それは――悪夢だった。  後に創世戦争と呼ばれる戦い。  世界を炎で包み込んだ戦い。  死と再生の戦い。  この歪んだ世界の是非をめぐり、力ある者たちが連日連夜対立を繰り返し――その度に都市は燃え、敵も味方も第三者も、すべてを飲み込んで灰燼とかしていった。  そこに――力なき弱者など介在する余地はない。  超越者たちの戦いの前に、哀れにも逃げ惑うしか道はなかった。  だから。 「…………」  炎の戦場を少女は歩く。  血を失いすぎたのか――両足が重い。だが歩みを止めることは出来ない。止まった時こそが、この命が燃え尽き刈り取られる瞬間なのだから。  ――――遠くで爆音が響く。  熱風と衝撃波が炭とかした木々をなぎ倒し、骨だけになった建造物を吹き飛ばす。  視界が回る。  きっと、自分の体も吹き飛ばされたのだろう。  ゴロゴロと炎獄の世界を転がっていく。  もはや抵抗しようとする意志も力もなかった。  静かに、己が死を受け入れようとしていた。  ドンと何かの壁にあたって体が止まる。  打ち付けた体が痛かった。  ――――天を仰ぐ。  世界は――もはや、彼女の知る面影を何も残してはいなかった。  空が燃えていた。  大地が溶けていた。  赤い。  紅い  朱い。  あかい。  アカイ。  真っ赤な空。真っ赤な大地。  ただただ赤く、紅く、朱く、あかく、アカク。  まるで赤いペンキを空にぶち撒けたかのような、鮮烈にして苛烈な赤さ。 「…………」  今際の際に見る景色が――こんなものだとは思わなかった。  涙が止まらなかった。  悔しかった。  悲しかった。  止めどなく――涙があふれた。  手を伸ばす。  燃える空へと、手を伸ばす。  何かを掴みとろうと。  あるいは助けを乞うように。  自分でも分からないまま――ただ、手を伸ばした。  たゆたう世界。  夢とも幻ともつかない、どこでもない世界。  その世界で少女は  今日も――         明日も――           昨日も――         未来も――      過去も――    今も――                   永劫を――             一瞬を――  ――――……深い深い大地の底で。        少女はたゆたう夢をみる――――  それは、きっと。  世界で一番、孤独な少女なのだろう。      □□□□  ―――――ふと、目を覚ました。  深夜。  世界はまだ夜が明ける前で、陽の差さない室内は暗い闇に覆われている。  見慣れない天井。  見慣れない寝床。  わけのわからないまま、フォルトゥーナは混乱し―― 「あ……」  状況を把握する。  ここは――  ここは、そう。  夢幻街の、鬼王家。その客室だ。  一晩だけ、泊まることになった、ラセツの家族の家の、客室…… 「…………」  フォルトゥーナは瞳を閉じる。  脳裏に浮かぶのは――赤い幻影。  久しぶりに見たのは、燃える世界。  幾度と無く少女を苦しめてきた――――…………創世戦争の記憶。  だと言うのに。 「…………」  天井を見つめる。  視線はそのまま横に流れていき――青い瞳が、窓の外の欠けた月を映しだす。  ひどく、気持ちが落ち着いていた。  いや。  正確には、動悸が激しい。胸が痛む。心が締め付けられるような悔恨はそのままに――だけど、それをどこか別の位置で俯瞰している自分がいる。  まるで現実味の感じられない、どこかふわふわしたような感覚。  不思議だった。  こんな事ははじめてだ。  両手を見上げようと、腕を伸ばす。  気だるい身体は力が入らず――たったそれだけの動作にも、長い時間を要したように錯覚した。  てのひらをみる。  焼け跡の残る少女の小さなてのひら。  それは手だけではなく、フォルトゥーナの実に左半身のほとんどを犯している彼女の罪の証だ。流されるままに戦乱へと加担し、選択することすら放棄し、ただ泣くしかできなかった――愚かな少女が背負った消せない罪だ。 「――――」  こんな自分をスズカは大丈夫だと言って慰めてくれたが――やはり、見るに耐えない傷跡だと思う。 「…………」  いや、別に誰かに見せるつもりがあるわけでもないのだけれど。  変な考えを振り払うように軽く頭を振ると、ゴロリと寝返りをうつ。  静まり返った夜。  どこからか聞こえてくる、虫の鳴き声。  欠けた月が雲に覆われ、室内は一段と闇に覆われる。  深く。  深く。  昏く――――  罪の残る少女の手。  思い出すのは、あの日の出来事。  あの時――  燃える世界で、それでも抗いたくて――手を伸ばした。  なのに。  どうして、繋いだその手を離してしまったのだろうか。  もしかしたら救えたかもしれない命があったのだ。  それを――どうして、もっとしっかりと繋ぎ止めていなかったのか。 「――――」  雲が晴れ、心細い月明かりがフォルトゥーナを照らした。  布団から体を起こす。  もう一度、頭を振る。  手を伸ばす。  昼間はどこまでも高い空へと掲げられたこの腕も、しかし、今は薄暗い天井の闇へと吸い込まれていくだけだ。  もしも。  もしもあの日に戻れるのなら。  今度こそ、あの女の子の手を離さないでいられるのだろうか――?  布団を出て、欠けた月を見上げる。  考えるまでもなかった。  自分には無理だ。  フォルトゥーナという少女には、誰かを助ける力なんて、ない。  そんなことは――もう分かりきっていたことだ。  自分では何も出来ない。  流されるだけの存在。  選び取ることすら不可能な、あまりにも無力な、その在り方。 「私は……」  フォルトゥーナは呪う。  自分自身の矮小さを、ただ、呪う。  そんな事をしても、何の解決にもならないと――そう自覚していても、白い少女は、ただ嘆くことしかできなかった。  どうして、こんなにも力不足なのだろう。  どうして――  誰一人、助けられないのだろう。 「どうして――」  暗い感情と共に、涙がこぼれる。  細い月はただ無情に――少女を見下ろしていた。     ■□□□  どこまでも広大な白い宮殿。  どこまでも広大な緑の庭。  空はどこまでも青く晴れ渡り、太陽はさんさんと大地を照らす。  川はキラキラと輝き、澄んだ風はどこからともなく花の香りを運んでくる。  そんな世界の中心で。  小柄な少女がひとり、静かにティータイムを嗜んでいた。 「…………」  紅茶の味が喉に染み渡る。  美味しい。  疲れた心が癒されていくよう。  こんなに美味しい飲み物なのに、彼女の配下の間ではルネシウス産というだけの理由で評判が悪く、結果として気軽に口にすることさえ許されなかった。仕方なく隠れて度々嗜んでいたのだが――やはり美味しいものは美味しい。くだらない意地に固執して、この美味しさを知ろうとしないなんて……人生の半分は損をしていると思う。 「…………」  息をつく。  美しい空を見上げる。  風が、少女の長い髪をなびかせていく。  穏やかな時間が過ぎる。  ずっと……  ずっと、こうやっていられたら、それは、どんなに―――― 「――いつまで、そうしておるつもりじゃ」  突然の声。  振り返ると、白い宮殿の柱に寄りかかるようにして、青い髪の女がこちらを見つめていた。  見つめていた?  いや――見下していた、という方が正しいか。  黄金の瞳が、呆れたようにこちらを睥睨していた。 「また、このような夢に浸っておるとは……」  青い髪の間から大きな赤い翼が現れる。  バサリと――翼がはためいた。  たったそれだけのことで。 「――――」  白い宮殿は崩れ去り、緑の庭は崩落する。  青い空は吹き飛ばされ、太陽はその存在をかき消される。  残されたのは漆黒の世界。  残されたのは――ふたりの少女。 「…………」 「くく――そう睨むでない」  赤い翼を折り畳み、少女は言う。  黄金の瞳が冷たく輝いた。 「いい加減に目を覚ませと――余はそう言っておるだけじゃ」     ■□□□ 「…………ん」  朝の日差しが眩しい。  鳥のさえずりが聞こえ――見知らぬ天井が目に映る。  ――ああ、そうか。  少女は得心すると布団から這いずり出る。着崩れた浴衣から白い素肌がのぞく。秋の朝は、ちょっとだけ肌寒い。窓を開け、空を仰ぎ見る。  青い空。  白い雲。  そう――ここは魔界ではなく地上だ。 (……気持ち悪い)  ピシャリと窓を閉めると、ハルシャギクはあくびを噛み殺しながら洗面台へと向かう。  酷い寝ぐせだった。 「…………」  顔を洗い、歯を磨き、髪を整え、髪を整え、髪を整え―― 「…………ん」  ふと手を止めて、しばらく鏡の中の自分とにらめっこを続ける。目がすわるほど自身をじとーっと見つめ続け――唐突にコクリと頷くと、再び髪をいじりはじめる。 「――よし」  長い長髪を髑髏の髪飾りでくくり、ツインテールにする。慣れない髪型だが――この慣れない世界にはコレくらいの方が丁度いいだろう。  浴衣を脱ぐ。  スレンダーな裸身を淡い光が覆い、その光はブレザーとスカートとなり少女を着飾った。 「ふん」  意味もなく微笑むと、鏡を覗き込み――その口元がへの字に歪む。  顎に手を当てしばし黙考し…… 「……こうか」  つぶやくと、再び光が全身を覆い――今度は白いショートパンツに黒いシャツとニーソックスを履いた姿となっていた。  今日何度目かの、鏡とのにらめっこに入る。 「……………………ふ」  今度こそ満足そうに微笑むと、部屋を出ようと―― 「……ふあ」  ――したところ、大あくびが出る。 「…………」  顔を二回ほど振り、パンと両頬を叩き気合を入れる。姉妹に情けない姿など見せられるはずもない。 「――よし!」  こうして――  運命の日の朝は、幕を開けたのだった。  豪華ホテル・鳳凰堂のカフェレストラン。  朝の優雅な一時を堪能しようと、早朝にも関わらずポツリポツリと人の姿が見てとれる。それぞれが楽しそうに朝を過ごしているが――特に、窓際の一角を陣取っている美しい女性の集団には何者と言えど目を惹かれずにはいられないだろう。  もちろん、黒死将ハルシャギクも例外ではなかった。 「――おはようございます、姉上」 「おはよう、ハルちゃん」  ペコリとお辞儀をするハルシャギクに、ミルクティーを飲んでいた冥帝ヘルが応えた。  一同を見回す。  ヘルと共に優雅な朝とやらを過ごしていたらしい、ふたりの女性がそこにはいた。  メガネをかけた、赤髪赤目の黒スーツを着た長身の女性……炎の精霊王たる火霊帝ルーと、眠たそうな顔に似合わず、アザラシの毛皮を頭から被り背中に亀の甲羅を背負うという廃センスなファッションをした青髪の少女……水の精霊王、水亀臣フリールのふたりだ。 「…………おはよう」  心底嫌そうな顔で、ハルシャギクは挨拶をする。これも一応、礼儀というやつだ。 「よ。おはようさん」 「……おはよう」  ふたりの精霊王も、それぞれ軽く手を上げたり無表情に頭を下げたりと朝の挨拶を返してくる。 「――ふん」  これみよがしに鼻を鳴らした。  黒死将ハルシャギクと冥帝ヘルは魔界の魔王であるが、このふたりは地上世界ルネシウスの精霊王だ。かつては共に同じ時を過ごした姉妹同士だとしても、今更こうして慣れ合っているのが……なんというか、すごく不愉快であった。  だからだろうか。  口から毒が出てしまうのは。 「……ふん。全員お揃い――か。私が一番寝坊するとは……世も末だな」 「おいおい、何いってんだい」  しかめっ面でルーが応える。 「全員揃ってるだって? バカを言うんじゃないよ」  そう。  全員揃うなんてことは――あるはずがないのだ。  なぜなら。  彼女は。 「ネフティースがいないだろ? 深夜のうちに抜けだしたみたいで部屋ももぬけの殻だったんだよ」 「――チッ」  今までで一番不愉快な顔をして、ハルシャギクは吐き捨てるように舌打ちをした。 「ネフティース……あいつと遭ってしまったのは夢ではなかったのか……」 「あらあら」  クスクスと微笑むヘル。  この夢幻街の地を治める魔王、夜姫ネフティースとハルシャギクは、本当に仲が悪い。なにせ「あいつの生意気な角をへし折ってやりたい」、「あの生意気な尻尾を引っこ抜いてやりたい」と想い合っているほどの仲である。 「あの子もせわしないねぇ……せっかくここまで姉妹が揃ったんだ、もっとゆっくりしていけばいいのにさ」 「……ここはネフティースの国だから……」 「ん?」 「きっと、忙しい」  口を尖らせるルーをフリールが言葉少なになだめた。 「……まぁ、そりゃあわかってるけどね。あの子も色々あるんだろさ。あたしらは国の統治なんてやってないから、気楽なもんだけど」  魔王と違い、精霊王はその名前に反し王としての責務もなければ義務もない。精霊たちはそもそも国家をもたないし、彼女たちと縁の深い聖王国の統治はアナスタシア聖王家が行っている。  精霊王の役目はルネシウスという世界の維持である。  そのために、マナクリスタルによるマナの供給、世界を害す邪悪(目の前の魔王のことであるが)に対する切り札としての勇者の選定、さらには古代帝国時代のように人類の文明がおかしな方向に発展しないよう、戒め導く――それが精霊王に与えられた役目だ。 「――まるで私たちが暇人だとでも言いたげだな、精霊王」  ハルシャギクがつっかかってくる。 「誰もそんなことは言ってないだろ?」 「ふん。力を失い、ソフィアの後ろ盾がなければ何も出来やしない脆弱な負け犬が――せいぜい吠えているがいいさ」 「……なんだい、今日はまた随分と機嫌が悪いねぇ。あの日かい?」 「殺すぞ」  ふたりの間で(一方的な)火花が散る。  と―― 「はいはい、そこまでよ。ふたりとも落ち着きなさい」  ヘルが拍手を打ち、割って入る。 「ハルちゃん、とりあえず何か頼んじゃいなさい。タダでカフェに居座るのは美しくないわよ」 「しかし姉上――こいつが」 「ハルシャギク」  ピシャリと、ヘルが言う。 「ネフティースがいなくなっちゃって寂しいのは分かるけれど、八つ当たりはやめなさい。みっともないわ」 「な――!? わ、私は、」 「ほら!」  有無をいわさずメニュー表を押し付けるヘル。  すかさずフリールが店員の呼び出しスイッチを押す。 「あ、こら――」 「……お待たせしました。ご注文はお決まりですか?」 「む……」  文字通り、あっという間にやってくる店員さん。出待ちでもしていたのだろうか。 「む、むむむ……むむむ」  メニューとにらめっこするハルシャギクであるが、焦っているせいかなかなか決められない。というかメニューの中身が入ってこない。視線がくるくると空回りしているだけである。 「ご注文はお決まりですか?」 「ホットミルクをお願いするわ」 「……コーンポタージュ」 「あ、じゃああたしはミラノサンドで」  さっくりと注文を終わらせる姉妹たち。  視線が最後のひとり――すなわち自分にぐさりと突き刺さってくるのを感じるハルシャギク。焦る思考のまま、なおも必死にペラペラとメニューをめくる。目が踊る。汗がたらりと流れ落ちた。 「ご注文は以上でよろしいですか?」 「ハルちゃん?」 「さ……」 「さ?」 「さ、さ、さ……さーろいんすてーきで」  パタリと、メニューを閉じた。 「……入れ違い?」 「はい」  対面のスズカが首肯する。  残念な結果を聞き、黒い和服の女性――夜姫ネフティースは顔をしかめた。  鬼王家の客間。  早朝に姉妹に黙って鳳凰堂を出たネフティースが向かったのは、ここ、鬼王家であった。  わざわざこんな所まで、何をしに来たのかというと―― 「……ふぅん」  じろりとスズカを睨めつけるネフティース。 「つまり、この私がわざわざ出迎えに来てあげたっていうのに、お姉様もラセツも出かけちゃってもういない、と。そういうわけ、スズカ?」 「はい」  再び首肯するスズカ。他に反応のしようもないだけであるが。  まだ夜も明けきる前の早朝――  ズカズカと鬼王家に乗り込んできた夜姫の目的は、フォルトゥーナとラセツの回収だった。昨日の祭りでいつの間にやら離れ離れになってしまったふたり。鳳凰堂にも来なかったということはその辺で野宿でもしているか――あるいは、鬼王家に来ているか。  鬼王家に来ることを何故か拒んでいたラセツであったが、さすがにフォルトゥーナに野宿させるような事態だけは避けるだろう。となると、彼らの行き先はここ、鬼王家の屋敷しかないわけだ。  そう推測したネフティースは、意気揚々と、彼らが目覚めてどこかへ出かける前に捕まえようとこうしてやって来たというのに。 「入れ違い……ねぇ」  こんな早朝からどこへ行ったというのか。 「まったくもう。引き止めてくれたってよかったのに。気がきかないわ、スズカは」 「はぁ……」  陽も登らない早朝に叩き起こされ、夜姫の接待をし、言われるままにフォルトゥーナたちを捜してみれば「出かけてきます」の置き手紙。報告してみればこうやって文句を言われる。  スズカからすればたまったものではないだろう。  だが、彼女たちにとって夜姫の存在は絶対であり、その意志に背くことなど許されないし考えられないことだ。良くも悪くも、夜姫という絶対のカリスマに支えられ支配されている――それが鬼人なのである。 「行き先に心当たりはない?」 「残念ながら」 「……うーん……どうしようかしら」  このまま鳳凰堂や自分の城――幻影魔々殿に戻るのも何だか癪だ。かといってどこにいるかも分からないフォルトゥーナたちを探しに行くのもバカらしい。  いっそのこと、このまま鬼王家でふてくされてようかしら――?  そんな事を思いはじめた時だ。 「……お母さん」  ふすまをそっと開き――女の子が顔を覗かせてくる。  寝ぐせのついた銀の髪に、寝ぼけ眼の藍色の瞳。 「か、カグヤ?」 「……ん」  起きちゃったのか、といった感じで顔をしかめるスズカ。 「その子って……」 「あ、はい。娘のカグヤです」 「ふぅん……」  くい、とあごでカグヤの入室に許可を出す。深々と頭を下げると、母は娘を招き入れた。  早朝とはいえ空はまだ暗い。カグヤが感じたらしい、夜に目を覚ましたらいるはずの母がいなかったその恐怖は――ネフティースには理解しようもない感情だ。 「お母さん」  スズカに抱きつくと、カグヤはそのまま母の胸の中で甘えだす。 「まったく、この子は」  そんな我が子の頭を、スズカは優しく撫でてあげた。 「……ほら、あなたも夜姫様に挨拶しなさい」 「ん……」  カグヤは顔を上げ、ネフティースの顔をまじまじと見つめてくる。 「…………」 「…………」 「……このおばさん、だれ?」  瞬間、空気が凍った。 「――へぇ」  おばさんの額に青筋が走る。  夜姫ネフティースが最後にカグヤを見たのは――確か、まだ赤ん坊の頃だから六年ほど前か。鬼王家と天照皇家の血を引いた子どもの誕生は、彼女がこれから夢幻街という国を支配するに当たってそれなりの意味を持つ。いずれはネフティースの側近として華々しい活躍をしてもらうことになるのだろうが―― 「礼儀を欠く子供ね」 「も、申し訳ありません」 「ふん、まったくだわ。私がおばさんなら、ヘル姉様なんてババアじゃないの。ほんと失礼しちゃうわ」 「――む!」 「どうかしましたか、姉上」  ナイフで綺麗に肉を切り分けながら、ハルシャギクは急に不機嫌そうな顔になった姉に問いかけた。 「いえ――何かしら。急にネフティースちゃんの顔を見たくなったわ」 「そ、そうですか」  表情は相変わらず穏やかなのに、なんだか目が怖い。 「つーかさ、なんだか胃がもたれてきたんだけど。それ消し炭にしてもいいかい?」 「いいわけないだろう火霊帝。貴様、食べ物をなんだと思っている」 「……冗談だよ」  肩をすくめる炎の精霊王。 「でもさ、よくもまぁ、朝っぱらからそんなの食ってられるねぇ。感心するよ。てっきり訳もわからず適当にそんなの注文したんだとばっかり思ってたけど」 「――――」  顔をしかめるハルシャギク。 「……ふん、何のことはない。これをネフティースだと思えば――」  ざっくりとナイフをステーキへと突き立てる。  そのまま肉を口へと運び、がぶりと食らう。 「むぐむぐ……ネフティースだと思えば、いくらでも咀嚼できるというもの――だ――?」  いつの間にやら姉妹たちが全力で遠ざかっていた。 「うわぁ……さすがのあたしでも引くわぁ」 「……下品」 「あんな子に育てた覚えはないのに……お姉ちゃん悲しい」  ドン引きである。 「いや、あの、ちょ――」 「さて。そいじゃあ、そろそろ出ようか」 「そうね」 「……ん」  ヘルが同意し、フリールも頷く。  そのまま肉と悪戦苦闘している姉妹を省みることもなく――実に軽い足取りで三人は店から去っていったのであった。 「…………」  残されたのは、ジューシーなお肉と、四人分の会計。 「…………」  ハルシャギクは、冷めた眼でそれらを見下ろす。  ドスっとナイフを肉に突き立てた。 「――いたっ」 「どうかされましたか、夜姫様」 「んー……首のあたりがチクッと。蚊にでも刺されたのかしら」 「はぁ……」  首をさするネフティース。 「ところで、カグヤだったかしら」  母にしっかりと抱きついたまま、銀の髪の女の子はコクリと頷く。人見知りする――というよりも、警戒心が強いだけなのだろう。見知らぬ女性であるネフティースを前に、カグヤはどこか怯えたような、それでいて強い意志のこもった瞳で、目を逸らすことなく見つめ返してくる。  ネフティースは頷く。 「あなたみたいな子、嫌いじゃないわ」  そう。  カグヤの深い瞳の奥。  その――真の意味。  気付かなかった。  もしかしたら、少女が大きく成長するまで気付くことがなかったかもしれない。もしそうなっていたら、きっと彼女の目論見は成立し得なかっただろう。  だから、きっと。  今、この時。  カグヤという娘の本当の価値に気付けたことは――僥倖だ。 (礼を言うわ、お姉様、ラセツ)  そっと――  ネフティースはカグヤへと手を差し伸べた。 「仲良くしましょうね、カグヤ」  にこりと微笑む。  母の胸の中で……小さな少女は、怯えたように身を縮める。  結局。  なんとか仲を取り持とうとするスズカの努力もむなしく、最後までカグヤは、夜姫ネフティースへの警戒心を解くことはなかったのだった。  ガタン、ゴトン――  列車が揺れる。  まるで揺りかごのように揺れるそれは、静謐な車内の空気と合わさって、確実に乗客を眠りへといざなっていく。 (……眠い)  車内に人気はない。  いるのは、自分たちだけだ。 「……ん」  あくびを噛み殺しながら、ラセツは隣を見る。  自分に寄りかかり、すやすやと眠っている五大魔王のひとりがそこにはいた。 「…………」  小さく息を吐く。  事の起こりは、今から数時間前だ。  早朝と呼ぶには少々はばかられる、深夜。  夕食で姉と姪にイジメられて深いダメージを負い、深い眠りへと落ちていたラセツは、自身を呼ぶ声にその安眠を妨げられた。 「――……セツ」 「…………」 「――ツ。……ラセツ」 「ん……」  少女の声。  フォルトゥーナの声だ。  理解した途端、青年の意識は瞬時に覚醒する。何か事件でもあったのか。屋敷中の気配を探るが、殺気や悪意は感じられない。そもそもそんな怪しい奴が侵入してきたのなら眠っていたとしても自分が真っ先に気付くだろう。仮にラセツが気付かなかったとしても、スズカが間違い無く気付く。姉はそういうヒトだ。  ふすまを開ける。  どこか不安そうなフォルトゥーナがそこにはいた。 「……何かあったのか?」 「――うん」  頷くものの、何かを言おうとして、言いよどむフォルトゥーナ。  この感じは、そう。  創世戦争の夢を見たときの、憔悴しきった時の彼女を連想させる。  だがそれとは違う。  何か別の――似ているけど、それとは違う別の感情に突き動かされていると――ラセツには思えた。 「…………」  ラセツはかがむと、しっかりとフォルトゥーナの目を見つめる。ポンと頭を撫でながら、言い聞かせるように言葉を紡いだ。 「大丈夫だ、俺がついてる」 「……うん」  ちょっとだけ微笑むと、フォルトゥーナは頷いた。 「……あのね、ラセツ」 「ん?」 「あの……」  口をパクパクさせるフォルトゥーナ。  うまく考えがまとまらないらしい。 (……前にもこんな事があったな)  懐かしく思う。  あの時は、まとまりようがないグチャグチャした考えを、そのままぶつけてきたフォルトゥーナだったが――今回は、そういう訳でもないらしい。  なんとか考えをまとめ、ちゃんとした言葉で、自分の言葉で、ラセツに何かを伝えようとしている。 「あの――」 「…………」 「…………、――えと――……、その……」 「…………」  心なしか、少女の顔が赤い。  瞳が潤んでいて、吐息もなんとなく、熱い、気も、する――…… 「――――」  なんだか喩えようのない、妙な気分になってきたラセツであった。 「…………フォルトゥーナ」 「え――」  立ち上がると、努めて明るい声で、ラセツはいう。 「――ちょっと外へ出るか。この時間なら、確か始発が動きはじめる頃だし」 「……?」 「もうちょっと、地上を見てまわろうぜ」  ガタン、ゴトン――  列車が揺れる。  鬼王邸で何かを言いかけたフォルトゥーナは、このまどろみの揺れに逆らうことなく眠りに落ちている。 (――ったく。子供だよなぁ、こいつ)  実際の年齢は比較にならないほどフォルトゥーナの方が上なのだが――それを踏まえても、やはりまだまだ子供だな、と思う。  ちょっと目を離すと、どこかへと消えてしまいそうな―― (……実際に迷子になったしな)  お陰様で会いたくなかった姉と遭遇してしまった。それどころか寝床の世話にまでなってしまった。一生の不覚だ。……だけど、まぁ。フォルトゥーナが迷子になっていなかったら、カグヤと出会うこともなく、もしかしたら姪は何かの事件に巻き込まれていたかもしれない。そうなったら姉はきっと悲しむし――カグヤだって、きっと。 「…………」  隣を見る。  カグヤだけではない。  はぐれてしまったあの時間。  もしかしたら、フォルトゥーナに何かあったかもしれないのだ。 (……俺が、しっかりと守ってやらないとな)  決意を新たにし、ラセツは夢幻街のガイドブックを読みはじめる。  とりあえず列車に乗り込んだものの、目的地は未だに決まってはいない。  ページをペラペラとめくる。  どこか、この路線で行けて、観光的に面白そうなところはないか―― 「ここ、かな」  めくる手を止め、観光ガイドへと視線を落とす。  ここなら――先の条件を全て満たしている。 「よし」  ラセツは頷いた。  隣のフォルトゥーナを見る。  相変わらず、安らかな寝息を立てている。 「――まったく」  ラセツは微笑むと、少女の頭をそっと撫でてやった。  目的地までは、まだまだ時間があった。 「……いい夢、見ろよ」 「――――」  どことなく、少女が微笑んだような――そんな気がした。     ■■□□  そうして、夢から覚めた。  目の前に広がるのは昏く淀んだ牢獄の世界。  鎖で腕をみっちり縛られ、ろくに動くこともままならない――少女にとっての現実。 「…………」  カビと埃の混じった辛気臭い空気が、少女の鼻孔を満たしていく。  ……気分が悪かった。 「やっと起きたようじゃな。まったく、余計な手間をかけさせるでないわ」  それはもちろん、このくすんだ世界と空気のせいではない。そんなものは、もう嫌というほど付き合い続けているし――端的に言ってしまえばすっかり慣れてしまった。今更不快感も何もない。  じろりと、少女の黒い双眸が一点を睨みつける。  何もない場所。  だが――突如として空間が揺らめき、人の形を彩っていく。  綺麗な青い髪。  夢に出てきた、あの女だ。  少女は青い髪の女へと、吐き捨てるように言葉を投げかけた。 「……誰も起こしてくれなんて、頼んでない……」 「何を言うか。現実逃避に夢に逃げこむようでは、やがて精神が磨耗し腐っていくだけじゃぞ」 「あなたには、関係のないこと」 「む。助けてやった恩人に、酷い言い草じゃな」 「だから、誰も助けてなんて、言ってはいない。だいたい……」 「なんじゃ?」 「……さっきのは、現実逃避じゃなくて、ただ寝てただけ」  小さくあくびをする少女。 「む?」 「寝ているところを起こされたら、不機嫌になってもしょうがない……」 「まだ昼じゃぞ?」 「ここは外の時間とか関係ない」 「まぁ、たしかに」  こんな苔むした光すら入らない牢獄に、昼も夜もないだろう。  まして、何百年も囚われているのなら尚更だ。  第一、この世界はルネシウスや魔界といった他の世界とは断絶されている。はずだ。普通の方法では介入することすら不可能――なはず、だ。  断言できないのは、少女自身がこの世界について明るくないこと、それに加えて、この青い髪の女のせいだ。 「…………」 「? 余の顔に何かついておるのか?」  疑問符を浮かべ、顔を触ってみる青い髪の女。  その姿は薄ぼんやりと輝いており――よくみると、後ろの壁が透けて見えていた。  幽霊。  この女を一言で説明するなら、この言葉が一番分かりやすく簡単であろう。 「何もついていないではないか」 「…………」  少女は不機嫌な顔のまま、幽霊女を見つめ続ける。  ここに封じられて長い時が経つが――いつ頃だろうか、この女が現れるようになったのは。他と切り離されているはずのこの世界へと何故か幽霊女は自由に出入りができるらしく、自分の都合で自分の好きなときに現れては、こちらの事情などお構いなしに容赦なくこうしてちょっかいを掛けてくる。  正直、勘弁して欲しかった。 「そう怒るでない。わかった。余が悪かった。許せ」 「…………」 「…………な?」 「……わかった」  あまり反省しているようには見えなかったが、幽霊女の生前の所業を考えればそれも致し方ないところだろう。そもそも意地を張ったところで特に面白い展開にもなるまい。それよりもさっさと話を終わらせ、幽霊女を追い払った方がずっと建設的というものだ。 「……ほ。やれやれ、キモを冷やしたぞ」 「心にもないことを言うのね」 「本心じゃぞ。余はこう見えても心が狭いのじゃ」 「……そう」  沈黙が訪れる。  少女は元から口数も少なく、滅多なことでは自分から話しかけることはない。  そのため、会話はいつもこの幽霊女が起点となるのだが―― 「ひとつ聞きたいのじゃが」 「……なに?」 「お主はどうして、ここに封じられておるのじゃ?」  まるで子供にお使いを頼む母のような気軽さで、幽霊女は言う。  本当に。  これだから、この女は好きにはなれないのだ。 「お主の一族も人間たちを――いや、ルネシウスを憎んでいると思っておったが」 「……どうして、そんな事を?」 「もちろん、余が調べたからじゃ」 「……暇なのね」 「もちろんじゃ」  たいして大きくもない胸をはる。  ……まぁ、胸のことは自分もとやかく言える状態ではないが。 「余が調べたところによると、お主たち異邦人はこの世界を憎んでいると聞く。なるほど、たしかにあんな目にあえばそれも当然じゃろう。その気持ちは理解できる。しかし――何があったのか、人間のために自らを犠牲にした一族の実力者がいたそうではないか」 「…………」 「それが、お主じゃ」 「……懐かしい……話ね」 「どうしてじゃ? 余には解せぬ」 「…………」 「どうして――人間たちの味方をしたのじゃ?」     ■■□□  ネフティースお膝元の左京より南東に、とある街がある。  災いを封じた湖――災湖と呼ばれた夢幻街最大の湖を、長い間見守り続けた街だ。  湖と共にあり続けた街。  水の精霊を祀る街。  水雲(みなぐも)の街。  フォルトゥーナたちが降り立ったのは、この水の都であった。 「うーん……なんだか涼しい」 「そうか?」  ラセツは苦笑する。  体を伸ばしながら、フォルトゥーナは街並みを見回した。  瓦屋根や板塀など――そこには古き良き夢幻街の風景が残されていた。 「古い家がいっぱい……左京じゃあまり見なかったから、もうこういう家はないと思ってた」 「左京は近代化が進んでるからな」 「――うん。だからここは、フィズルーナって感じ」 「フィズ……?」  首を傾げるラセツに、フォルトゥーナは応えず道を進んでいく。  水雲の街は、九千年以上の歴史を誇る夢幻街の中でも最古の都市のひとつに分類されている。それに伴い数々の逸話や神話、歴史的建造物も多く、水の都の名に恥じない美しい景観と相まって観光地としての人気も高い。  行き当たりばったりで計画性も何もあったもんではなかったが――ラセツの選択は間違ってはいなかったわけである。  その証拠に―― 「わぁ、みて。ほら。川がいっぱい」 「水路だな。もうちょっと行けばでっかい川があるらしい」 「あ、あそこ。水が湧いてる」 「湧き水も豊富らしい」 「ねえ、あれって井戸だよね?」 「水の精霊の街だからな。井戸も多いんだろきっと」 「すごいね……水がいっぱい」 「水都だからな」  白い少女は大層ご満悦の様子で、さっきから笑顔が絶えることがない。  フォルトゥーナの治める闇の国は緑豊かな世界ではあるが――そのほとんどが森林や山々であり、湖や川といったものは数えるほどしかない。もちろん海などは存在しているが、病気がちの彼女がそんな所までおいそれと出向けるはずもなく。 「……楽しいか?」 「うん」 「来てよかったか?」 「うん!」 「そうか」  古い街並みを抜けると風景はガラリと変わり、紅葉に彩られた森が広がりはじめる。  緩やかな坂が続き――その先に待っているのは大きな神社だ。  鳥居をくぐる。 「わ……」 「どうかしたのか?」 「――ううん。ちょっと驚いただけ。ここ……すごく澄んだマナに満ちてるから」 「そうなのか」  ラセツにはよく分からないが――この小さな少女は魔王のひとりなのだ。そういう事に敏感でもおかしくはないだろう。  手水舎で身を清めると、拝殿へと足を運ぶ。  フォルトゥーナは躊躇することなく、最高額のコインを投げた。  何やら真剣な顔で祈っている。 「……何を願ったんだ?」 「ないしょ。ラセツはお願いしないの?」 「魔族がやることでもないだろ」 「……私はやってるけど」 「まったく。とんでもない魔王様だ」  言うと、ラセツは財布の中からコインを取り出すと、乱暴に放り投げた。  もちろん最高額のコインだ。  適当に拍手を打つと祈りを捧げる。 「――ね。何をお願いしたの?」 「教えない」 「むぅ」  頬をふくらませるフォルトゥーナだが、それもすぐに微笑みに変わる。 「ふふ――そういえば、ここは誰を祀っているの? 水の精霊だとは聞いたけれど――」 「うーんと……」  ガイドブックで確認する。 「む」  ラセツは微妙に顔をしかめた。 「……水の精霊王らしい」 「フリール?」 「ああ、確かそんな名前だったか」  何が悲しくて、魔王や高位の魔族がお金を払ってまで精霊王に祈りを捧げなければいかんのか。あらかじめちゃんと調べておかなかった、ラセツの落ち度であった。  だが、当の魔王様はというと…… 「そう……懐かしい」  どこか遠くを見るように、フォルトゥーナはつぶやく。 「フリールと私は……双子なの」 「マジか」  というと、なんだ。  水の精霊王とやらは、ウサギ耳でも生えているのか。 「……多分、ラセツが想像しているようなのじゃないと思う」 「それはよかった」  心底安堵するラセツであった。 「なんでも、この街にはそのフリールにまつわる逸話とかもあるそうだ」 「逸話? 寝ぼけて天地をひっくり返したとか?」 「…………」  いったいフォルトゥーナの中でフリールはどんなキャラになっているのだろうか。 「そういんじゃなくてだな。――帰らぬ人を待ち続けた少女の伝説、だそうだ」  今から千五百年ほど前だ。  太古の時代に災湖に封印された邪悪が、ついにこの世に蘇った。  代々封印を守る役目を担ってきた水雲の巫女は、街の防衛組織や旅の武芸者と共にこれに立ち向かい見事退治することに成功した。  この戦いで巫女の少女は武芸者の少年と恋に落ちた。  だが少年は、当時国中を戦乱の渦へと巻き込んでいた絡繰武者の反乱を収めるべく少女を残し旅に出てしまう。  ――――必ず帰ってくる。  水の精霊王の前で交わされたその誓いは、しかし果たされることはなかった。  少女は少年の帰りを待ち続ける。  いつまでも。  いつまでも―――― 「……という話だ」 「なんだか、悲しいお話……」 「伝説なんてこんなもんだろ。この話だってどこまで本当なのか分からないしな」 「それはそうだけど……でも……」 「ん?」 「……大切な人を待ち続ける気持ち……少しだけど、分かるかも」  瞳を閉じ、何かを思い出すように、少女は言う。  そんなフォルトゥーナの姿にラセツは何だか得も知れぬ不安を感じる。  もしも、だ。  もしも、あの戦争で自分が帰って来なかったなら。  フォルトゥーナも、伝説の巫女のようにずっと待ち続けたのだろうか?  きっと帰ってきてくれると――  そう願い、祈り、闇の国で自分を待ち続けていたのだろうか。 「なぁ」 「うん?」 「待っていてくれたのか?」 「待っていてくれたわよ」  何を今更、と首を傾げるフォルトゥーナ。 「そうか。そうだな。それは――――……うれしいな」  同時に、伝説のようなことにならなくてよかったと安堵する。 「この少女は、最期は水の精霊王のためにその命を捧げたんだそうだ」 「フリールのために?」 「ああ。ここに来る途中に森があっただろ? あの森の中に、少女と水の精霊王を祀った祠があるんだそうだ」 「そうなんだ」 「後で見に行ってみるか?」 「うん」  こくりとフォルトゥーナは頷いた。 「……あのね、ラセツ」 「なんだ?」 「……私たちは、旧世界を管理するために生まれたわ。旧世界は五対の世界。対になる世界の管理者同士も対の存在として生を受けたの」 「……どうしたんだ、いきなり」 「うん。なんとなく。ちょっと――言いたくなったの」 「そうか」  ラセツは頷くと、白い少女の話に静かに耳を傾ける。 「私たちはずっと――お父様の言葉に従い、世界を導き、守ってきた。それが私たちの存在意義であり、全てだったから」  フォルトゥーナが創世戦争以前の――気の遠くなるような、それこそ神話の時代の話をするのは珍しい。双子の姉妹が祀られている社にいることが彼女を追憶へと誘っているのであろうか。  眼を閉じて、夢をみるように。  少女は語る。 「あの頃は、みんなで仲良く、楽しく、賑やかに――穏やかに暮らしていた」  何億年も続いた平和な世界。  だけど、それは突然壊されて。 「今は……ふたつに分かれて争い合ってる」  精霊王と魔王。  歪んでしまった世界を、それでも存続させようとする者と、  父たる神に従い、混沌へと還そうと破壊する者。  ラセツは思う。  もしも自分がフォルトゥーナたちの立場だとしたら。  姉と――スズカと、争い続ける日々が続くとしたら。 「それは……嫌だな」  ケンカならいい。  むしろ望んでやってやる。  だが、誰が好き好んで家族と刃を交えたいなどと思うものか。 「嫌だよね」  どこか儚げに微笑みながら、フォルトゥーナは言う。 「でもね、私たちは普通の姉妹じゃないから、ラセツが想像しているような……そんな気持ちはなかったと思う」  創世戦争。  姉妹で本気で命を取り合ったあの大戦でさえ、世界の崩壊と炎の地獄に絶望こそしたが、姉妹と戦うことへの拒絶感はなかったのだ。  父たる神の望みを叶える。  世界の繁栄を望んだ超越神エルシャダイは、闇に堕ち、世界の滅亡を望む邪神イブリースになった。そんな相反する父の望みに、姉妹がそれぞれに従った結果が創世戦争にほかならない。 「だけど……」 「……フォルトゥーナ?」 「――……やっぱり、そういうのって、寂しいし……悲しいよね」 「…………」 「なんでだろうね。あの頃は、こんな気持になんて、ならなかったのに」 「…………」  かける言葉が見つからない。  幾億年を生きてきた姉妹の間に横たわる感情など、たかだか百年ちょっとの時間しか生きていないラセツには到底理解が及ぶものではない。  ただ黙って、白い少女の独白に耳をかたむけるしかなかった。 「きっとね」 「ん……」 「私たちは、変わったんだと思う」  たしかに神霊だったあの頃は、完全生命体の名に恥じない無敵の力と鋼の精神を持っていたと思う。 「魔王になって、精霊王になって――私たちは、変わった」  あの頃の自分たちが今の自分たちを見たならば、きっとあまりにも脆く、儚く、移ろいやすいその在り方に嘆き悲しむ事だろう。もはや完全ではなくなった生命体。つまりは不完全生命体。それが今のフォルトゥーナたち姉妹なのだ。  でも。  だからこそ。 「きっと、これからも変わっていく」  それが良いことか、悪いことかは分からないけれど。  そして、それは神霊だって同じことだと思う。 「ソフィアはね」  光浄蝶ソフィア。  姉妹の中でただひとり、神霊で在り続ける女性。 「どんな些細なことにも真剣で、妥協しなくて、本当に自分の使命にまっすぐで――私は、そんな彼女が、ちょっとだけ恐かった」  フォルトゥーナは空を見上げる。  手でひさしを作る。  太陽が眩しかった。 「なのに――不思議だよね。そんな彼女が、今はこうして私たちを照らしているんだもの。暖かい太陽として生命を育んでる。そんな事ができるのは、たったひとり残された神霊である彼女だけだから……」  言葉が途切れ――少女は、苦笑した。 「ちょっとだけ、羨ましいかも」 「そうか」  つられて、ラセツも笑みを浮かべる。 「また――いつか、会えるといいな」 「……え?」 「姉妹で戦うことが嫌だって、はっきり分かったんならさ。魔王と精霊王だって、絶対に戦わなくちゃいけないわけじゃないだろ?」 「そう――かも、しれないけど」 「だったらさ。こうやって地上に出てこれたんだし、何かの機会にバッタリ出会うこともあるかもしれないだろ? そうしたらさ。昔みたいに話して、喧嘩して、笑って、そうやって過ごせれば――最高じゃないか?」 「――――」  ポカンとした顔で、少女は青年を見上げる。 「……なんだよ、そのツラは」 「え――う、うん」  二度、三度、瞬きをし―― 「……ラセツって、たまに面白いことを言うよね」 「……そーかぁ?」 「うん」  くすりと微笑む。  ラセツは面白くなさそうに鼻白んだ。 「ふ、ふん。とっとと次に行くぞ、次! まだ見るべきところはあるんだからな。天星殿とか! 災湖とか! 後者はなんてったってご先祖様が絡んで――」  言いながら、ラセツはズカズカと歩いて行く。  フォルトゥーナは慌てて後を追いかけていく。  心の中で――言えない言葉をささやきながら。 (でもね、ラセツ)  蒼い瞳に悲しみが宿る。 (もう――シヴァやマイミィールはいないんだよ)  姉妹が全員集まることは、二度とない。  二度と、みんなで本当に笑い合える日は来ないのだ。     ■■■□ 「勘違いしないで」 「む?」 「憎んでいるというのなら――私たちは、この世界に関わるものすべてを憎んでいると言っても過言ではない」 「そうなのか?」 「……ええ」 「余もか?」 「……ええ」  悠々としている幽霊女を睨みつけるようにして少女は言う。  少女にとってこの女性は友人だ。  彼女がいたからこそ、この数百年を磨耗せずに生きてこられたといっても過言ではない。  それについてはとても感謝しているし、できればこれからもこうして他愛のない話を続けられる関係でいられればいいとさえ思っている。  だが、それとこれとは別だ。 「…………あなたには、分からない」  創世。  世界を創るその行為は、その実、歪められた世界の再構築でしかなかった。  超越神の世界だけではない。  歪な創世は、結果として隣り合う別の世界をも巻き込んだ。  元の世界から切り離され、この新世界とやらに強制的に接続された。 「あなた達の事情で、故郷を失った私たちの気持ちは……」  なにが新世界か。  なにが誰も争うことのない、みんなが幸せになれる世界か。  そんな独善的な思い上がりで、日常を破壊された我らはどうなるというのか。 「あなた達の事情で、ずっと迫害されてきた私たちの気持ちは……」  この怒りを――どこへぶつけろというのか! 「絶対に、分からない」 「……ふむ」  幽霊女は肩をすくめた。  本当に理解出来ないのだろう。  愛する故郷を失うことも、世界に受け入れられない苦しさも……この友人は、少しも理解出来ない。違う。理解しようと思っても出来ないのか。  元からそういう感情を持ち合わせていないのかもしれない。  だからこそ、あの炎獄の世界を生み出せたのだろう。  いや――  きっと、それは違っている。 「……私たちは、近いのかもしれない」 「余はそんなちんちくりんではないぞ」 「そういう意味じゃない……」  この世界を嫌っている。  その一点において、自分とこの女性は一致していると思う。  加えて――そこからさらに踏み込んだ先。それだけではない、気持ちも…… 「私たちは……ひねくれ者同士よ」  自嘲気味につぶやく。  かつて――  少女は夢幻の大地の危機に立ち向かった。  立ち向かうことが、できたのだ。  結局のところ。  他の仲間達が人間や精霊たちを憎み許していないのに対し――心の何処かで、ずっと昔に、少女は彼らを許していた。  共に歩んでいけると――そんな幻想を抱いてしまった。  愛してもいない。  憎んでもいない。  なんとも宙ぶらりんな、この気持ち。  行き場のない感情。  その起点は、今でも鮮明に思い出すことが出来る。  炎の世界。  炎獄の日。  自分がこうなってしまったのは、きっと―――― 「…………――――!」 「……娘?」  急に呆けた顔になった少女へと、不信の目を向ける幽霊女。 「どうかしたか?」 「…………」 「ふむ?」  不思議そうに首を傾げる。  少女にもよくわからない、不思議な感覚。  意識の海に強力なまでに働きかけてくる、直感じみた何か。  たとえるならば―― 「懐かしい……香りがする」 「懐かしい?」 「…………うん」  心を沸き立たせる、妙な気持ち。  分からない。  分からないけれど。 「――――」  少女は瞳を閉じる。  鎖で束縛された両の腕が、とても熱かった。     ■■■□  水雲の街の中心にある古代遺跡・天星殿の見学を終え、ラセツとフォルトゥーナが向かったのは夢幻街最大の湖である災湖だ。  災湖――災が封じられた湖。  その名のとおり、一年中濃い霧に覆われたこの湖には、かつては巨大な邪悪が封じられていたという。  創世戦争の時代の話だ。  精霊王たちと戦うことを恐れ、黒死将ハルシャギクの部下であったとある大魔族がセルファード大陸の戦場より逃げ出した。逃げ出してたどり着いた先がここ、夢幻街の地であった。大魔族は夢幻街で悪逆の限りを尽くし――夢幻の大地は大魔族の手に落ちるものと思われた。  その危機を救ったのが、鬼王。  ラセツのご先祖様である。  当時、創世戦争での敗北をすでに予期していた夜姫は――実際、神霊たる光浄蝶ソフィアを抑える方法がなかった時点で魔界側に勝機はなかった――善後策を講じた。それが次元トンネルたるヨモツヒラサカの開通であり、そのためにも夢幻街を失うわけにはいかなかったのだ。  かくして大魔族同士の決戦がはじまった。  勝者は鬼王であり、敗れた大魔族は夢幻街の地に封印された。  その決戦の舞台となったのが、災湖なのである。 「それじゃあ、今もその大魔族が封印されているの?」  災湖へと通じる河原――災の河原を歩きながら、フォルトゥーナはラセツへとたずねる。  湖が近いせいか風が涼しい。  それどころか、どこかひやりとさえする。  ラセツは面白くなさそうに首を振った。 「いや……。……さっきも話した伝説があっただろ?」 「女の子の話?」 「ああ。その話に出てきた討たれた邪悪ってのが、その大魔族らしい」 「そうなんだ」 「だから今はただの湖だ。近くでは魔族饅頭とかも売られてるそうだぞ」 「そ、そうなんだ……」  なんとも商魂たくましいものである。  ふたりは災の河原を行く。  湖が近いのか、徐々に霧が濃くなっていく。  人気のない河原は静かで、涼しくて、ゾクリとして――陽も高いのに、まるで白い闇に飲まれていくよう。  ――やがて、ふたりの視界に広大な湖が現れる。  深い霧に覆われたそこは、ひんやりと背筋を凍らせるような冷気に包まれていた。風のたぐいは吹いていないにもかかわらず、どこか淀んだ空気が湖を中心に渦を巻いているような感覚。陽も遮られ薄暗く、まさに災いを封じた湖の名に恥じない不快さと不気味さを併せ持っていた。  良く言うのならば、霊的な力に満ちた場所。  悪く言うのならば、まるで死後の世界との境界線。  生物の本能に訴えかけてくる、それは本質的な恐怖であった。  なるほど、これなら――肝試しの舞台としてはとびきり優秀であろう。  だけど。 「……ラセツ」 「……なんだ」 「……ここって、観光に来る様なところじゃないんじゃ……」 「…………」  青年は黙して語らない。  ただ、青年の頬を一滴の汗が伝ったのを少女は見逃さなかった。 「――恐いか?」 「そういうわけじゃないけど」 「けど?」 「うん……、うん……」  歯切れの悪いフォルトゥーナ。  言葉をさがすように視線を彷徨わせ、言葉を整理するように何度か頷く。 「上手く言葉に出来ないんだけどね」 「おう」 「――なんだか、すごく……胸が痛いの」 「……む」  どこか不安気な少女の瞳。  この湖の独特の空気が少女をこんな顔にさせているのだとしたら――言われるまでもなく、災湖にやって来たのは最大の失敗だったであろう。 「帰るか」 「え……」 「帰ろうぜ。他にも見るべきところはいっぱいあるんだ。天星殿を模倣して作られた天星鏡って砦もあるし、行ってみるのも悪くないだろ」 「ううん」  フォルトゥーナは首を振る。 「私は大丈夫だから。……ここ、ラセツのご先祖様に縁のある場所だし……本当は、もっとちゃんと見ていたいんでしょ?」 「む……」  その通りである。 「だから、ほら――行きましょう」  言うと、フォルトゥーナは元気に歩き出す。  パッと見た感じ、少女の様子におかしなところはない。至って普通のフォルトゥーナだ。 「……わかったよ」  だから、ラセツは大人しく従った。  自分の上司に。  自分の守るべき相手に。  大丈夫だろうと――高をくくって、少女が感じていた不安を見て見ぬふりをした。  少女の優しさに甘えてしまった。  災湖。  災いを封じた湖。  あまりにも不吉な、その空気。  こんなところに、長居をするべきではなかったのだ。  それは一瞬の出来事だ。  白い少女の姿が、濃い霧に霞んで見えなくなり――  次の瞬間には、フォルトゥーナはこの世界から消えてなくなっていた。 「――――!!」  手を伸ばす。  だが手応えがあるはずもなく――ただ虚しく空を切るばかりだ。 「な……」  なにがどうなっているのか。  ラセツは頭を振る。  人一人が急に消える――そんなふざけたことがあるはずがない。  誰かにさらわれた?  物質化を解けるとなると精霊?  いや、精霊が自由に現界出来るとしても、それでフォルトゥーナをどうこうできるわけではない。……もしもフォルトゥーナが物質化を解けるとしたら? 魔族と魔王は種族レベルで別の生命体だ。本来なら魔族の常識で計ることなど意味のない超越した生命体なのだ。ならばもしかして―― 「――ち」  舌打ちする。  冷静になれ。  根拠のない推測など意味のない妄想と同じだ。  今、最も大事なことは―― 「…………」  深呼吸をする。  大事なことは……ラセツという男が出来る、ありとあらゆる手段でフォルトゥーナを見つけ、無事に保護することだ。 「――――」  静かに、深く、広く――――ラセツは周囲の気配を探る。  少女を求めて世界を視る。  ――心に触れる、何かの気配。  ――それは、青年が今一番会いたい少女の……―――― 「……!」  ふわりと。  空気が揺らぐ何かの気配。  ラセツは振り返る。 「――――フォルトゥーナ?」  いや、違う。  良く似ているが――これは違う。  風が吹く。  霧が流れる。 「お前は……」  いつの間にそこにいたのか。  現れたのはひとりの少女だった。  青い髪をたなびかせ――  青い瞳で、青年を見据えた。 「こんばんは」 「……こんにちはだろ」 「???」  青い髪の巫女少女は疑問符を浮かべながら首を傾げた。  なんだか頭が痛くなってきたラセツであった。 「お前は――誰だ」 「私ですか?」  少女はじーっとこちらを見つめてくる。  思わず半歩後ずさってしまう。  得体のしれない女であった。 「私は……」  少女はすっと腕を上げ、湖を指さした。 「この湖の管理者です」  霧の向こう。  湖の上にそれはあった。 「あれは……」  目を凝らし――ラセツは息を飲む。  古い神社であった。いや――この際はっきり言ってしまえば、ボロい神社だ。今にも落ちそうなボロボロの橋に、まるで何年も、何十年も、あるいは何百年も人の手が入っていないような、傷んだ社殿…黒ずんだ鳥居が、湖に揺らめいている。 「ここも水雲神社のひとつですよ」 「そうなのか」 「水雲家は、……湖の魔物の封印を守ってきた一族ですから」  どこか遠くを見るように、青い巫女は言う。  なんとも浮世離れした少女であった。深い霧と独特の霊気のせいもあるのだろうが――まるでこの世のものではないかのような、そんな気さえしてしまう。 「お前は、水雲神社の者なのか」 「巫女をしています」  こくりと頷く。 「そういう貴方は……何者ですか」 「連れが突然いなくなった。白い髪をした獣人の少女だが……心当たりはないか?」  ダメもとで聞いてみる。  この不思議な湖の管理者だと言うのならば、何かしらを知っているかもしれない。 「獣人ですか」 「……文字通りに、消えていなくなったんだ」 「……そう」  青い巫女は何かを考えるように瞳を閉じる。  しばし黙考し――やがてラセツへと向き直った。 「思うのですが」 「ああ」 「獣人は珍しいですね。あまり……目にしない方たちです」 「…………」  だからどうだというのか。 「最近は……ヨモツヒラサカの開通もあって……魔界のヒトも多く見かけるようになったようですが……それでも獣人はあまり見ないようです」 「他人事かよ」 「巫女とは俗世を離れるものですから」 「そ、そうなのか?」  最もらしいが嘘くさい。 「それで……先程の話の続きですが」 「あ、ああ」 「あなたの連れの方がいなくなったと……そういう事ですね」 「だからそう言ってるじゃないか」 「……神かくし」 「は?」 「……そう、まだ落ち着いていないのね。あるいは……呼ばれたのか」 「何を言っているんだ?」  ブツブツと意味不明のつぶやきを続ける少女。完全に危ない人である。  どうにも上手く言葉のキャッチボールが出来ている気がしない。この巫女少女がズレているのか、それとも自分がおかしいのか。前者であることをラセツは祈った。 「……わかりました」 「お?」 「今から私が扉を開きます」 「いや……?」  こっちは意味が分からない。  青い巫女は、ひとりで勝手に理解し、勝手に納得し、勝手に決めている。  少しは説明して欲しいものだが…… 「――いきます」  少女の青い髪がふわりと波打つ。  湖へと両手を広げ――膨大なマナがその手に凝縮されていく。霧が渦を巻く。湖がざわめく。空気がピリピリと振動する。  何もおかしくないのに、何かがおかしい。  そんな不思議な感覚。  ゆらゆらと。  ゆらゆらと。  ラセツは刮目する。心を尖らせ、異変を逃さないようにと細心の注意を計る。 (――――いる)  ごく僅かな気配ながら、目に見えない何処かに、何かがある。誰かがいる。  それはまるで陽炎のように儚い気配で、一瞬でも気を抜けば見失ってしまいそうなほど細く頼りないものだ。ラセツですら漠然としか感じ取れないほどの僅かな気配。それが生物のものなのか、あるいは無機物のものなのか、はたまた何かの事象によるものなのか、それすらも判別不可能な気配。おそらく、普通の人間や魔族――精霊ですら、この異変を感じ取るのは至難の業であろう。  そう。  いうならば、これは――違和感だ。  その違和感をこの少女は確実につかみとり、じわじわとこちら側に引きずりだしていく。 「お前――」 「黙って」  少女の頬を汗が伝う。  空間が軋む。  ゆらりとかしみ――次の瞬間、虚空に巨大な鳥居が現れる。  それもひとつだけではない。  湖の奥へと連なるように、無数の鳥居が次々と現れていく。鳥居の中の空間がまるで雫を垂らした水面のように揺らめき、景色を滲ませていた。 「く……」  苦しそうに少女は唸る。  見ての通りただの鳥居などではない。この世界と異界とを結ぶ――これは、次元トンネルだ。異なる世界同士の強制接続。いくら薄壁の刻(フォールダウン)とはいえ、たったひとりで、しかも次元をこんな形でつなげるなんて、それこそ魔王クラスでも出来るかどうか怪しいだろう。  そんな神秘を、この少女はやってのけたというのか。 「お前は……いったい」 「……行って」  焦りをにじませ少女は言う。  相当の負担がかかっているのだろう。全身からは汗が吹き出し足腰は震えている。 「あの子は……フォルトゥーナはこの先にいるから……」 「――――」  信じていいのであろうか。  ラセツはこの少女のことを何も知らない。さっき偶然であったばかりの関係だ。なのにこの少女はここまでの労力を払い、次元の強制接続などという奇跡を起こしてくれている。  怪しいとしか言いようがない。  例えば――これがフォルトゥーナの命を狙った罠であり、彼女とラセツとを分断させるための策であるという可能性だってあり得るのだ。夢幻街はすでに夜姫の支配下にあるが……夢幻街を内包する地上世界ルネシウスそのものは変わらず精霊王により支えられている。つまり魔族にとって地上は敵地も同然なのだ。  忘れてはならない。  ルネシウスは、フォルトゥーナが愛する青い空を見せるこの世界は――彼女を拒絶しているのだということを。 「…………」  故に、この不思議な力をもった少女が、力のない魔王の来訪を知った精霊王たちが差し向けた刺客ではないと――誰が断言できようか。  だが。  最初に感じた、あの気配。  フォルトゥーナと似て非なる気配をもつ、青い髪の巫女。  そう。  それだけで、是非もなかった。 「……何を……ゆっくりしているの。長くはもたない……から」 「あ、ああ」 「……なるべく早く帰ってきて。……私が術を維持できなくなったら……あなたも、彼女と同じく、次元の狭間に……永遠に、囚われる」 「帰って来れなくなるってわけか」 「……怖気付いた?」 「馬鹿を言うな」  考えるまでもなかった。  小さく頷く。  どんな危険が待っていようと、フォルトゥーナを助け、守りぬく刃となる。  そう誓ったのだ。 「……ありがとうな。もうちょっとの間、辛抱しててくれ」 「気をつけて」  ラセツは鳥居へとかけ出していく。  無数の鳥居。  世界と世界を繋ぐ異界の門。  その奥にいる、白い少女を目指して――――  ゆらりと。  たゆたう鳥居の向こうへと青年の姿が消えていく。  その背を見送りながら、青い少女は安堵した。いきなり現れた正体不明の自分の事を、ちゃんと信じてもらえるのか――それが不安で仕方がなかったのだ。 (杞憂だったみたいだけど)  さすがはフォルトゥーナの側近といったところか。  後はお人好しの青年に任せるだけだ。  自分の役目は――フォルトゥーナたちが帰ってくるまで、この門を維持し続けること。  ――――ピシリ。  異変を感じ少女は空を見上げる。  遠い……遠くの空だ。  ――――ピシリ、ミシ、ぎぃ……――――  空に大きな亀裂が走っていく。  やがて。    ――――ギャ――ギィィィ…………ィィィ――……ィィ――――    とても耳障りな音を立てて、空が砕け散る。覗いたのはグチャグチャと無数の色彩がせめぎ合う歪な虹色の世界。そこから、二体の巨大な影が這い出してきて――地上へと落下した。  地響がここまで届く。  湖が波立った。  そんな様子を見て、少女は小さくため息をこぼした。 (……失敗しちゃったかも)  強制接続の影響か――どうも、次元の狭間に封じられていた余計なモノまで目覚めさせてしまったらしい。  しかも、アレは。 (……とても、厄介な相手)  どうしたものか。  これからのことを考えようとし――だけど、少女は思考を停止させる。  意識を散漫にしては次元の扉の維持が難しくなるし、なにより――考える意味などないと、そう分かったからだ。 (まぁ――いいか)  あの方角は温泉街の方だ。  ならば、自分がどうこうしなくても問題は勝手に解決されるであろう。 (だから私は……私の役目を、しっかりと、やる……)  大人しく青年の帰還を信じて、次元の扉の維持を続けること。  それが青い髪の少女がやるべき、ただひとつのことなのだ。  昼も賑わう夢幻街一の観光地、温泉街・湯の里。  その上空の怪異と共に現れたのは、二体の巨大兵器であった。  片方は全長六十メートル近い二足歩行のヒトガタ機動兵器だ。いや――それを素直にヒトガタと称するには少々無理があるかもしれない。頭部は鳥を、胴体は魚を、さらに人の手足を模した四肢を持つ、まさに異形のヒトガタであったのだ。例えるなら、そう、水棲種族マーマンの姿に近いかもしれない。  もう一体は、さらに異形の形をしていた。全体のシルエットは亀に近いのだが……甲羅に当たる部分がどう見てもコタツにしか見えなかった。コタツからメカメカしい頭と、両腕と、両足と、尻尾が生えている。言うならばコタツロボであった。  両者は出現した直後こそ寝起きの人間のように静かに呆けているようであったが――お互いを認識しあうと、その矛先をやはり互いへと向け合った。  まるでそれが運命のように。  二体の巨大兵器は、温泉街を巻き込んでの大戦闘をはじめたのであった。 「……なんだ、あれは」  温泉街でお土産を買いあさっていたハルシャギクは、突然現れた機動兵器を呆けた顔で見上げる。ちなみに両手にはぎっしり詰まった紙袋が、さらに背中にはやはりお土産が詰め込まれたリュックサックを背負っていた。  巨大兵器はミサイルを打ち合い、格闘をこなし、街を破壊していく。  怒号と悲鳴。  逃げ惑う人々。  混乱は混乱を呼び、わけもわからないまま人々は驚異から遠ざかろうと必死に足を動かしあがき続ける。  さながら創世戦争のような光景であった。 「……くく」  そんな無様な人間たちの様子を、ハルシャギクは嘲笑う。  愉快。  痛快。  気分が爽快とは、まさにこのことだ。  ただ急に空からロボットが降ってきただけの話だ。それをこんな大騒ぎをして、哀れにも逃げ惑うしかないのが人間だ。  実に無様。  実に滑稽。  実に矮小で、まさに蟻のような存在。 「くくく」  ハルシャギクは笑う。  流れミサイルが飛んでくる。  ひゅぅぅぅ〜〜〜〜……  ドカーン。  ……黒焦げになったハルシャギクの姿がそこにはあった。 「くくく」  ハルシャギクは笑う。 「くくく……」  どさりと、ボロボロになったお土産が地に落ちた。  ポロリと涙がこぼれた。 「……ぐぬぬぬぬ……き、き、」  とても人様に見せられないような無様な顔をしながら、 「きっさまああああぁぁぁぁ――――!!!!」  銀髪の魔王は巨大兵器へと踊りかかった。  その手に握られるのは巨大な鎌。命を刈り取る黒死将の斬撃兵装、神斬蟲だ。 「――――こ、」  裂帛一閃。 「のおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」  涙目の黒い閃光がヒトガタ巨大兵器の腕を切断する。  ――ズン。  巨大な腕が街へと落ちる。  その上へとハルシャギクは華麗に降り立った。  黒死将は巨大兵器を見上げる。  巨大兵器もまた、自らの腕を切断した相手を見下ろしていた。 「――不愉快だな、木偶の坊」  チカチカと機械仕掛けの瞳が点滅する。  青、赤、青、赤――赤。  その焦点は――黒焦げの魔王へと定められた。 「ふん。やる気か?」  嘲るように笑う黒死将。  それに応えるように、電子音声が響き渡った。 『いった〜〜〜〜いっ><』 「は――?」 『――――もう、怒ったんだからね! プンプン!』  頭部よりぽっぽーと湯気が吹き出す。  ……何の意味があるのだろうか? 『よーし、ソウルちゃん、本気で戦っちゃうんだからね! あ、謝ったって許してあげないんだからね!! もう遅いんだからね!!』  言うと、全身から大量のミサイルが発射される。  爆撃の雨あられ、逃げ場など地上のどこにも存在してはいなかった。 「きさ――」 『ひゅ〜〜〜〜〜どっどーん☆』  ムカツク声と共に絨毯爆撃が地上をなぎ払う。  街や森が焦土とかしていく。  それはいい。  本当にどうでもいい。  だが――お土産が台無しになってしまったことだけは、絶対に許すわけにはいかない!  爆炎の中から赤い閃光が宙を舞う。  独特のフォルムをもつ赤黒い鎧を見にまとった小柄な影――黒死将ハルシャギクだ。  固有兵装・神切蟲。  極微機械集合体(ナノマシン)で作られたこの鎧こそが彼女の真の固有兵装である。 『逃さないんだからね、お兄ちゃん!』 「誰がお兄ちゃんだ!」  何故か軽口をたたきながら攻撃してくる巨大兵器。再び多数のミサイルが黒死将を襲う。 「――――ふん」  背部の飛行ユニット・黒翼天舞(ヒュッケバイン)が火を吹いた。  ハルシャギクは無数のミサイルの雨を華麗に避わしていく。一瞬の判断とそれに伴う体捌き、先の先を読む目と天性の直感――それらがこの神業を支えていた。  と――  標的を逃したミサイルが街を焼いていく。  美しい自然が炎に包まれていく。 「――あは」  大惨事を尻目に、なんだか楽しい気分になってきたハルシャギクであった。  そんな、流れ弾のひとつが。  傍観を決め込んでいたもう一体の巨大ロボへと直撃した。 『ふんがー』  それは怒りの雄叫びなのか。  地響きを立て、ヒトガタロボへと突撃を行うコタツロボ。  両者は再び激突した。 「――いったいなんなのだ、こいつらは」  鬱陶しい事この上ない。  もう面倒だから最大出力の砲撃兵装で街ごと吹き飛ばしてしまおうか――  そんな物騒なことを考える。  おそらく、多分、きっと、ほぼ確実に地図の形を修正するハメになるだろうが、正直そんなことはどうでもいい。地上世界など彼女にとって破壊するだけの対象でしかないし、そもそも夜姫の治める国など百害あって一利なし、灰塵と化すことこそが相応しい。  砲撃兵装・大目牙撃砲(オメガスマッシャー)タイプN.M.T‐閻魔興梠を構える。  二門の大筒にマナが収束し、破壊の力へと転換していく。  その時だ。 『むむむ! 危険をビンビン感じるでござるぞ!!』 『ふんがー』  二体は激突をやめると、上空の黒死将へと照準を合わせる。 「……ち」  舌打ちする。  強力だがいかんせん充填時間が長すぎるのがこの砲撃兵装の最大の弱点だ。  少量のマナを莫大な破壊のエネルギーへと転換する大目牙撃砲(オメガスマッシャー)――人間程度のマナですら山を吹き飛ばせる程の驚異の破壊力を生みだす砲撃兵装――を模倣して作られたこの閻魔興梠は、しかし魔王の身で扱うにはあまりにも効率が悪い。充填時間さえ何とかなればマナ消費対効果を考えると非常に優秀な兵器なのだが――現状ではハルシャギクが普通にマナを破壊の力へと転換、攻撃した方がずっと効率がいいだろう。 「まったく……」  この問題点については、国に帰ったら開発者であるナノマチタカハにしっかりと文句を言ってやろうと心に誓う。  結局、先に動いたのはヒトガタロボの方であった。 『ぷんぷんぷんー! こうなったら奥の手使っちゃうんだからね!!』 『ふんがー』 『えええええええええええええええいっ!』  ヒトガタ巨大ロボが咆哮する。  その前面に巨大な魔法陣が展開された。 「あれは……」  魔法陣に組み込まれているのは神聖四文字だ。神威を示す神のコトノハたる神聖文字。その中でも最も尊く、最も偉大とされるのが神聖四文字である。  あまりにも膨大なマナが魔法陣へと収束していく。  神聖四文字により特定の効果と指向を与えられたマナは光となり、閃光となり―― 「――――!」  ゾクリと。  ハルシャギクの背筋を悪寒が走る。  彼女の直感が告げている。  逃げろと。  たかが機械兵器ごときに背を向ける――――  そんな屈辱的なことを、黒死将ハルシャギクに行えと命じてくる。 『いっくよー! テトラグラマトン!!』  世界を焼き尽くす閃光の渦。  ハルシャギクへと向けて、その一撃は放たれた。  ソウルイーターと呼ばれた兵器があった。  古代機械帝国の――神聖帝国の時代、セルファード大陸で対精霊用にマナ科学の粋を集めて開発された無人の巨大ヒトガタ機動兵器だ。  霊子ミサイルや反応弾といった強力な遠距離兵器の他、様々な近接兵器も持ち合わせたまさに破壊のための機動兵器であるが――その真の価値は呪術兵装の装備にある。  テトラグラマトン。  神聖四文字を解析、利用することにより実現したこの対精霊用の殺戮兵器は――文字通り相手の魂を犯し、溶かし、焼き尽くし、破壊し、屠り、殺戮する。  物理的な破壊力は伴わないが、同時に物質を透過する性質を持ち合わせたそれは防ぐことさえ不可能であり、テトラグラマトンに狙われた者はただ逃げる以外に助かる道はない。  そこに例外は存在しない。  魔王であろうと、  精霊王であろうと、  例え神様であったとしても。  その魂を喰らい尽くされ、完全な消滅を迎えるだけだ。  それこそがテトラグラマトン。  史上最悪の、相手の魂を喰らい尽くす殺戮兵器。  それこそが――ソウルイーターの名の由来だ。  つまるところ。  己の直感に何の迷いもなくしたがって、  高速でその場から離脱したハルシャギクの決断は、まったくもって正しかったのだ。  ――――オオゥ!!  轟音と共に黒死将のすぐ横を黄金の閃光が走り抜ける。標的を失った極太の閃光は、そのまま空高く登り続け、やがて霧散していった。  危なかった。  少しでも迷っていたらこの大口径のビーム砲から逃げきることはできなかったであろう。 『あ〜ん、外しちゃったぁ><』 「……馬鹿にして……」  このふざけた人工知能を開発した奴の頭をかち割ってやりたいと、ハルシャギクは心から思った。  それはともかく。 『ふんがー!』  コタツロボから無数のミサイルが打ち上がる。 『いっけええええ! 口からハイメガキャノンー! きゃは☆』  ソウルイーターの口からビーム砲が放たれる。  それらを広域防御システム・腐食月花(ラフレシア)を展開し防ぎきるハルシャギク。 「…………」  なんだか馬鹿らしくなってきた。  別に砲撃兵装など使わなくとも、斬撃兵装だけでもこいつらを始末することは十分に可能なのである。恐れるのはさきほどの呪殺兵器だけであり、とっとと仕留めてさっさとこのくだらない戦闘を終わらせるのが一番だろう。 「いや――」  だが、夜姫の国を合法的に、この手で、たっぷりと、メチャクチャに破壊できるという絶好の機会を、みすみす逃していいものなのか。 「それは――」  ハルシャギクはうめいた。 「それは……すごく、負けた気がする……」  ソウルイーターとコタツロボからミサイルが発射される。  ハルシャギクはひょひょいとそれらを避わしていった。  荒れる街並みの向こう。  小高い丘の上で、冥帝ヘルと火霊帝ルーは二体の巨大ロボとハルシャギクの戦闘をほのぼのと眺めていた。 「遊んでるわねぇ、ハルちゃん。そんなに久しぶりの戦闘が面白いのかしら」 「殺るなら即効で決めないとねぇ。油断してたら後ろからバーン! なんてよくある話さ」  すぐに倒せる雑魚にレベルを合わせ、油断していたら逆に倒されていた。  典型的な悪役の末路である。 「それえにしても驚いたよ。まさかソウルイーターが現存していたなんてね」 「ソウルイーター?」 「錬金術師たちが作ったトンデモ兵器だよ。さっきハルシャギクが避けてたけど、あの魔法陣から出たビームを受けちゃったらあたしらでも即死さ」 「あらまぁ」 「特にあんたは気をつけなよ。闇のアンブレラでも受け止めるなんて不可能なんだから」 「ご忠告ありがとう。優しいのね」  そうこうしているうちに、ハルシャギクの大鎌がコタツロボの頭部を切断する。 「お、こりゃあっちはひとり脱落かねえ」 「あの変なロボットもソウルイーター?」 「いや、あれは超闘士だろうね。ソウルイーターに対抗するために錬金術師たちが作ったビックリロボ」 「ビックリ?」 「そうさ。アレ、人が乗り込むことでヒトガタに変形するんだよ」 「それはビックリね」 「そんで、腕を飛ばすんだ。ロケットパーーンチ!……ってね。前に見たことがあるよ」 「へぇ……」  その様子を想像してみる。  コタツが立ち上がり、腕を飛ばして攻撃してくる…… 「……錬金術師ってなんでもできるのね」 「タルと爆弾が好きらしいよ」 「?」  首を傾げるヘル。  一方のハルシャギクは大鎌で超闘士の残る四本の足と尻尾を切断していく。これじゃただのでっかいコタツである。  切断された手足は、ハルシャギクがわざわざ温泉街へと蹴り出していった。それもわざわざ無事な宿やらを狙い撃ちしてだ。あの鳳凰堂ですら例外ではない。たいした嫌がらせ精神である。  その隙を付き、ソウルイーターが襲いかかろうとするが…… 「あら」 「ほう」  ソウルイーターの影から無数の触腕が生え、その動きを拘束してしまう。 「あれってネフティースの技だよね? 夜影戦手だっけ?」 「そういえば前に聞いたことがあるわ。ハルちゃんの腹心のすごい人がネフティースちゃんの技を再現したって。あれがそうなのね」 「なんでまた」 「……「ふはははー、人間の手で再現できるほどのしょっぱい技なわけだ貴様の夜影戦手とやらは。情けないな、情けないなネフティース!」「ぐぬぬぬ……」みたいな感じ?」  ご丁寧に身振り手振り、声真似までする冥帝ヘル。 「ちなみにハルちゃんのは夜影戦手じゃなくて夜影千手(ナイトメア・ワンダーランド)って言うらしいわ」 「ナ、ナイ……?」 「ナイトメア・ワンダーランド――あ、ソウルイーター戦も終わりそうね」  ハルシャギクはソウルイーターの腕や足、そして頭部を切断していく。これじゃただのなまメカしい鮭だ。 「はぁ……やっぱり強いねぇあの子は。あたしらがアレの処分にどれだけ手間取ったか」 「え、手間取ったの? あんなのに?」 「あたしら精霊王は魔王に比べてずっと弱体化しちまったしね。おまけにあのロボットたちが動力としてルネシウスのマナをどんどん食らってくもんだから、世界の維持すら困難になるし……」  ルーはため息をつく。 「ホント、あの頃は世界は自滅するんじゃないかってヒヤヒヤしたよ」 「ソフィアはどうしてたの?」 「知らない。あの子はこっちから連絡しても音沙汰なし。いつも一方的だからねぇ」 「あなた達も苦労してるのね」 「まぁね」  身動きできなくなったただのコタツと鮭へと、ハルシャギクは間合いを取る。  背部の大砲が二門、起動したのが見て取れた。 「いよいよフィニッシュのようさね」 「ここにいると危ないわね。巻き込まれそうだわ」 「だね。そんじゃよろしく」 「お任せあれ」  身動きできない敵ごと大地を焼き払おうと、ハルシャギクは砲撃兵装・閻魔興梠を発射する。膨大な熱量と閃光が切断された機械の腕と頭を、足を、尻尾を、さらには街を、森を、大地を、焼き尽くしていく。  人の手により神の域へと挑んだ砲撃兵装の圧倒的なまでの破壊の力。  それを―― 「はい、と」  ハルシャギクは虚空より傘を――固有兵装たる闇のアンブレラを取り出し、展開させる。  閻魔興梠より放たれた閃光は全てこの傘に受け止められた。否、受け止めるだけでなく、その破壊の力を吸収していく。  数瞬後。  夢幻の大地の地形を確実に変えるはずだった大砲の一撃は、全て闇の傘へと取り込まれていたのであった。 「お疲れさま」 「どういたしまして」  ヘルは闇のアンブレラを閉じる。傘は溶けるようにして消えていった。  こちらに気づいたハルシャギクが、バーニアを吹かせてやってくる。 「姉上!――と、火霊帝か」 「お疲れさん」 「ご苦労様、ハルちゃん」 「む――」  なんとも微妙な表情をするハルシャギク。  彼女からしてみれば、巨大ロボとの戦いは「いかにして夢幻の大地をメチャクチャにしてネフティースに吠え面をかかせてやるか」が全てだったわけであり、その計画の最後の最後でヘルに邪魔されてしまった形である。  とはいえ、じゃあヘルが閻魔興梠の餌食になればよかったかというと、もちろんそんなわけもなく。 「……火霊帝だけ死んでればよかったのに」 「わははは、世の中そんなに甘くはないよ、ハルシャギク」  面白そうにケラケラと笑う火霊帝。  なんだか、すごく負けた気になってくるハルシャギクであった。  気がつけば、フォルトゥーナはそこにいた。  湿った空気。苔むした壁。陽のささないどこまでも暗い通路。前を向いても後ろを振り返っても、どこまでも同じ光景が続いている――そんな迷宮のような通路。  少女は、牢獄、という言葉を思い出した。 「…………」  どうしてこんな所にいるのか。  さっきまでラセツと一緒に湖にいたはずなのに。  静かすぎる迷宮は、自分の息遣いさえ大きく響くようで。 「……――――」  不安を感じずにはいられない。  本当なら足がすくんで動けなくなりそう。  だけど。  一歩。  また一歩。  フォルトゥーナは歩いて行く。  足音が反響する。  不思議と恐怖を感じなかった。  いや――恐怖よりも、別の感情が彼女を強く突き動かしていた。  一歩。  また一歩。  フォルトゥーナは歩いて行く。  一歩。  また一歩。  やがて通路は行き止まる。  迷宮の果て。  そこには、一枚の扉が待っていた。     ■■■■ 「ふむ……どうやら別れの時が来たようじゃな」 「……そう」 「そっけないのう。少しは未練がましく振舞ったらどうじゃ」 「未練なんてないから」 「くくく……たしかに」  薄く、青い髪の幽霊女は笑う。  そうして、女は背を向ける。赤い翼が大きく広がる。  孤独の牢獄を去っていく。 「でも――強いて言うのなら」  その背に――少女は声をかけた。 「あなたは……また、ひとりぼっちになるのね」 「…………」 「…………」  沈黙が落ちる。  ……青い髪の女は、振り返らずに――どこか冷たい口調で言葉を紡いだ。 「余が……一体何者なのか、前に話したことがあったじゃろう?」 「ええ」 「今の余はな……待っておるのじゃ」 「待つ?」 「そう。余は肉を失い、精神と魂だけの存在となった。余が欲しているのは――肉体じゃ」  そう言って、女は振り返る。  黄金の瞳が怪しく輝き、少女を見つめていた。 「現世へ再臨するための、新たな肉の依代が必要なのじゃ。余を受け入れられるほどの器の大きさを持つ、屈強な肉体が――な」 「…………」  それは、つまり。 「例えば……そう。意識レベルで余と語り合える――お主のような、肉体がな」 「それが、あなたがここに来ていた理由?」 「もちろんじゃ。他に何の理由があろうか?」  胸をはって青い髪の女は言う。 「そう。なら――どうして私に手を出さなかったの?」 「うぬぼれるでないぞ、娘」  ニヤリと笑う。 「余の魂を受け入れるには、お主の器では脆弱に過ぎるわ」 「そう」  だったら何故、足しげく何度もここまで足を運んできたのか――?  それを問うのは、きっと無粋なことなのだろう。 「だが――そうじゃな」  少女に近づくと、青い髪の女はそっと右手を掲げる。その手が黄金の光りに包まれた。 「我が友人に、餞別くらいはくれてやってもよかろう」  黄金の光が少女の瞳を焼き尽くす。  視界が白に染まる。 「……、――――!」 「ふ……」  ――光が収まる。  何が起こったのか、少女には分からない。  ただ、不快な気持ちはしなかった。  左目だけが、熱くたぎっている。 「力を欲するならば余を呼ぶとよい。いつ、いかなる場所、いかなる時でも、余が力を貸してやろうぞ」  言うと、青い髪の女は再び踵を返す。  長い髪が揺れて赤い翼がはためいた。 「では――――さらばじゃ、偉大なる妖怪の王よ」 「さようなら。さみしがりやの大魔王」  ふわりと、魔王の体が宙を舞う。  実態を伴わないそれは、やすやすと牢獄の壁を突き破り――あっという間に少女の前からいなくなっていた。  ――――そうして、私は待ちわびる。  まるで、愛しい恋人を待ち続けるかのように。  まるで、悲しい別れの時を忘れ去ろうとするかのように。  静寂の中で待ち続ける。  胸騒ぎがする。  頭がくらくらする。  赤い、紅い、朱い、あかい、アカイ――赤い目眩がする。  ギィ……と。  錆びついた音を立てながら、もう開くはずがないと思っていた扉が開かれた。  現れたのは、どこかで見たことのある白い少女だ。  驚いたような少女の顔。  だがそれも一瞬のこと。  私たちは見つめ合う。  この大空のような蒼い瞳を――私はやはり、どこかで見たことがあるような気がした。  おずおずと……来訪者は口を開いた。 「あの……」 「…………」 「その……」 「…………」  私は無言で見つめ続ける。  しばらくそのまま迷ったように佇んでいた少女だが――意を決したように深呼吸をすると、表情を引き締めこちらへと歩いてきた。 「……いこう」 「…………」 「いつまでもこんな所にいちゃダメ。一緒に、外へと出かけよう」  手を、伸ばしてくる。  どうしてだろうか。  胸が高鳴る。  私は……  何の抵抗もなく。  それがまるで当然のことのように。  そっと――、少女の手をとっていた。  ぎゅって握ってくれている、  彼女の手は、とても温かかった――――  暗闇の世界に光が走る。  長い長い迷宮の果て。閉ざされた最奥の部屋に囚われていた狐耳の少女。  フォルトゥーナは、彼女を助けるべく手を伸ばし――彼女はそれに応えてくれた。  直後だった。  狐耳の少女を束縛していた鎖は光を発し、瞬く間に暗い部屋を飲み込んでいく。壁が消える。天井が溶ける。足元が崩れる。黒い闇が白い闇へと飲み込まれていく。  一瞬の浮遊感の後――  まるで嵐の海に放り出されたかのように、少女たちの体は虚空へと投げ出された。純白の世界はとぐろを巻く毒々しい虹色へと変質し、台風のように荒れ狂う。  腕が、足が、耳が、体が、引きちぎられるように痛い。  脳がかき回されるかのような不快感。  手足の感覚がなくなっていく。  だけど。  それでも。  繋いだ手だけは、離さない。  今度こそ――――  ――――意識が遠のいていく。  最後に、  虹色の台風の中で、  フォルトゥーナは、大好きな青年の顔を見た気がした。     ■■■■ 「く、このおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」  雄叫びをあげながら、ラセツは走る。  腕の中には気を失っているフォルトゥーナと見知らぬ少女。  背後にはすごい速さでこちらへと迫ってくる虹色の闇。  暗闇に包まれていた迷宮は今や完全に崩落をはじめ、天井も壁も床も崩れるようにして消えていく。あとから覗くのはゆらゆらとゆらめく虹色の世界。全てが混ざり合い、全てが溶け合い、全てを飲み込んでいく絶対空間。囚われたら二度と自力では這い上がれない、そんな世界。  一瞬でも立ち止まれば――その虹色の嵐に飲み込まれてしまうだろう。 「――く、はぁ――――」  だから、荒い息を吐きながらラセツは駆け抜けていく。  立ち止まらない。  腕の中の少女の重みを、暖かさを失わないためにも、出口を目指し駆け抜けていく。  長い長い通路の先。  ラセツをこの狭間の世界へと導いた、夢幻の鳥居が見えてくる。 「――よし!」  間に合った――  そう希望を抱いた矢先だった。  鳥居が霞み、ぼやけ、その形を不鮮明にしていく。同時に通路自体がぶれるようにその実体を薄れさせ――ラセツの足を鈍らせる。まるで抵抗がなくなっていく。それどころか……感触がなくなっていく。  空を切っているような感覚。  しかし背後の虹色の闇は容赦なく迫ってくるし、目の前の鳥居は確実に近づいている。  進んでいるはずなのに、その実感だけが確実に欠落している。  まるで夢の世界にいるかのよう。 「これ、は――」  ――――……何を……ゆっくりしているの。長くはもたない……から。  そう言っていた青い髪の巫女の言葉を思い出す。  次元の強制接続という大術の刻限が迫っているのだろう。もし術が途切れる前に脱出できなければ、ラセツたちはこのまま虹色の世界に囚われ、さまよい続けることとなる。 「く、そ――!!」  がむしゃらに足を動かす。  夢の世界を走っていく。相変わらず実感はない。ただ景色だけがあやふやな現状を伝えてくる。だがそれも幻想。霞んで滲み、もはや元の形を留めるものはなくなった。  もはや、どこにいるのか、本当に走っているのか、これが夢なのか現実なのか、それすらもあやふやになってしまった。  なのに背後の闇は、虹色の歪みとなって着実に迫ってくる。  囚われたら一巻の終りの、終末を告げる破滅の刻。  気が狂いそうになる。  だが――  腕の中のフォルトゥーナが、小さく身震いをする。  恐いのだろうか。気を失ったまま、狐耳の少女の手をぎゅっと握り締めながら――まるで助けを求めるように、その体を身震いさせる。 「……大丈夫だ」  少女に、あるいは自分に言い聞かせるように。 「大丈夫だ」  力強く、青年は断言する。 「絶対に、助ける!」  腕の中の重みを確かめる。  暖かな重み。  その確かな感触こそが、不確かなこの世界において唯一無二の絶対の力となる。  ラセツは駆け抜けていく。  陽炎の通路を、もはや自分が走っているのかさえわからないまま、それでも休むことなく足を動かしていく。  ただただ、がむしゃらに。  ―――そうして、見えてくるのは光の扉。  通路の最果て。  ラセツが最初にこの世界へと踏み込んだ場所。  世界と世界の境界線だ。 「こ、のおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」  気合と共に。  青年は全身全霊をもってして――光の中へと身を投げ出した。  ――――どこかで、何かが閉じる音が聞こえてきた。  視界を含むすべての感覚が白く眩む。  前後左右、上下の境が曖昧な――まるで空を舞っているかのような、そんな錯覚。  だけどそれも一瞬のことで。  次の瞬間、ラセツたちは森の中へと投げ出されていた。 「お、わ――!」  腕の中の少女二人をかばいラセツは体を地面に打ち付ける。 「つ――、いったいなんだって……」  振り返る。  虚空に開いた光の扉が、静かに霧散していくさまが見えた。 「…………」  そのまま――――空を見上げる。  一体どれだけの時間が経っていたのだろう。空はすっかり茜色に染まっていて――周囲の森林もまた、その紅葉をさらなる紅へと染め上げていた。夜の気配をまとった風が、妙に肌寒い。烏が鳴き声をあげながら飛んでいった。  ふと――視界の端に小さな祠が映る。  それは昼間、水雲神社に参拝を終えた後に立ち寄った、とある少女を祀ったものだ。  熱心に祈りを捧げていたフォルトゥーナの姿が、鮮明に思い出された。 「……ふぅ」  深く大きく、ラセツは息を吐く。  どうやらここは、水雲の街の鎮守の森らしい……―――― 「よし、と」  腕の中で眠っている少女二人を、草むらの上に寝かせてやると、ラセツは軽く方をほぐした。別に強敵との死闘を演じたわけではないのだが――なんだか、ドッと疲れてしまった。最近は部下の育成にかまけてばかりいたが、もうちょっと自身を鍛える時間を増やした方がいいのかもしれない。  それにしても―― (……誰なんだろう、こいつは)  フォルトゥーナが手を握って離さない、黒髪の少女。  見た目の年の頃ならフォルトゥーナより下に見えるが……頭部に生えた狐耳と、ふさふさした尻尾が示すとおりこの少女は人外のものだ。おそらく見た目まんまの年齢ということはないだろう。  それはともかく。  あの虹色の嵐の中でも、その後の脱出劇でも、そして無事夢幻街に戻ってきてからも、ふたりはずっと手を握り合っていた。気を失ってなお、今もこうしてお互いをしっかりとつなぎとめている。 (……何なんだろうな、これは)  どさりと力なく腰を落とす。  ふたりは一向に起きる気配はない。仲良く夢の中だ。  頬をかく。  ……………………メチャクチャ手持ち無沙汰だった。  その時だ。 「……嫉妬?」 「違う」 「……ジェラシー?」 「違うっての」  何処からともなく聞こえてくる涼やかな少女の声。 「…………。…………ふ」 「不気味に笑うな」  ラセツは祠の奥を睨みつける。  ガサリと木の葉をかきわけ、どこか眠そうな顔をした少女が姿を現した。  夕焼けに染まった青く美しい長髪が、さらさらとなびいていく。 「よぉ。元気か?」 「……うん。……お互い無事で何より」 「おかげさまでな」  ラセツは軽く手を上げて応えた。  とことこと、少女はこちらへ歩いて来る。フォルトゥーナたちの前まで来ると、ちょこんとかがんだ。感情の読めない不思議なまなざしで、少女はフォルトゥーナを見つめる。 「なぁ……」 「……なに?」 「結局、お前っていったい何なんだ?」 「…………」 「そいつと――なにかあるのか?」 「…………」  青い瞳がラセツへと向けられる。 「……あなたは、知ってる?」 「ん?」 「この子のこと。フォルトゥーナの……こと。どこまで知っているの?」 「どこまでって……」  どこまで、知っているのか。  彼女は魔王のひとりで、だけど身体が弱くて。病弱で。泣き虫で。青い空が大好きで。創世戦争での出来事を、今もとても悔やんでいて、苦しんでいて。馬鹿みたいに優しくて。流されやすいくせに――妙なところで踏ん張っている。 「俺は――」 「彼女に、何が起こっているか……起ころうとしているか。あなたは、知っているの?」 「俺は……」  ……そうだ。  ラセツが知っているのは――フォルトゥーナという少女の心のあり方だけだ。  それ以外。  そこに至ったわけを、彼女の過去を、現在を、待ち受けているはずの未来も。  その全てを、ラセツは知らない。 (俺の知っていること……)  フォルトゥーナを見る。  彼女が語ってくれたことは、あまりにも少ない。  今の世界が出来る前から生きていて、魔王と精霊王はかつての世界では神霊と呼ばれる存在で、――そんな、形だけの記録を教えてもらっただけ。 「……それは、いいの。……いいのよ」  青い髪の少女は首を振る。 「誰にだって話したくないことはある。教えることが正しい道なわけじゃない。あなたは、この子をちゃんと知っている。だから――私は満足」 「…………」  唄うように、ささやくように。  少女は言う。 「この子もきっと、迷ってる。悩んでるわ。これからどうしたいのか。あなたとどう向き合っていくべきなのか。だから――――」 「……だから?」 「……この子の勇気を受け止めてあげて。あなたなら――きっと」  ――――この子を助けてあげられるから。  風が吹き、木の葉が舞う。  気がつけば、青い巫女は――その残り香すら残さず、何処ともなく消え去っていた。 「――――ん」 「……フォルトゥーナ?」  直後、まるで申し合わせたかのように、白い少女は意識を取り戻す。 「……ここ、は」 「大丈夫か?」 「……ラセツ? なんで――」  そこまで言いかけて、何が起こったのかを思い出したのか。フォルトゥーナは顔を青ざめさせる。そんな彼女を元気づけようと、ラセツは現状を説明した。 「ここは水雲の街の森の中だ。ほら、参拝した後に寄った祠があっただろ?」 「……うん」 「そこだ」 「……どうして? 私たち、災湖にいたんじゃ――」 「さぁな。災湖で事件があって――巫女さんの協力でお前たちをなんとか助けだして。気がついたらここにいた」 「巫女さん?」 「ああ。ま、そんな事より――そいつは誰なんだ?」  フォルトゥーナの手を固く握り続けたまま、すやすやと眠っている少女へと視線を送る。 「獣人、か?」 「――違うと思う」 「違うのか。なら、妖怪か何かか」 「かもしれない」  妖怪。  ルネシウスの創世後にこの世界に現れた、異世界からの来訪者。神霊、精霊王、魔王、そしてその眷属、さらには人間をはじめとした地上の生命……そのどれにも属さない異邦人。強大な力と長大な寿命をもつ、別世界の生命たち。  夢幻街、そして聖王国の一部に彼らは巣食っていると言われているが―― 「……囚われてたから」 「あの世界に?」 「うん。だから、助けなくっちゃって――この子を助けるために私はあそこにいったんだって――そう、思ったの」 「……知り合いなのか?」 「ううん。――いえ、……」  フォルトゥーナは首を振る。 「わからない」 「そっか。なら、仕方ねぇな」  ふたりは妖怪の女の子を見つめる。  黒い髪に白い肌、どこか不思議な巫女服からは、銀のしっぽが生えている。おそろいの銀の狐耳が……――ぴくりと、動いた。  小さな口が動く。 「……ぅ……」  もぞもぞと、何かを確かめるような緩慢な動きで女の子は身を起こす。ふるふると頭を振った。長い黒髪が波打つ。  そんな女の子に、フォルトゥーナは頬を赤らめながら声をかけた。 「あ、あの」 「…………」 「わ、私は、フォルトゥーナ。フォルトゥーナって言うの。あなたは……」 「…………」 「あなたの、名前は……」 「…………」  握られた手を、しばらく呆けたように見つめていた狐耳の少女だったが――やがてゆっくりと顔を上げ、白い少女を正面から見つめ返した。  黄金が輝く。  フォルトゥーナは息を飲んだ。 「……ミサハ」 「え、あ――」 「……私の名前は……ミサハ」  漆黒と黄金。  妖怪の少女、ミサハ。  強い意志を宿したその両の瞳は、右目は黒く、左目は金に輝いていた。  どこかで見た――  それは、黄金の瞳だった。  開いた口がふさがらないとは、この事だろうか。  お父様のもとで生を受けてから幾億年。  世界の危機とやらもそれはそれで適当にのらくらと楽しみつつ、実にゆるく人生とやらを満喫してきた夜姫ネフティースであるが――そんな彼女においても、こんな分けの分からない理不尽な顛末は、はじめてのことであった。  夢幻街の目玉として開発に尽力していた温泉街・湯の里。  ちょっと目を離した隙に、それらが見るも無残な焼け野原とかしていた。 「な、な、な、……」  あれだけ活気溢れていた温泉街は、まるで空襲後のような悲惨な有様となり、 「な、な、ななな」  総本山のここ、鳳凰堂も、その大半が焼け落ちてしまい見事なまでの骸を晒していた。 「なななななな、」 「なんじゃこりゃあああああああああああああーーーーーーー!!!」 「……って、叫べばいいんでしたっけ、お姉様?」 「ええ、そうよ。お約束ありがとう、ネフティースちゃん」  にこりとヘルは微笑んだ。  左京の鬼王家でスズカたちと(一方的な)団欒を楽しんでいたネフティースだったが、温泉街・湯の里での騒動を知るに付け急いで駆けつけてきたのだ。……混乱による各種路線の停止などにより、着いた頃にはすべてが終わっていたが。 「それにしても……派手にやったわね、お姉様方」 「暴れたのはハルちゃんだけだけどね」 「…………」 「く、くくく――何か文句でもあるのか、ネフティース」 「いいえ、別に」 「くく――恨むなら自分の出足の遅さを恨むのだな。く、くくく……」  心の底から嬉しそうに、笑いを堪えながらハルシャギクは言う。 「そういやそうだね。お前さんなら、もっと素早く動けたろうに。空飛んでくればあっと言う間だろう? なのに、今回は随分とドッシリ構えてたもんだねえ」  ルーが言う。  キラリと――眼鏡が怪しく輝いたのを、ネフティースは見逃さなかった。 「……気が乗らなかったのよ」 「そうかい?」 「そうよ」 「あらら。相変わらずネフティースちゃんは気まぐれなんだから……」 「くく――言い訳はそれで終わり? 気が乗らなかったって――く、くく、ぶはっ」  こらえきれず、ついには吹出すハルシャギク。 「…………」  鳳凰堂の残骸から、ネフティースは空を見上げる。  空を黒く塗りつぶしながら星々は現れ、役目を終えた太陽は消え去っていく。  夜が訪れようとしていた。  ふいに、ネフティースの視界にキラリと光る何かが映った。  歩いて行く。  途中でカエルを踏みつぶしたようなうめき声みたいなものが聞こえた気もするが、そんなことはどうでもよかった。瓦礫の中で自己を主張していたそれは、戦闘のおりハルシャギクの大鎌によって切断されわざわざ宿へと蹴っとばされた機械ロボの腕――その残骸の一部だ。  その時だった。  夜姫の脳内を電流が駆け抜ける。  諦観に包まれていた視界が切り裂くように開かれていく。 「………よし」  マフラーのようなマントを見にまとうと、それを翼のように広げネフティースは宙を舞う。温泉街を俯瞰する。ハルシャギクの砲火により周りの地形ごとメチャクチャにされてしまった夢幻街一の観光スポットだったが、彼女が消しそびれたロボの残骸が(腕や足や頭とかばっかりだったが)結構な数残されていた。 「――ふ」  怪しく笑う。  夜姫は地上へと戻ってくる。マントが溶けるように消えていく。 「どうかしたの、ネフティースちゃん」 「決めたわ、お姉様」  そして――自信たっぷり、大きな胸を張り、姉妹たちへと向けて高らかに宣言した。 「私は、温泉街を捨てるわ」 「ほへ?」 「温泉街なんてもう古い。そう、これからの時代は要塞よ! 言うなれば機動温泉街!!」 「き、きど……?」 「私はこの夕焼けに誓うわ。必ずや機動要塞としてこの街を復興させると! どこに出しても恥ずかしくない、完全なる武装温泉として蘇らせてみせると!!」  ずばばーん!  なにやら意味のわからない効果音と共に、ネフティースの背後に真っ赤に燃える炎を幻視した姉妹たちだった。 「おー」 「わー」 「……………………はぁ?」  三者三様の反応を返す姉妹たち。 「お前……本気なのか、ネフティース」 「あら、私はいつだって本気よハルシャギクお姉様。ありがとう。あなたのおかげで、私はこの境地に至ることができたわ」  境地というかただの開き直りである。  転んでもただでは起きないその心意気はよし、と言ったところなのだろうが、大嫌いな相手を凹ませることが出来てたいそうご満悦だったハルシャギクとしては、彼女が前向きというだけで許せない。勝ち負けで言うなら敗北だ。  さっきまで落ち込んでたはずなのに!  なんで急に笑顔になって、しかもお礼まで言い出すのか! 「……ぐぬぬぬ」 「そうね。まずはこの鳳凰堂の再建からいくわ。ロボットの残骸を最大限に利用して――」  なにやらブツブツと今後の計画を練りはじめるネフティース。 「決めたわ!」 「今度は何を!」 「新鳳凰堂は、鳳凰院シャケリティウム堀炬燵という名前に――」 「するな!!」 「するわ!」 「すーるーなー!」 「すーるーわー!」  喧々囂々とレベルの低い争いを続けるネフティースとハルシャギク。 「……お前さん、妹の育て方を間違ったんじゃないかい?」 「連帯責任よ。私の妹はあなたの妹」 「へいへい」 「でも……とても楽しそうだわ……」 「お?」  いつの間に帰って来たのか。  アザラシの毛皮と亀の甲羅をまとった少女が、眠そうな眼で姉妹たちを見つめていた。 「フリールじゃないか。どこにいってたんだい?」 「……観光?」 「いや、首を捻られても……」  苦笑するルー。  そんな彼女に目もくれることなく、フリールはネフティースへと歩み寄っていく。ハルシャギクと低レベルな争いを続けていた夜の支配者は、急に現れた水の精霊王を不審な顔で睨みつけた。 「……ネフティース」 「なにかしら?」 「ちょっと……話がある……」  太陽は沈み、街は夜の闇へと彩られていく。  天空には月。  大きく欠けた、頼りない月だ。  それを見て、ヘルは思う。 「……お腹すいたわ……ご飯はどうしましょ」 「レトルトカレーならあるよ?」  火霊帝は微笑んだ。  深夜――  鬼王家の客室で布団にくるまれながら、ラセツは物思いにふけっていた。  今日は本当に色々なことがあった。  ミサハと名乗った狐の少女妖怪は、動けるようになると何故か狐を模した仮面を装着した。前が見えるような構造ではないため、そんなモノをつけて大丈夫なのかとちょっと心配になったが、ミサハは普通に歩いていた。虚空から取り出したところを見ると、おそらく何かの力が働いている不思議仮面なのだろう。  そんなミサハを連れて鬼王家へと帰ってきたのだが、早朝に姿をくらまし夜遅くに帰ってきたラセツたちを待っていたのは、姉であるスズカのからかい混じりの歓待だった。  デートがどうとか逢引がどうとか、どうもそっち方面に話を持って行きたがっている姉を相手に、ラセツはことごとく否定を繰り返した。そのたびに何故かフォルトゥーナの表情が曇っていったように見え……あんな事があったばかりだし、また体調が悪くなったのかと心配したのだが、それを確認する前に「この大馬鹿がー!」という怒声と共に姉のグーパンが顔に決まってもんどり打つハメになったので詳細は不明。 「……つぅ」  今もジンジンと頬が痛む。  というかこの痛みのせいで眠れない。  あの馬鹿姉、マジで殴りに来やがったのだ。  ちなみにフォルトゥーナはというと、夕食の時間には平気な顔をしてご飯を食べていた。なので、きっと大丈夫なのだろう。声をかけても上の空で、目線はちっとも合わせてくれなかったし、ふたりきりになろうとしてもミサハが終始つきまとっているしで、結局まともに話もできていないのだが。  そのミサハはというと、スズカにすごく気に入られたようで、食事の時も寝る時もずっとひっつかれていた。ミサハはフォルトゥーナと離れたがらないので必然的に三人一緒である。妙なテンションのまま、気持ち悪いニヤケ顔でヘラヘラしている姉の姿は、弟の自分どころか、旦那や娘のカグヤですらドン引きしていた。  そんなこんなで。  みんなが寝静まったであろう夜も、こうしてラセツは起きていたわけだが―― 「…………」  むくりとその身を起こす。  窓まで歩いていき、勢い良く開け放つ。  夜の闇。  キラキラと瞬く星と、繊月を背にして、ひとりの女性がそこにはいた。  夜姫――ネフティース。 「……今度はちゃんといたようね。偉いわ」 「夜姫様……?」  ラセツは訝しむ。  こんな夜更けに、鬼王家に何の用があるのだろうか。 「お待ちください。姉う……スズカ姫を、起こしてきますので」 「起こさなくていいわ」 「では、フォルトゥーナ……?」 「違うわ」  ネフティースは首を振る。 「私はあなたに用があるのよ、ラセツ」 「――自分に?」  驚くラセツ。  ネフティースがわざわざ深夜に自分から訪ねてくるほどの要件が、自分にあるとは思えないのだが…… 「私はね」  戸惑っていると、ネフティースは滔々と語りはじめる。 「今までずっと好きなように生きてきたわ。それはこれからも変わらない」  その言葉は力強く――否が応でも、ラセツの心へと訴えかけてくる。  緊張に、のどが渇く。 「創世戦争に参加したのだって、私がそれをやりたかったから。先の大戦で地上の大地を消し去ったのも、面白そうだと思ったから。樹界王がその過程で死んだことだって、私は少しも気に病んでないわ」 「…………」 「だから、これから言うことも、全部私の勝手。私が望んだ私のワガママ」  恐いぐらいに真剣な夜姫の表情。  今まで余裕然とした顔しかしらなかったラセツには、彼女の思惑がどこにあるのか――それすらも分からなかった。  夜姫は赤い瞳で、かつて部下であった青年を見据える。  夜闇の中で、その赤はどこまでも鮮烈で。  まるで、血のようにすら、思えた。 「ラセツ」 「……はい」 「――――お姉様を助けてあげて」 「……フォルトゥーナを……?」 「そう。残念だけど、今の私にはその力がない。力を得たとしても間に合わない。だから私はあなたに頼む。私が認めた、私の剣だったあなたに」 「夜姫……様……」  瞳を伏せ、どこか寂しげな声でネフティースは言う。 「私はまだ……お姉様を失いたくないわ」 「…………」  こんなに弱々しいネフティースの姿を見るのははじめてだった。  フォルトゥーナを助けて欲しい。  そう訴えかける夜姫の姿は、痛々しいほど真摯で。ラセツの心に、深く重くのしかかっていく。  だが、それは青年にとって当たり前のことだ。  鎮守の森で青い髪の巫女にも言われたこと。  誰に何を言われようと、ネフティースの誘いを断り闇の国へと戻ることを選んだあの時から、青年の心はすでに決まっている。 「――大丈夫です、夜姫様」  力強く、ラセツは言う。 「俺は必ず、フォルトゥーナを守ります。守ってみせます」  それは誓い。  フォルトゥーナの刃として、彼女を守るために戦うと決めた――青年の誓いだ。 「……そう」  青年のまっすぐな瞳に、ネフティースは知らず微笑んだ。 「しばらく見ないうちに、随分と立派になっちゃって……思わず惚れてしまいそうだわ」 「え、あ。は――――!?」  真っ赤になるラセツ。  ネフティースは、くすくすといやらしい笑みを浮かべた。 「冗談よ。私、あなたみたいなヒトって大嫌いだもの」 「は……?」 「それじゃあね」  バサリと、マントを翻しネフティースは飛び上がる。 「よ、夜姫様!?」 「縁があったら、また会いましょう――――」  そんな言葉を残して。  夜姫ネフティースは、ラセツの前から姿を消したのだった。  風が吹く。雲は月を覆い隠す。  夜姫ネフティースと、ラセツ。  魔王と、その刃になろうとした青年。  道を違え――  けれど、白い少女の力になりたいという一心で、再び道を交えたふたり。  細い細い月の夜。  それが、ふたりの今生の別れの時であった。  ガタン、ゴトン。  列車が揺れる。  夜の国へと通じる、ヨモツヒラサカへと至る列車の中だ。  様々な事件のあった、その翌日。  ラセツとフォルトゥーナ、そしてミサハは、再び災湖へと足を運んだ。助力してくれた巫女へとお礼を言いたいというフォルトゥーナの意を汲んでのことだったが、どこを捜しても巫女の姿は見つからなかった。それどころか、湖の中にあったボロボロの神社ですら見つからない。  仕方なく水雲の街へと足を運び、水雲神社の人に事情を聞いてみたのだが、返ってきたのは「湖の神社はもう何百年も前に取り壊された」という答えだった。青い髪の少女についても聞いてみたのだが、水雲家にそのような巫女はいない、ということだ。  ――狐に化かされたんじゃないですかね?  ミサハを見ながら冗談交じりに神主は言っていたが、あながち間違いではないだろうとラセツは思う。  あの少女はきっと幻想だ。  すでにこの世界にはいない誰かが、誰かの中で生き続けていただけの話。  それにしても―― 「…………」  ラセツの隣で、フォルトゥーナとミサハは寄り添うようにして眠っていた。  お互いの手を、握り合いながら。  水雲神社から鬼王家へと戻り、帰り支度を終え――いざ、駅へ向かおうという段階になって、ミサハの問題について気がついた。当人やフォルトゥーナは一緒に闇の国へと帰る気満々だったようだが、ラセツやスズカはてっきり鬼王家に残るものだと思っていたのだ。  それからが大変だった。  泣いてぐずるスズカをなだめ、列車に間に合うようにミサハの分の帰り支度も急いで行なった。もとより着の身着のままなミサハであったが、それでは可哀想だとスズカがあれやこれやとお土産という名の荷物をもたせまくり、いつの間にかドデカイ風呂敷を背負うはめになっていたのである。もちろんラセツが、だ。  しかも最後の最後、姿が見えなくなるその瞬間までスズカは泣いてぐずっていた。「うちの子になりませんか?」とか「魔界よりも地上の方がきっと楽しいですよ?」とか、ミサハがフォルトゥーナについて行きたいだけだと知ってからは「フォルトちゃん、ずっとここに居ていいのよ」とか、あまつさえ「ラセツ、あんあた今すぐフォルトちゃんと結婚しなさい。そしてここに住みなさい。それで全部解決するわ」とかふざけたことまで抜かしていた。てかフォルトちゃんとか呼ぶな。  そんな無様な姉を見つめるカグヤの冷めた瞳に、なんだかとても共感してしまったラセツであった。 「そうだな……」  誰にともなく、つぶやく。  今度、夢幻街に遊びにいくことがあったなら。  可愛い姪のために何かお土産でも持って行ってやるか――――  そんな事を、思う。  ガタン、ゴトン。  列車が揺れる。  ガタン、ゴトン。  様々な事件と出会いを思い出とし――夢幻街を去っていく。  先はまだ長い。  道はまだまだ続いている。 (少し、休むか)  あくびを噛み殺す。  ラセツは瞳を閉じた。 「…………ねぇ、ラセツ」  少女が、小さな声で、言う。  ささやくような、雑音にすらかき消されてしまうような、声にならないような、小さな声。 「帰ったら――話したいことが、あるの」  だけど、少女は顔を真っ赤に染めていて。  それはきっと、今の少女が持てる、なけなしの勇気で。 「……聞いて……くれる、かな」  ガタン、ゴトン。  列車が揺れる。  ガタン、ゴトン。  静寂が訪れる。  ガタン、ゴトン――  そっと。  少女の頭を、青年は撫でた。      □□□□  それは――悪夢だった。  後に創世戦争と呼ばれる戦い。  世界を炎で包み込んだ戦い。  死と再生の戦い。  この歪んだ世界の是非をめぐり、力ある者たちが連日連夜対立を繰り返し――その度に都市は燃え、敵も味方も第三者も、すべてを飲み込んで灰燼とかしていった。  そこに――力なき弱者など介在する余地はない。  超越者たちの戦いの前に、哀れにも逃げ惑うしか道はなかった。  だから。 「…………」  炎の戦場を少女は歩く。  血を失いすぎたのか――両足が重い。だが歩みを止めることは出来ない。止まった時こそが、この命が燃え尽き刈り取られる瞬間なのだから。  ――――遠くで爆音が響く。  熱風と衝撃波が炭とかした木々をなぎ倒し、骨だけになった建造物を吹き飛ばす。  視界が回る。  きっと、自分の体も吹き飛ばされたのだろう。  ゴロゴロと炎獄の世界を転がっていく。  もはや抵抗しようとする意志も力もなかった。  静かに、己が死を受け入れようとしていた。  ドンと何かの壁にあたって体が止まる。  打ち付けた体が痛かった。  ――――天を仰ぐ。  世界は――もはや、彼女の知る面影を何も残してはいなかった。  空が燃えていた。  大地が溶けていた。  赤い。  紅い  朱い。  あかい。  アカイ。  真っ赤な空。真っ赤な大地。  ただただ赤く、紅く、朱く、あかく、アカク。  まるで赤いペンキを空にぶち撒けたかのような、鮮烈にして苛烈な赤さ。 「…………」  今際の際に見る景色が――こんなものだとは思わなかった。  涙が止まらなかった。  悔しかった。  悲しかった。  止めどなく――涙があふれた。  手を伸ばす。  燃える空へと、手を伸ばす。  何かを掴みとろうと。  あるいは助けを乞うように。  自分でも分からないまま――ただ、手を伸ばした。  誰かが、その手を握ってくれた。  それは、ただそれだけの話だ。  めでたしめでたしで終わらない、いつまでも宙ぶらりんの話だ。  気がつけば少女はひとりだった。  手をとってくれた誰かなんて、最初からいなかったのかもしれない。  でも。  それでも。  あの時感じた温かさは、きっと、本当だから。  やがて戦争は終わり。  理不尽な迫害の時を乗り越えて。  少女たち異邦人は、自分たちの世界の残滓で静かに暮らしはじめた。  改めて世界を見てみれば、悪鬼羅刹の類だと思い込んでいたルネシウスの人々も、自分たちと大きく変わることはなかった。  喜び、怒り、哀しみ、楽しむ。  普通の人々だった。  ただ――不幸な時代だったのだ。  だからこそ少女は、世界を侵そうとした邪悪と戦った。  自らの身を犠牲にして、運命という名の呪いを押さえ込んだ。  その果てに、永遠につづくかもしれない苦痛の刻が待っていたとしても――――  ガタン、ゴトン。  列車が揺れる。  ガタン、ゴトン。  ガタン、ゴトン――  夢に見るのは、遠い遠い――――追憶の彼方。  少女を変えた、小さな出会い。  ……あたたかい。  つないだその手は、もう、はなさない。  b.H.ヒストリア 暁の戦姫・外伝 奈落の花   第三幕 さみしがりやの大魔王                          Fin  おまけ。  ハルシャギクと巨大ロボの死闘が続く温泉街・湯の里。  その最奥でデデンと構える鳳凰堂も、今や喧騒に包まれていた。  逃げ惑う客、客を落ち着け避難誘導を行う職員たち。その職員たちの間にも、恐怖と不安が広がり、それは更なる人々へと伝播していく。  今や、夢幻街の誇る豪華ホテルもスーパーロボット大決戦の前にその存在を惨めに怯えさせるしか術はなかった。  そんな鳳凰堂の大浴場の中で。 (ふ、ふっふっふっ)  不気味に笑う、ソレはいた。  一糸まとわぬ姿の――まぁぶっちゃければ全裸の少女だ。  何故か全身をトマトケチャップにまみれさせ、まるで死んだように倒れている黒髪の少女。いったいどんな変態プレイなのか想像もつかない。 (ふっふっふっふっ。騒いでおる、騒いでおるのじゃ……)  ソレは笑う。  もちろん、死体の偽装工作がバレないように、心の中で。 (ふっふっふっ。これもわらわをイジメた罰なのじゃ)  姉妹とはいえ、その立場上、姉妹仲は確定的に悪い。  いくら仲良しこよしを装ったところで、そんなものはすぐに剥がれる化けの皮だ。 (わらわが殺されたことで、今頃奴らは疑心暗鬼にかられ、醜く争っておることじゃろう)  しかも、これみよがしにダイニングメッセージ? だっけ? とやらを残しておいた。  はん人は この中に いる (ふっふーん。さぞや無様に争いあっておることじゃろう)  にやにや笑いがとまらない。  死んだように眠っている――眠っているように死んでいる、ではない――ソレの顔が人知れず引きつる。うっすらと、ふひひひひという笑いさえ漏れている。不気味だった。  どこかで爆音がする。  ――あなたたちのせいであの子は死んだのよ!  ――なにをぅ。あの子を殺ったのはお前たちだろう!  そんな姉妹たちの涙ながらの叫びが聞こえてくるようだ。 (さて――そろそろ好機とみた)  ケンカする姉妹の前に、さっそうと現れる自分!  よしたまえ。姉妹で争うなど、実に醜いではないか。ああ、生きていたのですね! もちろんだとも、私は天使だから無事なのだ。ああ。天使様、天使様。天使ちゃんマジ天使。さぁみんなで私を讃えぬくがよい。ははー!  完璧なシュミレーションである。  もはや直視するのもはばかられる程の、不気味で滑稽で哀れな笑みを張り付かせながら、トマトまみれのソレはいざ起き上がろうとし  飛んできた機械の腕にプチっと潰されたのであった。  その日から数十年――――  何故か聖王国では風の精霊王が行方不明になるという大騒ぎが起きるのだが、もちろん、それとこれとは何の関係もない話である。                               おわり  あとがき。  ぶっちゃけ連中の誕生日前に仕上げたかったです\(^o^)/  そんなこんなでフォルトゥーナたちの物語もこれで三話目、ちょうど折り返し地点。  伏線のおっぴらげはとりあえず終わりましたので、あとは残り二話で無事に回収していくだけですな。  ……とりあえず三月上旬までに完結しないと悲惨なことになるので、それまでには終わらせたいです。多分さくっと終わっていくはず。次回はそんなに長い話にならないんじゃないかしら。とか二話目を書き終わった時も思ったけどこのザマだしなぁ……  閑話休題。  話についてもちょっとだけ。  作中でラセツがとある二人の人物に、同じようなことを言われていますが、実はそれぞれ微妙にニュアンスが異なっています。まぁこの話を読んだだけじゃ意味が分からないと思いますが。多分それが次回以降に意味を持ってくる、はず。多分。きっと。  それといつの間にか作中季節が秋になりました。  なんかすっげぇ綺麗な紅葉と神社の画像を見て、いいなぁーこれ舞台にしたいなぁと思ったからなのですが、実際にそのシーンを書き始めた頃にはリアルは年末だったような気がします。  お陰様でその頃にはもう紅葉とかどうでもいい感じになってました。  遅筆ってやーね><  では、今回はこの辺で…… 次は一月中に仕上がったらいいなぁ>< 無理だろうけど。