――――こうして、ひとつの物語は幕を閉じる。  愚かな少女と、愚かな青年と。  そして、愚かな世界が招いた、あまりにも素敵な結末だ。  これ以上、めくるページもなければ、紡がれる物語も存在しない。  少女と青年の話はここで断絶している。  そこから先の物語は、例え神の目を以てしてもうかがい知ることは出来ない。  神は未来を見通せない。  見通せたなら――こんな世界など、生まれはしなかっただろう。  かつては黄金に輝いていた髪を闇色になびかせて。  かつては平和を望んでいた瞳を破滅と混沌に濁らせて。  マリア・ヒストリアは天を見上げる。  手にしているのは愚か者たちの喜劇の本。  見上げるは、文字通り無限の書架の遥か彼方。  天空は、まるで万華鏡のように揺らいでいる。  時には正義を。  時には邪悪を。  時には勝利を。  時には敗北を。  ありとあらゆる世界を、  ありとあらゆる時代を、  虹色の空は映しだす――――  マリアは数千年前、サーズ・エイス・エルルという世界に生を受けた。  生年月日は知らない。  気づいたときにはすでに生まれており、親の顔すら知らないまま、自分と同じく身寄りのない子供たちと肩を寄せ合いこの破滅の世界を必死に生き抜いていた。  本当にひどい世界だった。  極度に発達した機械文明は一部の人間達に何不自由ない暮らしをもたらしたものの、それ以外の大多数の人間をあっさりと切り捨てた。海は、大地は、川は、空は黒く汚染され、貧民街は広がり無法地帯となり人が人を人として扱うことすらなくなっていく。  それはまさに、地獄のような日々だった。  だからこそ――マリアは神に祈り続けた。  この世界を平和にしてください。  この世界を愛に溢れた、みんなが笑って暮らせる世界にしてください。  何日も、何年も。  マリアは神へと祈り続けた。  今にして思えば、なんと滑稽な話だと思う。  祈りを捧げていた相手。  神こそが、あの地獄のような世界を意図的に作り出していた張本人だったのだから。  やがて幼年期を終えたマリアは、貧しいながらもひとりで生き抜いていく術を得た。  その日、その時を生き抜くことに精一杯だった日々。  振り返っても、決していい思い出なんてない、陰惨たる日々。  そんな日々に彼は現れた。  それはある意味、彼女の願いが神に届いた瞬間だったのかもしれない。  宵闇の皇子。  突然マリアの前に現れたその男は、自らを神の使い――三幻神(トリニティ)の一柱と称すると、マリアを神界へと誘った。平和を愛する少女の願いを叶えるため、新たな世界を創造しようとしてのことだった。  愉快なのは、これがマリアを利用した宵闇の皇子の企みでも何でもなく――ただ純粋に、彼は少女を愛していたが故の行動だったということだ。  そうしてマリアは創世を試みる。  平和な世界を。  愛に溢れた素敵な世界を。  そう望んで生まれた世界が、戦乱の絶えない歪な世界――ルネシウスである。  世界創世。  神のみが行える究極の神秘を、たかが人間の小娘ごときが行えると、どうして信じて疑わなかったのだろうか。  中途半端に行われた創世は、既存の世界を破壊・再構築し、新たな世界(ルネシウス)を生み出した。  かつての超越神たるエルシャダイは奈落へと堕ち邪神となり、その手足たる神霊も善悪に分かれて争いあう。三幻神は無責任にもその命を失い、人々の命の流れの中へと溶けこんでいった。  そして――マリアは。  虹色の空を見上げ、小さく溜息をつく。  すこしばかり――昔のことを思い出してしまった。  気が遠くなるくらい昔の話。  気がついたときには、この本だらけの世界――アレクサンドロス大図書館に囚われていて。人どころか、虫一匹ですら存在しない、完全なる孤独の世界に縛られていて。舌を噛み切ろうと、首をつろうと、高架から身を投げようと、この身体はそこから先に進むことを拒絶して。  死も生も失われたまま、少女はそれでもこの世界を受け入れた。  現実を受け入れた。  受け入れざるを――えなかった。  幸いなことに、この世界にはヒストリアと呼ばれる自動書記システムにより編纂された、一億年にわたる全世界の歴史が刻まれている。今も新世界の歴史を編纂し続けるこの神秘システムと無限の書架さえあれば、暇という無限の生命最大の敵に打ち勝つことは造作も無いだろう。  あとは、そう。  自身の生み出したルネシウスという名の腐った幻想。  そこに生きる者たちの顛末。  それこそが――今のマリアにとって、最大の娯楽であった。  例えば、そう。  聖誕祭というものがある。  十二月二十四日――セルファード大陸で祝われる、女神(ルナ)マリアの生誕を祝う日だ。  女神マリア。  新世界、ルネシウスを、創世した、慈愛の女神の生誕を、祝う、日――――  …………実に不愉快だ。  慈愛の女神?  聖誕祭?  くだらない。  自分はいつどこで生まれたかも分からないし、知りたいとも思わない。愛で誰も救えはしないし、平和など馬鹿が夢想するただの幻想だと知っている。  だというのに、人間たちは女神へと祈りを捧げる。  愚かで、  無様で、  滑稽で、  ――――――――ああ、そうだ。  マリアは頷く。  それでも、叶わない願いだと知りつつ、いもしない神へと縋りつく。  それこそ、まさしく人間だ。  彼女が愛した、人間という生命体の在り方だ。  ゆらり、ゆらりと。  輝く万華鏡の空の下で。  少女は、くすりと微笑んだ。  今日は聖夜だ。  奇跡が起こる夜だ。  だから――  きっと。  これは本当に――本当に、気まぐれだが。  今日だけは特別に、地上で這いずり回る愚者たちに、愛を捧げようと思う。  かつては黄金に輝いていた髪を闇色になびかせて。  かつては平和を望んでいた瞳を破滅と混沌に濁らせて。  マリア・ヒストリアは嘲笑(わら)う。  これから未来(さき)の出来事に思いを馳せ、胸を躍らせる。  ――――奇跡の鐘が鳴り響く。      それは、彼女のための祝福。      それは、彼女のための物語。  最後に、少女は。  静かに、手にした物語のページを閉じた。