だけではない。泣き顔だって、拗ねた顔だって、怒った顔だって思い出せた。たとえこれから先、何が待ち受けていようと決して忘れることはないだろう。ラセツの心には少女への確かな想いがある。だがそれをなんと形容するのか彼は知らない。世界中の誰もが知らないだろう。本人ですら理解出来ないものを、他人がどのように言葉を飾ったところで意味などないのだから。  ただ、わかっていることは。  彼女がここで待ち続けている限り――鬼将軍ラセツに敗北はない。彼女を守るための剣として、未だかつてなく、青年の心身は研ぎ澄まされていた。  と―― 「……失礼、します。ラセツ将軍は……おいでですか?」  気弱そうな少年の声がする。ラセツが入室を促すと、入ってきたのは犬の獣人である少年だ。ラセツの見知った少年でもある。彼の名前はロウガ。ガロウ将軍の息子であり、春に軍学校を主席卒業した秀才だ。いつもはもうちょっとシャキっとしていたはずなのだが、どういうわけか今のロウガはひどく落ち込んだ表情をしており、精彩さに欠けていた。 「あの……ラセツ将軍」 「なんだ?」 「出陣の……お時間、です」 「わかった」  言葉少なに応える。  用件はそれだけなのか、ロウガはぺこりとお辞儀をするとその場を去っていった。ロウガという礼儀正しい几帳面な少年にしては随分と投げやりな態度であった。普段のラセツならそれに気づき、彼を元気づけてやることもできたかもしれない。  しかし今の彼は――文字通りの鬼人であった。 「――行ってくるよ、フォルトゥーナ」  鬼人は優しい声で言う、 「今度……お前が目を覚ましたときには、全てが終わってるさ」  少女は望まないだろう。この心優しい少女は反乱軍から流れた血も、反乱軍が流した血も、どちらと問わずに涙する。こうなってしまったことを後悔し、自分の無力さをただ呪うだろう。ラセツが今からやろうとしている戦いは、少女の命を守るための戦いであると同時に、少女の心を悲しませるための戦いだ。  だが、それでもラセツの心に迷いはない。  少女を守る。  その強い想いが、彼に不屈の闘志を与えていた。 「全部、終わってさ。お前がまた元気になったら――そうだな。また、夢幻街にでも行こう。姉上やカグヤたちだってきっと歓迎してくれるぜ。ミサハの治めてた妖界ってのも見てみたいし……この際、みんなを誘うのもいいかもな。ガロウ将軍や……ハーディアスの奴もさ、特別に混ぜてやろう。まぁ、きっと説教ばっかりされるんだろうけど……それもまた旅の思い出って奴でさ」  ラセツは最後に、もう一度だけ――少女の頭を撫でた。  優しく……  優しく、撫でてあげた。 「だからさ――お前も、はやく元気になれよ――フォルトゥーナ」  そうして彼は立ち上がる。  寝室を出る。  直後――決意を込めた眼差しで、闘気を全身にまとい、鬼将軍は降臨する。並の魔族ならばその敵意にさらされただけで精神を破壊されてもおかしくはない――圧倒的なまでの闘気。闇の国でも最強格に挙げられる、それが青年の力であった。  そんな青年の前に、仮面で顔を隠した黒髪の少女が現れる。 「……ミサハ」 「…………」  少女は応えない。  だがその鋼の意思は、ラセツにも手に取るように感じ取れた。  なぜなら―― 「……フォルトゥーナを頼む」 「当たり前」  何の迷いもなく、黒髪の少女は頷いた。  その声は静かだが――同時に、どこまでも力強い声だ。  鬼将軍ラセツと大妖怪ミサハ。  彼らは最強の剣と盾。  フォルトゥーナを守ると――――そう誓った戦士たちなのだから。      ■■■  凍えるような寒い時代が続いていた。  吹き荒れるのは猛吹雪。  人々は悲鳴を上げ、  涙を流し、  助けてくれと、手を伸ばし――  ――その手は、力強い誰かにより引き上げられた。  凍てつく世界は終りを告げ、暖かな日差しが徐々に世界を照らしはじめる。  でも――……  世界は、全然穏やかじゃなくて。  雪解け水が、まるで涙のように大地を濡らしていく。  反乱。  鎮圧。  反乱。  鎮圧。  反乱。鎮圧。反乱。鎮圧。反乱。鎮圧。反乱。鎮圧。反乱。鎮圧。反乱。鎮圧。反乱。鎮圧。反乱。鎮圧。反乱。反乱。鎮圧。反乱。鎮圧。反乱。鎮圧。反乱。鎮圧。反乱。鎮圧。反乱。鎮圧。反乱。反乱。鎮圧。反乱。鎮圧。反乱。反乱。鎮圧。反乱。反乱。鎮圧。反乱。鎮圧。反乱。反乱。鎮圧。反乱。反乱…………反乱。  世界はどこまでも荒れ続ける。  だが、最後に残るのは、希望の花だ。  人々は漠然とながらも理解していた。  怒りが、憎しみが、刃となってひとつ所へと束ねられていくのを肌で感じていた。  束ねられたそれは、誇りある担い手と共に、世界の闇を切り裂いていく。  圧倒的な意思が力を与え、運命さえ凌駕していく。  世界を変えようとしている。  長い間、踏みにじられてきた人々の願いが――ついに成就しようとしている。  そうだ。  あと一突きなのだ。  すでに刃は喉元にまで届いている。  待っているのは、反乱でも改革でもなく――――革命。  あと、たったの一突き。  それだけで、この国は――――……      ■■■ 「――第四次首都攻撃特別大隊が壊滅……だと……」  伝令よりもたらされた驚きの報に部下のひとりが唸るように声を発する。その顔色は悪く、想定さえしていなかっただろう事態に軽く目眩さえ覚えているだろうことは容易に想像ができた。  カルベダ要塞の司令室。  総大将であるエーデルは、そんな部下の様子をただ冷静に見つめていた。  万全の準備を期し、いざ勢い込んで革命軍は首都クリスタルファンタジアへと進撃した。首都を守る城壁であるオーヅカ要塞群の突破を十分可能とする大戦力での突撃だ。勢いは上とはいえ、兵の総数は未だに闇の軍団の方が優っている。持久戦などありえない。一点突破こそ革命軍という巨大な槍の正しい使い方であった。  だが、それが通用しない。  精鋭たちによる四回もの突撃は、しかしその全てが無残な敗北という結果で帰ってきた。今まで破竹の勢いで勝ち抜いてきた革命軍にとってこれは予想だにしなかった事態だ。少なくとも、エーデルの部下たちにとっては―― 「……な、ナタネ将軍はどうした?」 「戦死、されました」 「そんな……馬鹿な……」  部下の足元がふらりとふらつく。本当に目眩で倒れてしまいそうであった。 「そうか……」  深く息を吐き出すエーデル。そのまましばし瞑目する。  ナタネはエーデルとは古くから付き合いのある友人だ。今までの戦いでも何度となく先鋒をつとめてもらっている。彼女に任せておけば勝利は揺るがない。そう確信できるだけの実力と結果を彼女はたたき出してきた。そんな彼女が、死んだ。 「…………」 「総帥……」  不安そうな部下の声。  エーデルはゆっくりとまぶたを開き――そこにいたのはいつもと同じ声、いつもと同じ顔の革命軍総帥だ。悲しくないはずなどない。悔しくないはずがない。だが今ここで総帥たる自分が崩れれば革命軍という組織にまで動揺が広がってしまう。組織の長としてそんなことは許されなかった。涙をこらえ、エーデルは戦況分析を続ける。それがナタネへの何よりの供養となるのだから。 「国軍の動きはどうなっている?」 「特に目立った動きはありません。迷いの森の守護要塞にほぼ均等に兵が配置されています。前後左右、どこから攻撃を仕掛けようとも彼らにスキはないと思われます」 「……数に勝るが故の防衛ラインか。シンプルだが――それだけに崩しにくいな」  伝令の報告を元に部下が分析する。  だがそんなことは分かっていた。元クリスタルナイツの近衛隊長として迷いの森を守る各種要塞の攻略の難しさは当然のごとく理解していた。その上で軍師たちと作戦を練りに練ったのだ。少なくともここまでの大敗を喫することなどあり得なかった。  だが――  そんなあり得ない事態を引き起こせる者がいることも、彼女は知っていた。 「……敵の大将は誰だ?」 「は、はい――…………生き残った兵たちの証言によりますと……ラセツ将軍であるかと」  部下が息を飲んだのがわかった。  エーデルは深く頷いた。 「なるほど。ついに動き出したのか――闇の国の三幹部が」  思えばここまで目立った動きがなかったのが奇跡的だった。おそらく彼らの主たるフォルトゥーナが病に倒れていることと関係があるのだろうが……詮索しても仕方はあるまい。大事なのは一騎当千の猛者が、国軍の頂点に立つ三人の大魔族たちが、ついに動き出したという事実だ。 「いかがいたしましょう、総帥……」  すがるような瞳で部下たちが見つめてくる。  その時だった。 「――――私にいい考えがあるわ」  そう言い司令室に入ってきたのはアトルという名の少女だ。彼女もまた革命軍の幹部のひとりであり、かつてはクリスタルナイツの一員として活躍していたエーデルの元同僚である。肉弾戦よりも魔術戦を得意とし、そんな自分の力を存分に発揮するための知恵も回る優秀な戦士だ。革命軍がまだ小規模な反乱軍だった頃、在野よりエーデルの名を嗅ぎつけ参戦してくれて――以後は数々の戦いでナタネにも負けない戦果をあげ続けてきた、エーデルにとっては最も信頼できる部下のひとりである。 「言ってみろ、アトル」 「ええ……」  自信あり気に少女は頷いた。 「まず――第五次首都攻撃特別大隊は不要よ。今度攻めるときはエーデル……あなたが可能な限りの部隊を率いて進撃してちょうだいな。そうね、できれば全部隊が好ましいかしら。これ以上ちまちまやっても戦力の小出しになってよろしくないもの。だったら、可能な限りの全戦力でラセツ隊を落とし、その勢いに乗じて迷いの森を突破、一気にフォルトゥーナを叩く。それがベストじゃなくて?」 「――いきなり最終決戦を演じろと?」 「できるでしょう?」 「……お前のことだ。どうせそれだけが全てではないのだろう?」  エーデルは不敵に笑う。  それを受けて、アトルも笑みを浮かべた。  魔術師らしい、心の奥底を見通せない邪悪な笑みだった。 「もちろんだとも。……そうね、さっきの進言をちょっとだけ訂正するわ」 「ほう?」 「……エーデル。私に一部隊を預けてくれないかしら?」      ■■■  城壁の上に設置された魔術大砲。つい先日の戦いでも活躍したこれらの兵器群を見ながら、ラセツの思考は反乱軍の次の一手に集約していた。今まで四回に渡る反乱軍の猛攻を退けられたのもこの魔術兵器群の力によるところが大きい。冥界と死の国が共同で行なっているマナ科学――かつて地上で栄え、地上を滅ぼしかけ、ついにはその存在を抹消された超文明――の再現結果のひとつが魔術大砲らしいが、なるほど、たしかに恐るべき破壊力ではある。  もっとも弱点も多い。  少量のマナを莫大な力に転換する――そのためにかかる時間がとにかく長い。言うならば一撃必殺のためにひたすら時間をかけてマナを増幅しているようなものであり、破壊力と引換に連射などは行えない。その破壊力も問題だ。破壊力が高すぎて乱戦になると使えない。味方ごと吹き飛ばすという方法もあるにはあるが、そのような外道な行いだけは戦士としてのラセツの誇りが許さなかった。  今までは魔術大砲の一撃で相手の戦力の大半を削り、浮き足立った反乱軍を数で勝る国軍であっさりとたたき潰せばそれでよかった。だがそう何度も同じ手は通用しないだろう。魔術大砲の斉射ですら減らしきれないほどの兵数で攻めこまれれば、士気に劣る闇の軍団でこれに抗するのは厳しいかもしれない。  そうなった場合は……もちろん――  そんなことを考えていた時だ。 「ししょー、こんな所で油を売ってたんですかー」 「……なんだお前か」 「なんだとはなんだですか。失礼ですね」  わざとらしく頬をふくらませ、シュリアがこちらへとやって来た。 「大砲みてたんですかー」 「まぁな」 「私、あれ嫌いです」 「そうか?」 「ちゃんと剣と剣を交えてこその戦いじゃないですか。それを広域破壊兵器でドーン!……それじゃ面白くないです」 「別にお前を面白がらせたいわけじゃないし。てか、意外と戦士的なこというんだな」  剣と剣を交えたいなんて、歳の割に古風なことをいう少女である。 「だってー。相手を切り刻む感触って最高じゃないですかー」 「……肉屋にでも就職しとけ」 「ぶー」  シュリアはむくれる。  ……が、次の瞬間にはころりと表情を変えた。 「ししょー、ちょっと質問してもいいですか?」 「なんだ?」 「今回の反乱について、どう思います? ついにはこんなトコロまで追い詰められちゃったわけですけど。いくら超優秀なヒトたちが指揮ってるからって、今までじゃ考えられなかった事態ですよねー、これって」 「……何が言いたい?」 「わかってるくせに。へーかのことですよ。へーかがもっとしっかりしてれば、こんな事態にはならなかったんじゃないですか?」 「だろうな」 「あれ?」 「ん?」  お互いに不思議そうに顔を見合わせる。 「なんだ」 「いやいや。ししょーって、へーか萌えじゃないですか。だから、まさか同意されるとは思ってなかったんですよ。ビックリしました。やめてくださいよー、裏切りフラグを立てるのは」 「……フラグ?」  相変わらず意味不明なことを口走る娘である。 「言っとくが、別に俺はフォルトゥーナのイエスマンじゃないぞ。あいつの統治には無茶が多い。だからこそ今まで反乱が起き続けてきたわけだし、それに対して有効な対策を打てなかったのは――あいつだけじゃない、俺やハーディアスにも責任はあるさ」  何もずっと放置し続けていたわけではない。  このままではいつか破滅が訪れると、薄々ながら分かっていた。分かっていたから考えた。時には朝から晩までハーディアスと顔を付き合わせ、実に忌憚のない言い合いをやったりもしたものだ。だがそれでも答えは見つからなかった。  単純に力で押し潰すのでは駄目だ。  かといって反乱軍の主張を受け入れるわけにはいかない。受け入れるということは、フォルトゥーナを支えている数少ない柱が砕け散るに等しい。  故に話し合いによる平和的な解決も望めない。  両者の譲れないものが交わることがない以上、いつかはこの時が来ることをラセツもまた覚悟はしていた。 「……だから、まぁ、こうなった以上――俺は絶対に負けられない」  相手の言い分もわかる。  彼らの気持ちに賛同できるところだってある。  だが――それでも、ラセツはフォルトゥーナを選んだ。彼女を守る剣になることを選んだ。その気持ちこそがラセツという男にとって唯一の真実だ。何が正しくて何が間違っているかなど、その事実の前には些末事に等しい。  しかし、それはあくまでラセツの決意である。心情としては反乱軍に近いだろう闇の軍団の士気は、いつも以上に低下していた。それでも彼らが反乱軍と戦うのは、やはり守りたいものがあるからだ。それは首都に残してきた家族かもしれないし、友人かもしれないし、財産かもしれない。あるいは勝つことで得られる名誉か。裏切りを許さない戦士としての誇りかもしれなかった。 「お前はどうなんだ?」 「私ですか?」 「ああまで言ったんだ。フォルトゥーナに何か思うところがあるんだろう? お前は……何を思ってここにいる?」 「…………。……私は――」  少女が口を開いた、直後。  風が変わる。  それまではどこか気を抜いていたふたりだったが、途端にその表情は厳しくなる。それはいくつもの死線を越えてきた戦士の顔だ。草原の向こうに影が見える。それは徐々に大きくなり、まるで巨大な黒い津波のように首都を飲み込もうと迫ってきた。 「まさか――」 「うへぇ……まさに全軍突撃って感じですねー」  考えていなかったわけではない。しかし可能性としては決して高くはなく――むしろ低い方にあたる可能性だった。全軍を率いての一点突破。確かに成功すれば効果は高いがそのために被る自軍の被害も相当だ。そんな作戦を立てるほどエーデルという女は非情ではなかったし、だからこそ多くの民から支持を得ていたはずだ。 「……いよいよ本気ってわけだ」  薄く、ラセツは笑う。  もうなりふり構ってはいられないということだろう。  建前などいらない。優しい気持ちなどいらない。本当に必要な目的のため、ついには自軍ですら捨て駒とする。過程など二の次だ。最も大事なのは結果を出すこと――惡兎臣フォルトゥーナの首を取ること。  夢をみるだけではなく、現実を理解し、そのために泥道を歩く必要があるのならば進んで一歩を踏み出す。  敵ながら、エーデルという女傑に心からの賛辞をラセツは贈った。 「――将軍!」  部下が駆けつけてくる。  ラセツは指示を飛ばした。 「総員戦闘配置に付け。射程に入り次第、魔術大砲斉射。その後、白兵戦に突入する。近隣の要塞にも援護要請。――敵の本隊だ」  その顔に一筋の汗が流れたのをシュリアは見逃さなかった。一方で、自分の腕が震えていることも自覚していた。恐怖ではない。歓喜だ。思う存分鎌を振るえる喜びに少女の体は震えていた。 「シュリア」 「はーい」 「前線は任せた。お前の力を見せてくれ」 「ししょー……」  少女の頬が、うっすらと、桜色に染まった。 「なんかそー真面目に言われると……めっちゃ気持ち悪いんですけど……」 「…………」  魔術師達が大砲起動の準備にかかる。  革命の狼煙を上げ、反乱軍は首都へと迫っていた。      ■■■  オーヅカ要塞から閃光が放たれる。  一瞬花火のように思えたそれは確かな力を持った殺意の波動であり、先陣を切っていた革命軍の部隊の大半が焼き払われた。おそらく何かの魔術攻撃なのだろうが――そのあまりの凄絶さにエーデルは奥歯を噛み締めた。まるでヒトが虫けらのように散っていく。それが戦争なのだと言われれば彼女には反論できない。大義のもとに革命をなそうとしているのは彼女自身だ。多くの犠牲が払われようと、その血の海の中で彼女は立ち続けなければならない。そうでなければ死んでいった多くの同胞たちが浮かばれない。だからこそ、彼女の進撃は止まらなかった。  閃光が沈黙する。どうやら魔術攻撃の息が切れたらしい。  要塞の門が開き、武器を携え国軍の戦士たちが出陣してくる。数は多いが士気はこちらの方が圧倒的に上だ。兵の練度も負けてはいないと自負している。後はいかに敵の大将格を抑えこむかだ。力のある魔族は本当に規格外だ。一般兵たちが束になってかかろうとも相手にもならないだろう。だからこそ、強者の相手は強者がせねばならない。  やがて、剣戟の音が戦場に響き渡る。  革命軍と国軍の激突がはじまったのだ。  エーデルもまた、ランスを手に愛馬と共に戦場をかけていた。本来なら大将としておとなしく本陣で指揮を取るべきなのだろうが、今回の作戦にはエーデルが戦場で敵の目を惹きつけることもまた重要であったのだ。 「――ふん!」  愛用のランスが国軍の兵たちを貫いていく。敵は弱い。エーデルの気迫に押され、向かい合う前からすでに腰が引けている。埋めようのない実力差を肌で感じ取っているためだろうが、それで逃げ腰になっているようでは本末転倒だ。死を前にしてなお、それに立ち向かうだけの気概がなくてはエーデルを討つことなど到底不可能であった。 「――――!」  ふいに、エーデルの第六感が警鐘を鳴らす。  深い血の匂いが近づいてくる。  ここからでも感じ取れる異質なマナは――彼女からすればひどく不愉快だが、戦場という狂気の世界では何よりも誰よりも美しいハーモニーを奏でていた。  直感が告げている。  己が倒すべき敵は、この先にいると――!! 「はぁ――!」  ランスを構えなおし、愛馬と共にエーデルは戦場を駆けていった。  どうして戦っているのか。  師よりのその問に答えることはなく、しかし、シュリアはやはり戦場にて大鎌を振るい続ける。答えがないわけではない。ただ、それに答える必要性を感じないだけだ。  シュリアの大鎌が唸る。  閃光が走るたび、反乱軍の命の蝋燭は消えて行く。  肉を裂く。  血が舞う。  断末魔の声が聞こえる。  その中心に位置するのは、見た目は幼い少女である。  まるで雑草を刈り取るように、ただ淡々と、ヒトの命を跳ね飛ばしていく。  シュリアは決して戦闘狂でもなければ、快楽殺人者でもない。無用の戦いならば避けて通るし、話し合いで解決できるならばそれが一番だと本心では思っている。だが、相手が言うことを聞かないのならば戦うしかない。戦うとなれば一切の遠慮も容赦もなく、非情なまでに相手をたたき潰すのが彼女のやり方であった。  自分の役に立つか。  それとも、立たないか。  極論すれば、シュリアにとって全ての存在はそのふたつに分類される。後者には何の価値もない。価値もないから未練もなく、記憶に留めておくことすら煩わしい。対して前者は彼女が何よりも愛するものである。好き嫌いではない。例え嫌いであったとしても、彼女に対して刺激を与えてくれる存在であるならば、それは愛すべき下僕にほかならない。  そして戦いとは、前者に相当するものであった。 「――――ふっ!」  息を吐く。  大鎌を振るう。幼い少女の細腕は、しかしマナという強化魔術を経由することにより大の大人さえ両断するほどの圧倒的な膂力を発揮する。シュリアは駆ける。赤く染まった刃が、まるで紅の閃光のように見えた。  もちろん、シュリアが戦う理由は他にもある。  いや――言ってしまえば、こうして闇の軍団の将軍として戦場で暴れているのはその理由こそが全てだ。戦うだけなら反乱軍でも出来る。フォルトゥーナに対する忠誠も、情も、守るべき家族もいない彼女が、それでも劣勢の闇の軍団に所属し続けている最大にして唯一の理由がそれであった。 「……むー」  雑魚を切断し、そこで少女の表情が変わる。戦場の土煙の中、かすかな何かがこちらへと向けられている。ほとんど本能の叫びと言い換えてもいいわずかな違和感。それが明確な殺気だと理解した瞬間、シュリアは臆することなく突撃していく。  戦場を烟る血煙の中――  少女の大鎌と騎馬のランスが交差した。  必殺を期した一撃を受け流され、エーデルは驚きよりも先に感嘆を覚えた。  それだけではない。  相手は返す刀で大鎌を一閃させこちらの首を狙ってきた。もちろんそんな攻撃にしてやられるエーデルではないが、代わりに愛馬の首をもっていかれてしまった。断末魔を上げる余裕さえなく、いくつもの戦場を共に賭けた相棒は一瞬にして力なく倒れ伏した。  それを悔やむ暇も悲しむスキもない。  馬より投げ出され、体勢を立てなおしているその瞬間を見逃さず、大鎌の少女は襲いかかってきた。巨大な得物は連撃には向かないのが幸いしたのか、手数は予想していたより多くはない。エーデルは冷静に攻撃を見切り、避わしていった。 「――――ふーん」 「…………」  そうして、ふたりは対峙する。  天才と言われた闇の軍団屈指の少女将軍と、かつて女性近衛隊クリスタルナイツのリーダーを務め、また反乱軍を革命軍にまで育て上げた女性騎士。  彼女たちはそれぞれの得物を構え、睨み合う。  しかしそれも瞬間のこと。  ふたりは裂帛の気合と共に再び激突する。  縦横無尽に跳び回り大鎌を振るうシュリアに対し、エーデルは動きを極力抑えランスで少女を迎え撃つ。苛烈な攻撃を避わし、スキを見てとっては一撃必殺を狙いランスを突き出す。愛馬を失ったエーデルにはこの少女のような機動性は得られない。辛抱強く相手を迎撃していくしか道はなかった。  常軌を逸した瞬速の死闘に戦場の風は荒れ狂う。  敵も味方も、それぞれのリーダー格同士の激突にただ見入るしかない。助けに入ろうとしても乱舞する大鎌にその身を斬り裂かれるだけだろう。とても捉えきれるものではない。それほどまでにふたりは超越していて、凡人には理解出来ない高速の世界であった。  ――――ギィン!  何度目かになる大鎌とランスの交錯。  少女は一旦間合いを取り、女もまたランスを構え直した。  お互い、このままでは相手に致命傷を与えられないと判断してのことであった。 「……大したものだな」 「それはどうもー。伝説のエーデル女史にお褒めに預かり光栄ですよー」 「伝説……?」 「騎馬将軍としても有名じゃないですか。学校で名前出てましたよ。まさか馬がないだけでここまで歯ごたえなくなるとは思いませんでしたけどー」 「くくっ」  愉快そうにエーデルは笑う。 「面白い奴だな。お前、名はなんという」 「ベルベローダっていいますー」 「ではベルベローダ。我が同胞になる気はないか?」 「ありません」 「――即答か」 「あなたでは私が戦う理由にはなれませんので」 「……フォルトゥーナに、そうまで義理立てする価値があるというのか?」 「少なくとも、あなたよりは。私、意外とあのヒトのこと好きみたいですから」 「そうか、それは残念だな」 「よくいいますねー。私が裏切らないの分かってて誘ったでしょ?」 「ふ――」  エーデルはランスを構える。呼応するように、シュリアも大鎌を構えた。 「その命――狩らせていただきます」  シュリアは跳ねる。  狙うは得意の高速機動による一撃必殺。今まで防がれ続けた攻撃も、全てはシュリアの攻撃速度をあの程度であると錯覚させる――そのためのブラフでしかない。跳ねる直前、シュリアは自らの足を半獣化させる。強化された足腰による超高速機動。それはエーデルの予想をはるかに凌駕するものであり、彼女は自分の浅はかさを知る由もなくその命を絶たれる――――はずであった。  結論から言えば、シュリアは愚かだった。  跳ねた直後のことだ。  エーデルの姿が掻き消える。まるで消滅したかのように、忽然とその姿を見失う。シュリアにエーデルを探す時間はなかった。標的を見失うと同時に腹部に鮮烈な痛みが走る。それは熱く、激しく、少女の命を打ち砕くほどの衝撃であった。 「――――あ、れ?」  力のない言葉がこぼれ落ちる。  自分がエーデルのランスに貫かれたことを悟った瞬間――シュリアの意識は闇に落ちた。  一騎打ちの果てに、それは降臨した。  戦場を駆ける四足の姿。  人馬一体を成し遂げた――究極の姿。  兵たちは見る。  天才と言われた国軍の少女将軍を撃ち貫いたその勇姿を。  敵も味方も、見る。  その――勇壮にして麗美なる女性騎士の姿を。  遠からんものは音に聞け。  近くばよって目にも見よ。  彼女こそエーデル。  戦場を駆ける無敵戦馬(ケンタウロス)――エーデルなり。  地上にはケンタウロスという亜人がいる。いや、正確にはいたという方が正しいか。ある時を境に忽然とその姿を消したかの種族は、人の上半身に馬の下半身をもつ亜人であった。もちろん魔族であるエーデルはケンタウロスではない。ただ、馬の獣人であっただけだ。しかし、例え獣化を遂げようともケンタウロスのように変化するなど本来ならあり得ない。いくらなんでも獣人としての能力の範疇を超えていた。  長い長い修練の果てに、エーデルはこの変化をものにした。通常の獣化を超えた先。その戦闘力の強化は獣化のそれすらも軽く凌ぐ、まさに究極の獣化であった。  ただし欠点もあった。  究極の獣化をなすには体内で多量のマナを練り続ける必要がある。エーデルがシュリアの攻撃に対し防戦一方になっていたのはそのためだ。少女の攻撃を捌くことに注力し、ただひたすらに己の力を高め続けてきた。それでもマナを練り終わることが出来ず――会話による時間稼ぎを行った。倒すべき敵との会話など意味はないだろうに、こんな手にあっさり乗ってしまうほど、少女はまだ経験が浅かったらしい。僥倖であった。  激突の直前、マナを練り終わったエーデルは究極の獣化を遂げた。その速度はシュリアをはるかに上回る。シュリアが超高速ならばエーデルはまさに光速であった。 「――――」  腹を貫かれ地に血を撒き散らし倒れ伏した少女をエーデルは見下ろす。  感慨はない。  エーデルにとってシュリアも一般兵も違いはない。ただ己の前に立ちふさがった敵を排除しただけだ。仲間の死にすら動じない鋼の自制心をもつ彼女にとって、敵方の少女将軍の死などで揺らぐものなど欠片もなかった。  強いて言うのなら――  これから自身が討たねばならない最大の相手との決戦前に、いい運動になったというところか。 「――――はぁ!」  叫びと共にエーデルは戦場を駆けた。  究極の獣化のもうひとつの欠点。それは獣化時間がおそろしく限られるということだ。時間にして本来の獣化の十分の一程度。エーデルほどの超人になれば元々の獣化時間は相当なものだが、それでも余裕をかましてなどいられない。  閃光となりエーデルは駆け抜ける。  誰もそれを止められない。  そもそも、彼女を彼女として認識できたものがどれほどいるというのか。  彼女は戦場を駆け抜ける疾風。  まさに目にも留まらぬ神風であった。 「――――!」  そしてエーデルはオーヅカ要塞へとたどり着く。突撃の勢いをそのまま助走に転換し、驚異的な脚力でもって天高く跳躍する。さすがに要塞を飛び越えるような真似はできないが、城壁へ乗り上げることは余裕であった。魔術大砲の再起動を試みていた魔術師たちが突然の事態に動揺する。エーデルは魔術師ごと、味方を何千人も焼き払っただろうこの恐るべき兵器を貫いて回った。 「――きたか」  息をつく暇もなく、女性騎士はその男の来訪に戦慄する。冷や汗が収まらないが、それ以上に使命感が彼女の心を昂ぶらせていた。 「エーデルか……」 「久しいな――ラセツ」  国軍の最高幹部のひとり。  鬼将軍と称される青年が、敵意と殺気をまとい――エーデルと相対していた。  エーデルとラセツには面識がある。  あれはまだ、ラセツが闇の国に来て日が浅かった頃だ。当時、フォルトゥーナを護衛していた女性騎士たちの部隊クリスタルナイツ。そのリーダーとして、エーデルはラセツ少年を知っていた。ラセツもまた、フォルトゥーナに付き従うエーデルのことを知っていた。  当時の両者にお互いの印象を聞けば、こう答えるだろう。 「生意気なクソガキ」 「おっかねー姉ちゃん」  そして――実に百年近い歳月を経て、ふたりは再会した。 「…………」 「…………」  ふたりはしばし、無言で睨み合う。  先に口を開いたのは、鬼将軍ラセツであった。 「……まさか、こんな形で再会するとは思わなかった」 「確かに。立派に成長したものだな」 「シュリアはどうした。殺ったのか?」 「知らん」  悠長にしている余裕はない。  エーデルはランスを構え――突撃した。ラセツもまた刀を抜くとエーデルを迎え撃つ。シュリアを貫通した光速の一撃は、しかしラセツにはそう簡単には通じない。シュリアの高速機動と違いエーデルの光速突撃は動きが限定される。一定以上の力を持つ、いわゆる大魔族と称されるほどの使い手を相手にはいささか決定打に欠けていた。 「ふん!」  ラセツの右手に握られた刀が煌く。大雑把だが力のある一撃を、エーデルは冷静に見切り回避していく。厳しい相手だった。究極の獣化を遂げてなおラセツとはせいぜい互角といったところだ。こちらには時間制限がある以上、不利なのは考えるまでもなく自分自身である。 「……ちっ」  舌打ちをする。  戦況を打開する手は見えない。こんなことになるのなら、青年がまだ少年だった頃、この手でその命を絶っておくべきだったかもしれないと、彼女らしからぬ後悔の念にすらかられてしまう。彼女にとって少年は取るに足らないものであった。よく騒動を起こすやんちゃ坊主で、期待を絶望に塗り替えてくれた魔王の数少ない友人で、別の魔界の名家の子息で、何より強さを追い求める少年だった。強くありたいと願うその心には、戦士として共感を覚えることもあった。  そのクソガキが、今はこうしてエーデルの野望を妨げる最大の壁となっている。  因果なものだと思う。 「――今度は、こちらから行くぞ」  ラセツは吠える。  驚異的な速度と力の両立。打ち込まれた刀を受けたランスが悲鳴をあげる。 「く……!」  女性騎士は歯噛みする。  恐るべきは鬼人の力だ。  獣人ではない彼に特殊能力としての身体強化はあり得ない。だが、鬼人は魔族の中において身体能力の高さは多種族の追随を許さない。鍛えれば鍛えただけ成長していくような、ある種の規格外の潜在能力を鬼人は持っていた。  特に、優秀であるのならば、なおさらだ。 「ふ――本当に、まったく――」  ランスを繰り出しながら、エーデルは笑いが抑えられない。 「よくもまぁ――ここまで立派に成長したものだよ!」  悔しいのか。  嬉しいのか。  久方ぶりに再会した知己の少年のたくましさに、エーデルは笑いが抑えきれなかった。  しかし―― 「その屍を、超えさせてもらうぞ!」 「やれるものならな!」  エーデルとラセツの裂帛のマナが、戦場に新たな風を巻き起こしていく。  その一方で――  エーデルは、願い続けていた。  作戦の、成功を。      ■■■  オーヅカ要塞攻略戦が進む中――  革命軍の智将、アトル率いる別働隊は迷いの森の中にいた。  エーデル率いる革命軍の大部隊。要塞どころか首都攻略のために編成されたとしか思えない大部隊そのものが、実は囮なのである。まるで革命軍の全軍と思われるような大軍を、さすがにオーヅカ要塞の軍だけで抑えられるはずもなく、必然的に近くの要塞から援軍を呼ぶしか手立てはない。  エーデルの存在も敵の目を引いた。  まさか革命軍を率いる総帥が大軍を率いて自ら囮になるなど、そんな馬鹿げた事を想定する者など世の中にどれだけいようか。事実、アトルの作戦は成功し、ラセツたちは革命軍を迎え撃つために近隣の要塞へと援軍を要請した。  そうして手薄になった近隣の要塞のひとつを彼女たちは即効で攻略し、アトル隊はまんまと首都への潜入に成功したのだ。  首都クリスタルファンタジアを形成する迷いの森。戦時には迷いの呪いを変更し、侵入者を大宮殿へと近づけないように機能するはずの最後の防衛網。しかしそれも、内通者よりもたらされた情報によりすでに破られている。  アトルたちが大宮殿へと到達するのも時間の問題であった。  森の中を戦馬で駆け抜けていく。  通りすぎていく風景の中に、何かの札のようなものがちらほらと目に入る。怪しく薄い光を放つそれは、おそらく何かの魔術品だろう。アトルが想像するに、国軍はこの札の配置で迷いの呪いを操作している。魔術師として非常に興味を惹かれたが、もちろんそんな余裕は存在しない。 「隊長!」 「ええ。みんな、準備はいいわね?」  アトル隊の総数は千五百人ほど。大宮殿を攻略するにはいくらなんでも少なすぎるが、全員がエーデルたちが手塩に育ててきた手練たちだ。本来ならひとりひとりが部隊を率いて戦場で大立ち回りを演じるべき将軍なのである。加えて奇襲というこの状況。クリスタルファンタジアの攻略は決して不可能ではないだろう。  大宮殿が近づいてくる。  フォルトゥーナの居城だ。  アトルもかつて近衛騎士として彼女に使えていた時期がある。今から元主君を殺すための戦いを開始する――そのことに胸が痛まないわけではなかった。エーデルほど全てを割り切り、無感情でいられるほど、アトルは達観した女性ではない。  しかし、同時に迷いもなかった。  迷うようなら革命軍に参加などしていない。  今こそフォルトゥーナを廃し、この淀んだ世界に新たな風を吹かす時なのだ。  ふいに――  違和感を覚えた。  アトルは上空を見上げる。  肉眼でははっきりと確認できないほど小さな影が――浮かんでいた。 (鳥……?)  眉をひそめる。  影が光った気がした。  遥かな高みより迷いの森を見下ろし、黒い髪をなびかせながらミサハは空に立っていた。浮いているわけでも飛んでいるわけでもない。まるでそこが地面の上であるかのように、仮面の少女は静かに空に屹立していた。  少女は妖怪だ。  妖怪とは、この世界とは別の世界に根ざした異邦人である。彼らはルネシウスの精霊たちや魔界の魔族にすら理解出来ないような、数々の神秘を行使する。その戦闘力は高く、大妖怪と称されるような個体の中には魔王に比肩する力をもつ者さえ存在する。  そしてミサハは、大妖怪のひとりであった。 「――神羅万象」  呪を唱え、印を切る。  少女の両腕に何枚にも重ねられた呪符がパラパラと崩れ、まるで意思を持ったかのように天を舞う。数十枚の呪符は魔界の黒い空に淡く輝き、空を覆うような大きな八角形の魔法陣を作り出した。 「巫門遁甲。八門開門。水平鏡界。臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」  魔法陣より……巨大な何かが現れる。 「移山……召喚」  それは山だ。  いや、山と見間違うような――あまりにも巨大な岩塊であった。 「急々如律令」  出現した岩塊はミサハに導かれるまま、大宮殿目指して進撃していた敵兵たちへと落下していく。突然の事態に兵たちはただ呆けたように空を見上げる。他に何ができようか。空から落ちてくる巨山をただ静かに受け入れるしか道はなかった。  轟音が轟く。  天から降ってきた山が迷いの森を震わせた。  それで終わった。  革命軍が必勝を期した大作戦は、あまりにもあっけなく終焉を迎えた。  魔王を討つために革命軍の精鋭を集め、結成された奇襲部隊はその力を発揮する機会さえ与えられず、少女妖怪の妖術の前にその命をすり潰されていった。  ほどなくして、迷いの森を押し潰した巨山は溶けるようにして消えていく。木々はまるで山などなかったかのように健在で、森はいつも通りの静けさの中にある。巨山は虚山であり、どのような理屈なのか、ただ敵兵だけを圧殺し森や動物には一切の危害を加えてはいなかった。 「――――」  仮面の少女は、首を巡らせる。  別方向からまた、迷いの森へと進撃してくる部隊がある。クリスタルファンタジア攻略部隊はひとつではなかったらしい。しかしそれとてミサハにとっては大した問題でもなかった。  再び呪を唱え、印を切る。  いくら使おうとも無くなることはない両腕の呪符の束から、数十枚の呪符が飛び立っていく。それはミサハの意を受け、巨大な炎の塊となり敵兵だけを焼き尽くした。  魔術や精霊術で考えれば、それは奇跡と称してもおかしくはない大規模魔術の連発。だが当の本人に疲れは見えない。何事もなかったかのように、静かに空中に立ち続ける。  もちろん仕掛けがある。  迷いの森に張り巡らせた強化の呪符。当然それらは無為に貼られたものではない。とある法則に則り配置され、森自体をある種の結界へと包み込んでいる。空高くから見下ろせば誰しも気づくことだろう。森を横断するようにいくつもの薄い光の線が走り、光芒となり、迷いの森に巨大な八角形の魔法陣が敷かれていることに。巨大な結界はミサハの妖術の力を何十倍にも飛躍させていた。  魔術でも精霊術でもない。  この世界の法則外でありながら、この世界の法則を犯す神秘の術――妖術。  恐ろしいのは、その埒外の力を自在に操るミサハの力量である。  そんな彼女へと――襲いかかる影があった。 「――ぅううううああああああああああああああああああああああ!!!!」  それは怒りか、悲しみか。  あるいは使命を果たせなかったが故の、悲痛なまでの魂の叫びだったのかもしれない。移山法で致命傷を負ってもなお、アトルは戦えた。もう長くは持たないが、戦うことだけは可能であった。  だからこそ、彼女は翔んだ。  魔術師アトルは自らの魔術で空を舞う翼を生成した。それだけではない。残された力を振り絞って獣化を遂げた。その姿は蛇。鱗に覆われた皮膚からすでに痛々しいまでの血を流しながらも、半身を大蛇と化した女はミサハへと飛びかかる。  せめて、この少女を道連れにしなければ、エーデルたちに合わす顔がなかった。  アトルの両腕が魔術の光を帯びる。  襲撃者に気がついたミサハは静かに振り返る。  小さな唇が、彼女にしては珍しく――感情のこもった声をささやいた。 「蛇は嫌い」  直後だった。  アトルは全身が灼熱の業火に灼かれていくのを感じだ。感じたまま、そこから先を考える時間さえ与えられず消し炭になっていた。革命の趨勢を握る大作戦を立案し、全幅の信頼を受けて部隊を任され、だというのに目的ひとつなし遂げることができなかった彼女にとって、それは幸福なことであったのかもしれない。悔恨の念すら抱く暇もなく、アトルはミサハの放った炎の妖術に焼き殺されていた。 「…………」  ひと息つく。  この森には彼女の妖術で展開された結界が張られている。外部からの侵入者は、それが例え虫一匹であろうとも見逃すことはなく、ミサハへと逐次伝えられる。術の精度は高く、仮に何億ものヒトが同時に結界を侵そうとも妖術は適切にその情報を処理し使用者へと伝えてくれる。今の革命軍にこの妖術を破るすべはなく、あるとすればミサハを倒すことだけだが、それが何よりも不可能なことであった。  迷いの呪いなどクリスタルファンタジア防衛においてただの保険に過ぎない。真なる盾はミサハという少女なのだ。  空中で少女は泰然と構える。  小さな身体にはマナがみなぎり、まるで神話に語られる幻想生物の如き強大な威容がちらついていた。  しかし――――  耳を揺るがす想定していなかった異音に、少女の心はかき乱される。  それは爆発音。  慌てて振り返れば――大宮殿クリスタルファンタジアが、燃えていた。  あり得なかった。  外部からの侵入者は全て結界に感知される。そこに例外はない。無生物だろうとなんだろうとミサハの目を逃れることなど出来るはずがない。敵の侵入を許したはずなどないのだ。  わけのわからない事態に、しかしミサハの決断は迅速だった。  城が攻撃されたことを理解した次の瞬間に彼女は空中を駆けていた。しかし城は遠い。精鋭部隊を物ともしない妖術を操るミサハだが、その身体能力は見た目通りの少女のものだ。縮地の妖術で移動速度を速めてはいるものの、もどかしいまでに城との距離は縮まらなかった。 「フォルトゥーナ……!」  少女は苦悶する。  今こそ切り札を使うときなのかもしれないと。  しかしそれは――少女が何よりも、誰よりも守りたいヒトを置き去りにしかねない禁断の技だ。  今は、まだ、使えない。  ここで自分がいなくなってしまえば、フォルトゥーナは完全に無防備になってしまう。  迷いの森の外で、今も戦っているだろう青年との約束は違えられない。 「――――!」  歯を噛み砕かんばかりに噛み締めて、ミサハは疾走する。  小さな手足が、ここまで煩わしく感じられたのははじめてだった。      ■■■  轟音に揺らぐ城の中で、ロウガはひとり縮こまっていた。  城のとある区画のひとつ。闇元帥ハーディアスとシュリアがしけこんでいた、あの部屋の中だ。部屋の中には何もない。ただ埃だけが振動と共に空気の中を舞っていた。 「…………」  少年は頭を抱え、部屋の隅で身を縮める。  全身の震えが収まらない。  目眩がし、吐き気がし――もう何度となく嘔吐を繰り返し、もはや吐き出すものさえなくなっていた。胃が痛い。ノドが痛い。焼けつくような感覚に、ただ、涙を流しながら許しを乞うしかなかった。  反乱軍とラセツ隊の戦いがはじまった――  その一報を受け、少年の体は悲鳴を上げはじめた。手足は恐怖に震え、思考はただ逃げ出すことを訴えかけてくる。体は全力で少年に逃げるように命じ――だが、心はそれを受け入れなかった。逃げるべきだと理解していたからこそ、心はそれでも立ち向かうことを願い続けた。それは意地だった。男としての、ロウガの掛け値なしの意地であった。  だけど、今の少年に、心を受け入れる余裕などはなかった。  結局、体の命ずるままに思考は心を蹂躙し、任された仕事全てを放り投げ、ロウガはこうして身を縮めている。まるで嵐が過ぎ去るのを待つように、ただただ、情けなく震えている。  ――――恐かったら隠れてればいいんですよー。  それが利口な生き方だと、うそぶくように言っていた小さな少女の姿が脳裏をよぎる。  悔しい。  悔しい。  悔しい……!  だから少年は涙を流す。  自らの無様さを受け入れ、涙を流す。  自分の無力が呪わしかった。      ■■■ 「なにごとだ!!」 「そ、それが……襲撃されたものと……!」 「そんなこと、わかっておるわ!」  司令室でひとり、ガロウは気を吐いた。  ハーディアスが出陣し、ラセツもまた出陣した。残る最高幹部は狼将軍である彼だけだ。ガロウの任務は大宮殿の防衛。残された部隊をまとめ、万が一の事態に備えることであった。 「外の戦況はどうなっておるのだ」 「は、はい――ラセツ隊と反乱軍が、こ、交戦を開始し、敵将エーデルが――」 「もういい、それを貸せ」  乱暴に言い捨てると、部下の報告書を奪って速読する。今までなら問題なく読めただろうそれが、最近はいまいち読みづらい。文章の問題ではなく、ガロウという男の身体的な問題であった。  老いによる肉体機能の低下。  いわゆる老眼というやつだ。近くのものが見えにくくなってきている。加えていうのなら、手や顔にもシワが増えてきた。体が思い通りに動かないことも多く――日常のちょっとしたことで、ガロウは自らの老いを実感してしまう。  魔族は青年期が長い。  逆を言えば、中年に相当する時期が極端に少ないのだ。個人差はあるが、十代後半から二十代前半で魔族の成長は止まる。それからは長い長い青年期が続き、まるで駆け抜けるように中年期を終える。そして最後の最後、ろうそくが燃え尽きるかのように老年期が訪れるのだ。子供でいられる時期、大人でいられる時期、そして老人として過ごす時間。その三つに綺麗に分かたれているともいえるだろう。  魔族は精霊が奈落の悪意に犯され変質したのがそのルーツだと言われている。変質とはすなわち完全な物質化だ。精霊には寿命という概念はないが、物質化による魂の摩耗は存在している。摩耗とは老化のことであり、だから、より強大な力をもつ魔族ほど長い時を生きられることになる。事実、ガロウは一般の魔族が死を経験するはずの年齢をはるかに超えて、今日この時まで生きてきた。  だが――それも、もう長くはないだろう。  心残りは……ほとんどないといってもいい。幼少期こそ辛い毎日を過ごしていたが、フォルトゥーナに仕えてからは充実した人生だった。戦場で腕をふるい、友と語らい、酒を飲み女を覚え、自分を見下し続けていた貴族たちを抑え出世もした。恋をし、失恋し、世の無常さに涙した。友の死を乗り越え、歩いて行く強さを得た。結婚して子供を授かった。頼りない息子ではあるが、それなりに立派に育ってくれたと自負している。きっと将来、この国を背負って立つ男になってくれるはずだ。  彼が心配するのはこの国の未来のことだ。  長年この国を蝕んでいた闇は、ついに革命という形となって表に吹き出してきた。おそらく、ここが世界の転換期だ。フォルトゥーナという少女を守りきれるかどうか、守りきったとして、彼女が再び回復し元気な姿を見せてくれるのか――状況は、決していいとは言えない。だがそれでも、ガロウは希望を捨ててはいなかった。 「ほ、報告します!」 「どうした!」  兵士が慌てて駆け込んでくる。 「し……出陣したはずのジェスター隊が――――裏切りました!」 「なんだと……!?」      ■■■  ジェスターは優秀な男である。  若くして大宮殿に仕え、降魔との戦いにおいても数多もの戦果を上げた。後進の育成にも熱心であり彼に育てられた武将は数多い。誰もが彼を清廉潔白な青年であり、知略家であり、武人であると褒めたたえた。  くだらないとジェスターは思う。  彼にとっては全てがゲームだ。地位も名声も全ては自分を楽しませるためのものであり、単にここまで攻略してきた遊戯の成果でしかない。それをありがたがり、あまつさえ自分を師と慕う愚か者の滑稽さときたら失笑を禁じ得なかった。  だからこれは、言うなればステップアップだ。  次の段階へ進むための通過儀礼。  彼にとって、裏切りなどその程度の認識でしかなかった。 「隊長、魔術隊の攻撃が終わりました」 「ああ……」  頷き、城を見上げる。  大宮殿クリスタルファンタジア。長い歴史を刻んできた荘厳な城が――燃えていた。 「続いて白兵戦に入る。我らの新たなる夜明けは近い。みな、全力でもってことに当たれ」 「は――!」  うやうやしく頭を下げ、部下は命令を飛ばしに去っていく。  ほどなくしてジェスター隊の本格的な城攻めがはじまった。裏切りを予期していなかっただろう城の守備隊の動きは鈍い。そのスキに城を制圧し惡兎臣の首をとる。それでゲームクリアだ。 「フォルトゥーナ、か」  思えばアレも不幸な存在だ。魔王などという身の丈に合わない業を背負い込んだが故に心をすり減らし、ついには破滅的な結末を迎えようとしている。ジェスターとてヒトの子であり、少女に対して思うところがないわけではない。だがしかし、こうなることは運命だったのだろうと切に思う。  同情はする。  だが、こうなっては彼女の側にいる意味など微塵もない。その選択肢はバッドエンドへの片道切符であり、ジェスターという男が目指すべき道程とはかけ離れすぎている。革命軍に与するのは当然の選択と言えた。  勝ち馬に乗るだけだと非難するものもいるだろうが――それがなんだというのか。  男ならば、野心こそが全てだ。  ジェスターという男を現界まで育て上げる。  それこそが何よりも優先されるべき命題であり、彼の存在意義であった。 「――――」 「…………どうされましたか、隊長」 「……妙だな」  城内が静かすぎる。  今頃は城へと進撃した兵たちが縦横無尽に暴れまわっているはずなのだが―― 「お前たちはここで待機していろ」 「隊長……!?」 「――――」  嫌な予感がする。  背筋をはうようなおぞましい感覚に、青年は剣を抜き、燃える城へと踏み出した。  魔術攻撃により穿たれた大穴。  その先は城内の通路へと続いている。  慎重に歩を進めながらジェスターは気配を伺い続ける。  やはり……静かだ。  炎の爆ぜる音だけが聞こえてくる。  不気味なほどの……静けさ。 「――――」  何事もないまま通路を進み続ける。  違和感は気のせいだったのかもしれない。そんな考えが頭をよぎった直後だった。  轟音と共に通路の壁が崩れ去る。何が起こったのか理解出来ないままジェスターの身体は何かに突き飛ばされ反対側の壁に叩きつけられた。否、突き飛ばされたなんてやわなものではない。それは拳だ。圧倒的なまでに巨大で暴力的な拳の連打。壁の向こうから放たれた拳の雨に打ち付けられたのだと理解したとき――ジェスターはゲームが終わりを迎えたことも悟った。  砕かれた石壁の残骸と共に青年の身体は力なくくずおれる。  左腕も両足も動かない。骨が砕かれたのだろう。精神の安全のためか痛みはない。痛みなど超越しもはや何も感じることはなかった。  足音が聞こえる。  地鳴りを響かせるような重厚な足音。  城の壁すら軽々と撃ち砕く巨漢の猛将が、自分を睥睨していた。 「……ガロウ、将軍」 「…………」  猛将は応えない。  ガロウの身体は獣化していた。獣化前の倍以上に膨れ上がった上半身は厚い筋肉と体毛に覆われ、その顔にはもはやヒトとしての面影はない。戦場を支配する孤高の巨狼がそこにはいた。 「……やられましたよ、将軍」 「…………」 「それがあなたの全力ですか。老将などと――、……、…………よくも、いったものです」 「…………」 「……っ、どうやら本当に私は、ここで終わるらしい。……こんな、ところで――」 「ジェスター」  ガロウが口を開く。  感情を押し殺したような、重々しい声。 「何故、裏切った」 「…………」 「反乱軍に迷いの森の情報を流したのも貴様か?」 「…………」 「答えろ」  ニヤリと、ジェスターは笑った。 「ゲーム……セットだ!」  そして、男は自らの舌を噛み切った。  事切れた男を前に、ガロウは一時の間、瞑目した。  裏切りの報が入った後のガロウの動きは速かった。  守備隊に指示を出し、フォルトゥーナの寝室へと通じる各種通路にさらなる厳重な警備を敷かせ、自身は侵入者を倒すために出撃した。最初から手加減をするつもりなどなかった老将は出し惜しみすることなく獣化を遂げ、少しの躊躇も遠慮もなくジェスター隊を屠っていった。 「……馬鹿な男だ」  反乱軍に加担し、最後はあまりにもあっけなくその命を終えた。  彼は優秀な男であった。だが、それを活かす忠義がなかった。己の欲望に突き動かされるものは、己の欲望に溺れ破綻する。つまりはそういうことなのだろう。  二度と目覚めることのない眠りへとついたジェスターを憐れむと、ガロウは司令室へと引き返そうと踵を返す。 「――――ジェスターは散ったのか」 「!?」  その――聞こえるはずのない、声。  毎日聞いている、聞き間違うはずのない声。  反乱軍を迎え撃つために、部隊を率いて出撃したはずの男の――声。  感じるのは覇気。  どこまでも冷たく、どこまでも熱い、全てを斬り裂くような闘気の刃。 「……何故、あなたがここにいる」  ガロウの声は震えている。  それは紛れもない恐怖だ。埋めようのない絶対的な力の差。自分ではどう立ちまわっても手をかけることすらかなわない、絶対の高所より見下されるが故の抑えようのない恐怖。生殺与奪を全て握られた老将の、嘘偽りのない感情だった。  もちろん――それだけではない。 「答えろ――」  恐怖と同時に湧き上がるもうひとつの感情。  それは怒りだ。  どうしようもない、怒りの感情だった。 「答えろ――ハーディアス!!」 「…………」  猛りとともに猛将は振り返る。  そこにいたのは紛れもなく――闇元帥ハーディアスそのヒトであった。 「私がここにいる理由、か?」  青年は薄く笑う。 「もう察しているのだろう?」 「――――!」  ガロウは息を飲む。  反乱軍を迎え撃つために出陣したはずの彼がここにいる理由。城の異変に気づき、急いで駆けつけてきてくれた。そうに違いないとガロウは自分に言い聞かせる。だがそんなことは無意味だ。ガロウ自身がそんな理由を少しも信じていなかったし、何より、彼がここにいる理由は――彼自身の冷たい覇気が雄弁に物語っていた。 「……裏切ったのか、……ハーディアス」 「そういうことになるな」  平然と言う。  その顔には罪悪感など欠片もない。ただ淡々と、己の所業を述べるだけだ。 「もっとも――此度の裏切りは、全て私が主導したものであるが」 「な――!」 「知っているか、ガロウ将軍。この国はすでに私と同調している。貴族だけではない。闇の軍団もだ。ジェスターはそのひとりにすぎない。革命軍を迎え撃つために出撃した部隊のほとんどは――すでに陛下を討つことを心に決めているのだよ」 「…………まさか、ラセツも……?」  ハーディアスは首を振る。 「アレはもとから数に入ってはいないさ。例えどんな崇高な理想をとこうと、どんな甘言で惑わそうと、アレは私には絶対に従わないだろう。どのような事態になろうとも陛下のために戦い続ける――あいつは、そういう奴だ」 「そう……か……」  安心したように、息をつく。  それと同時に、恐怖を上回り、許しがたい怒りの感情がふつふつと滾ってきた。 「何故だ……」 「ん?」 「何故、お前ほどの男が……! お前は、陛下と強い絆を結んでいると――そう、信じていた、のに……!!」 「…………」  ガロウの知る限り、闇元帥ハーディアスは高潔な男であった。意見の相違はあれど、主君たる惡兎臣に絶対の忠誠を誓っていたはずだし、事実、彼は数千年にも渡り彼女を支え続けてきた。そんな彼だからこそガロウは、ラセツは、そしてフォルトゥーナは――表面の態度はどうであれ、深く信頼していた。  本当に……信じていたのだ。 「全てはこの国のためだよ」 「そのような、型にはまった戯言を聞きたいわけではない!!」 「戯言などではない!」  ハーディアスの声が朗々と響き渡る。 「この国の歪みを吐き出す時が着ているのだ!」  青年の顔には後ろめたいことなど何もない。自分の行いこそが正しいと、誰にもはばかることなく断言できるだけの自信がみなぎっていた。それは誰に保証されたものではなく、青年が青年であるが故に示される闇元帥ハーディアスという男の凄絶なまでの誇りだ。  ガロウは圧倒される。  この男から……  目が、離せない。 「王とは国であり、国とは民であり、民とは王のことなり! 我が魂に賭けて誓おう。私がなすべきことは国のためであり、民のためであり、陛下のためであると。だが、陛下は民と国を裏切り続けた。ならば私が正さねばなるまい。それこそが闇元帥としての、私がなすべき役目なのだ!!」 「そんな、こと……」 「大局を見よ、ガロウ将軍!」 「…………!」 「陛下の存在がこの国に何をもたらしてきたかを。魔王として立たねばならぬ数々の戦から、陛下は常に目を背け続けてきた。陛下のために戦うべく剣をとった英兵たちに対する、それは最大の裏切り行為にほかならない。戦が悲しい。血が流れるのを嫌う。笑わせてくれる。そのような実のない優しさなどで――いったい誰が救われるというのだ!!」 「…………」 「その身を刃に世界に覇を唱えてこそ、真の魔王なり!! 故に陛下は魔王にあらず。ただの気の弱い小娘が、まかり間違いその地位に転がり落ちてきただけに過ぎない! なればこそ! 今、私はその間違いを正そうというのだ!!」 「…………」 「この国の歪みの中心を、あなたは理解しているはずだ」 「…………」 「本当にこの国を、民を案じるのならば――とるべき道はわかるはずだ」 「…………」 「そのために――私は剣をとった!!」  まさに威風堂々。  裏切りを居直るような態度ではない。  そこにいるのは紛れもなく魔界の軍神たる青年であり、彼の叫び、その姿は、まるで魂を鷲掴みされるような――抗いがたいまでに感情を揺さぶられる、情熱的であるが故に蠱惑的な、武人であるならば魅了されずにはいられない男の姿であった。 「ガロウ将軍」  青年は手を差し出す。 「どうか、私と共に歩いて欲しい。あなたの力が、必要なのだ」  誰もが惹き込まれ、頭をたれてしまうだろうその絶対的なカリスマ。もはや呪いとかしたそれに、しかしガロウの心は一寸の揺らぎも迷いもなく、 「断る」  簡潔に、そう答えた。 「――誓ったのだ」 「…………!」 「守ると。……誓ったのだ!」  猛将の全身に、荒ぶるマナが満ちていく。  目の前の青年は言った。実のない優しさで救えるものなどないと。だが彼は救われた。虚ろで燃え尽きたガロウの人生に、新たな息吹を与えてくれたのは他でもない。フォルトゥーナの優しさだ。  実のない優しさなどはない。  どんな時でも、人に優しくあれるというのは――ただ、それだけで尊く、美しい。  だからこそ、ガロウは誓った。 「この身全ては――――陛下のために!!」  吠える。  溢れ出すマナに、ハーディアスですら気圧された。 「……将軍」  ハーディアスは自分の愚かさを悟った。なんという失礼なことをしてしまったのだろうか。長い間ガロウと共に働いてきたが、自分はこの男のことを少しも理解してはいなかった。彼も――狼将軍ガロウもまた、少女を守るための揺るぎない剣であったのだ。 「――すまなかったな、ガロウ将軍」  ハーディアスは抜刀する。  両の手に刀を構え、尊敬の念すら込めて猛将と向かい合う。 「私もまた――すべての力でもって、あなたを迎え撃とう」 「ハーディアアアアアアアアアアアアアス!!!!」  猛る。  怒号は力となり、城を揺さぶる。  まさにそれは猛獣の咆哮だった。  ガロウが大宮殿に仕えるようになって、しばらく経った頃だ。  唐突に――  ただの城務めの警備兵のひとりだった自分に、フォルトゥーナが話しかけてくれたことがある。いったい何なのだろうかと警戒したが――少女の言葉に、彼は生涯忘れえない衝撃を覚えることとなった。 「久しぶりだね。身体はもう……大丈夫?」  気遣うように、彼女はそう言った。  他人にとってはどうということのないセリフだっただろう。だが、ガロウ少年にとってはそれこそ決定的な一言だったのだ。もとより彼女に生かされたこの身だ。彼女のために使おうと心に決めて軍へと入隊した。  だけど。  ただ仕事で立ち寄った街で、偶然助けただけの相手を、彼女は覚えてくれていた。  それどころか――ずっと、気遣ってくれていたのだ。  嬉しかった。  涙が出た。  だからこそ、ガロウの意思は揺るがない。  彼女が笑っていられるように。  その笑顔を守るために、ガロウは無心に戦い続けた。  振り返ってみれば。  ――――自分が、彼女のために何かを出来たとは思えない。  彼女に笑顔が戻ったのだとしたら、それはきっと――あの青年の力だ。  結局、その生涯においてガロウは何ひとつ成せなかった。  しかし後悔はない。  強くなりたいと、そう願い、自分へと助力を求めてきた少年。彼は今や立派に成長し、少女を守るための剣となった。  想いは受け継がれていく。  老兵の出番は…………ここまでだ。  決着は一瞬でついた。  ガロウの巨躯は青年の刃の前に斬り刻まれ、血を吹き出しながら倒れていく。  獣化は解け、巨大だった身体ももとの大きさへと縮んでいく。  それはまるで、猛将の命が消えて行く様を表しているように、ハーディアスには感じられた。  今際の言葉はない。  遺言もなく、ガロウは死んだ。  偉大なる武人は、戦いの中で死んだ。  最後まで、己の忠義を貫き通して―――― 「…………」  刀についた血糊を払う。  鞘に刀を収める音が――やけに、耳に響いた。      ■■■  ――――キィィィィィ――……ン……!  甲高い音を立てて、エーデルのランスがラセツの刀を真っ二つにへし折った。驚きにラセツの表情が変わる。ここが好機だと、エーデルは一気に攻勢へと躍り出た。 「はぁぁぁぁぁ!!」  裂帛咆哮。  ランスを中心にエーデルのマナが渦をなす。可視化出来るほどに収束した濃密なマナは、まるで削岩機のように空気を切り裂き、嵐をよび、地鳴りを響かせ、要塞を揺るがしていく。そのあまりの威圧感に、ラセツはエーデルを中心に世界が回転しているかのような錯覚すら覚えた。 「く――!」  失敗した――!  自身の読みが裏目に出たことをラセツは悟る。  驚きこそしたものの、刀が折れたこと自体に問題はなかった。そもラセツの真の戦型はガロウ将軍直伝の拳闘であり、あえて刀を使っていたのはエーデルを術中にはめるための策でしかない。彼女は武者としてのラセツしかしらないのだ。だからこそ、あえて刀で戦った。エーデルに武者としてのラセツをより印象づけ、――本来の拳闘を切り札にそのスキをつく。予想だにしなかった一撃に、エーデルは膝を折ることとなっただろう。  手強いが決して勝てない相手ではない。  冷静に戦い、確実に相手を倒す。 「そ――!」  相手が強いことは分かっていた。  同時に、本気同士でぶつかっても――相手の強さは自分には届かないことも分かっていた。  エーデルがその差を埋めるために死力を尽くすだろうことも予測が付いていた。  ついていたのに――このザマだ。  はっきり言ってしまえば、ラセツはエーデルという女を侮りすぎていたのだ。  その僅かな慢心が、決定的な、逃れられない結末へとラセツを突き落としていく。 「覚悟ぉぉぉぉぉぉぉ!!」  エーデルのランスは、今や巨大なドリルとなってラセツへと襲いかかる。受けるわけにはいかない。さすがにこの一撃を防ぎきるほどの力はない。ならば避わすしかない。しかし避わすにはエーデルの必殺技は巨大で速すぎた。どれだけ迅速に逃げの一手を打ったとしても半身は持っていかれるだろう。そうなればとても生きてなどいられない。  手詰まりだった。 「んなわけ――」  ラセツは左腕に全てのマナを収束させる。エーデルのドリルが可視化したように、ラセツのマナもまた力を持って具象化する。それは巨大な腕だ。担い手の動きと同調するようにマナの鬼腕は握り拳を作り上げ―― 「――あるかああああああああああああああああああああああ!!!!」  真っ向から、ドリルと打ち合った。  そう。  逃げられないというのなら、やることはひとつだけだ。  このドリルを粉砕する。  勝算があるわけではない。  考えるより前に、自然と体が動いていた。死んでたまるかと――あいつを置いていけるものかと、魂の咆哮が思考を凌駕し肉体を動かした。無我夢中で放たれたマナの拳は構築式すら曖昧で、エーデルのドリルに比べれば小さく脆い。しかしそんなことは今のラセツには関係ないことだ。現状などどうでもいい。理屈など二の次だ。守りたいヒトがいるのなら、ラセツが倒れることは許されない。  まさに全身全霊。  ラセツは吠える。  エーデルの必殺の一撃を打ち砕けと、魂を燃やし咆哮する――!! 「ぐ、ぬぅ……!」  青年の思わぬ抵抗に、エーデルは瞠目する。  この一撃は未来を切り開く一撃だ。言うなれば、長い間この世界を闇に閉ざし続けてきたフォルトゥーナという壁を貫くための希望のドリル。新たな夜明けを祝福するための必殺の一撃。  だが、それは阻まれている。  あと一歩というところまで詰め寄っておきながら――小さな、だけど巨大な拳を撃ち貫くことができなかった。  両者の力は――――拮抗する。  巨大なドリルと巨大な拳。  荒れ狂うマナとマナの激突は衝撃波となり戦場を駆け抜ける。敵意と殺意と誇りにまみれたそれは力ない者には猛毒ですらあり、戦況を見守っていた兵士たちが次々と気を失っていった。力と力の激突はまた、オーヅカ要塞をも破壊していく。壁がひび割れ、塔が崩れ、床が陥没し――それでもまだ建物としての形を保っていられるのは、この決戦の舞台が要塞として非常に堅牢だったという何よりの証拠だろう。 「おおおおおおおおおお!!」 「ああああああああああ!!」  何もかもを打ち込んだ、がむしゃらの一撃。  両者の心にあるのは、ただ目の前の相手へと己が技を届かせることのみだ。 「――――!」  否。  エーデルは思う。  自分の限界を超えた全力の一撃。革命の明日を担う必殺の一撃。多くの人々の希望を乗せた――祝福の一撃。だというのに、それと競り合うコレはいったい何なのだろうか。収束したマナの量も、技の勢いも、全てはラセツに優っている。本来なら競り合えるはずがない。なのに彼の拳は立ち塞がる。数々の障害を打ち砕いてきたランスの切っ先は今、得体のしれない何かに気圧されるかのように力を失いつつあった。  その、力――  ラセツの叫びに呼応するかのように溢れ出る、力。  分からない。  いったい何が――彼を、ここまで駆り立てるのか。  惡兎臣フォルトゥーナという少女に、彼はどうして、そこまで惹かれているのか。  理解、できなかった。  遠くで轟音が聞こえる。  迷いの森の方角だ。  エーデルは悟った。  直感的に、分かってしまった。  アトルたちは――――敗れたのだと。  ――――やがて、腕の感覚がなくなっていき、  ランスは弾かれ、全身をマナの拳によって打ち砕かれる。  もはや獣化を支え続けるだけの力もなく、  エーデルは糸の切れた操り人形のように、その身を宙へと踊らせた。  胸中に去来するのは――無念だ。  志半ばで散る無念。  仲間の期待に堪えきれなかった無念。  もっと――彼女と向き合うという道もあったのではないかと――  今さらながらに、そんなことを思ってしまう、自分自身の弱さへの無念。 「――…………」  マナの暴流に全身を砕かれてなお、女性騎士は微笑んだ。  涙はない。  彼女の夢描いた理想は遥かに遠く、最期は後悔にまみれて終わるというのに――不思議と、心は穏やかであった。  そうして……  最期に、彼女は。 「――――、………――」  小さく、何事かをつぶやいた。  ラセツの放った渾身の一撃はエーデルのそれを打ち破り――闇の国の未来を駆けた死闘は終わりを迎えた。  もはやエーデルはこの世にはいない。  反乱の首謀者たる女性騎士は破壊のマナの前に消え去った。  影も形も残さず……力尽きた。  半壊した要塞だけが、彼女の存在を――彼女との激しい戦いを、物語っていた。  いつの間にか陽は沈みはじめている。  黒い空が赤い夜へと塗り替えられていく。  赤く――  赤く。 「……はぁ――、はぁ――、はぁ――――」  荒く息をつく。  消耗が激しい。全身のマナをほとんど出しきってしまい、まるで力が入らない。かろうじで立ってはいるが、もしも今倒れてしまえば、二度と起き上がれないのではないだろうか――そんな物騒なことまで考えてしまう。  これほどまでに追い詰められたのはいつ以来だろうか。  ルネシウスで大地の勇者と戦ったとき以来――いや、その時よりも遥かに消耗し、そしてはるかに気分が優れなかった。強敵を倒した充実感などない。反乱の首謀者を倒した喜びすらない。あるのはただ、やり場のない、もやもやした気持ちだけであった。  エーデルを突き動かしていた決意――  それを少なからず同調している自分もまた、存在しているのだ。  フォルトゥーナの治世は決して優れているとは言えない。民を守りもしない、導きもしない、ただ彼らの魂の叫びに耳を塞ぎ続け、結果として力で黙らせてきた――その在り方は、決して許されるものではないだろう。  彼女は王としては無能で。  無能な王は、害悪でしかなくて。 「はぁ――、はぁ――、はぁ――……」  だけど。  あいつは――…… 「あれー、もう終わっちゃってましたかー」 「…………シュリア、か」  戦場に不釣合なお気楽な声。  振り返ると、大鎌を持ったウサギ耳な獣人少女が、てこてことこちらへと歩いて来るところであった。見たところ大きな傷はない。開戦前、この場で別れたときと同じ姿のままで少女は要塞へと駆けつけていた。 「せっかく助太刀にきたのに……ししょーはホント、ヤンチャですねー」 「何言ってるんだ……か……?」 「なんです?」 「むむ……?」  ラセツは眉をひそめる。  あった。  違うところが、あった。 「お前、その腹はどうした?」 「はい?」 「いや……へそ……」  シュリアの服には大きな穴が空いていた。まるで土手っ腹に風穴をあけられたかのような大きな穴。その穴から、かわいらしいおへそが丸出しになっている。 「うわぁ……どーしてししょーってばそう、いつもいつも私のことをエロイ目で見るんですか。犯罪者なんですね、可哀想に……」 「本気で哀れんだ目で見るな!」  いつも通りのやり取りに、ラセツは内心安堵する。  前線で戦っているはずのこの少女の安否が気がかりだったのだ。好戦的なシュリアの性格から考えればエーデルと戦闘になっている可能性が高い。エーデルがここまで無事にたどり着いた以上、シュリアは敗れたと考えるのが自然だ。最悪、殺されていることも覚悟していた。 「まぁ、元気そうで何よりだよ」 「心配してくれたんですか?」 「当たり前だろ?」 「私は――ししょーのこと、心配しませんでしたよ」 「あ、そう……」 「だって――」  にこりと――透明な微笑みを浮かべて、シュリアは言った。 「だって、ししょーが私を置いていくはずがないじゃないですか」 「む……」 「はじめてあった時もそうですよね。ししょー、本当はあの時、私を置いて行っちゃうこともできたんでしょ? でも、それをやらなかったのは――私が迷いの森に囚われちゃうかもしれなかったから」 「…………」 「私を気遣って――結局、今もこうして私たちは一緒にいる。こうして戦っている」  言って、シュリアはラセツの隣までやってくる。  要塞の上から見下ろす戦場は――凄惨だった。反乱の首謀者が倒れても戦いは終わらない。兵士たちは剣を交え殺し合う。情けなどはない。敵を許せば、次に自分が討たれることになるのが戦場だ。ただ生き残るために血を流し続ける。そこには戦士としての誇りなど、もはや介在し得ない。生き残りたいという切なる願いだけがあった。  赤い空。  赤い戦場。  この光景をフォルトゥーナが見たら、何を思うのだろうか。  きっとまた、泣くのだろうなとラセツは思った。  こんな闘争は彼女も望んではいない。だが、平和的な解決などもはや望めない。結果として力と力のぶつかり合いになり――おびただしい血が流れるのだ。そしてその結末にフォルトゥーナは心を痛める。  まるで出口のない迷路だ。  ありえない答えを探して、永遠とさまよい続けるような……そんな…… 「ねぇ……ししょー」 「……なんだ」 「むなしく、なりませんか?」 「…………」 「私たちっていったい、何を守るために、何を相手に戦ってるんですかねー……」 「俺たちは、国を守るために戦っている」 「嘘つかないでください」  少女は青年を見上げる。  それは青年がはじめてみる――真摯な瞳をした少女の素顔であった。 「ししょーはへーかのために戦っている。違いますか?」 「…………」 「誰かが言ってました。王は国であり、国は民であり、民は王であるとかなんとか。私たちは国に仕え、王に仕え、民に仕え、民を愛し、王を愛し、国を愛す。そーあるべきだって。だけど、現状はこのザマです」 「……何が言いたい?」 「……へーかは民を捨てて、民は王を捨てました。結局へーかはひとりぼっちです。そんな王サマを守るために命をかける。ししょーは、それでいいんですか?」 「愚問だな」 「ですよねー」  シュリアはアハハと笑う。  どこか困ったような、それでいて嬉しそうな――泣いているような、笑顔だった。 「……シュリア?」  その笑顔の意味を、ラセツが知ることは永遠にない。  機会は失われた。  いや……元から、そんなチャンスは用意さえされていなかったのかもしれない。 「でも、私はイヤですから」  閃光が舞う。  次の瞬間、少女は笑いながら――手にした大鎌でラセツを深々と斬り裂いていた。 「――――ッ」  突然の事態にラセツの思考は混乱する。  全身を焼くような痛み。  頭の中はグチャグチャと混線し、事態の把握すらままならない。  足から力が抜けていき――しかし、倒れる前になんとか大勢を立て直す。ふらついた拍子に、傷口から血が飛び散った。要塞に血溜まりが出来ていく。 「――――」  定まらない視界の中で、シュリアがニコニコと微笑んでいる。 「おま、……え…………」  袈裟懸けに斬られたのだと、――やっとのことで、ラセツは理解した。 「どういう……つもりだ……」 「えーと、裏切り?」 「…………エーデルたちと、繋がって、いたのか……?」 「違いますよー」  シュリアは首を振る。 「ボスから誘われてはいましたけど、この国がどーなろーと興味なかったので、適当にあしらってました」  しれっと言った彼女の口から出てきた驚くべき名前に――ラセツは目の前がチカチカと明滅していくのを感じた。その現実を脳が拒絶する。嘘であると信じたかった。  そんなラセツの気持ちをあざ笑うかのように、遠方で爆発音が聞こえる。  見ると――煙が上がっている。  大宮殿クリスタルファンタジアの方角だった。 「ハーディアスが、裏切ったのか」 「てゆーか首謀者ですよー。だから、ボス、なんです」  くすくすとシュリアは笑う。 「エーデルさんたちは自分たちで革命軍を育て上げたつもりになってるみたいですけど、世の中そんな簡単に運ぶわけないじゃないですか。アレもコレもソレも、全部はボスのお膳立てです。そんなんですから、もちろん今の闇軍団の八割方はボスの息のかかったヒトたちですよー。残りは私のよーにどっちつかずのはみ出し者か、あるいはししょーのような頑固者か。そんなところなんじゃないですかー」 「…………、……踊らされてたって、わけか」 「ラストダンスも終わりました。さっきの爆発で流れも決まりましたから、はみ出し者たちも長いものに巻かれてくんじゃないですかねー」 「お前の……ようにか?」 「だーかーらー、違いますってば。私は別に裏切るつもりなんてありませんでしたよ」 「……だったら、な……ぜ……、…………」  ついにラセツは膝を付く。  吐血する。  口の中に鉄の味が広がっていく。  手足が寒かった。 「辛そうですね、ししょー」  言うと、シュリアは大鎌を高々と構えた。  太陽は完全に落ちて――  赤黒い夜空を背に、マナの力を得て刃が怪しく輝いていく。  それを……言葉もなく、ラセツは見上げるしかなかった。  霞む視界の中で、最後に、少女は。 「今――楽にしてあげます」  満面の笑みで泣いていた。  マナで増幅された破壊の大鎌は、ラセツ自身には直接振り下ろされなかった。それはきっと、シュリア自身が見せた数少ない師への情だろう。彼女の大鎌は崩落寸前だったオーヅカ要塞そのものへと吸い込まれていく。必殺の一撃は、奇跡的に要塞の体を成していたこの建造物に止めをさすには申し分がなさすぎた。  あっという間に要塞は崩れていく。  もはや立ち上がることすらままならない青年に逃げるすべなどない。  シュリアはしっかりと見届ける。  自分が師と慕った青年の最期を。  崩壊していく要塞の中に飲み込まれ――命尽きていく青年の姿を。 「……ししょー」  誰にともなく、少女はつぶやく。  結局――  シュリアはラセツを裏切った。  ラセツに語ったことに嘘偽りはひとつもない。シュリアは本当に、裏切るつもりなどなかったのだ。なぜなら、裏切る理由がなかったから。それがどこで反転したのか――少女にもよく分からない。  ただ、理屈ではなかった。  どんなご高説を垂れ流されようと、どれだけ真摯に頭を下げられようと、理屈ではシュリアは動かない。彼女を付き動かしているのは想いだ。ヒトの根底に渦巻いている、醜くも美しい情念こそが、シュリアを動かすただひとつの理由だった。  だから―― 「ししょー、私、へーかのこと大好きなんですよ。大キライだけど、大好きなんです。だってあのヒトは――――私と同じだから」  それが答えなのだろう。  ふたりは似ている。  他者に望まれるままに歪な生を受けて。  他者の欲望により歪な生き方を強いられて。  いつの間にか世界の枠から外れてしまったはみ出し者。  だけど――得られたものは、こんなにも、違ってしまった。  フォルトゥーナとシュリアは違う。  シュリアの欲したものは……手に入ることはない。  もう、二度と…… 「そう言えば……知りたがってましたよね。私が戦う理由を」  簡単な理由だ。  今も昔も――あの時から変わらない。  少女の戦う理由は――…… 「……ししょー、あなただったんですよ」  戦場に、土煙と共に轟音が鳴り響く。  ある者は勝利の雄叫びを上げ、ある者は力なくうなだれ、また、ある者はただ呆然と、それを見つめ続ける。  オーヅカ要塞が……崩壊していく。  革命軍は総帥を、大多数の幹部を失ってもなお――戦いに勝利した。  敗北した国軍の兵たちは、シュリアの指示のもと革命軍へと投降していく。  こうして――  オーヅカ要塞攻略戦は、両軍の大将の死亡という結末で幕を閉じた。      ■■■  フォルトゥーナへの寝室へと通じる通路を、規則正しい足音を立てながらハーディアスは歩いて行く。その表情はいつも通りの冷静沈着な青年のもので、とても今から主を――否、かつての主の命を取りに行く男の顔とは思えなかった。  彼は少しも気負ってはいない。  つまり、微塵も罪悪感など抱いてはいない。  抱く理由などないのだから、当然といえば当然だ。闇元帥ハーディアスの行いは正しい。過程に多くの間違いはあろうとも、その目指すべき場所さえ正しいのであれば、彼の造反劇も後世においては英雄譚として語られるであろう。  もちろん英雄などという幻想に興味はない。  彼はいつだってこの国のことを考えてきた。  いつだって民のことを考えてきた。  いつだって、フォルトゥーナのことを考えてきた。  その結果が、今日この日へと繋がった。  長い時を過ごした友人をこの手で殺め――それでも、ハーディアスの心は揺るがない。  揺るぎようがなかった。 「――かつてこの城には、クリスタルナイツと呼ばれる、女性のみで構成された親衛隊がいた」  よく通る声でハーディアスは言う。 「陛下の人望の低下と、高い能力を持った女性軍人の不足もあり、いつしか解散してしまい――それ以来、陛下の寝所を守るべき騎士はいなくなった」  足を止める。  ガロウを仕留めた二刀を再び抜き放ち、構えをとる。 「君が――――最後のクリスタルナイツというわけか」  ハーディアスは困ったように微笑む。  その視線の先には黒い髪の少女がいた。白い仮面で表情は伺えないが、彼女が何を思っているか分からない者などこの世にいないだろう。いるとすれば、そいつは余程の愚鈍か大物かのどちらかだ。全身を怒りのマナで満たした大妖怪の殺気は、さしものハーディアスと言えども肝が冷える思いだった。  白面妖狐ミサハ。  アトル隊を一蹴した大妖怪が、敵意も顕にハーディアスの前に立ち塞がっていた。 「――神羅万象」  少女が呪を紡ぐ。  巫女服の腕の部分を形成する数多の呪符が数枚剥がれ落ち、青白い炎となる。それらはミサハの意に従い動き、まるで誘導弾のようにハーディアスへと襲いかかった。三次元軌道を描く普通ならば逃れようのない攻撃。しかしミサハが相手取っているのは闇の国最強の男であり、彼からすればこの程度の攻撃は豆鉄砲に等しかった。 「は――――!」  双刀にマナを込め、ハーディアスは狐火をことごとく両断していく。炎を失った呪符がひらりひらりと落ちていった。その剣速たるやまさに神速と評されるべきであり、同じ鬼人でもパワーファイターであるラセツには絶対に真似できない超技巧の連撃であった。 「覚悟――!!」  その勢いのまま、目にも留まらぬ疾さでハーディアスは少女へと詰め寄る。ミサハも妖術で対応しようとするが――遅い。相手はアトルではない。闇元帥ハーディアスなのだ。この男を相手どるに、ミサハの動きはあまりにも緩慢であり、それは致命的なまでに遅すぎた。  ハーディアスの双刀が少女を捉える。  瞬閃・十六殺。  わずか一瞬の間に対象を十六回も斬り刻むハーディアスの必殺剣。その神速の太刀筋は誰にも捉えられることはなく、傍目からはただ剣が一閃しただけにしか見えないという。もちろん身体能力的にはそれほど高くはないミサハにこれを見切れる力などあるはずもなく、次の瞬間にはその体を十六個の肉片に分断されていた。  いや――  ミサハの体が光を発する。  直後、大爆発がハーディアスを包み込んだ。  少女は体を斬り刻まれ――死を迎える直前、その命を自ら爆破したのだ。完全に想定外の自爆技。だがハーディアスを道連れにするにはおよばない。双刀の一本を失い、軍服がボロボロになり、多少の傷は負ったものの、青年の活動には何の支障もなかった。 「…………」  内心舌打ちをしながらも、青年は少女の奇策を認めねばならなかった。  刃がミサハを斬り刻んだ瞬間、ハーディアスは大きな違和感を覚えた。肉を断つ感触ではなかったのだ。その警鐘の命ずるままに、直感に従い飛び退った彼を直後に大爆発が襲った。おかげで命に別状はないものの、ハーディアスは妖術という奇々怪々な能力を警戒せざるを得なくなった。  爆散したミサハ。  その足元にはミサハだったものが――焼け焦げた呪符が数枚、落ちていた。 「……分身の術、という奴かね?」  冷静な声でハーディアスは背後に声をかける。  振り返ると、そこにはミサハがいた。急いで駆けつけてきたのか肩で大きく息をしている。おそらく今さっきまで戦っていたミサハは、妖術で作り出された自動人形といったところか。フォルトゥーナの元へ向かう者の中に彼女が認可していない者がいた場合、これを全力で排除するよう命令されていたのだろう。結果として城外に出ていた本物のミサハが戻るまでの時間を稼がれてしまったわけだ。 「……はぁ、…………はぁ、…………」  華奢な見た目通り体力はないのか、狐の妖怪は必死に息を整えようとしている。その様子はどこか間が抜けていて、なんというか戦う前からすでに負けている感じだが……このミサハが本物である確証もない。斬りつけた途端に再びドカーン、という可能性もあるのだ。  息を切らしているミサハに、ハーディアスは無言で刀を向けた。  ミサハもまた、両腕の無限の呪符にマナを通わせていく。  お互いの敵意が絡みあう。 「……神羅、……万象……」  息も絶え絶えに呪を唱えると、ミサハの呪符がやはり空を舞う。しかし今度は狐火にはならず、真空の刃となり大宮殿の通路に深い傷を刻みながら標的を切断すべく向かっていく。炎だけではなく風の刃にもなる――この分だと雷や岩石や、他のモノにもなるのだろうと推測し、やっかいな呪符だとハーディアスは思った。 「ふ――!」  気迫と共に風の刃と打ち合っていく。一撃一撃が重い。ヒトひとりくらいなら軽く両断するだろうその一撃を、ハーディアスはマナを込めた刀で見事に斬り払う。そうして風の連撃が止んだ瞬間―― 「……っ」  仮面に隠されたミサハの表情が苦痛に歪む。  いつの間にか――ミサハの左肩に短剣が深々と突き刺さっていた。白い巫女服が赤く染まっていく。血が、流れていた。 「……ふ。妖怪の血も赤いのか」 「…………」  嘲るようなハーディアスの声。  恥辱にまみれても、ミサハは落ちついていた。  今のは所詮小手調べに過ぎない。ラセツとは何度か模擬試合を行ったことのあるミサハであるが、ハーディアスとは戦ったことがない。それどころか、こうしてまともに向かい合うことすらはじめてだ。話には聞いていたが――噂以上に、ハーディアスという男は手強そうであった。 「……さて」  ミサハが本気を出していないことは、もちろんハーディアスにも分かっていた。彼女は妖怪――超越神の創世したこの世界とは異なる、本当の意味での別世界より迷いこんできた者たちの仲間だ。かの種族は得体が知れない。詳しいことはハーディアスも知らないが、上位の妖怪は高位の魔族すら凌駕するという。  素早さを生かした戦技を得意とするハーディアスが攻めきれない理由は、そこにあった。先程の分身体の自爆攻撃の件もある。少なくとも目の前のミサハは血肉の通った存在であるようだが、警戒せずに突撃するには――この小さな体躯の少女は不気味に過ぎたのだ。  と―― 「……なん、だ……」  呆然と呟く。  ミサハの様子がおかしい。彼女のまとっていたマナが蜃気楼のように揺らめいて、巨大な力が少女の体へと集約していく。変化は、まずは尾に現れた。一本しか生えていなかったはずのしっぽが、二本、三本と増えていく。最終的に尻尾は九本まで増加していった。その体毛は銀ではなく黄金。頭部の銀色の狐耳も同じく黄金へと変色している。それだけではない。完全に子供のそれであった小さな身体は、手足が伸び、女性としての丸みを帯び、仮面に隠された顔も大人のものへと成長していく。  そう――成長だ。  白面金毛九尾ミサハ。  小さな少女だった妖狐は、今や二十歳前後の大人の女性へと変貌していた。 「……面妖な生物だな、妖怪というものは」  子供が大人に変化するとは、さしものハーディアスでも想像できなかった。おそらくはこの女性の姿こそがミサハの本気だ。少女の時と比べてマナの質も量も桁違いに強化されている。魔王まではいかなくとも、精霊王に肉薄するだろう力を確かにミサハはもっていた。  だが、青年は闇元帥だ。  魔王という別格の存在を除けば、他に並び立つものはいないだろう最強の大魔族なのだ。  その力は決してミサハに劣るものではない。 「……大神羅万象」  ミサハの呪符が舞い、巨大な狐火の誘導弾がハーディアスを襲う。その数や先程の数倍に上り、妖狐の意に従い獲物を焼き尽くす青熱の回転機関砲(ガトリングキャノン)は多様な位置、角度で用意周到に標的を追い詰めていく。 「――ちぃ!」  威力・速度ともに倍化した狐火はハーディアスを以てしてもそう簡単に切り払えるものではない。並の大魔族ならばおそらく数撃防ぐのが限界であり、結局は青白い炎に灼かれて灰となる運命だろう。まさに常識はずれだ。だがハーディアスという男もまた、常識という括りの埒外にいる男であった。 「――鬼龍相克」  刀の輝きが増す。刀に集められた莫大な量のマナは全てを斬り裂く圧倒的な絶望の具現であり、妖術とて例外ではない。襲い来る狐火を冷静にハーディアスは斬り落としていった。  斬り落としながら――ハーディアスは戦術を変更した。確かにこの妖怪の女は得体が知れなく底も見えないが、こうして妖術と打ち合っているだけでは埒があかない。そも、今の状況がすでに彼女の術中に嵌っているという可能性もありうるのだ。ならば行動に出るべきだろう。行動に出ることにより不利になるかもしれないが、今は停滞した状況を打破することこそが何よりも優先されるべき事柄だった。  ミサハは強い。  だからこそ――攻めて勝つ。 「――瞬閃・螺哮八殺剣」  自爆も警戒しつつ、少女に肉薄したハーディアスは一刀の瞬閃を振るう。  だが。  バチィ――!!  その瞬間、両者のマナが激しい火花を散らす! 「ぬ――」 「…………」  必殺を狙ったハーディアスの連撃はミサハに命中する直前、突然現れた障壁によって防がれていた。八角形の魔法陣の形をした独特の障壁の中央にはやはり呪符があり、それが妖術の盾であることを示している。 「なんとも……まぁ……」  再び距離を取り、ハーディアスはぼやく。  その口元は言葉とは裏腹に嬉しそうに歪んでいた。必殺の意を込めた攻撃をこうもあっさりと防がれたのは何千年ぶりだろうか。これから世界を揺るがすだろう一大事が控えていることを考えれば、このような戦いなど瑣末事に過ぎないというのに、男は胸が踊るのを抑えきれなかった。強敵と刃を交える喜び――。闇元帥ハーディアスもまた男なのだ。  一方のミサハは戦いを好む性癖など持ちあわせてはいない。それは彼女の戦型が妖術に凝り固まったものであり、生身の戦闘能力はそこらの兵士にすら劣る脆弱さである原因にもなっていた。先程のハーディアスの攻撃を防いだのもミサハの意思ではない。彼女からすればハーディアスの攻撃は理解不能の神業であり、自動障壁に止められるまで刃が迫っていたことすら気づいていなかったのだ。  それでも――  戦闘に対する志しが欠片も重なることのない両雄ではあったが、戦闘力は拮抗していた。  各々の感情や背景など何の意味もない。  ただ、お互いに相手を倒せるだけの実力を備えているという一点のみが、この場に置いてもっとも重要な事実であった。 「…………」 「…………」  静かな睨み合いが続く。  闇元帥は右手の刀を構え、九尾の妖狐は呪符を武器に、お互いスキを伺い睨み合う。  先に動いたのはどちらだっただろうか。  剣閃と妖術。  両者の力と技とマナが激しくぶつかり合う。  大宮殿が震えた。      ■■■  それは、思い出話だ。  少女にとっては忘れられない大切な記憶。  だけど、彼は忘れてしまったであろう、忘却の彼方の思い出話。  ただ、それだけの話だ。  地上での戦いで敗戦を繰り返し、手痛いダメージを受けた闇の軍団。  彼らは前線を離脱することとなり、戦い続ける魔界の同胞を残し闇の国へと撤退した。  無念の思いと共に……  その中に、彼はいた。  夜の国からやってきた――――ひとりの青年。  彼は決意する。  この惨状の原因と向きあうことを。  惡兎臣フォルトゥーナと、向きあうことを。  その夜、フォルトゥーナは自室にて月を見上げていた。  白い髪と肌、それにドレス。まるで魔界には不釣合なその姿。  両の腕には包帯がまかれどこか痛々しい。 「――陛下。お話があります」  少女が振り返る。  その青い瞳はどこか虚ろで、どこか焦燥を感じさせるものであった。 「ハーディアス……」  呼ばれて青年は驚いた。  闇の国に来てからまだ日は浅い。いくら将軍職を任されているとはいえ、まさか名前を覚えられているとは思わなかったのだ。少々この白い魔王を侮っていたのか。それとも、単に夜の国の鬼人が珍しかっただけか。 「……どうかしたの?」 「何故、戦わないのですか、陛下」  単刀直入に問いかける。  今、ルネシウスでは魔王率いる魔界の軍勢と、精霊王率いる地上の軍勢が日夜戦いを繰り返している。それは地上の地形すら変えてしまうほどの激しい戦いだ。超越者たちによる常軌を逸した姉妹喧嘩により、世界はまさに死と再生の狭間に揺らいでいた。  創世戦争。  いつしかそう呼ばれることになる――新世界の産声の刻。 「…………」  フォルトゥーナは「またその話なのか」と言わんばかりに顔を伏せ、視線を逸らした。  闇の国ももちろん創世戦争に参加している。  だが――それも最初だけ。  惡兎臣フォルトゥーナは戦わない。  戦いが激化するに従って彼女の戦意は挫かれ、闇の国は敗戦を繰り返した。当たり前だ。いくら兵や将軍の士気が高かろうと、それを束ねる王にその気がないのなら勝てる戦もかなわない。兵たちはただ理不尽に戦うことを拒絶され、戸惑いが行き場のない怒りへと変わっていく。  これでは何のために決起したのかわからない。  父たる神の意に逆らう地上の者たちを屈服させるためではなかったのか。  この歪んでしまった狂った世界を終わらせるための聖戦ではなかったのか。  平穏だった世界を破壊した――邪悪なる女神への復讐のための戦いではなかったのか。  なのに、何故、戦うことを拒否するのか。  どうして……  どうして……!  ハーディアスは叫び声を聞いた。  民の心からの慟哭を、聞いたのだ。 「私には理解できません。何故、陛下が戦うことを拒否なされるのか」 「…………」 「陛下のそのお考えのために兵士たちの士気は落ち、それが敗戦へとつながっています。敗戦は兵だけではなく、民の心を折っていくでしょう。それはこの国にとって大きな遺恨となって…………後の世に大きな災禍を呼びこむことにもなりかねません。ですから、どうか――どうか、考えを改めて欲しいのです」 「…………」 「陛下!」  ハーディアスは願う。  再び闘志を燃やして欲しいと切に願う。  フォルトゥーナが何を考えているのかハーディアスにはわからない。  理解、出来ない。  理解出来ないが……  それでも、ここは頷いて欲しいと、切に願う。  世界の存亡を賭けた戦い。  父たる神の大命成就のために、今、何をすべきなのか。  この国を、この国に生きる民たちを思うのならば、どういう決断を下すのが正しいのか。  それが分からないほど、彼女は愚かではないはずだと――――  なのに…… 「……無理なの」  ぽつりと、少女は口を開いた。 「ねぇ……ハーディアス」 「私は……みんなに死ねって、そんな命令は……もう、出せない……」 「――――」  返す言葉も、なかった。  いったい何を言っているのだろうか、この少女は。 「――――……陛下」  なんだ。それはつまり――兵士たちが死ぬのを見たくないから戦わないということか。自国の兵だけではない。他国の兵も、敵兵でさえも死なせたくない。血が流れるのが見たくない。燃える戦場なんて見たくない。戦争なんてしたくない。そんな命令なんて、……出したくはない。  その結果が一方的な自国の流血で。  その結果が民の心を恥辱に染め上げて。  その結果が、こうして自室で物思いにふけることなのか。  ギリ……と。  まるで噛み砕かんばかりに、ハーディアスは歯を噛み締めた。  ふざけている。  誰しもそんなやわい気持ちで武器を手にしたわけではない。理由は様々あろう。現状を破壊された復讐。平和を打ち砕かれた恨み。義憤。ただ争いをしたいだけ。家族の仇。恋人の弔い。あるいは――王への忠誠。戦うと決めたはずの、王への忠誠。  それがこの様だ。  当の本人は戦うことすら拒否し、ただめそめそと泣いているだけ。  いったい何のための戦争なのか。  戦うと決めたのは誰だったのか。  いや。  それ以前に、本当に、戦うと決めたのか。  流されるままに、己の意見も考えも表に出せず、事態を無様に楽観視していただけではないのか。  この少女を魔王と仰いで――――本当に、それでいいのか? 「…………」  考えるまでも、なかった。  駄目だ。  この女は駄目だ。  フォルトゥーナの存在は闇の国において百害あって一利なしだ。まして彼女の魔王という立場を考えるならば――ひいては魔界にとって良くない結果を生み出しかねない。  魔界のためを思うのならば。  ここで、この少女を―――― 「ねえ、ハーディアス」  フォルトゥーナは窓の外を見上げる。  赤い夜。  まるで血で染まったかのような赤黒い空。 「あなたは――この空をどう思う?」  再び少女はこちらを振り返る。  青い瞳。  虚ろな瞳の中で闇がちらついていた。  心を摩耗するほどすり潰し、深く絶望し、なのに、ありもしない希望を求めて手を伸ばし、かろうじで踏みとどまっている。  そんな少女の瞳。  フォルトゥーナの青い瞳。  赤い夜を見上げ、静かに、泣いている。  それが――  それが――――……  ……――――同胞を助けるために、再びルネシウスへと再臨した闇の軍団。  彼らを率いるのは鬼人の青年だ。  彼は卓越した軍略と戦闘力で瞬く間に精霊たちを蹴散らし、ついには精霊王の喉元にまでその刃を届かせた。  ルネシウスの歴史――創世神話において、惡兎臣フォルトゥーナの名は見当たらない。  創世戦争において地上を恐怖に突き落とした五大魔王。  冥帝ヘル。  魔王シヴァ。  黒死将ハルシャギク。  夜姫ネフティース。  そして――――  闇元帥ハーディアス。 「――――――――」  そうして、少女はゆっくりと目を覚ます。  深い深い海の底から、まるで引き上げられるように浮かび上がっていく。  脳裏には、遠い遠い――はるかに遠い、あたたかなきおく。  それは、思い出話だ。  少女にとっては忘れられない大切な思い出。  だけど、彼からすれば思い出すことさえ忘れてしまった、忘却の彼方の思い出話。  深く深く意識の底に沈殿した――  遠い昔の、思い出話。 「…………」  静かに、まぶたを開く。  ……部屋は、暗い。  外は夜だろうか。  灯りのない部屋は暗い闇に包まれている。  どこか肌寒くて、今が冬なのだろうな、と漠然と思った。 「…………、――――、…………」  大きく深呼吸をする。  冷めるような空気が肺を満たし、少女の霞がかった思考を鮮明にさせていく。  静かな寝室の中。  フォルトゥーナは、ひとり目覚めの時を迎えた。  今はいったいいつなのだろうか。  眠りについてから、どれだけの時間が経ってしまったのだろうか。  みんなは――元気だろうか。  私はまだ――――みんなと繋がっているのだろうか?  空気が痛い。  起き上がろうとして体がまともに動かないことに気づく。力を入れたくても肝心の力が入らない。まるで神経がズタズタになってしまったような幻痛を覚えて、――すると、まるで思い出したかのように全身が悲鳴を上げた。 「――――っ」  気が滅入る。  ひとりでいることが、あまりにも心細かった。  誰かに手をとってもらいたかった。  誰かに頭を撫でてもらいたかった。  その大きな手で、自分を温めて欲しかった。  あの扉を開けて、ラセツや、ミサハが――――……  大扉が、静かに開いた。  まるで望んだかのような展開に、少女は瞳を輝かせる。しかし期待はすぐに裏切られた。  入ってきたのは、あまりにも冷たい覇気をまとった誰か。  見たことのない、誰か。  予想だにしなかった事態に、フォルトゥーナは恐怖し――…… 「……陛下」  自分を呼ぶよく知った青年の声に、安堵した。 「ハーディア――」  しかし、それも束の間。少女の夜目は青年の姿をはっきりと映しだす。  凄絶な姿だった。  大きかった右の角は半ばから折れ、細いながらもたくましい筋肉がついていた左腕は切断されていた。全身は彼の血か、それとも返り血か……おびただしいまでの鮮血に赤く染まっている。  だが、何よりも異質だったのは彼の表情だ。温かみなどまるでない冷酷な眼差し。それは戦場において屠るべき敵へと向けられる死の宣告にも等しいものだ。  青年は今まで少女に向けたことのない顔で、フォルトゥーナを見下ろしていた。 「……ハー……ディアス……?」  青年が静かに近づいてくる。  少女は反射的に逃げようとするも体が動かない。弱り切った体にはもはやそんな体力すら残されてはいなかった。動かない体が悲鳴を上げる。あまりの苦痛に少女の意識は再び途切れそうになった。 「ハーディアス……」  自分を、見下ろしてくる、青年。  よく見知ったはずの彼は、まるで見知らぬ誰かのように、少女には思えた。  涙が、流れた。  血に濡れた腕が伸ばされる。  少女の寝間着を乱暴に掴むと、力づくでそれを破り去った。薄い胸と白い肌がさらけ出される。だがその左半身には火傷の痕が刻まれていた。癒えることのない罪の証。誰にも見せたくはなかった……あまりにも醜悪な、少女の体。  それは鳴動していた。  黒く変色し、赤く変色し、まるで少女の白い肌を蝕むように脈動を繰り返している。  そんな体を見て、青年の口元が歪む。  笑う。  哂う。  わらう―――― 「……あ」  辱めを受けてなお、少女は悲鳴のひとつさえ上げられなかった。この現実が、今自分の身に起こっていることの全てが、まるで夢の中の出来事のように思えてしまう。これを現実と受け入れるには――あまりにも少女にとっての『現実』と乖離しすぎていた。  青年の右手に炎が灯る。  真っ赤な、炎――  少女は願う。  声のならない声を上げて、助けを乞う。  ――――助けて、ミサハ。  炎の腕が、  ――――助けて、ラセツ!  少女の心臓を貫いた。      ■■■  オーヅカ要塞跡地では、エーデルの遺体を引き上げようと今も必死の作業が続いている。  夜はすでに深い。  だというのに、革命軍の魔術師たちが灯した光球を頼りに、兵士たちは瓦礫の除去作業を続けている。ひとつひとつ、丁寧に、どかしていく。チマチマしてて面倒そうなので、自分が一気に瓦礫を吹き飛ばしてあげようとしたら必死の形相で泣きつかれた。それだけはしてはいけないらしい。  まるで誰かを助けようとしているみたい――――  シュリアは瓦礫の山に腰掛け、そんなことを思った。  実際その通りなのだろう。  彼らはエーデルの死を信じきれていない。殺された瞬間を見ていないのだから当然といえば当然だ。彼らにとってエーデルは不敗の戦姫であり、悲願達成を目前にして、こんなところで命を落とすなどあり得ないのだ。だからこそ生存を信じている。瓦礫の中から発掘された、彼女の愛用していたランスをただひとつの希望に現実から目を背け続けている。  愚かだとは思わなかった。  どんなに愚かに見えても、嘘偽りだと分かっていても、希望にすがり続けるのが生命だ。どのような絶望にも屈せず、歪みきっても抗い続ける。故に生命は生命として存在することを許される。  自分には到底辿りつけないだろうその在り方は、純粋に眩しくすらあった。 「さて、と――」  少女は立ち上がる。  これから先、どうするか。  戦にこそ勝利したものの、革命軍はすでに死に体だ。エーデルというカリスマを失い、クリスタルファンタジア攻略へと向かった将軍たちとも連絡がつかないらしい。情報によると無残に殺された死体が見つかったらしいが――まぁ、シュリアにとってはどうでもいいことだ。  このまま革命軍に居座り、美味しいところだけをいただく――という選択肢はなかった。地位や権力などに興味はない。彼女をこの地へ縛り続けていた楔のひとつはすでになくなり、残るひとつもまもなく消えるだろう。もはや闇の国への未練は欠片もない。ならば、さっさと立ち去ることが懸命な選択に思えた。  瓦礫を掘り返している兵士たちを横目に、シュリアは足音さえ立てずに消えていく。  この国で起きたこと。  この国で起こしたこと、その全てを無責任に放り出して―――― 「…………」  しかしシュリアは踏みとどまる。  瓦礫の山から森へと向けて、赤い染みが点々と続いているのを発見してしまったからだ。  まるで瓦礫から這い出して、満身創痍の体を引きずりながら、迷いの森へと向かっていったような――そんな、血の、後――――……  少女の瞳が細まった。  その表情に色はない。  歓喜でもあり、憤怒でもあり、恐怖でもあり、悲しみでもあり――希望も絶望も混濁し、全ての色を持つがゆえに無色であった。  と――  ――――オオォォオオォオオオオァァオオオォオオオオオォォオ……!!  世界をつんざくような咆哮と共に、黒い衝撃波が少女を襲う。瓦礫の山が吹き飛んでいく。それだけではなく、精神に溶けた鉄の棒を差し込まれかき回されたかのような理解不能な不快感に襲われる。思わず吐き出しそうになり――すんでのところでシュリアはこらえた。振り返る。作業を続けていた兵士たちはひとり残らず昏倒していた。彼らの脆弱な心と体ではこの悪意の波動に耐えられるはずもなかったのだ。  そして、シュリアは見た。  クリスタルファンタジアの方角。  天を斬り裂くように、黒い光の柱が、轟々と立ち上るのを。 「――――」  どうやら……  少女の楔は、まだ抜け落ちてはくれないらしい。 「……ししょー……」  迷いの森の中。  傷ついた青年は、おぼつかない足取りながらも、大宮殿へと歩を進める。  血を流しすぎたのか、全身が重い。  まるで巨岩を引きずっているような錯覚を覚えながらも、青年の足は止まらない。  ふらつく体を支えながら、確実に大宮殿との距離を詰めていく。  離れて消えてしまいそうな思考を、意志の力で強引につなぎとめていた。  かつては軽く駆けられた森が、足を取り、道行を阻害していく。  ひどく、鬱陶しかった。 「…………」  このまま倒れることが出来たなら、それはどんなに幸福だろうか。静かな森の中、月明かりの下で眠りに落ちることができる――そんな最期でさえ、今の青年には身に余る結末であり、とても魅力的に思えた。  気の迷いだ。  青年は、まだ、終われない。  終われないのだ。 「……フォル、トゥーナ……」  青年の小さな叫びは、闇に溶けて消えていく。  少女の元へと青年は急ぐ。  ただがむしゃらに、死にかけの体を引きずりながら――それでも青年は、決して歩みを止めることはなく、少女の元へと向かっていった。  b.H.ヒストリア外伝 奈落の花   第五章 おわりのはじまり  ↑ グランドグリーンとサブタイトル被ったでござる\(^q^)/ ←あとがきタイトル  なんか色々ごめんなさいすることがあるんだケド、いざあとがき書こうと思ったらめんどくさくなってきたわさ。ひでーな自分><  とりあえず前章書き終わった時点で想定してた話と七割ぐらい別の話になってた。もしかしたら今までの伏線とかと矛盾してる場所があるかも。全部終わったら一から見返してそのあたりも修正や追記する。多分。きっと。おそらく。  そんなこんなで、次回最終回です。  三月上旬までに終わ……………るかあああああああああああああああああああああああああああorz  計画性ってどこに売ってますか><  あとがきおわり。